第十杯「幼馴染みの隣の寧音姉」
キイイっという甲高いブレーキ音が鳴り響く。
高校入学と同時に買い換えて1年。順調に古びていっている自転車は、カゴも車体もサビが目立つようになっていた。
自転車立てを足で立て、カギを外しカゴからカバンを手に取る。
さほど荷物を入れてないのに今日1日、いや放課後数時間での疲労を物語っているかのようにずっしり感じる。
僕はため息と共に、自転車にカバーをかけた。
玄関を開けると、見慣れたローファーの靴が揃えて並べられていた。
電気が点いているリビングへとまっすぐ向かうと、案の定寧音ねね姉ねえがソファで参考書らしきものを読んでいた。
「ただいま」
「おかえりなさい。遅かったわね」
濃い紫色のワンピースは、肩が露わになっている夏物と言ってもよさそうな物だ。
露わになっているデコルテと膝丈のスカートから伸びる素足がまぶしい。
女子高生が着るにしては大人びすぎている気もするが、寧音姉は難なく着こなしていた。
寧音姉は女の子1人じゃ危ないという事で、おばさんの帰りが遅い日はいつも合鍵を使って隣の家であるウチで過ごしている。
僕は危なくないのかと言いたいけれど、まあそんな度胸ないので危なくない。
寧音姉が大人びた顔に、子供っぽい笑みを浮かべてくる。
「驚いたでしょ?」
「驚いたよ」
キッチンで手洗い、うがいをして口元をタオルハンカチで拭う。
そうして気持ちを落ち着かせてから、寧音姉に文句を言った。
「なんで言ってくれなかったのさ」
「言わない方が面白いと思って」
「面白いって……、面白くないよ」
「そうね、彼女に瓜二つの転校生の茶道部部長。言っておくけど双子でもなければ親戚でもない赤の他人よ」
寧音姉の言葉に、瀬川さんの顔が思い浮かぶ。
髪型と髪の色を除けば彼女に瓜二つのあの子。
いや、少しだけ瀬川さんの方が背が高く、体付きが細いかもしれない。
スカートから覗いていた白くてまぶしい太ももが脳裏をよぎる。
僕は頭を振ってそれを追い払った。
「おかげで入部する羽目になっちゃったじゃないか」
「あら? 顔に釣られたの?」
「釣られたっていうか……、あの顔に頼まれたら断れないよ」
「でしょうね」
寧音姉が澄ました顔でマグカップに視線を下ろし持ち上げ口をつける。
まるでそうなる事を見透かしていたみたいに。
「よかったわね。彼女の代わりが見つかって」
「代わりって……。瀬川さんの事をそんな風に考えるつもりはないよ」
寧音姉の方に近づくと、馥郁たるコーヒーの香りがした。
粉のインスタントじゃなく、ドリップパックの奴だ。寧音姉はこだわりが強い。
1人分だけ距離を開けて、ソファに腰掛ける。
そんな僕を、寧音姉がチラリと横目で見た後マグカップを置いて隣に詰めてきた。
「じゃあ何? ようやく彼女の事を吹っ切るつもりになったのかしら?」
濃い紫色のワンピースの肩が、僕の肩にくっつく。
白い襟元から覗くデコルテは美しく、豊かな胸元はラインを描いていた。
コーヒーの香りと甘い匂いが入り交じり、心がくすぐられる。
「そろそろ私に、振り向いてくれてもいいんじゃない?」
「振り向いてくれてもって……どういう意味?」
「またそうやって、鈍いフリしてごまかすのね」
寧音姉の右手の人差し指が、僕の長袖シャツの胸にのの字を描く。
指がボタンに引っかかり、刺激が走る。
僕は密着している寧音姉の胸から逃れるように、体を引いた。
「そ、それより! 茶道部に体験入部に来た子達が入らなかった理由が分かったんだけど……」
露骨に話を逸らす僕をジロリと見た寧音姉が、ため息を吐く。
それから不満そうに僕の胸を指先でツンツンと突っついた後、こう言った。
「あなたも受けたのね。あの『お稽古』の洗礼を」
「うん……。痛くはなかったけど、扇子で叩かれたよ。なんで扇子持ってるの?」
「茶道で使うからだそうよ」
瀬川さんが持っていた扇子を思い出す。
ずっと閉じたままだったけど、お茶の席で花びらを飛ばしたりするのだろうか?
それとも和服で踊ったりするのだろうか?
僕の考えを見透かしたように、寧音姉が耳を引っ張る。
「宴会芸のためじゃないわよ。閉じて使うらしいわ」
「閉じて使う? ……何に?」
「さあ? あの子に聞いてみたら?」
投げやりに言って、寧音姉が離れる。
何やら不機嫌そうだ。
しかし閉じて使う? まさか作法を守れなかった人を叩くためではないだろう。
「それより寧音姉、部員が集まらない訳だけど……」
「本人もこのままじゃダメだって自覚はしてるみたいだけどね、茶道の事になるとつい出てしまうみたい」
自覚はあるんだ。そしてつい手が出てしまうと。
よほど厳しい『お稽古』を受けてきたのだろうか。小さい頃の彼女が泣きながらお稽古を受けている姿を想像し、なんだか胸が苦しくなる。
「そもそも部員集めしてるの? チラシ配りとかしてた?」
「してないというより、できなかったのよ。茶道部を作った時には勧誘期間が過ぎてたから」
どうやら茶道部ができた頃には、チラシを配ったり1年生を勧誘できる期間を過ぎていたためできなかったらしい。
じゃあ一体どうやって部員集めをしているのだろう。
今度顔を合わせる時に聞いてみるとしよう。
……今度顔を合わせる時、か。
今日が木曜で、明日の金曜と来週月曜は図書委員だから部活に行くのは来週火曜だ。
その火曜日が待ち遠しいような、来て欲しくないような、複雑な気がした。
「顔がにやけてるわよ」
「え? ……にやけてないよ」
「彼女に会えるのが楽しいって、顔に書いてある」
寧音姉の言葉に、なんとなく顔を触る。
朝塗ったスキンケアクリームとは違う、ベタベタとした手触りがした。
「楽しいっていうより……ドキドキするって感じだよ」
「扇子で叩かれるのが嬉しくて?」
「嬉しくないよ。寧音姉、僕Mじゃないからね」
不穏な事を言った寧音姉に断っておく。僕は叩かれるのも叩くのも好きじゃない。
このドキドキを言葉で表すなら、それは。
「緊張って感じかな」
「緊張」
「そう、緊張」
オウム返しのように、緊張という言葉が繰り返される。
緊張。あまりいい意味で使われる言葉ではない。
その意味を敏感に感じ取ったらしい寧音姉が、鮮やかな色の舌で唇を少し舐める。
「まあ緊張でも同情でも発情でも何でもいいのだけれど」
立ち上がった寧音姉が、僕の肩にポンと手を乗せる。
よくない。最後のは全然意味が違う。
「部員集め、手伝ってあげてちょうだい。あの子なりに結構頑張ってるから」
「そんな事言われても……」
「じゃ、よろしくね」
僕の言葉を聞かずに、寧音姉が玄関へと向かっていく。
まるで見計らったかのように、隣の家におばさんが車をバックで駐車する音が聞こえてきた。
残された僕は、小さなため息を吐いた。




