― 迷い ―
夜の部屋は、読書灯のやわらかな明かりだけが灯っていた。窓の外には、春の雨が静かに降り始めた。しとしとと、どこか懐かしい音。
ページを閉じた文庫本の上に、小さな星のペンダントがそっと置かれている。
凜はそれを指先で、そっと撫でた。
そっとチェーンを指に絡める。
そして、ゆっくりと、深く、息を吐いた。
視界の端に、光が映る。
冷たいはずの金属が、なぜかあたたかく感じる。
凜は机に向かっていた。けれど、本を開いても文字は目に入ってこない。胸の奥が、ずっと揺らいでいた。
本当は、さっき神社で合わないほうがよかったのかも。
勇真、なんで、あんな風に笑えるんだろう。
勇真はいつも、そうだった。本当は優しいくせに、私の心の中に気づいてたくせに、見ないふりしてた。
私だって、どうしてこんなに自然に笑えるんだろう。
翔太くんといる時、私はいつもちゃんとしなきゃって思ってた。
話題を探して、沈黙が怖くて、笑顔を作って。
でも、勇真といると、何も考えなくていい。
言葉を選ばなくても、話さない時間がいくらあっても、怖くない。
ただ、風の音と鈴の音が心地よくて、勇真の声が隣にあるだけで、胸が温かくなる。
翔太くんは完璧で、優しくて、努力家で誰もが憧れる人。
なのに、どうして私は、彼といても心が動かないんだろう。
勇真と話していると、昔の私に戻れる。
けど、勇真にはもう麗華ちゃんが居るんだよ。無邪気で可愛い彼女が――
雨が静かな部屋の窓をたたく音が聞こえてくる。
翔太くんはちゃんと私を見てくれるけど、勇真の事を忘れられるほどの気持ちにはなれなかった。私、どこかでずっと逃げてた。
勇真を忘れることで自分の心を守っていた。もし勇真を好きだって、ちゃんと認めてしまったら、自分が壊れてしまいそうだった。
勇真の事をいつまでも気にしている私は、翔太くんを裏切る事をしている。私って嫌な女だね。
逃げてちゃ、ダメ、嘘をついたまま、翔太くんと向き合うのは違う。
だから自分のふらついている気持ちに、終止符を打つためには二人から離れるしかない。
カーテンを少しだけ開けると、雨はまだ止んでいなかった。
その向こう、街の灯りがぼんやりとにじんでいる。
もう決めた。
これを、想い出ごと手放すことで、前に進む。
気づけば、いつの間にか首にかけていたペンダントチェーンを、ゆっくりと首から外す。
気づけば、目元に涙がにじんでいた。
こんなにも誰かを想って、こんなにも誰かを忘れようとして。
その両方に、もう耐えきれなかった。
(もう、あなたに願いごとはしないよ)
光のない星に、そっと指を添える。
(今までありがとう。ずっと、ここにいてくれて)
今度、あの場所へ行こう。
子供のころに勇真や家族で行った水族館の近くの埠頭。
(そこであなたとも、お別れする。これで、終わらせる。終わらせて、それから、新しい自分を始めるんだ)
最後の言葉は、涙ではなく、強い決意だった。
きっと、明日は晴れる。そんな気がした。
凜はゆっくりと目を閉じ、ひとつ深呼吸をした。
(明日、ちゃんと翔太くんに自分の気持ちを話す。これまで何も自分で決められなかった私だけど、今度こそ、ちゃんと出来る)
小さく、でも確かに凜の中に自分を信じる気持ちが芽生えた。
その夜、凜は久しぶりに、夢を見た。
流れ星が落ちていく川辺で、小さな手が彼女の手を掴んでいた。
幼い頃の記憶。
あの星の夜。
夢の中の凜はまだ、あの星から手を離せずにいた。




