― 味方 ―
俺がまだランドセルを背負っていた頃のこと。
小学四年生の放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓から差し込む夕陽が廊下を赤く染め、影を長く伸ばしている。
(凜、もう帰ったかな)
凜が居るとなりのクラスの様子を何気なく覗こうとしたその時、微かな声が耳に届いた。笑い声と、何かを嘲るような言葉。
胸の奥で嫌な予感が膨らみ、足が止まった。
廊下の窓から覗いた教室には、凜が居た。机に座り、本を開いたまま固まっている。その周りを、度々トラブルを起こす、いじめっ子三人組が取り囲んでいた。
こいつらは以前にも問題を起こしていた。
絵を描くのが好きな女子のスケッチブックを奪い、
「こんなの描いて何になるんだよ」
と言って破り捨てたことがある。
今まさに凜の前に立つ三人のいじめっ子が、覆いかぶさるように凜の机に影を落としていた。教室の静けさの中で、低く押し殺した笑い声と、机を軽く叩く音が響く。俺が最も嫌いな情景が目の前にあった。
本を読む凜の指先はわずかに震え、ページをめくるが読めてはいない。
「おーい、地味子〜! なに読んでんの、またヘンな本〜?」
「友達いないから本としか話せないんだろ?」
やつらの声は陰湿で、空っぽの教室に響いていた。凜は唇を噛み、視線を落としたまま動かない。
凜は小さく肩をすくめ、持っていた図書をそっと閉じた。
「読んでただけ、だから……」
「お前さ、ちょっと変だよな。いつもひとりで、本ばっか読んでさ」
「気持ちわる〜」
ひとりが本を奪おうと手を伸ばした瞬間、俺は息を吸い込み教室に飛び込んだ。
「やめろよ!」
俺の声とともに、バン、と机が揺れた。
声が教室に響く。三人組が一斉に振り向き、嫌な笑い顔を浮かべた。
「何だよ、ヒーロー気取り?」
俺は凜の前に立った。足は震えていたが、退く気はなかった。
「何してんだよ。そんなの、いじめだろ!」
「はあ? ただのジョーダンだし」
「ジョーダンでも、やめろって言ってんだ!」
俺は勢いのまま、男子のひとりに右肩からぶつかっていった。
「うわっ、なんだよ!」
「やめろよっ!」
三人を相手にしてのもみ合いの中、俺は力及ばず突き飛ばされた。
ドンッ!
鈍い音がして、俺の頭が机にぶつかる。視界が揺れ、頭に鈍い痛みが走った。
「いてっ!」
——
廊下に響く騒ぎ声を聞きつけ、英子先生が慌てて教室に入ってきた。ドアが勢いよく開き、いじめっ子たちの動きが止まった。
「何をしているの!」
先生の声は鋭く、教室の空気が一気に張り詰めた。三人組は視線を泳がせるが、先生の目は厳しい。
俺が床に倒れている姿を見た瞬間、先生の表情が変わったのが分かった。先生はすぐに俺のそばにしゃがみ込んだ。
「勇真君、大丈夫?頭、痛くない?」
先生は優しく問いかけながら傷口を確認する。額から血がにじんでいるのを見て俺に言った。
「動かないで、横になってじっとしてて」
俺は床に倒れたまま、頭に鈍い痛みを感じていた。視界が少し揺れて、耳の奥で血液の脈動が響く。
悔しさが胸を締めつける。凜の顔が頭に浮かぶ。きっと助けて欲しかったはずなのに、自分は逆に迷惑をかけてしまった。また凜を助けられなかった。
英子先生は手際よくハンカチで出血を押さえ、もう片方の手で職員室に連絡を取る。
「あなたたち、後で話をします。ここで待っていなさい」
その声には冷静さと厳しさが混ざり、いじめっ子たちは黙り込んでいた。
英子先生に肩を支えられながら、俺はゆっくりと廊下を歩いていた。頭に巻かれたハンカチがじんわりと濡れていく感覚が、痛みを現実に引き戻す。
廊下の窓から差し込む夕方の光がやけに眩しく、視界の端で凜の教室が遠ざかっていく。あの時の凜の顔が頭から離れなかった。驚いたような、少し怯えたような目。
——
保健室には白いカーテンに囲まれた静かな空間が広がっていた。消毒液の匂いがほのかに漂い、時計の針の音が静けさを強調していた。
「大丈夫?ちょっと見せてね」
