― 始まり ―
【高校一年 現在の勇真】
あれから6年が経った。
夜、布団に入り、天井の暗がりをぼんやり見つめるたびに――
テストでへこんだ日。部活の試合でうまくいかなかった帰り道。
気がつくと、机の引き出しの奥にしまってあるあの星が、ほんのわずかに光を返しているような気がしていた。
夏の風は、湿った土の匂いと、遠くで鳴くヒグラシの声を乗せながら、窓の隙間から入り込んでくる。
高校生になった今、肌をなでるその空気は、まるであの日の続きに触れたかのようだった。
しかし、二人の関係だけは、あの頃とは違う場所にある。
最近の勇真にとって、凜はどこか遠い存在になっていた。
同じ教室にいても、声をかけあう距離にいても、なぜか手を伸ばせばすり抜けてしまうような、そんな距離感だった。
(子どもの頃が懐かしいな……。また、昔みたいに凜と一緒に笑い合えたらよかったのにな)
校舎の窓辺から差し込む夕陽が、机と鞄の影を伸ばす。
そのオレンジ色の光が揺れるたび、胸の奥の後悔や、忘れようとした気持ちが、波のように押し寄せてくる。
あの時、自分がしてしまった行動を悔いたり、
「もう終わったことだ」と無理に片付けようとしてみたり。
季節が変わるたび、勇真の心もまた揺れ動いていた。
そしてこの時も、勇真はまだ気づいていなかった。
凜が、あの小さな星のペンダントに、どれだけ大きな想いを閉じ込めていたのか。
その星が、誰に向けてずっと光っていたのか。
勇真にとって、凜はただの幼馴染——
——
川での出来事があった数日後、六年前。小学四年生の学校の帰り道。
凜が勇真渡してきたのは、星の形をしたペンダントだった。
凜の宝物――
少し前に雑貨屋で見つけて、母親・沙耶に買ってもらったものだった。
どうしても欲しくて、お母さんに何度もお願いして、やっと手に入れた宝物、でも――
「お母さん、このペンダントを勇真にあげようと思うの、助けてもらったお礼に」
「凜がそうしたいのなら、思った通りにすればいいのよ。凜が大切にしていた物だから、きっとありがとうの気持ちが伝わるんでしょうね」
「お母さんごめんね、せっかく買ってもらった物なのに」
「いいのよ、泣かなくても」
凜は自分の命を助けてくれたお礼として、自分の宝物のペンダントを勇真に渡すことを決めた。そのペンダントの込められていた凜の想いは、小学生の勇真には気づく術もなかった。
" 二人のつながりを象徴するように思えたそのペンダントを、勇真が身につけてくれる――
そう考えるだけで、胸の奥がほんのり温かくなった。
「特別」とか「忘れないでほしい」なんて、大げさな言葉で説明できるほど凜は自分の気持ちを整理できていなかった。
ただ、勇真のそばにこの星があることが、どうしてか安心につながる。
その感覚だけは、はっきりとわかっていた。"
——
(勇真)
「これ勇真にあげる、助けてくれたお礼。前におばあちゃんに見せた時に言ってたの、『この星は、願いがかなうペンダントだよ』って」
「ペンダントなんて、女子がつけるやつじゃん」
そう言いながらも、勇真はその小さな銀色のペンダントを受け取った。
家に帰ると、すぐに机の引き出しに放り投げるようにしまいこんだ。
ペンダントに込められた意味も分からずに。
小学生の勇真には、まったく興味を引くモノではなかったし、勇真には凜を助けたという自覚すらなかった。
(あの時、俺もりんと一緒に川で流されて、結局大人に助けられたじゃん。カッコ悪ぅー。こんな物もらったって、俺には恥ずかしい想い出にしかならないじゃん)
——
(凜)
勇真の手にペンダントが渡った瞬間、胸の奥がふわっと軽くなったような、でもどこか寂しいような、不思議な気持ちがした。
勇真の手の中に、あの星がある――
そのことを思い出すだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。
もう自分の手元にはないのに、不思議と失ったという気持ちは少しも湧いてこない。むしろ逆だった。
(これで、いつでも勇真とつながっていられるんだ……)
そこに勇真のそばにある星が存在しているというだけで、凜は小さな幸せに包まれた。
(私の大事なものが、勇真のところで息をしてる。私の想いも、一緒にそばにいる)そんな気がして、ふと頬が熱くなる。
勇真は笑ったわけでも、お礼を言ったわけでもなかった。ただちょっと困ったみたいに目をそらして、「女子がつけるやつじゃん」と言っただけ。
――それでもいい、と凜は思った。
(だって私のありがとうは、ちゃんと伝わったから)
でも、胸の奥に小さく残る不安が消えない。
(勇真、ほんとは欲しくなかったかな……?
変なもの貰っちゃったって思ってないよね……?)
