第七十三杯「盆略点前」
「おはようございます。大鳥君」
「……瀬川さん、おはよう」
新しい朝が来た。
合宿2日目の朝だ。
今日の朝食当番の瀬川さんが朝ご飯の支度をしている。
やはりというか味噌汁や卵焼き、焼鮭が準備されていた。
「瀬川さん、朝はご飯派なんだ」
「はい。パンもいいですけど、ご飯の方が1日のエネルギーになりますから」
エプロン姿の瀬川さんがニコっと笑い、僕の心臓がドキっと弾む。
学校じゃ見られない姿。何だか新婚さんになった気分だ。
彼女と結婚できる相手は幸せだろう。
「……あの、大鳥君。昨夜はよく眠れましたか?」
「昨夜? うん、まあ普通によく眠れたけど」
瀬川さんに問いかけられ、コップに水を一口飲んでから答える。
脱衣所であんな事件はあったものの、僕は寝付きがいい方なのですぐ眠れた。
海の近くで涼しいというのもあって、クーラー無しで快適に眠れたくらいだ。
「ええと……、何か物音がしたりしませんでしたか?」
「物音? 特に何もしなかったけど……」
「そ、そうですか。では安心ですね……」
「安心?」
「え、ええと……、な、何でもありません」
瀬川さんが、僕から目を逸らし洗い物を始めた。
……怪しい。
………
……
…
「それでは、盆略点前のお稽古を始めます」
朝食を食べ歯を磨いた後、早速茶道のお稽古が始まった。
「私がお手本をお見せします。板野さん、お正客役をお願いします」
「分かりました」
盆を持って、瀬川さんが茶道口に移動し正座する。
「薄茶一服さしあげます」
真の礼をした瀬川さんが、お盆を両手で持って風炉の前に進んでお盆を置く。
そして次に、茶碗をすすいだお湯をあける器の「建水」も持ってくる。
瀬川さんが、腰の帛紗を手に取り捌いてから棗を清め始める。
帛紗を捌き直したら、今度は茶杓を清める。
1回目、2回目は横に、3回で向こうに拭ききる。
覚える手順が沢山だ。一体彼女はどれほどお稽古して覚えたのだろう。
帛紗で鉄瓶を持って茶碗にお湯を入れた瀬川さんが、「茶筅通し」を行う。
茶筅に欠けや割れがないか確認したり、割れてしまわないようお湯で柔らかくする手順だ。
瀬川さんが茶筅通しをしたお茶碗のお湯を建水に捨てる。それから濡れた茶碗を茶巾で拭いた。
茶巾の持ち方や拭き方にも細かい作法がある。一体どれだけ覚えればいいんだ?
茶道経験がある板野さんや、覚えが早い寧音姉は覚えているけれど、僕と輝木さんはまだまだ覚え切れていない。
茶碗を清め終えた瀬川さんが、茶杓を手に取ってから板野さんに「お菓子をどうぞ」と声をかける。
板野さんは「お先に」と僕達に挨拶してから菓子鉢を手に両手で持って軽く持ち上げる。
感謝の気持ちを表す作法だそうだ。
お菓子を懐紙に取り、箸の汚れを懐紙の隅でぬぐってから菓子鉢に戻して、両手で次の人に渡す。
それから次の人がお菓子を取って行くのだが、今は板野さんだけお菓子を取って終わりにする。
そして瀬川さんが、お茶を点て始めた。
左手で棗を取り、茶杓を持ったまま右手でふたを開ける。ふたをお盆の右手前に置いたら、茶杓で抹茶を二度掬う。一度目は大きく一杯、二度目は半分くらいだそうだ。
茶杓についた抹茶を、茶碗のふちに少しだけ打って落とし、棗にふたをして茶杓を元の位置に戻す。
そして、お湯を入れて茶筅でお茶を点て始めた。
なめらかな手さばきで魔法のように茶碗の中に泡が立っていく。
初めは大きな泡、そしてそれを消すように茶筅を動かして細かい泡を立てていく。
見てる分には簡単そうだけど、実際やるのは難しい。
彼女は、どれだけのお稽古を積んでこのお茶を点てられるようになったのだろうか。
「おしょうばんいたします」
瀬川さんからお茶を受け取った板野さんが、茶碗を右隣にいる寧音姉との間において両手をつき挨拶する。
それから「お先に」と僕達に挨拶し、「お手前ちょうだいいたします」と瀬川さんに挨拶、茶碗を回してから3回に分けて、最後は「ズッ!」と音を立てて吸いきった。
「はい、ここまででいいでしょう。大鳥君、輝木さん、覚えましたか?」
「「いやいやいやいや」」
昨日も海水浴の後にお稽古させられたけど、全然覚えられていない僕と輝木さんが首を横に振る。
「仕方ありませんね。では通しでゆっくりやってみて下さい。私が指導致します」
瀬川さんに促され、僕らはお盆の上に置かれた道具を手に取る。
盆略点前はお盆の上の茶道具で点てる基本のお茶の点て方。
お盆の1時の所にお茶を点てる竹でできたブラシのような茶道具の茶筅、3時の所に茶碗を拭く茶巾、5時の所に抹茶を掬う耳かきのような茶道具の茶杓。6時の所に茶碗、9時の所に帛紗、11時の所に抹茶を入れる入れ物の棗を置く。
そして決まった所作でお茶を点てるのだが……
「……中々難しいわね」
寧音姉が、難しい顔で茶碗を見る。
薄茶を点てた茶碗は上手く泡立たず、抹茶を溶かしただけのお湯になっていた。
これでは飲んでも苦い。
「綾瀬先輩、力が入りすぎてましたよ。力を入れずに茶筅を軽く振るのが泡立たせるコツです」
瀬川さんが茶筅を入れ、茶碗を混ぜるときめ細かい泡が上手に立った。
しかしこんな風に泡立たせるのは本当に難しい。
「うえー……、苦いですー……。全然泡立たないですー……」
「僕もだよ……」
自分で点てたお茶を自分で飲む「自服」をしながら、僕と輝木さんが苦い顔をする。
お茶を点てるのがこんなに難しいとは思わなかった。
瀬川さんに教わりながら3週間くらいやってるんだけど、どうにも上手くいかない。
お茶に細かい泡を作れないと、ただ苦いだけのお湯になってしまう。
あの細かい泡が、口当たりや風味を生んでいるらしい。
「薄茶を上手に点てるのは難しいですからね。私も瀬川さんのように細かい泡は点てられないですし」
瀬川さんほどではないけれど上手にお茶を点てられる板野さんが、自分で点てたお茶を自分で飲んだ。
「板野さん、大鳥君と輝木さんに盆略点前やり方のご指導をお願いできますか?」
「お茶は点てなくていいんですか?」
「はい。お茶は点てずフリだけでお願いします」
こうして僕らは盆略点前を、お茶を点てないエアーでお稽古させられた。
昼ご飯を挟んで夕方までみっちり。
昨日とは一転、遊びなしのガッツリお稽古だった。