保健の先生は落ち着いた声でそう言いながら、俺の額に手を添えた。冷たい指先が傷口を確認し、すぐに消毒液を準備する。
「少ししみるけど、我慢できる?」
「頭を打ったみたいだから、しばらく横になってね。気分が悪くなったらすぐ言って」
先生はメモを取りながら、俺の顔色を何度も確認する。その目は真剣で、ただのケガ以上に心配している様子が伝わってきた。
外からは部活動の声が遠くに聞こえるが、保健室の中は別世界のように静かだった。俺はその静けさと先生の落ち着いた対応に、少しだけ安心を覚えた。
——
保健室で手当てを受けたが、翌日俺の頭には十円ハゲができていた。
俺が教室の窓際で昼休みの校庭を見ていると、凜がそっとやってきた。
「あの、昨日はありがとう」
「え? あー、全然いいって。あいつらウザかったし、りんに向かって三人でやって来るなんてひきょうだし。でも俺ひとりじゃ何ともならなかったわ」
「それでも、わたしを助けてくれた。それにケガまで」
(あいつらにやられたから、結局りんの事は助けられてないんだけどな)
「平気平気。ちょっと血が出ただけだから」
「でも、すごく痛そう」
凜の声は、小さく震えていた。その手には、絆創膏が数枚。
「これ、使ってもらえるかわからないけど」
「サンキュ。りんってさ、そういうところを気にしてくれてさ、けっこう優しいよな」
「そんなこと、ないし」
俯いた凜の耳が赤くなっているのを見て、俺はくすっと笑った。
その日の帰り道、風に吹かれながら俺は思った。
(俺、別に強くなんかないけど、りんが困ってたら、知らないうちに身体が動き始めている。おとなしくて、人見知りで、か弱いりんだから、俺が守らなきゃ)
——
あの時、男の子たちに囲まれて、私は怖くてどうしたらいいのか分からなかった。
でも私を囲む三人に向かって勇真が飛び込んできた姿に胸が熱くなった。
声を出そうとしたが、喉が固まって言葉にならなかった。勇真が必死に立ち向かう姿を見て、私はどうすることもできず、ただ涙を流すだけだった
また勇真が助けてくれた。あの時、ちゃんとお礼の言葉を言えばよかった。
私が弱いからいけないんだと思う。また勇真にケガをさせちゃった。
私がしっかりしなくちゃいけないんだけど……
——
「凜ちゃん、玉ねぎ、お願いできる?」
「はーい!」
私はキッチンで、覚えたての包丁で玉ねぎを切っていた。
今夜は地元の七夕まつり。勇真の家へ毎年のように私の家が招待され、一緒に夕食を楽しむ日だった。
私は学校で助けてもらったこともあり、勇真の家にすぐにでも行きたい気持ちが強く、家族より一足早く訪れ、おばさんと一緒に夕食のお手伝い。
「指、切らないようにね。猫の手、猫の手~」
「ねこの手ね」
言われた通りに指を丸めて、慎重に包丁を下ろした。
「凜ちゃん、もう上手になったね。最初のころなんて、玉ねぎ剥くのにも泣きそうだったのに」
「最初は、本当に泣いたかも、目がいたくて」
そう言って小さく笑うと、おばさんはふふっと肩を揺らす。
「将来、凜ちゃんみたいな子がお嫁さんだったら嬉しいなあ~」
「えっ、なんでそんな」
「だって、ちゃんとしてるし、優しいし。さくらも懐いてるしね」
「さくらちゃんは、みんなになついてるんですけど」
「でも特別になついてるのよ。凜ちゃんだけには、声のトーンが違うもの」
その時、リビングの方から勇真の騒がしい声が聞こえてきた。
「なにやってるんだ、ジャイアンツ」
「大事な3連戦なのに!」
「おいっ、さくら、勝手にチャンネル変えるな、今いいとこなんだから」
台所に響く騒がしい声に、おばさんがくすっと笑う。
「凜ちゃん、本当は静かな方が好きでしょ? 本とか読んでる方が落ち着くんじゃない?」
「でも、ここだと、なんか落ち着くんです。ここが好きなんです」
おばさんと一緒に立つ台所は、どこか特別な場所だった。ただのよその家ではなくて、安心できる場所になっていた。そして勇真と同じ空間に居られることが嬉しかった。




