第二十三杯「濡れ燕」
ピューッという音を立てて、やかんが沸いた事を知らせてくる。
瀬川さんが、振り返ってコンセント式の風炉のスイッチを切る。
僕の視界に瀬川さんの後ろ姿が映る。
背中からヒップラインにかけても美しい。彼女は後ろ姿も美しい人だった。
「では、お湯が沸いたのでお茶とお茶菓子を召し上がって頂きましょう」
「わーい! 待ってましたー!」
それを楽しみにして来たらしい輝木さんが両手を上げる。
僕と寧音姉は警戒するが、瀬川さんはニコニコ笑っている。どうやらこれは許されたようだ。
瀬川さんに促され、僕と寧音姉は輝木さんの隣に移動する。
「お菓子をどうぞ」
瀬川さんが、お菓子を僕達に差し出した。
「本日のお茶菓子は濡れ燕です。春から夏にかけて飛来し、雨の中でも子燕のために餌を運ぶ親燕の姿を写しています。雨の中を低空で飛ぶ燕の姿や、濡れた様子を風情豊かに表現した一品です」
「「すごっ!?」」
出されたお菓子を前に、僕と輝木さんが驚きの声を上げる。
おまんじゅうらしき物の上に、羊羹でできた小さな燕が乗っていた。
その細工の細かさに、僕らは目を奪われた。
「何ですかこれ……!? これもうアートですよ!」
「ホントにそうだね……。瀬川さん、これ、自分で作ったの?」
「いえ、家の近くの商店街の和菓子屋さんで買ってきました」
「家の近くの商店街? 瀬川先輩のおウチってどの辺りですか?」
「北中の辺りです」
学校から一番近い中学校の名前に、通学路の途中にある寂れた商店街を思い出す。
あの商店街にこんなすごいお菓子を作ってる和菓子屋さんがあるのか。知らなかった。
「あ! あの! これ写真に撮っていいですか!」
輝木さんがスマホを取り出しながら声を上げる。
笑顔の瀬川さんが、少し困ったような表情になる。
「いいんじゃないかしら」
そこにこれまでずっと黙っていた寧音姉が口を挟む。
「これだけのお菓子ですもの。写真に撮りたくなる気持ちも分かるわ」
「そうだね。1年生への宣伝になるかもだし」
寧音姉の言葉に僕も乗っかる。
しかし輝木さんは、僕達に向けて首を振った。
「あ、SNSに投稿するつもりはないです。お母さんに今日の体験入部どうだったか話したいんで」
「そうですか……。構いませんよ。ぜひ撮られて下さい」
瀬川さんが笑顔になって頷く。
輝木さんがスマホで濡れ燕を撮り始める。
しかし何かに気づいたように、瀬川さんに声をかける。
「瀬川先輩、かいしは使わないんですか?」
「かいし?」
「茶道で使う紙の事です。お茶菓子を頂く時に使うんですよ」
僕の疑問に、瀬川さんが桜色の手帳を取り出しページに『懐紙』と書く。
スマホで調べてみると、お茶菓子を食べる時にお皿のように使う茶道具らしかった。
「この茶道部では懐紙ではなくお皿を使う事にします。昔あった茶道部が、お皿を使っていたようなので。もちろん茶事のお稽古の際には懐紙を使いますが」
背筋をピンと伸ばしたまま、瀬川さんが答える。
どうやら前の茶道部リスペクトでお皿を使う事にしたらしい。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
瀬川さんに促され、僕達は濡れ燕を、お菓子を切る道具で切ってから口に運ぶ。
ほんのりとしたおまんじゅうの皮の香りの後に、しっかりとしたあんこの甘さが来た。
お茶と合わせるためか、甘めに作られてるらしい。
「んん~! あんこがしっかり甘くておいしいです! でもこの燕、食べてしまうのがもったいないですねー」
「そうだね」
「そうね」
3人とも、羊羹で作られた燕をなんとなく残してしまう。
瀬川さんが、僕達を見ながら微苦笑を浮かべた。
「分かります。私も初めて濡れ燕を頂いた時は、もったいなくて取っておこうとして、叱られてしまいました」
「そうなんですか?」
「はい。おばあさまに言われたんです。『食べられるために作られたものなんだから、食べないのは作ってくれた人に失礼だ』って」
そう言われると、食べないのがもったいない気がする。
僕達は羊羹でできた燕を改めて見てから口にした。
それを見て瀬川さんが、お茶を点て始める。
――――――美しい。
一つ一つの所作が美しい彼女だけど、お茶を点てる時の所作が一番美しく見える。
隣を見ると輝木さんも見惚れたように「は~っ」と息を吐いていた。
「お茶をどうぞ」
輝木さんに向けて、黄緑色の泡だった薄茶が差し出される。
本来お茶菓子には濃茶が出されるのだが、初心者向けにより飲みやすい薄茶にしたらしい。というか、寧音姉が説得してそうさせた。
輝木さんが、お茶碗を受け取って畳に置いてから、隣に座る僕に小さく頭を下げる。
「お先に」
何だかよく分からないけど、釣られて僕も頭を下げる。
「お、お手前ちょうだいいたします」
輝木さんが、瀬川さんに向けて頭を深く下げる。
どうやら読んでいた茶道の本で学んだ作法のようだ。
輝木さんが茶碗を右手で持ち上げ、正面を避けるように2回回した。
そして薄茶を1口。
「……」
「「「……」」」
固まってしまった輝木さんに、僕らが戸惑う。
なんだ? どうしたんだ?
