― 嬉しい活躍 ―
昼下がり。授業が終わり、勇真は一人駅前にある小さなカフェに腰を下ろしていた。お気に入りの窓際の席。外では風が少し冷たくなってきて、街路樹の葉がゆらめいている。
俺は、コーヒー片手に、買ったばかりのテニス雑誌をテーブルに置いた。ページをめくる指がふと止まる。
「あっ!!」
そこに載っていたのは、見慣れた顔だった。
桐島翔太。高校時代のライバル。努力家で、頭も良くて、テニスでは誰よりも強かった男、そして凜の元カレ――
《全日本学生テニス選手権大会・男子シングルス ベスト4 桐島翔太》
俺は、翔太の写真から目を離せずにいた。
優勝を手にすることが出来ず、でもカメラに向かってラケットを掲げる姿は、高校の頃と同じで、でもどこか違っていた。
もっと強く、もっと遠くへ進もうとする目だった。
「……やっぱ、あいつはすげぇよ」
ページを撫でるように指でなぞりながら、胸がじんと熱くなる。
嬉しかった……
ただ、昔から負けず嫌いで、誰よりも努力していた親友が、ちゃんと報われていることが嬉しかった。
(翔太……お前、本当に前に進んだんだな)
高校最後の大会、チームが負けて涙を流していた翔太。
深夜の公園で黙ってフットワークの練習をしていた翔太。
あの頃の姿が脳裏に浮かび、俺は感動で身震いした。
「……すげぇよ、お前は。やっぱりさ」
思わず一人きりのテーブルでそう呟いていた。
自分なんかよりずっと先へ、もっと遠くへ行ってしまう。
そんな寂しさすら、今は誇りに変わっていた。
親友として、ライバルとして。
翔太が輝く姿を感じたのは、心から嬉しかった。
ページを閉じたとき、テーブルの向こう側から凜が声をかけてきた。
「なに見てるの?」
図書館の帰りに待ち合わせ。肩から本の入ったトートバッグを提げていた。
「ああ、ちょうど良かった。凜、これ見てみ」
そう言って雑誌を開いて彼女の前に差し出すと、凜は少し驚いた顔をして、その記事に目を落とした。
「翔太くん」
声に感情はなかった。でも、まぶたの奥に何か揺れるものがあった。
「ベスト4か、すごいね。大学でもずっと頑張ってたんだね」
俺は頷いた。
「高校の頃から、ずっと俺よりもずっと前を走ってた。すごく嬉しいよ、やっぱ。なんか、自分のことみたいにさ」
凜は静かに微笑んだ。
その笑みには、懐かしさだけなのか、複雑な感情が混じっているように見えた。
「翔太くん、なにをやっても光ってる」
「うん。あいつはきっと、前に進み続ける。もう、俺たちの見えないところに行っちまう気がする。さらに上を目指すんだろうな」
「ちゃんと自分の目指す道を描いて、前進する人」
凜の声は優しかった。
「そうだな」
「そっか。翔太くん、頑張ってるんだね。私も負けてられないな」
「凜、無理はすんなよ。ちゃんと自分が成長したいと思っているなら、それで十分だよ」
雑誌のページには、翔太の勝利の笑顔と大きく掲げたサムズアップが載っていた。
俺には、凜もどこか嬉しそうに見えた。自分の胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。そんな幸せな時間だった。
少しの沈黙が流れた後──
「なあ、凜」
「ん?」
「このあと、ちょっと付き合ってくれない?」
俺はいつか凜と行こうと思っていた場所を頭に浮かべていた。友達の頑張りを祝福したい気持ちだった。
凜は顔を向ける。
「え、どこか行くの?」
「夜景、見に行かない?」
その言葉に、凜は一瞬ぽかんと目を見開き、すぐに口元を緩めた。
「夜景?えっ、なにそれ、ムードあるところじゃない?ひょっとして私に何かしようとしてない?」
