第七十六杯「お茶の心」
「それでは私達は行ってきますので、大鳥君と輝木さんは盆略点前の練習、しっかりして下さいね」
「「はーい……」」
瀬川さん、寧音姉、板野さんが外に出て行く。
海岸のゴミ拾いのボランティア活動に参加するのと、管理会社の人から今日の夕飯である刺身の盛り合わせを受け取りに行くためだ。
合宿3日目の昼過ぎ。
午前中のお稽古を終え、お昼ご飯のそうめんを食べ眠くなってきた所だが未だに盆略点前をマスターできていないため昼寝する余裕はない。
「あー……、眠くなってきましたー。先輩、昼寝していいですかねー?」
「ダメだよ。今日中にマスターしないと、ホントに夜通しお稽古させられかねないよ」
『合宿中に盆略点前をマスターする』という目標を立てている以上、あのスパルタ茶道部長はホントに夜通し居残りお稽古させかねない。昨日も夜10時までお稽古させられたし。
2人茶室に正座してエアーで盆略点前の手順を確認する。
輝木さんは眠いのか、こっくりこっくり船を漕ぎかけていた。
……昨夜あんな事があったけど、輝木さんはいつもと変わらない調子だ。
朝食当番では、僕の皿にだけウインナーとチキンナゲットを大盛りにしてきたけど。
正直、気になって集中できない。
瀬川さんの事が好きなのに、なんであんな事したんだ?
僕が本当に手を出してたら、どうするつもりだったんだ?
覚えないといけないはずの盆略点前の作法も、完全に心ここにあらずのおざなりになってしまっている。
おまけにお昼を食べた後だから眠い。
僕は重いまぶたを閉じかけて……
「起きなさい」
やさしいけれど芯の通った声に、慌てて目を覚ます。
目の前には和服姿のおばあさんが正座していた。
「あ、あなたは……?」
「近所の茶道教室の者です。指導を頼まれて参りました」
瀬川さんに頼まれたのだろうか。おばあさんが真の礼をしてくる。
僕と輝木さんは慌てて真の礼を返した。
小柄なおばあさんだ。
淡い水色の着物を上品に着て、白い髪を後ろで結っている。
そして、美しい正座姿だ。
何年も何年もお稽古を積んできた人の、姿だ。
「盆略点前のお稽古ですね。では、そちらの男性から通しでやってみてください」
「は、はい」
おばあさんにうながされ、盆略点前を通しでやってみる。
えっと……、これってどっちが先だったっけ?
これってこのやり方で合ってたっけ?
うろ覚えで手をうろうろさせる。瀬川さんがいたら扇子で手を叩かれそうなほど情けない手つきだ。
けれどもおばあさんは、やさしい目でこっちを見ていた。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「お稽古を続けていれば、作法はちゃんと身につきます。それより大切な事は、心構えです」
「心、構え……」
「今あなたは、誰の事を思い浮かべながら盆略点前をしていましたか?」
おばあさんに問いかけられ、何も返せない。
誰の事も何も、作法を手順通りする事しか頭にないし……
「ではもう一度、誰かに向けてお茶を点てているつもりで盆略点前を行って下さい」
「誰かって……」
「あなたが、お茶を点ててあげたい人をです。家族でもいいですし、お友達でもいいですし、気になる女の子でもよいですよ」
おばあさんが、茶目っ気のある笑みを浮かべて微笑んでくる。
お茶を点ててあげたい人って言われ、瓜二つの顔が2つ浮かび……1人の顔になった。
彼女に、お茶を点ててあげたい。
そう思うと、自然に手が動いた。
腰の帛紗を手に取り捌いてから棗を清め始める。
帛紗を捌き直したら、今度は茶杓を清める。
1回目、2回目は横に、3回で向こうに拭ききる。
「茶筅通し」を行い、お湯を建水に捨て、茶杓で抹茶を取る。
彼女の顔を、思い浮かべながら。
これまで頭の中でゴチャゴチャと考えながらしていた手順が、スムーズにできる。
気がついたら、薄茶を点て終えていた。
「先輩……、すごいです! 盆略点前、できましたね!」
「え? ああ、うん……。できてたのかな?」
「はい。上手にできてましたよ」
おばあさんが、ふんわりとやさしい笑みを浮かべる。
薄茶の出来としてはまだまだ瀬川さんに遠く及ばないけれど、今まで点てた物の中で一番キレイに泡が立っている。
自服してみても、苦みをあまり感じずお茶の甘味を少しだけど引き出せていた。
「薄茶を点てる時は力を入れずに、大きな泡が立ったらその泡を潰すように茶筅をお茶の中程まで引き上げて点てていくのです。そうするとキレイに泡立ちますよ」
「あ、ありがとうございます」
「では次は、そちらのお嬢さんが盆略点前をしてみてください」
「は、はいですー」
輝木さんが、真剣な表情で盆略点前を始める。
さっきまでの弛緩しきっていた様子とは大違いだ。
そして彼女も、僕が見る範囲ではちゃんと盆略点前を行えていた。
「で、できましたー」
「はい。上手にできましたね」
「や、やった……。盆略点前、マスターできたね!」
僕と輝木さんは手を取り合って喜び合い、おばあさんの小さな拍手の音が茶室に響く。
「お茶の心は、おもてなしの心です。大切な誰かに、おいしいお茶を味わって頂くために作法というものは生まれたのです。作法を丁寧にする事は、大切な人にお茶を楽しんで頂くため。分かりましたか?」
「「はい! ありがとうございます!」」
「この心を、忘れちゃダメですよ」
ふんわりとやさしい笑みを浮かべるおばあさんに、僕らは真の礼をする。
そして……
………
……
…
「大鳥君、大鳥くーん」
「ん、んん……」
「大鳥君、起きてくださーい」
「んんっ……」
「もうっ! 大鳥君!」
耳元で大きな声を出され、意識が覚醒する。
慌てて顔を上げると、そこにはムウっとした表情の瀬川さんがいた。
目の前10cmほどだ。キスしそうなくらいの距離だ。
ああ、怒った顔も可愛いなあ……って、近い近い近い!
彼女に瓜二つな顔を前にするのは大分慣れてきたけど、この距離はさすがに緊張する。
瀬川さんが、ムウっとした表情のまま僕に問いかけてくる。
「大鳥君、居眠りされてたんですか?」
「い、いやちゃんと稽古してたから。盆略点前も……多分マスターできたし」
「ホントですか? ……それは後ほど確かめる事にして、今お願いしたい事があるのです」
「お願いしたい事?」
「はい。キッチンに来ていただけますか?」
瀬川さんに手を引かれ、何が何やら分からないまま茶室からキッチンへ連れ出される。
連れ出された所で、茶室を振り返る。
そこには点てられた薄茶が二杯と、何やら幸せそうな寝顔で寝てる輝木さんしかいなかった。