「うえ~……、苦いです~~~……」
輝木さんが、舌を出して顔をしかめる。
そういえば前に、苦い物が苦手って言ってた気が……
「瀬川せんぱーい、これ少しだけお湯で薄めてもらってもいいですかー?」
「「……!」」
輝木さんの言葉に、僕と寧音姉が警戒する。
こんな失礼な事言ったら……
「ええ、いいですよ」
「え?」
輝木さんから茶碗を受け取り、瀬川さんがお湯で薄茶を薄め、お茶を点てる道具でシャカシャカかき混ぜる。
その様子に怒っている雰囲気は、まるでない。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございますー! 結衣菜、苦いのがちょっぴり苦手でしてー」
「そうだったんですね。では次からは薄めにお作りしますね」
ニコニコと会話する輝木さんと瀬川さん。
僕達が戸惑っている間に、輝木さんが茶碗を手に取って1口飲んだ。
2口目を飲み、3口目、最後の半口は音を立てて啜る。
本で読んだのだろうか。輝木さんはお茶の頂き方を作法通りにやっていた。
輝木さんが茶碗を指で拭いて、茶碗を手で回す。
本をちゃんと読んできたのだろうか、意外とちゃんとした作法に僕は驚く。
そんな僕の隣で、茶碗を置いた輝木さんが瀬川さんに向けてたどたどしくも丁寧に頭を下げる。
「瀬川先輩、美味しくいただきました。ありがとうございました」
「……」
「結構なお点前で」というのをよく聞くけど、実際の茶道の席ではあまり言わないセリフだという事を、前に瀬川さんから聞いた事を思い出す。
瀬川さんが、輝木さんに『真の礼』を返した後まっすぐ向き直った。
「輝木さん」
「は、はい」
「輝木さんは、どうして茶道部に体験入部に来ようと思ったのですか?」
瀬川さんが、笑顔で輝木さんに問いかける。
それに対し輝木さんが、目を泳がせて答えた。
「え、えーっと…… 先輩から話を聞いてお茶とお菓子がいただけて楽しそうだなーって……」
ヤバい。
僕と寧音姉が緊張の面持ちで警戒するが、瀬川さんは笑顔のままある紙を取り出した。
「輝木さん、茶道部に入部してくれませんか?」
「「え?」」
僕と寧音姉の驚きの声がユニゾンする。
しかし瀬川さんは、そんな僕らを気にせず輝木さんに話し続けた。
「輝木さんが茶道部に入って下さるとうれしいです。週に1度、ご都合がつく日だけでいいので入部して頂けませんか?」
「は、はい! 結衣菜、茶道部に入部します!」
「ありがとうございます! では、こちらにクラスとお名前をお願いします」
戸惑う僕達を尻目に、輝木さんが入部届を書き始める。
「書きました! 瀬川先輩、これからよろしくお願いします!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「あ、これから莉子先輩って呼んでいいですか? 先輩と仲良くなりたいんで!」
「わあ、そう言って頂けてうれしいです! もちろんいいですよ」
「わーい! 莉子せんぱーい!」
戸惑う僕らの前で、あれよあれよという間に話が進んでいき、輝木さんが瀬川さんに抱きつく。
こうして1年生の図書委員の後輩、輝木結衣菜さんの茶道部入部が決まったのだった。




