第四十八杯「えっちな本はどこにありますか?」
「ここが先輩の家ですかー。フツーの家ですねー」
スポーツタイプの、黒いクロスバイクを押しながら輝木さんが声を上げる。
黒いTシャツに、ベージュの短パン、黄色いリュックを背負った彼女は遠目に見ると運動部系の中学生みたいだ。
「持ち家でこれなら立派じゃないですか? 駐車場も2台分ありますし」
緑色のジャージを着た板野さんが、学校のカバンを持ちながら歩く。
その隣で白いリュックを背負い、水色のワンピースを着た瀬川さんが目を輝かせていた。
「普通のお家……、素敵です! 私憧れちゃいます!」
家と言うより「屋敷」に住んでる瀬川さんにとって、我が家はどうやら憧れる対象らしい。
どこにでもある、2階建ての普通の家だと思うんだけどな……
「おー? 莉子先輩、それってこの家に住んでみたいって事ですか?」
「はい! 住んでみたいです!」
「つまりこの家に嫁入りしたいって事ですか?」
「はい! ふつつか者ですが、よろしくお願いしますっ!」
「「嫁入りしちゃった!?」」
瀬川さんの言葉に、僕と輝木さんが驚く。
一方とんでもないセリフを引き出す質問をした板野さんは、何食わぬ顔で先を歩いていた。マイペースかよ。
「莉子先輩、考え直してくださいー。家なんかで結婚相手選んじゃダメですよー」
「そうだよ。それに瀬川さんは実家の茶道教室を継ぐんでしょ?」
「はっ、私とした事が……! スミマセン、忘れてください……!」
「ああ、うん……」
正気に返った瀬川さんから嫁入りを取り消された。まあ別にいいんだけど……
輝木さんと2人で自転車を止め、玄関から家に入る。
「ようこそ我が家へ」
「寧音姉、ここ僕の家だから。ささ、入って入って」
僕に続いて、瀬川さん、輝木さん、板野さんが家に上がる。
その輝木さんの腕を、寧音姉が取った。
「瀬川さんと板野さんは大鳥君の部屋で勉強してちょうだい。私と子猫ちゃんはリビングで勉強するから」
「ニャー!? 会長先輩と2人きりですかー!? そんなのヤですー!」
「イヤと言われてもあなたの成績が一番深刻だからよ。この私が夕方までみっちりお勉強を見てあげるから喜びなさい」
「……ワーイ、ユイナ、ベンキョーダーイスキ」
死んだ目をしながら輝木さんが寧音姉にリビングに連れて行かれる。合掌。
僕と瀬川さんと板野さんは、2階の僕の部屋に向かった。
「どうぞ、汚い部屋だけど」
「お邪魔します」
「お、お邪魔します」
板野さんは普段通りに、瀬川さんは少し緊張気味に僕の部屋に入っていった。
男子の部屋に入るのは初めてなのかもしれない。
瀬川さんがキョロキョロと部屋の中を見回す。
「ここが大鳥君のお部屋……物が少ないんですね」
「まあね」
クローゼットに片付けたっていうのもあるけど、欲しい物があまりないので僕の部屋はかなり物が少ない。壁に制服がかかっていて、机と冬はこたつになるテーブルがあるだけだ。
「あ、あの!」
「うん? どうしたの瀬川さん」
「えっちな本はどこにありますか!?」
「ないよそんなの」
まさかの発言が出てきて驚く。以外と耳年増なんだろうか。瀬川さんが顔を真っ赤にしてうつむく。ちなみに半裸の女の子が表紙を占める『可愛ければ○態でも好きになってくれますか?』はちゃんとクローゼットの中に隠してある。
「それじゃあ瀬川さんはあの学習机でこれを解いて。板野さんはこっちのテーブルで数学の公式を理解する所から始めようか」
「分かりました」
「わ、分かりました」
僕から受け取ったプリントを見ながら、瀬川さんが小首を傾げる。
「あの、大鳥君。このプリントは何ですか?」
「期末試験の予想問題。中間試験の傾向と寧音姉に去年の問題を見せてもらってつくったんだ」
「えっ、もう期末の問題を解くんですか? もっと勉強してからの方が……」
「現状どれくらいになったのか知りたいから。目標点とどれくらい差があるのか分からないと、差を詰められないでしょ? この目覚まし時計を見ながらテスト時間と同じ50分で解いてみて」
「わ、分かりました」
その後僕と板野さんはテーブルで数学の勉強、瀬川さんは机で期末の予想問題をし始めた。
「板野さん、中間試験sin30°の数字ド忘れしたでしょ」
「……はい」
「数字だけ丸暗記しても数学はダメなんだよ。なんでそうなるのかを理解しておけば、ど忘れしても自分で導き出せるからね。今からその方法を教えるよ」
「そんな方法あるんですか?」
「あるよ。30°の直角三角形の辺の比率は、30°の向かい側を1、斜辺を2、残りの辺を√3とした1:√3:2になるでしょ?」
