第四十六杯「気づいてなかった人」
「寧音姉、こっちに来てたんだ」
「……ええ、まあちょっとね」
家に帰ると、寧音姉がリビングのソファでコーヒーを飲んでいた。
隣の家には帰らずに来たのか、夏服のセーラー服姿だ。リボン越しでも存在を主張してくる大きな胸がカップを置くと同時に動く。
僕は寧音姉の隣にカバンを置き、台所のシンクで手を洗いに向かった。
「瀬川さんの事?」
「ええ。彼女があんな態度を見せたの、初めて見たわ」
放課後の部活で声を荒げた、というほどでもないけれど感情を露わにした瀬川さんを思い出し頷く。
「僕もそう思うよ。彼女は自分の心をコントロールする事に長けている子だと思う。それなのにあんなに怒るなんて……」
「そうなのよね……。何かあるのかしら?」
寧音姉に問いかけられ、僕は首を横に振る。
これまでした瀬川さんとの会話で、心当たりはない。
寧音姉がハアとため息を吐く。
「プライベートな事に踏み込む訳にもいかないし、難しいわね。でも彼女、ちょっと最近無理してるみたいなのよ」
「無理?」
「あなたは知ってるかしら? 瀬川さんが応援団に参加する話」
「ああそういえば……チアガールをするって言ってたね」
チアガール姿を見たという事は伏せながら、寧音姉に頷く。
「実はそれだけじゃないのよ。彼女、他にも運動部のメンタルトレーニングに茶道体験をさせて欲しいっていうオファーも受けてるのよ」
「え? そんな事してたの?」
初耳の話に驚く。そんな話、全然聞いてない。
寧音姉が、僕に意味ありげな視線を送ってくる。
「あなたにも言ってなかったのね。子猫ちゃんや板野さんにも確認したけど知らなかったわ」
「なんで寧音姉は知ってるの?」
「生徒会長だからよ」
生徒会長だからかよ。
まあ部活の活動状況を把握するのが仕事だからそうなんだろうけど。
僕は台所のシンクで手を洗ってうがいをした。
「それにしてもメンタルトレーニングに茶道? 効果あるの?」
「あるわよ。集中力や姿勢の強化になるって事らしいわ。実際競馬学校にも茶室があって、騎手を目指す人達がお茶を点てられるまでお稽古を受けているそうよ。……まあ、運動部の生徒達が純粋にトレーニング目当てかどうかは疑わしい所もあるけど」
それはまあ美人と噂の茶道部部長のお茶を頂きたい、お近づきになりたいというのもあるだろうけど、問題はそこじゃない。
「……何で僕達に言ってくれないんだろう、瀬川さん」
「まだ理由は聞いてないけど、きっと人に頼るのが下手なのね彼女」
人に頼るのが下手。
それはなんとなく分かる気がした。
「あなたといっしょね、大鳥君」
「……」
痛い所を突かれ、苦い思いが舌の上に広がる。
コップに水を汲んで、一口で飲み下した。
「……それはそうだけど、そもそも瀬川さんって、何でウチの学校に転校してきたの?」
「それも分からないのよ。さすがにそこは個人情報だから。分かってるのは転校前に彼女がいたのが京都の学校って事だけ」
「京都? 随分遠くから転校してきたんだね。……でも待って? 彼女の家は北町商店街の近くだよ?」
あの茶室があるお屋敷を思い出す。年季の入った建物だったし、あそこでずっと茶道教室をしてるみたいだから引っ越してきたって訳ではなさそうだ。
「そうなのよね……。彼女、謎が多すぎるのよ。あの子と顔が瓜二つなのは偶然でしょうけど」
「……まあ、それはそうだろうけどさ」
苦い思いを、唾と共に飲み下す。
彼女の事を持ち出されるのは、寧音姉とはいえ気分がよくない。
「……」
「……」
気まずい空気が流れる。
僕は水を飲み干したコップを手に寧音姉の方へ歩み寄る。
ドリップコーヒーの香りが、ふわっと鼻に来た。
と同時に、ピリっとする感覚が足に来た。
「あら? どうしたの?」
「……いや、別に」
「最近なんだか変ね。足をどうかしたの?」
「……別に」
立ち止まる僕を、寧音姉が怪訝な目で見る。
寧音姉は一人っ子で、兄も弟もいない。
お父さんはずっと仕事で海外赴任が長いため、おそらく大人の男の裸をそんなに見てない。
瀬川さん達にはバレてしまったけど、寧音姉には隠し通さないと……! オモチャにされる……!
「……ふーん、隠し事するのね」
そう言いながら寧音姉が僕のカバンに手を伸ばす。
そして僕のスマホをあっさり取り出した。
「でもムダよ。検索履歴や生成AIのトーク画面を見ればすぐ分かるわ」
「そ、そんなのロックしてるから」
「パスコードは○○○○っと」
「なんで知ってるの!?」
僕の好きなプロ野球選手2人の背番号をつないだパスコードをあっさり当てられ、寧音姉がスマホのロックを解除する。
そしてスマホを操作し始めた。
慌てて止めようとするも片手であっさり阻止される。
そして、生成AIのトーク画面を見た寧音姉が固まった。
「……お、おめでとうと言っておこうかしら」
「……ありがとう」
「病院には行ったの?」
「……この前行ったよ。軟膏処方してもらった」
「そ、そう……」
大人っぽく見えてこういう話題に免疫がない寧音姉が顔を赤くする。
けれども次の瞬間、僕の右手を掴み覆い被さってきた。
「……見せてもらってもいいかしら」
「ダメ」
「これは決して個人的な興味ではなく後学のためというか生徒の悩みに寄り添う生徒会長として実物を見て知っておきたいという」
「ダメ」
断りを言い、僕は覆い被さってる寧音姉から逃れようとする。
けれどもしっかりマウントを取られていて逃れられない。
「先っちょだけ! 先っちょだけでいいから!」
「そのセリフリアルで言う人に出会うの2人目だよ!? ダメったらダメ!」
自由になってる左手で、何とか寧音姉の身体を払いのけようとする。
しかし上を取っている寧音姉の方が体勢有利なため肩を押さえ込まれ、逆にズボンのチャックを開けられそうになる。
「させるかっ! ……あっ」
「……あっ」
左手で寧音姉の手を押さえようとした所、その豊満な右胸をわしづかみにしてしまう。
ラノベなんかじゃ柔らかいって表現されてるけど、全然そんな事はない。
言葉で表現するのが難しい、幸せな感触としかいいようのない手応えだ。
僕はその感触を左手に記憶しない内に、そっと放した。
「……わざとかしら?」
「めっそうもございません」
「じゃあお詫びに見せてもらってもいいわよね?」
「それとこれとは別問題です」
「いいから見せなさい! 人の胸をわしづかみにしておいて!」
「裸を見た訳じゃないんだから!? 交換条件がイーブンじゃなさすぎる!」
「じゃあ触ってもいいわよね!」
「それはそれで問題だよ!?」
「なら私が裸を見せるから、あなたも裸を見せなさいっ!」
「なんでそうなるの!?」
この後、ウチの父親が車で帰ってくる音が聞こえるまで僕と寧音姉の攻防戦は続いた。
最終防衛ラインは、なんとか死守した。




