― サムズアップ ―
陽射しがビルの隙間を縫って差し込むダウンタウンの交差点。
勇真と凜は、映画館へと向かって歩いていた。凜の指先は勇真の手のひらに絡まっていて、そのぬくもりが心地よい。信号が赤に変わり、ふたりは歩道の端で立ち止まる。
そのときだった。
低いエンジン音が右手から近づいてきて、俺の目に一台のバイクが映った。
スタイリッシュな赤と黒のボディ。颯爽としたライディング姿勢。
麗華だ!
瞬間、彼女の視線がこちらに向く。
ヘルメット越しでも分かる、あのシャープな眼差し。
あの時、俺と一緒に風を切って走ったVTR250。あの時と同じバイクに、麗華はまたがっていた。
シールドを上げて見えてきたのは間違いなく麗華だ。麗華はしっかりと繋がれた俺たちの手元へ、それから凜の顔へと動いたのが俺にははっきり見えた。
そして——次の瞬間、麗華は口元にふっと笑みを浮かべ、右手を離して、彼に向かって親指を立てた。
力強くも、どこか優しい、サムズアップ。
「……!」
俺は一瞬、動けなかった。
最初は隠しておいたものを見られた気持ちになった。でもすぐに麗華に見せなきゃならないものを見せることができた気持ちになった。
信号が青になり、バイクは再び動き出す。
そのリアシートには、見慣れない男が乗っている。見た目は自分と似たような雰囲気の人。
彼女の腰に軽く手を添えて、自然な笑顔を浮かべていた。
バイクは交差点をすり抜け、街の奥へと消えていく。
残されたのは、風に揺れるマフラーと、鼓動の音。
「今の、麗華さん?」
凜が静かに尋ねる。
「うん多分、あの時と同じバイクに乗ってるみたいだ」
そう答えながら、俺は胸の中に湧いてきた、説明しづらい感情を整理しようとしていた。
あの親指が伝えてきたものは、
「そっちはうまくやってるみたいだね」
「よかったじゃん」
「私は、もう大丈夫だよ」
そんな、いくつもの言葉の代わりだと感じた。
「なんか、じんわりした、でも」
「でも?」
「ホッとした」
「彼女、絶対幸せに過ごしているはずだ」
俺は凜の手をもう一度握り直す。
(あいつのためにも、俺は絶対に凜を幸せにしなきゃ)
「行こう。映画、始まっちゃう」
「うん!」
ふたりは、交差点を渡っていった。
勇真は自分自身が気づいていなかった、小さな心の曇りが晴れた気分だった。
街の喧騒の中で、麗華のバイクのエンジン音が、まだどこか遠くで響いている気がした――
——
【あの時の観覧車】
かすかに揺れる観覧車のゴンドラの扉が、音もなく開いた。
麗華は、微笑んだまま立ち上がった。
涙を見られないように、さっとうつむいたまま。
目を閉じても、頬を拭っても、止まらない。
胸の奥で何かがずっと崩れていて、
それを無理やり立て直すように、
一歩一歩、足を前に出す。
観覧車の出口へと向かう通路。
木製のスロープを降りながら、私はゆっくりと歩いて行く。
その歩幅は普段よりわずかに狭く、けれど早くなりすぎないよう、かろうじて均整を保っていた。
振り返っちゃだめ。振り返ったら、絶対に彼の腕に戻りたくなってしまうから。
(だいじょうぶ、大丈夫。
歩ける。まだ歩ける。私はちゃんと、自分で選んだんだから……)
心の中で繰り返すたびに、喉の奥が苦しくなる。
右手の袖で、そっと目元を拭った。
けれど、濡れた頬を乾かすより早く、また新しい涙があとを追ってくる。
スロープの先には、まだ人の賑わいがあった。
屋台の明かり、アトラクションの音、子供の笑い声──
周りの世界はまだ楽しい空気に包まれているのに、私の中だけ、全てが白と黒の世界だった。
泣き崩れて、見られてしまうわけにはいかない。
(私は、ちゃんと最後まで、勇真の彼女でいなきゃ……)