「そうですね」
「だから、sin30°は向かい側の辺÷斜辺だから1/2、cos30°は隣の辺÷斜辺だから√3/2、tan30°は向かい側の辺÷隣の辺だから1/√3。こうやって導き出せばいいんだよ」
僕の書いた図を見て、板野さんが目をしばたたかせる。
「なるほど、こうやって公式を理解するんですね。これならテスト中にド忘れしても自分で導き出せる気がします」
「でしょう?」
そんなこんなで板野さんに数学の公式について理解させていると、瀬川さんが立ち上がってプリントを手にやって来た。
「大鳥君、できました。採点お願いします」
「うん、分かったよ。それじゃ瀬川さんはこっちに座って、板野さんはあっちでこのプリントを解いてみて」
「分かりました」
瀬川さんと板野さんが、テーブルと学習机を入れ替わり場所を交換する。
「それじゃあ採点するから……。瀬川さんは何か自由に勉強しておいて」
「分かりました」
僕の隣に座った瀬川さんが、英文法の参考書を取り出し勉強し始める。
ふわっと女の子の香りがして胸が高鳴る。
肩がくっつきそうな距離だ。なんでこんなに近いんだろう……
気持ちを切り替えて採点を始める。
多少地力はついてきたけどまだまだって感じだ。
彼女は致命的なくらい文法が弱い。多分一夜漬けで何とかしてきたタイプだ。身についてない。
それと英語に対する苦手意識が強すぎるような気がする。他の科目は平均以上なんだから、勉強が苦手って訳ではなさそうだし。
「……っと。瀬川さん?」
突然左肩に感触があり、見ると瀬川さんがもたれかかっていた。
「寝てるし」
正座したまま寝てる瀬川さんを肩で支えながら、僕は途方に暮れる。
「休ませてあげたらどうですか? 色々とお疲れのようですし」
チェアーを回転させながら、板野さんがそう言い立ち上がる。
「ど、どこ行くの?」
「少し外の空気を吸いに行くだけです。ごゆっくりどうぞ」
止まる間もなく、板野さんが部屋から出て行ってしまう。
ごゆっくりって何をだよ。
「……すう」
安らかな寝息を立てる瀬川さんを、肩で支える。
女の子の体温が伝わりドギマギする。心なしかいい匂いもするし。
しかし座ったまま寝ちゃうなんて、よっぽど疲れてるのだろうか。
「……」
寝顔を見ないようにするためと、起こさないように前を向いてジッとする。
女性らしい起伏がしっかりあるけれど、華奢な身体だ。
体幹がしっかりしてそうだけど、この身体で彼女はどれだけ頑張ってるんだろう。
勉強に、茶道部の活動に、家でのお稽古に、応援団のチア、運動部のメンタルトレーニングの手伝い。
僕なんかより何倍も頑張っている彼女に後ろめたい気持ちになる。
僕が意味のない時間を過ごしている間に、瀬川さんはすごく頑張っている。
それがすごく、後ろめたかった。
「んっ、んんっ……」
どれくらい経っただろうか、瀬川さんが声を上げて目を覚ます。
そして、自分の現状に気づき慌てて僕の肩から頭を上げた。
「お、大鳥君!? 私寝ちゃってました!? スミマセンっ!」
「いや、いいよ。お疲れだったみたいだし……」
瀬川さんが、真っ赤になった顔を手で隠しながらこちらを見てくる。
「その……見ました? 私の寝顔……」
「いや、近すぎて見えなかったし、見なかったよ」
「あ、ありがとうございます……」
顔立ちがキレイな彼女でも、寝顔を見られるのは恥ずかしいらしく礼を言われる。
前に暇すぎて図書室で寝落ちしてたとある後輩の寝顔を見てたら「そーゆーのマジデリカシーないですー!」と怒られた経験が活きた。
「せっかくお時間を作ってもらってるのに……、申し訳ありません。今から勉強頑張りますっ!」
「いや、一旦休憩にしようか。何か飲む?」
「い、いえ……」
まだ気恥ずかしいのか、瀬川さんが僕から目を逸らす。
その顔には、疲労が滲んでいるような気がした。
「瀬川さん、やっぱり無理してない?」
「え?」
「寧音姉から聞いたんだけど、運動部のお茶のお稽古を引き受けてるんでしょう? 僕達がいない日の放課後に……」
「……」
「応援団のチアの練習もしてるし、きつかったら断ったり周りに頼るのも……」
「大丈夫です」
「大丈夫って……」
「私は大丈夫です。心配ありません」
ムンっと可愛い顔で力こぶをつくるポーズをする瀬川さん。
やせ我慢だ。でも彼女は、きっと何を言っても変わらないだろう。
「……無理だけは、しないでね」
「はい」
僕は、それだけ言うのが精一杯だった。




