第六十九杯「岩城先輩の頼み」
新しい朝が来た。
希望の朝かどうかは分からないが、朝だ。
7月も半ばに近づき、もう朝でも暑い。
半袖シャツの上にUVカットの薄手のパーカーを着て、自転車を漕ぎ出す。
新品の頃よりも鈍くなったチェーンの回る音が、住宅街に響いた。
入学したての頃は新鮮だった通学路も、1年も通っているとただ以下の景色になる。
くすんだ壁、さびれた商店街、ボロボロのカーブミラーなどを何の感情もなく通り過ぎていく。
橋の前の信号待ちで、いつもこの時間に来る坊主頭の先輩に並ばれた。
いつもはあまり見ないのだけれど、何となく気になる。
この人、どこかで見た事あるような……
「岩城先輩?」
「うん? ……ああ、茶道部の」
前に野球部の応援に参加していた応援団団長の岩城先輩だ。
どうやらこちらのことを覚えていたらしい、頭を下げて挨拶する。
「おはようございます」
「おはよう」
「……」
「……」
どうしよう。
声をかけたものの特に話したい事がある訳じゃない。
そして僕は、先輩と小粋なトークで雑談できるスキルも持ってない。
「なあ」
「は、はい」
と思っていたら、まさかの岩城先輩から話しかけてきた。
「茶道部って、いつ活動してるんだ?」
「茶道部ですか? えっと……水曜の放課後と毎日昼休みに部室に集まってます」
瀬川さんは毎日放課後部室で活動してるみたいだけど、茶道部としては水曜の放課後とお昼休みにしか集まれていない。
期末試験のために集まるようになって以降、お昼休みに部室でご飯とお茶をするのが日課になっていた。
「じゃあ今日の昼休みに部室に行くから、瀬川にそう伝えといてくれ」
「は、はい。分かりました」
「よろしく」
そう言って岩城先輩が自転車を漕いで前に進んでいく。
今日の昼休みに部室に? 何しに???
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「失礼します」
大きな身体の岩城先輩が、茶道部の部室の扉を横に引いてノッソリと入ってくる。
お茶の準備をしていた瀬川さんが、ニコッと笑って岩城先輩にお菓子の入ったお皿を差し出す。
「岩城先輩、お待ちしておりました。お茶とお菓子をどうぞ」
「いや、そんなつもりじゃなかったんだが……頂きます」
岩城先輩が上履きを脱いで揃えた後、一礼して畳に上がる。
意外と言ってはなんだけど、丁寧な人らしい。
そんな岩城先輩を見て、1人だけ淡々とお弁当を食べていた板野さんが声を上げる。
「おや、岩城先輩」
「板野か。お前も茶道部にいたんだな」
「はい」
「知り合い?」
「ええ、小学校中学校が同じでした。集団登校もいっしょの地区でしたし」
板野さんの言葉に頷く岩城先輩。
どうやら知り合いだったらしい。世間は狭かった。
「岩城先輩、お茶をどうぞ」
「いただきます」
お菓子を食べた後、岩城先輩がお茶を飲み渋い顔をする。
そして飲みきった後、茶碗を置いて瀬川さんにこう切り出した。
「瀬川、今日来たのはお願いがあるからなんだ」
「お願い、ですか?」
「ああ」
漂う緊張感。
僕の左隣にいる輝木さんが、ヒソヒソ声で話しかけてくる。
「……まさか告白ですかねー?」
「……いや、茶道部の皆がいる前でそれはないんじゃない?」
寧音姉が僕らをたしなめるように「んんっ!」と咳をする。
そんな僕らの前で、岩城先輩が、デッカイ身体を丸めて頭を下げた。
「瀬川、頼む。運動部の応援に来てくれないだろうか」
岩城先輩のお願いは、応援団の事らしかった。
瀬川さんが、岩城先輩を見ながら困り顔になる。
「え、ええと……またチアガールをしてくれという事でしょうか? そちらはちょっと……」
「岩城君、瀬川さんは病み上がりなのよ。無茶はさせられないわ」
言いにくそうに言葉を濁す瀬川さんに代わって、寧音姉が岩城先輩に諭すように言う。
しかし岩城先輩が、違うと言わんばかりに首を横に振る。
「いや、チアはしなくていい。ただ運動部の大会の応援に来て欲しいんだ」
「運動部の大会の応援、ですか?」
「実は……応援団に野球部から瀬川をまた応援に連れて来て欲しいと頼まれていて、他の運動部からも『茶道部の子を応援に連れてきて欲しい』って話が殺到したんだ。その方がやる気が出ると」
「「ああー」」
全てを察した僕と輝木さんの納得がシンクロする。
要するに可愛い子の前でいい所を見せたいという事だろう。
実際、瀬川さんが応援に来たらやる気になるだろう。
……僕もあの子が応援に来た試合はやる気が出た事あるし。
「無理にとは言わない。無理のない範囲でいい。3年は最後の大会になる奴が多いから悔いなく終わって欲しいんだ」
岩城先輩が、デッカイ身体を丸めてもう一度瀬川さんに頭を下げる。
それを見ながら、瀬川さんが頷いた。
「分かりました。私が応援に行くことでお役に立てるのなら参加させていただきます」
「ありがとう。よろしく頼む」
「はい! ふつつか者ですが、精一杯応援いたします!」
岩城先輩が瀬川さんにお礼を言い、僕らに挨拶してから茶道部の部室を去って行く。
その大きな背中を見ながら僕は思わずつぶやいた。
「立派な人だな……」
「誰がですか?」
僕の右隣でお弁当をしまい終えた板野さんが、僕に問いかけてくる。
「もちろん岩城先輩だよ。自分はベンチに入れなかったのに野球部を応援するなんて……」
「ベンチに入れなかった? 大鳥君、何か勘違いされてるようですね」
「え?」
「岩城先輩は、美術部ですよ」
美術部なのかよ!
あのガタイで美術部なのかよ!
「え、でも野球のエナメルバック持ってたけど……」
「お兄さんがこの高校の野球部OBですから、お下がりを使ってるんじゃないですか?」
ややこしいな!
こうして思わぬ所から岩城先輩の情報を知る事になった。
そして瀬川さんは、この夏あちこちの部活の応援に行く事になった。
彼女が応援に行った試合は、いい所を見せようと気合いが空回りしたウチの高校がことごとく負けてしまった。
瀬川さんは『敗北の女神』という不名誉な二つ名がつけられ、以後どこの部活の応援にも誘われなくなったのだが、それはまた別のお話である。




