― 自覚 ―
秋の陽射しが柔らかく差し込む午後。県の図書館の一角には、静かな空気と紙の匂いが満ちていた。
勇真は、向かいに座る凜を見つめたまま、参考書の上に置いたペンから手を離す。お互い言葉を探しているせいで、時間だけがゆっくり流れていく。
窓際の光。
並んで勉強した、あの冬の放課後を思い出す。
高校二年の進級試験前、俺は毎日のように凜に勉強を教えてもらっていた時間。その空気と、どこか似ていた。
「昔、よく凜に居残りさせられてたな」
「させられてたって、自分から来てたくせに」
ふっと二人の間に笑いがこぼれる。しかし、俺にはその微笑が、わずかに切なげに見えた。
俺は目を伏せ、そっと尋ねた。
「凜はあの時、翔太と付き合ってたのに、なんであんなに優しくしてくれたの?」
凜がページをめくる手を止める。視線を横に逸らし、少し考えるような間のあと、静かに言った。
「勇真が、ばかみたいに一生懸命で、答え間違えてもヘラヘラ笑ってて……
でも、教えてるうちにノートが綺麗になっていって、文字も変わってきて。
顔を上げた時の表情が、なんかね。
忘れられなかった。あのときの勇真の横顔。たぶん、その頃それがずっと、胸のどこかに残ってた」
あの冬の静かな図書室。
凜が隣で説明しながら、前髪をかき上げる仕草、ページをめくる細い指。
その横顔が、妙にまぶしくて、声が聞こえなくなった瞬間を今のことのように思い出す。
「勇真のなんでもない笑顔が、いちばん、ずるかった」
凜にそう言われた時、俺は息をのんだ。
「あの時凜が俺のこと、少しでも見てくれてたなんて全然気づいてなかった。ただの補習授業にしか思っていなかった……」
凜は笑うように、でもどこか泣きそうにうつむいた。
「気づいてほしかったよ……でも、もうあの時は言えなかった」
図書館の中に、小さな沈黙が降りる。
俺には、その静けさが二人の距離を近づけてくれるように思えた。
「じゃあ、もしあの時俺が好きって言ってたらどうしてた?」
凜が顔を上げる。長いまつげがかすかに震えた。
「そんなの……」
俺の目を見つめ、凜は静かに微笑んだ。
「その時は、もうどうしようもできなかったと思う」
目と目が合った瞬間。
「そうだよな。あんな状況だったから、俺だって『好きだ』なんて言えなかったわ」
秋のオレンジ色がテーブルを照らし、ふたりはそれぞれの時間を過ごしていた。
しばらくすると、凜が俺の脇腹を指で突つき、こう言った。
「じゃあ、私からいつもの質問するよ」
「俺この時間、もうやめて欲しいと思ってたんだけど、だんだん好きになってきた」
「なんで?」
「凜が、どれだけ俺を好いていてくれたかって事が、この時間がある事で分かってきたから」
「だって、今なら恥ずかしくなく言えるもん」
「じゃあ私から言うよ、あの図書館の頃の大好き指数は4点」
「俺は3点かな、翔太に渡した後悔がだんだん膨らんできてた頃だ」
「結局私には、勇真への気持ちが翔太を下回る事は、一度も無かった。
ずっと勇真のほうが、ずっと好きだった……
もしそうじゃなかったら、こんなに苦労はしなかったよ……」
凜は静かに目を閉じた。
図書館の静寂が、二人を優しく包み込むように時を止めていた。
「あぁ、もうこんな時間だ」
俺がつぶやくと、凜は軽く頷き、参考書を閉じた。
「そろそろ帰ろうか」と言って、ゆっくりと席を立つ。
出口の自動ドアが開くと、夕方の町の空気が流れ込み、少し冷たい風が二人の頬を撫でた。
図書館の影が長く伸びていて、その先に二人の影も寄り添うように重なっていた。
「なんか、昔より寒くなくなった気がするね」
凜が言うと、俺は少し照れたように笑った。
「俺も。ここは昔と同じ場所なのに、なんか今は違った景色に見える」
俺は足を止め、夕焼けの空を見上げた。
胸に残るさっきの会話の余韻が、まだ少し熱を帯びたまま。
「ねえ勇真」
「ん?」
「今日、話せてよかった。ありがとう」
その小さな一言に、俺は一瞬だけ息をのむ。
そしてゆっくりと隣に立つ凜を見る。
「俺も。凜がいてくれてよかったよ」
風が静かに吹き抜け、落ち葉が足元を舞った。
二人は自然と歩き出し、図書館の灯りが背中を照らす。
その光はまるで、これから進む道をそっと後押ししてくれるようだった。
——
凜が自分の部屋に戻ると、ようやく一人ベッドに腰を下ろし、そっと息を吐いた。
さっきまで勇真と話していたことが胸の中で繰り返しよみがえる。
(今までの私の気持ち……間違ってたのかな)
これまで私は過去のいろいろな誤解を、そのまま勇真に問い詰めてきた。
でも勇真は何も悪くなかった。
(怒ってたのは、私のほうだけだった……)
勇真の返事に、腹を立ててきた私だけど。勇真はただ、自分の感じるままに、真っ直ぐ歩み続けただけなんだ。
それを受け止めきれなかったのは私だよ。
私が一番、中途半端だったんだよ……
もっと強く、もっと素直に、もっとちゃんと言葉にできていたら。
遠回りせずに済んだかもしれない。
この頃のデートで、ふたりが一緒になれなかったことを、私は全部勇真のせいにしてた。
あの時、私にだって「勇真が好き」と言えたはずだ。
手を伸ばせばいいだけだった。
変わらなきゃ。もっと強くならなきゃ。
胸の奥に、小さな炎がふっと灯るのを凜は感じた。
もう逃げない。今度は私が掴みにいく。
その炎はまだ弱いけれど、確かに温かく、確かに前へ進もうとしていた。