(かっこ悪いまま、終わりたくないよ……)
けれど、どうしても、涙だけは裏切ってくる。
目元をぬぐえば、また一つぶ。
背後の足音が遠のいていく。
誰かの笑い声に混じって、彼の気配が、ゆっくり消えていく。
「さようなら……」
誰にも聞かれないように、
自分にだけ聞こえるように、私はもう一度だけ言った。
——
遊園地を出た私は、まるで夢から醒めた世界に居るように、無言で駅へと歩いた。
肩越しに聞こえていた笑い声や音楽は、もう背後に遠い。
華やかなライトも消え、私の周囲には、ただ淡い街灯の明かりだけが灯っていた。
最寄り駅のホームに着き、ベンチに腰を下ろし、ひとつ深く息をつく。
(どうして、こんなに寒いの)
ふと自分の腕を抱く。
風が吹いているわけでもないのに、体の芯が冷えていた。
電車がホームに滑り込む。
ブレーキの音がやけに大きく響いた。
扉が開く。
私はゆっくりと立ち上がり、誰にもぶつからないように静かに乗り込んだ。
端の席が空いていた。
私はそこに腰を下ろし、鞄を膝に抱え込むようにして座る。
スマホを見つめる人、イヤホンをつけて目を閉じる人。
その中で、私だけがただ、窓の外を見つめていた。
夜の街が、ゆっくりと後ろに流れていく。
その光の残像が、窓ガラスにぼんやりと滲んでいた。
堪えていた涙が、再びこぼれ落ちた。嗚咽がとまらない。
音もなく頬を伝うその涙を、私は何度も手の甲で拭った。
泣かないって決めたのに。
最後まで、ちゃんと笑って終わろうって……
でも勇真の前では少しだけ我慢できた……
それでも涙はこぼれる。
それはまるで、心の奥にたまっていた想いが、止め処なくあふれ出しているようだった。
窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけ赤い。
けれどそれでも私は、口元だけは静かに笑おうとしていた。
──強がりだった。背伸びだった。
でも、それでいいと思った。
これで、ちゃんと終われたから。
次の駅に着いた時、扉が開く音に合わせて
ふっと、ため息のように小さく呟く。
「バイバイ、勇真」
「しっかりと凜ちゃんとうまくやる事、それをしなきゃ今日の涙の意味がないからね」
その声は、自分の耳にすら届かないほど小さかった。
電車は再び、静かに走り出す。
夜の闇に溶けていくその中で、麗華はただ静かに、涙の跡が乾くのを待っていた。
——
【観覧車の別れから1年後】
午後の講義が終わったあと、麗華は急な雨に降られ、駅前のカフェに駆け込んだ。
店内はほぼ満席。
空いていたのは、ひとつだけの相席テーブルだった。
「すみません、ここ座ってもいいですか?」
向かいの席にいた青年が顔を上げる。
黒ぶちの眼鏡の奥の目が一瞬だけこちらを見た。
「あ……はい」
それだけ言うと、すぐに視線をノートパソコンへ戻してしまった。
(静かな人だな……)
私は軽く会釈して席に座った。
しばらくは雨音だけが聞こえていた。
窓を打つ雨粒を眺めながらコーヒーを飲んでいると、不意に青年が口を開いた。
「あの」
「ん?」
「もしかして、同じ大学ですよね?」
麗華は少し驚いた。
「そうだけど」
「あ、はい」
そこで会話が終わる。
互いに沈黙する。
数秒後、青年は気まずそうに視線を逸らした。
「あの、失礼しました」
思わず麗華は吹き出しそうになった。
「なにそれ」
「いや、その……」
青年は困ったように頭をかいた。
「人違いだったら失礼かなと思って」
「合ってるよ。同じ大学」
「そうですか」
また沈黙。
「何学部?」
「経済です」
「へえ」
「水瀬さんは文学部ですよね」
「知ってるんだ」
「サークルのポスター見ました」