「うるさいわ」
俺はそっぽを向いて、少し耳が熱くなっていた。
その様子がおかしいのか、凜はくすっと笑う。
「いや、ごめん、なんか勇真が夜景とかムードとか言い出すからさ。どうしたの急に?キャラ変?」
「別にいいだろ。たまには、そういうのも、してみたくなるっていうか……」
ぼそぼそとした口調で応えるのがやっとだった。
「いつもなら、ご飯かゲーセン寄る?みたいな感じで終わるのに、今日は妙に気合が入っているんじゃない?もしかして、がんばって考えてくれたの?」
「そうだけど?」
「翔太が頑張ってるの分かったから、気分が良かったんだよ。でも選択ミスだった?ムードとかよくわからないんだよ」
正直な返答だったのか、凜はくすくすと笑っていた。
「そう、じゃあせっかくだから、そのらしくない勇真に、ちゃんと付き合ってあげるよ」
「からかってんのか、褒めてんのか、どっちだよ」
「どっちも」
そう言って凜が笑うと、勇真は肩をすくめた。
ふたりのあいだに流れる空気は柔らかく、自然と歩幅が揃う。
帰り道、駅の灯りが見えてきても、まだふたりは「帰ろう」とは言わなかった。
——
凜と別れた夜、翔太は公園のベンチに座り、ぼんやりと空を見ていた。
「ごめんね、翔太くん。わたしずっと、勇真を見てた」
その言葉は、俺の胸に静かにリフレインした。怒りも、悔しさもなかった。ただ、彼女の瞳が嘘をついていないことだけが、痛かった。
(俺は、負けたんだな。ずっと分かってたけど……絆ってやつに)
恋の勝負は、とうに決着がついていた。凜の瞳が、誰を見ていたのか。その答えは、ずっと前から分かっていた。
「でも、俺は凜が好きだった」
誰もいない公園で、俺はそう呟いた。悔しさも、悲しさも、全部胸にしまって。それでも、凜が今まで自分に向けてくれた優しさは、本物だったと信じていた。
——
翌朝、翔太はすでにラケットを握り汗をかいていた。
「もう、誰かのためじゃない。俺のために、勝ちたい」
朝のランニング。夜の壁打ち。練習時間の終わったコートで、ひとりサーブを打ち続けた。
「勝ちたい」——その気持ちは、もう誰かに見せるためではなかった。ただ、自分自身に証明したかった。
「俺は、自分の信念のまま絶対強くなれる」
俺はこれまで以上に勉強とテニスに力を注いでいた。心の中の何かを振り払うように――
そして大学4年の夏、全日本学生テニス選手権大会——インカレ。
俺は、ベスト8まで勝ち進んでいた。
準々決勝の相手は、昨年の優勝校のエース。試合前、控室でラケットのグリップを巻き直しながら、俺はふと空を見上げた。
(凜、俺との時間を覚えててくれるかな)
試合開始。
序盤は互角のラリー。
翔太のバックハンドが冴え、相手のミスを誘う。1セット目を6-4で先取。
2セット目、相手の猛攻に押されるも、粘りのプレーでタイブレークに持ち込む。
「ナイスラリー!」
観客席から声が飛ぶ。その中に、どこか懐かしい声が混じっていた気がした。
最後のポイント。翔太は相手の鋭いクロスに食らいつき、フルスイングで逆クロスを打ち返す。ラインぎりぎりに落ちたボール。審判の声が響く。
「ゲーム、セット、マッチ!桐島翔太!」
勝った。
ラケットを高く掲げた瞬間、翔太は観客席を探したが、そこに凜の姿はなかった。
「よし、さらに次だ!!」
心地よい風の中で、俺はラケットバッグを担ぎコートをあとにした。
(凜、ありがとう。君がいたから、俺はここまで来られた)
その背中は、もう誰かの影を追ってはいなかった。
その時、翔太の胸に静かな風が吹いた気がした。それは、過去を手放す合図のように感じた。




