第三十四杯「試験」
「お菓子をどうぞ」
お菓子が入った器を、僕は感謝の気持ちで両手でおしいただき、懐紙を膝正面に置く。
箸を取り、左手を器に添えて菓子を懐紙の上に乗せる。
箸の先を左手に乗せ、箸を上から持ち、懐紙で先を清める。
箸を戻し、器を両手で持って亭主へと返す。
「……」
この4日間のお昼休みと土曜日に何度も何度も何度も練習した作法だ。
大丈夫、ちゃんとできているはず。
「本日のお菓子は葛餅です。少し暑くなってまいりましたので、涼やかなお菓子を選びました」
瀬川さんのお母さんの言葉に、葛餅を見る。
『たちばな』のお菓子だ。見ただけで分かる。積み重ねた技術と年月が感じられた。
そしてそれは、お茶を点てる瀬川さんのお母さんも同様だった。
――――――美しい。
瀬川さんの所作も美しいけれど、瀬川さんのお母さんのそれは更に美しかった。
長い間何度も稽古を重ねた人の所作。
まだ茶道の素人である僕にも分かるほどだった。
懐紙に挟んでいた菓子切で1口大に切って、頂く。
口当たりのいい葛の食感と、上品な甘さのあんこの味がした。緊張が少しだけ解れる。
あの人のいいおじいさんが作ったんだろうか。
「おいしそうに召し上がりますね」
「はい、おいしいです」
僕の返事に、瀬川さんのお母さんが彼女によく似た笑みでニコッと笑う。
この人も和菓子が好きなんだなと、伝わる笑顔だった。
「お茶をどうぞ」
点てられた濃茶が差し出される。
黒色の高そうな茶碗だ。素人の僕でも分かる。
点前座から差し出されたお茶碗を、立ち上がって取りに行く。
正座からきれいに立ち上がる動作は難しいと瀬川さんが言っていた。
心得は「エイヤッ」と力を集中させて立ち上がる事だとも。
幸い体幹とバランス感覚には自信がある。姿勢を崩さないよう気をつける。
畳の縁を踏まないよう歩き方も気をつけないといけない。
取った後、自席に着いたら茶碗は畳の縁内正面に置く。
そして、『真の礼』をしてからこう言う。
「お手前、ちょうだいします」
『左手は太ももの上に。右手で茶碗を取り左手で受けます』
頭の中に、瀬川さんの声が流れる。
『心に伝え、目に伝え、耳に伝え、ひと筆もなし』
繰り返しお稽古して身体で覚えろという意味だ。
彼女の声が、僕の頭と身体にしっかり刻み込まれている。
『茶碗を軽くおしいただいた後、右手で二度回し、茶碗の正面を亭主に向けます』
何度も何度も何度も何度もお稽古した作法だ。
付き合ってくれた彼女の頑張りを、無駄にする訳にはいかない。
3口で飲むお茶の、1口目を啜る。
口にした途端、僕は驚きを感じた。
――――――おいしい。
瀬川さんの点てたお茶もおいしかったけれど、瀬川さんのお母さんが点てたお茶はそれよりずっとおいしかった。
使ってるお茶が違うとか、茶道具が違うとかいうレベルじゃない。
点てた人の技量の違いでこうなったとはっきり分かる違いだ。こんなに違いが出るのか。
『お茶を3口ぐらいで飲んだら、最後に「スッ」と音を立てます。その後は飲み口を右手親指と人差し指で拭き清め、指先を懐紙でぬぐいます』
高そうな茶碗なだけに本当に指で触っていいのか躊躇するが、口をつけたので今更と思い、瀬川さんに教わった通り指で拭き、懐紙で指先を拭う。
『右手で茶碗を左へ二度回し、正面に戻します。そして茶碗を畳の縁の外に返します』
茶碗を畳の縁の外に置き、亭主に向けて『真の礼』で一礼。
それから、茶碗を拝見するんだけど……
「はい。もういいでしょう」
瀬川さんのお母さんに言われ、伸ばしかけた手を戻す。
「もういいでしょう、とは……?」
「試験終了という意味です。短い時間でしたでしょうに、よくお稽古なさっていますね」
ニコッとした笑みを浮かべる瀬川さんのお母さん。
その表情に他意はなさそうだ。
合格、という事でいいのだろうか。
「初めてのお茶会は、いかがでしたか?」
試験終了、と言ったからには単純な雑談と解釈していいだろう。
それでも僕は、慎重に言葉を選びながら答える。
「何と言いますか……圧倒されました。瀬川さん……娘さんの所作や点てたお茶よりずっと洗練されていると言いますか、ずっと上だと思いました。濃茶もとてもおいしかったです」
「ありがとうございます。まあお稽古を積んできた年月や、こうして茶室で人と向き合ってきた経験が違いますからね」
謙遜せず、当然の事と言わんばかりに瀬川さんのお母さんが微笑む。
人生の酸いも甘いも味わい、いくつもの荒波を乗り越えた人の余裕が感じられた。
「僕のような……茶道の初心者はよく来られるのですか?」
「ええ。子供達向けの茶道教室に、企業研修、外国人観光客の茶道体験などを行っておりますので。茶道の心得がない方のお相手は慣れております」
茶道教室なんて来る人がいるんだろうかという思いを正される。
どうやら手を広げて上手い事やっている印象だ。
この人の雰囲気からして、教わりたいという人も多そうな気がする。
「他に何か聞きたい事は?」
「……いえ、ありません。ありがとうございました」
瀬川さんのお母さんと『真の礼』を交わし合う。
「では、早速ですがあなたの試験の結果をお伝えいたしましょう」
「……っ」
顔を上げた瀬川さんのお母さんが、ニコッとした笑みを浮かべる。
『よくお稽古なさっていますね』という言葉は、合格という意味じゃなかったのか?
