― 小さな失敗 ―
放課後の教室は静かで、窓から差し込む夕陽が長く机の上を照らしていた。外からは時おり、校庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえていた。
そんなある日、小学六年になった俺はクラスメイトとのトラブルでむしゃくしゃしている気持ちを分かってもらおうと、凜の居る教室に向かった。
「ねぇ聞いてよ!龍二が教室のガラスを割っちゃったんだけど、俺のせいにしてきたんだよ。俺が押したから悪いんだって。超ムカついた」
凜は読書を妨げられ少し不機嫌そうに「うるさいよ、本を読んでるのが分からないの?」と素っ気ない返事だった。
凜の机にはノートが置かれ、カバーには星のステッカーが貼られていた。
「それ、何のノート?」
「なんでもないよ。もう帰れば?」凜は答える。
勇真はむっとして眉を寄せた。
「ふーん、これ? 読書ノートか」
勇真は興味本位で手に取りぺらぺらとめくった。
「やめて!」
たまたま開いたページには、主人公の王子様を俺に例えた表現も書き加えられていて焦った。
俺はノートを閉じようとした。けれど――
「返して!やめてって言ったじゃない!」
低く、小さな声。見れば、凜が俯いたまま、唇をきつく結んでいた。
「ご、ごめん、そんなつもりじゃ」
「見ないでって言ったのに」
俺は奪ったノートを差し出したが、凜はじっと見つめるだけで受け取らず、小さく息を吐いた。
「勇真のばか」その一言が、重く俺の胸に刺さった。
その夜、俺はなかなか眠れなかった。枕元の電気を消して、目を閉じても、さっき見た凜の読書ノートの文字がまぶたの裏に浮かぶ。
天井を見つめながら、深く息を吐いた。イライラの後で引き起こしたささいな出来事とは言え、俺は大きな間違いを犯したと感じた。
(俺、最低かもしんない。あの時パラっとのぞいたページには、凜の気持ちが書いてあった。まるで凜の心の中をのぞいてしまった気分。凜は俺のこと、キライになったんだろうな)
目を閉じて、いつもなら思い出す凜の笑顔が、今日はなぜか少し遠かった。眠れない夜が、ただ静かに流れていった。
昼休み、教室のざわめきの中で、俺は机に突っ伏していた。
友達が、何気なく声をかけてくる。
「なあ、最近勇真は凜としゃべらないな。ケンカでもした?」
その言葉が胸に突き刺さる。俺は一瞬、返事に詰まった。でも、顔を上げると、わざと軽い調子で笑った。
「別にそんなことないし」
強がりの言葉が口から出る。
でも、心の奥では、あの日のことが何度もよみがえる。
凜の必死な声「返して!やめてって言ったじゃない!」
その声が耳に残って、俺は机の木目をじっと見つめた。
本当は、話したい。謝りたい。でも、俺の視線の先で、凜は別の女友達と笑っている。その笑顔に、自分の居場所はもうない気がした。
——
放課後の図書室は、静かだった。カーテン越しに差し込む西日が、ページの上に淡い影を落としている。
中学2年生の私は窓際の席に座り、薄い文庫本を開いていた。
ふと背後から、椅子を引く小さな音がした。
そっと目を向けると、そこには勇真の姿があった。彼は私から少し離れた席に座り、無言で何かの資料を読み始めていた。
(どうして、同じ空間にいるだけで、落ち着かないんだろう。
昔なら当たり前だった。休み時間に隣の席に来て話しかけてきたり、一緒に宿題をしたり、笑いあったり。
勇真、いつからあんなに背、伸びたんだろう。声も、なんか低くなったし)
ふと目が合いそうになって、私はあわてて視線をそらした。
本のページをめくる指が、ぎこちなくなり上手くめくれない。
勇真が図書室に来た理由は、ただの調べものかもしれない。
でも、ほんの少しだけ、話し掛けてもらいたいと期待してしまう自分がいる。
(中学生になってから、二人の距離はあっという間に広がってしまった。私にはその理由がはっきりと分からない。
読書ノートのことだって、あの時は胸がぎゅっと苦しくなるくらい恥ずかしくて、悔しくて、 しばらく勇真の顔も見たくなかった。でも、時間がたてば、あんなの子供の失敗みたいなものだと思えるようになった。
私のほうが遠慮のない間柄の関係で自分では気づかぬうちに、勇真を困らせるような何か嫌がられることもたくさんしていたのかもしれない。 あの日だけが原因で避けられている…なんて、考えすぎだよね。この距離が、少しでも縮まったらいいのにな)
外では、誰かがグラウンドでボールを蹴る音がしていた。図書室の静寂に、その音だけが遠く響いていた。
——
京都の石畳を歩きながら男子数人でふざけ合っている、中学二年生の修学旅行。
春とはいえ少し蒸し暑く、班行動で歩く鴨川沿いの道には、観光客の話し声と川のせせらぎが混ざっていた。
「おい、次どこに行くんだっけ?清水寺?」
「ちげーよ。先に三年坂のほう回るって言ってたろ」
「アイス食おうぜー!」
俺が普段よりもテンションが高くはしゃいでいたのは、修学旅行という特別感だけじゃない。
どこかの班にいる凜と、偶然でもいいから同じ景色を見たい――そんな気持ちが心の片隅にあった。
その時、風にあおられて友達の帽子が飛んでいった。
とっさに俺は走った。
京都の細い石畳の階段を駆け下り、飛んでいく帽子を追いかけ、狭い石垣の隙間に入りこんだそれを取ろうとして――
「っつ……!」
右手の甲に痛みが走った。石で擦りむいたらしい。
「イテー、あーもう、最悪」
「おまえ運動は得意なのに、こういうとこドジだよな」
友達が笑う。俺は苦笑いを返した。
そして旅館に戻ってから、手の甲の血を洗い流し、絆創膏を貼りながら、ふと目を上げたときだった。
――廊下の先に、凜がいた。
朱色の欄干を模した旅館の廊下の灯りに照らされて、凜の横顔が淡く浮かび上がる。
女子のグループと一緒に、なにか話しながら歩いている。
その視線が、一瞬、俺の手に向いた。
凜の表情がわずかに揺れたように見えた。 けれど、何かをためらうように視線を伏せ、そのまま女子たちの後を追っていった。
胸がちくりと痛んだ。
昔の凜なら、きっとすぐに走ってきて「大丈夫?」と言い、手を引っ張って保健室に連れていこうとしたに違いない。
けれど今の凜は、そうしなかった。
(あの時、ひどいことしたからな)
小学校の頃と変わらないようで、どこか変わり始めた距離感。
凜は、夕食の時間になると女子たちと笑っていて、その笑い声が俺の胸をむずがゆくした。
凜が他の男子と自然に話している姿を見るたびに、落ち着かない気持ちが湧き上がる。
——
その夜、部屋に戻っても、俺は眠れなかった。
布団に寝転がりながら、天井をぼんやりと眺める。
脳裏に浮かぶのは、さっきの廊下で凜が見せた一瞬の表情――
驚いたような、困ったような、でもどこか冷たいような眼差し。
(……やっぱ、嫌われてんのかな)
窓の外からは、京都の夜の静けさが流れ込んでいた。
友達はすでに寝息を立てている。
その音を聞きながら、胸の奥で小さくため息をついた。




