三十七杯目「喫茶去」
新しい朝が来た。
水曜の朝だ。来て欲しくない朝だ。
今日も本来なら茶道部の部活がある。
「……」
スマホの電源を入れかけて、やめる。
瀬川さんから連絡が来ていたらと思うと気が重い。
僕は、電源を切ったままカバンに放り込んだ。
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ガシャンという音を立てて、自転車立てが自転車を固定する。
錆び付いた自転車はまるで誰かさんのようだ。
ゆっくりと劣化し朽ちていく。
野球をやっていた時より体力は落ちているだろう。
朝から身体が重い。気分のせいもあるだろうが。
重い足を動かして昇降口へ進む。
このまま逃げ続けたって、いずれ茶道部の事で瀬川さんと向き合わないといけないだろう。
輝木さんに、いつまでもごまかし続ける事だって難しい。
いっそあの時、退部したと伝えればよかったんだ。
そうすればよかったのに、なんでそうしなかったんだろう。
僕は――――――何もかも、中途半端でどうしようもない人間だ。
気分も重く、下駄箱を開ける。
すると中に何やら紙が入っていた。
丁寧に折りたたまれている紙を開く。
そこには、見覚えのある達筆な筆の字が書かれていた。
『本日放課後、茶道部の部室にてお待ち申す 瀬川』
――――――果たし状?
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薄暗い旧校舎の階段を、重い足取りで上る。
無視して帰ってしまってもよかったのだが、彼女はきっと来るまで待ち続けるだろう。それは申し訳ない。
3階の階段を上った先、一番隅の教室に古びた扉に『茶道部』と達筆な字で書かれた紙が貼ってある。
扉を開けると、瀬川さんが待っていた。
「大鳥君」
「瀬川さん、僕は……」
「お茶にしましょう」
「……」
「お話は後にして、お茶にしましょう」
「……」
僕は瀬川さんの前に、仕方なしに座る。
作法も何もない、あぐらをかいた座り方で。
しかし瀬川さんは、何も言わずに僕に向けてお皿を差し出した。
「お菓子をどうぞ」
「これって……」
「はい、『たちばな』のおはぎです」
「……」
菓子切りも使わず、手でおはぎを掴んで口にする。
――――――おいしい。
上品な甘さで、あんこは香り高い。
これで100円は安すぎると思うくらいに。
乱暴に手で食べた事が申し訳なくなるくらいだ。
僕は食べかけのおはぎをお皿に置いた。
部室の中を見回す。
お茶を点てている瀬川さん以外に人がいない。
板野さんはともかく、輝木さんと寧音姉は水曜日に部室に来るはずかのに。
ふと、部屋の中の掛け軸が気になった。
「瀬川さん」
「はい、なんでしょう?」
「あの掛け軸の言葉の意味って何? きっさ、きっさ……きょ?」
「『喫茶去』です。『お茶にしましょう』という意味です」
「……」
彼女がどういうつもりであの掛け軸をかけたのか。
聞かずとも分かってしまった。
「どうして?」
「はい?」
「僕は君に何も説明せずに退部しようとしているクズ野郎だよ。なのに、どうして――――――」
「それは私が大鳥君の事が好きだからです」
「……………………………………はっ?」
理解不能な言葉が返ってきた。
『お茶をどうぞ』という言葉と共に、薄茶が差し出される。
何が何やら分からないまま一口頂いて気づく。僕の好みの濃さで点ててある事に。
おはぎにしてもそう。彼女は僕の事を精一杯もてなそうとしている。
お茶を啜って、気持ちが少し落ち着いた所で瀬川さんに問う。
「好きって……恋愛的な意味じゃなくて、人間的な意味でって事だよね?」
「さあ、どうでしょう?」
瀬川さんが、いつものニコッとした笑みを浮かべる。
「大鳥君が茶道部を続けて下さるなら、いつかその意味をお伝えする時が来るかもしれませんね」
「……」
彼女と、瓜二つだけど違う彼女の顔を見つめる。
彼女と彼女は別の人間だ。
最初は、瓜二つな外見に惹かれて茶道部に入った僕だけど今は違う気持ちを抱いている。
――――――瀬川さんの事を、もっと知りたいという気持ちを。
「……瀬川さんって、ズルいね」
「そうですね。私はズルいんです」
「そんな事言われたら、茶道部に残るしかないよ」
「そうですね、残るしかありませんね」
「でも僕は、また投げ出してしまうかもしれないよ」
「その時は何度でも、またこうして連れ戻します。まだまだオススメの本を、紹介していただきたいですし」
瀬川さんが、『あそ○のかんけい』を掲げてニコッと笑った。
それから神妙な面持ちになり、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……どうして謝るの?」
「私、母の試験を受けたらあなたはきっと傷つく事になると分かっていたんです」
「……」
「大鳥君は茶道にご興味がないのに、一生懸命頑張ってくれた。でもその頑張りを、母は認めてくれないだろうって事を」
「……お母さんから聞いたの?」
「いえ、母は話してくれませんでした。ですが大体の想像はついています」
「……そっか」
ハア、と乾いたため息が出る。
商店街で僕に向けて『ごめんなさい』と言っていたあの日の瀬川さんを思い出す。
彼女は気づいていたのだ。僕が茶道に興味がない事も。お母さんの試験に不合格になる事も。
「じゃあなんで僕に試験を受けさせたの? 全員都合が悪いって事にして、板野さんや寧音姉が受けられる日を選べばよかったのに」
「それは……私が大鳥君がいいと思ったからです」
「……」
「大鳥君じゃないとダメだと思ったんです。あなたに茶道わたしに興味を持って欲しかったから」
「……」
「わたし」の意味を舌で転がしながら考えてしまう。
正直、僕は彼女に恋愛感情を抱いていない。
彼女とあの子は別。出会った時から思っていた事だ。
だからこの気持ちは……
瀬川さんの事を知りたいという気持ちは、僕の初恋とは関係ないものだ。
「じゃあ……、退部したいっていうの、撤回してもいいかな?」
「はい、もちろんです」
可愛らしい笑みを浮かべたまま、瀬川さんが二杯目の薄茶を点て始める。
その薄茶を差しだした後、彼女は『真の礼』をしてからこう言った。
「ふつつか者ですが、これからもよろしくお願いします!」
そう言った彼女の顔は、とても美しかった――――――