校庭で遠くから勇真の姿を見るたびに、凜の胸はほんの少し高鳴った。
走っているときも、友達と笑っているときも、勇真の胸のどこか近くに、あの星がいる。
それだけで、勇真と自分のあいだにひっそりとした秘密の糸が結ばれているように感じられた。
(勇真は忘れててもいい。気づいてなくてもいい。
私だけは覚えているから。
私だけは、あの星を通して勇真に触れていられるから……)
そう思うと、ふわりと身体が軽くなる。
夕陽に照らされた校庭の風が頬をなでるたび、その糸がそっと揺れているような気がした。
——
まだ袖に少し違和感の残る新しい制服の布の匂いが、ほんのりと鼻をくすぐる現在、高校一年生の春。窓の外には満開の桜並木が続き、風が吹くたびに花びらがふわりと舞い上がっては、校舎の影に吸い込まれていく。
広く感じる教室には、新しいクラスメイトたちの緊張と期待の入り混じったざわめきが漂っていた。
高校生活が始まって数日。
勇真はまだこの環境に馴染みきれず、窓際の自分の席に体を預けながら、落ちてくる桜の花びらをぼんやりと追っていた。外からはテニスコートの方から聞こえるボールの弾む音が、かすかに反響してくる。
「おはよ、勇真」
後ろから軽やかな声が降ってきた。
声をかけてきたのは凜だった。
中学の頃と同じやわらかな笑顔。
だけど、高校の制服に身を包み、スカート丈が変わり、伸びた髪が光に透けて揺れる姿は、不思議と少し大人びて見えた。
春の朝の光が、彼女の頬の輪郭に柔らかい影を落とす。
「お、おう、凜もここだったんだな。中学では一度も同じクラスになれなかったから、ちょっと変な感じだな」
勇真が照れ隠しのように笑うと、凜はふっと目を細めた。
「でも、なんか安心した。知ってる顔がいてくれて」
その言葉は春風みたいにあたたかくて、勇真の胸に静かに染み込んでいく。
(あ……なんか、こうして話すの、久しぶりだな)
気づけば勇真の胸に、そっと灯がともるような小さな喜びが広がっていた。
中学の三年間、クラスが一度も同じにならなくて、廊下ですれ違っても軽く会釈するくらいで終わってしまっていた。
だからこそ、こうして凜が当たり前のように声をかけてくれることが、不思議なくらい嬉しかった。
(また昔みたいに話せるのかもしれない)
そんな淡い期待が、胸の奥で静かに揺れた。
そこへ、教室の入り口から軽快な足取りで翔太が現れた。
手にはテニス部の新入生勧誘のビラ。紙が揺れるたび、外の光を反射してきらりと光った。
「やあ、勇真。それに、凜ちゃんもいたんだ。同じクラスだね。よろしく」
爽やかな笑顔。整った立ち姿。
大きめの窓から差し込む朝日が彼の髪に反射し、自然と注目を集めてしまう。すでに廊下では、何人かの女子がひそひそと翔太の名前を口にしていた。
「翔太くん!」
凜が少し弾んだ声で呼ぶ。中学時代に翔太とは同じクラスだった。
その声色に、勇真は胸の奥がチクリと痛んだ。さっきまでの穏やかな気持ちとは違う、ざわっとした波が広がる。
「勇真、テニス部、入るんだろ? また一緒にやれるな」
「うん、まぁ、補欠覚悟だけどな。テニスが好きだからやりたいと思ってる」
翔太と凜のやり取りを横目で見ながら、勇真は自分の気持ちに気づきつつあった。
高校に入り、同じクラスになり、毎朝同じ空間で顔を合わせるようになった。
これまでは、凜はただの幼なじみであり、昔から一緒に遊んでいた女の子という存在だった。あの日、川で勇真が凜を助けたことも、特別な思いはあったものの、それは家族や幼なじみとしての絆だと思っていた。
しかし、同じクラスになり、日々顔を合わせるようになると、勇真の中の凜を見る目が少しずつ変わっていく。
凜の静かで優しい笑顔、細やかな気遣い、大人びた言葉遣いに気づくたび、勇真には鼓動が早くなるような感覚が芽生えた。
凜が見せる静かな微笑み、ふとした仕草、クラスメイトに向ける優しい声。
そんな一つひとつが、勇真の胸をドキリとさせる。
翔太が凜に気さくに話しかけ、凜が嬉しそうに返す、その光景を見るたび、胸の奥がぎゅっと縮むように痛む。
(俺にとって凜はもう、ただの幼なじみじゃない。特別な存在になり始めているのかな)
そう思いながらも、その気持ちを素直に認めるのがまだ少し怖い。
昔なら自然に話せていたはずなのに、今は凜の表情を意識しすぎて、距離を取ってしまう自分がいる。
それでも――
それでも、凜と話したり、同じ空間にいるだけで心が落ち着き、安心することに気づく。
教室のざわめきも、外で吹く風の音も、どこかあたたかく感じられる。
(変わったんだ……あの日のことも、全部)
はっきりと言葉にはできない。
けれど勇真の胸には、確かな「大切な想い」が、桜の花びらが積もるように静かに芽生えつつあった。