「あれ恥ずかしいんだけど」
「そうなんですか」
私は驚いた。彼のようなタイプが、自分のことを知っているとは思っていなかった。
「名前は?」
「三浦蒼です」
「よろしく、蒼くん」
「よろしくお願いします」
「ずっとパソコン見てたけど何してたの?」
「小説です」
「小説書くの?」
「趣味です」
「どんな話?」
蒼は少し考えてから答えた。
「そんな大したものじゃないです」
「そう?」
「普通に生活している人が、少しだけ前を向けるようなストーリーが好きです」
私は少しだけ目を見開いた。
勇真とは全然違う。
勇真は前を向かせてくれる人だった。
迷っていても手を引いて走っていく人。
でも蒼は違う。
無理に励ましたりしない。
ただ、その場に座って話を聞いてくれる人。
そんな気がした。
雨があがった頃、ふたりは並んで駅まで歩いた。
「水瀬さんって、思ってたより話しやすい人ですね」
「えっ、それってどういう意味?」
「人気者って、ちょっと怖いイメージがあったから」
私は笑った。「私が人気者?ぜんぜんそんなんじゃないし、私が好きなのはむしろ、こういう雨の日。たまたまの相席での偶然の出会いって、ちょっと好きかも」
彼は、少しだけ照れたように頷いて見えた。
こんな静かな人と、こんな静かな時間。でも、心があったかい。
駅のホームで、麗華はふと口にした。
「ねえ、またここで会えたら嬉しいかも、雨の日じゃなくてもいいんだけど」
——
週末の夕方。
黄昏色に染まりはじめた街。
賑わい始めたダウンタウンの交差点で、バイクの赤いブレーキランプがふっと灯った。
麗華は勇真と行った、あの時のバイクツーリングの鼓動が忘れられていなかった。
(私……あの時のバイクの感動が自分の中に強く残っている。
もう一回、バイクで行きたいな……あの海岸)
そう思っていた麗華は、やがてバイクの免許を取り、あの時と同じVTR250を購入した。
そして自分の愛車に三浦蒼を乗せてのデート。
信号待ち、何気なく顔を上げたその先に、ふたりの姿があった。
勇真と凜ちゃんだ!
まるで偶然という名の運命が、何かを見せるように配置した光景。
私の視線はふたりの方へと自然と引き寄せられる。
しっかりと、手が繋がれていた。
私の胸の奥には、なにか優しいものが降りてきた。
苦しさでも、悔しさでも、未練でもない。
「ちゃんと伝わってたんだ」
そう、思えた。
あの観覧車での決別。
勇真に託した「さようなら」と「いってらっしゃい」
それが、確かにあの人の未来も私の未来も動かしていた。
自分がいなくなった場所に、ちゃんと愛してくれる人がいたこと。
そして、勇真もそれをしっかりと握り返していたこと。
「私、ちゃんと道を譲れたんだね」
私は自分の心の声を静かにかみしめた。
過去の痛みが昇華していくような、温かな静けさだった。
手を繋いだふたりに視線を合わせる。
私はヘルメットのシールドを上げ、二人に向けて、迷いなく右手でサムズアップを送った。
「それで、いいんだよ」
「そう願っていたんだよ!」
「あなたは、あなたの道を進んで」
私は、風に消えるような小さの声で呟いた。
勇真が驚いたようにこちらの姿に気づいたように見えた。
(良かった……ちゃんと伝わってたんだ)
信号が青に変わり、人の流れが動き出す。
私のバイクも、ゆっくりと前へ進みはじめる。
後ろから彼の腕が、そっと私の腰を支えた。
私は、ひとつ呼吸を整えた。
胸の奥が、不思議なくらい軽かった。
勇真の手を、自分ではなくあの子が握っていること。
それを見てももう、自分の心は揺れなかった。
むしろ――
誇らしさすらあった。
交差点の先へ。
もう、立ち止まる理由はない。