心の準備ができないままに、瀬川さんのお母さんが笑顔のまま結果を告げる。
「不合格です」
「えっ」
聞こえた言葉に耳を疑う。
どうして。作法はちゃんとできていたはずなのに。
「理由をお教えしましょうか?」
「……お願いします」
納得いかない気持ちを抑え、頭を下げると瀬川さんのお母さんは淡々と不合格の理由を話し始める。
「確かに作法はよくできていました。まだ動作はぎこちないですが、細かい手順のミスもなく、初心者である事を鑑みれば上出来といっていいでしょう。
「じゃあ、どうして……」
「それはあなたが茶道にご興味がないからです」
「……」
言われた事の意味が、分からない。
僕が茶道に興味がないからと言って、それがなぜ不合格なのだろう。
そんな僕の心情を察したのか、瀬川さんのお母さんが僕に尋ねる。
「納得がいっていないご様子ですね」
「……はい」
「ではお尋ねします。床の間の掛け軸には何と書かれていましたか? その言葉の意味を考えましたか?」
「……」
「お花はどんな花が活けられていましたか? 何の花かご興味を持たれましたか?」
「……」
茶室に入ってすぐに見た床の間の掛け軸と花を思い出そうとしても、思い出せない。
ぐうの音も出ない。
僕はただ見ていただけで、どんなものか興味を持とうとしなかった。
そしてそれは、茶道においても同じだった。
「茶碗を見る前に、私があなたを止めた理由がお分かりになりましたか?」
「……はい」
この人は見抜いていた。
僕が茶道に何の興味も感心もなく、ただ茶碗を拝見する動作をするつもりだったという事を。
そしてそれをされる事は、せっかく茶碗を用意してきたこの人にとって耐えがたい態度だったという事も。
「茶道の作法にはひとつひとつ意味があります。それを知ろうともせずただ作法通りにすればいいと考えているのなら、正しい作法だとしても心が入っていない贋作です。亭主に対して失礼に当たる。私はそのように考えます」
「……おっしゃる、通りです」
やさしい口調の叱責は、すんなりと受け入れられた。
「間違いだらけであろうと、茶道の事を知りたい、茶道を体験したいと考えお茶会に参加される子供達や海外の方達の方が私は好ましく思います。あなたを選んだのは、娘の人選ミスですね」
「……」
「ご安心下さい。娘には合格だと伝えていいですよ。実際作法に関してはあなたはよくやっていました。十分合格点です」
「……ありがとう、ございます」
『真の礼』をした瀬川さんのお母さんが、茶道具や茶碗を片付け立ち上がる。
そして僕に向けてこう言った。
「最後に1つだけ、アドバイスを差し上げましょう」
「……何ですか?」
「他人との関わりを避けたり、興味のない物に興味を示さない生き方を続けていると、社会に出た時に苦労しますよ」
「……」
たくさんの人を見てきて、人生の酸いも甘いも味わってきた人の言葉だ。
おそらく、その通りなのだろう。
でも、僕は……
「……」
瀬川さんのお母さんが去って行く。
僕は抜け殻のようになった身体を持ち上げ、入ってきたにじり口から出た。
「大鳥君!」
すぐに、腰掛待合に腰掛けていた瀬川さんが駆けてくる。
「いかがでした? お母様は何とおっしゃいましたか?」
「ああうん……、十分合格点だってさ」
「やりました! 大鳥君、ありがとうございます!」
「……うん」
『合格だと伝えていい』と言われたから、合格と伝えていいだろう。
僕の両手を握ってブンブン振って喜んでいる瀬川さんは、興奮気味に顔を赤らめている。
きっとすごく緊張していたのだろう。
彼女は、僕に試験を受けさせる事を後ろめたく感じていたようだから。
「お祝いに『たちばな』に行きませんか? またおはぎをいっしょに食べに行きましょう!」
プレッシャーから開放されたのか、瀬川さんが嬉しそうな顔で僕に提案してくる。
「瀬川さん」
僕は、彼女の手をそっと振り払う。
温かく柔らかな彼女の手は、今の僕には痛かった。
「大鳥君……?」
僕の様子に、何かあると察したのか瀬川さんが不安げな表情になる。
僕は、そんな彼女から目を逸らしながらこう言った。
「茶道部、辞めさせてもらってもいいかな」




