― 決別と決心 ―
窓の外には、雪がちらつく。すごく冷え込んだ夜。
もうすぐ日付が変わる頃だった。勇真は、机の前で頬杖をつきながら、開けたままの引き出しをぼんやりと見つめていた。
今日、麗華に告白された。笑顔で、まっすぐに。どこか強引で、でも本気だった。
「好き……ずっと前から」
そう言われたとき、返事がすぐに出なかった。誰かの顔がよぎったからか、勇真は窓の外に目をやる。
今ごろ凜は、翔太とどんな風に過ごしてるんだろう。考えても、意味のないことだ。
その時、スマホが振動した。麗華からのメッセージだった。
「返事、待ってるね。今日じゃなくてもいいよ」
きちんと考えるよ。真正面から向き合ってくれた麗華を、傷つけたくない。目を逸らすのは卑怯だ。
凜のことは、もう終わったこと。翔太と一緒の未来へ歩き始めたじゃん。そう、思わなきゃいけないのに。終わってくれない気持ちが、ずっと胸の奥に残っていた。
俺は小さいころから、自然と凜を守るのは自分の役目だと思ってきた。でもそれは自分の独りよがりだったわけで、もう、凜には翔太が隣で守ってくれている。
意を決した勇真はスマホを手に取り、深呼吸を一つ。そして、文字を打ち始めた。
「麗華ちゃん、ありがとう」
「ちゃんと、考えたよ」
「俺でよければ、よろしくお願いします」
送信を押した瞬間、またひとつ、何かが引き出しの中にしまい込まれた気がした。
勇真が凜への思いにけじめをつけた夜。
(これって、春が来たって言うんだろうか……でも今までずっと抱えたままのモヤモヤが、少し晴れた気分でもある)
それは、誰にも言えなかったままの、胸の奥の本当の気持ちだった。
——
カーテンの隙間から差し込む朝日が、まるで祝福するように部屋を照らしていた。
「んっ、あれ、もう朝?」
麗華はぱちりと目を開けた。時計はまだ6時を指している。いつもなら二度寝する時間なのに、今日は違った。
「うそ、目覚ましより早く起きちゃった!えっ、なにこれ、わたし超ハッピーじゃん!」
ベッドの上でくるりと一回転。毛布がクシャクシャになるのも気にせず、両手を広げて天井を見上げる。
「昨日のこと、夢じゃないよね?ううん、夢でもいい!だって、勇真先輩がうんって言ってくれたんだもん!」
スマホを手に取り、画面を開く。昨日のメッセージ履歴が残っている。
「ありがとう、俺でよければ、よろしくお願いします。ふふっ、ここ、何回見てもニヤける〜!わたし、ダントツの優勝!」
麗華は枕をぎゅっと抱きしめて、ベッドの上でバタバタと足をばたつかせた。
「よーし!今日はいつもより綺麗にして、勇真先輩に昨日よりもっと好きになったって言わせる!」
鏡の前に立ち、寝ぼけた顔を確認する。
「よし、麗華、今日のあなたは世界一幸せな女の子だよ!」
その笑顔は、昨日よりも輝いていた。
——
「でさ、昨日の話なんだけど」と友達の今日子が話し始めると、麗華はふと空を見上げた。
風が心地よくて、空はどこまでも青い。だけど、麗華の視線はその先にある誰かを探していた。
(勇真先輩、今どこにいるんだろ)
昨日の告白の余韻が、胸の奥でふわふわと踊っている。彼の「俺でよければ」という一言が、何度も頭の中でリフレインしていた。
「麗華? 聞いてる?」
「えっ? あ、ごめん!ちょっとぼーっとしてた」
今日子がニヤリと笑う。「もしかして、望月先輩のこと考えてた?」
「うん。なんかね、今すぐ会いたくなっちゃった」
「えー!お弁当の途中なのに?」
「だってさ、昨日付き合おうって言ってもらって、今日まだ顔見てないんだよ?なんか、もったいない!」
麗華はお弁当箱を閉じ、立ち上がった。
「ごめん、ちょっとだけ行ってくる!あとで戻るから!」
「行ってらっしゃーい!青春爆走中だね!」
麗華は笑いながら手を振り、芝生を駆け出した。スカートの裾が風に揺れて、昨日より少しだけ軽やかだった。
——
勇真と麗華と付き合い始めたと凜が知ったのは、教室の何気ない会話だった。
「望月って、あの水瀬麗華と付き合ってるらしいよ。マジかわいいよな〜」
凜は笑って聞いているふりをして、目の前のプリントに視線を落とした。
ああ、やっぱりそうなんだ。
なんとなく、うすうす感じていた。このごろ勇真は自分と目を合わせなくなった。最近見かけることが少なくなっていた勇真の笑顔。
その日、帰り道。
凜は気づけば足が神社へ向いていた。昔から何度も来た場所。勇真と競争して階段を駆け上がったことも、駄菓子を食べながら境内の大きな木に寄りかかったことも、全部ここだった。
だけど、ここに来たところで何かが変わるわけじゃない。でも、長い時間を共有した記憶がこの場所に残っている気がして、足が勝手に止まった。
鳥居をくぐった瞬間、空気が少しだけひんやりした。夕方の光が石畳に細長く伸び、風に揺れた枝葉の影が静かに揺れる。誰かの手で鳴らされた鈴の音が、境内に淡く響き、胸の奥をふいに掴まれたような気がした。
(勇真が誰かと付き合うなんて、当たり前だよね……わかってた)
そう思おうとするたび、胸の奥がじわりと熱くなる。
喉の奥がつまるみたいで、呼吸がうまくできない。
社殿の前で立ち止まる。
真っ直ぐ立つつもりが、足元がふらついた。
(わたしだって、翔太と歩き始めてる。もう戻れないんだよ。戻っちゃいけない)
言い聞かせても、心は言うことを聞かなかった。
勇真が自分を避けるようになった理由を、ただのタイミングだと笑って流してきた。でも違う。わかってた。勇真はもう、自分の知らない場所で誰かと笑っている。
胸のどこかで、ぽとりと何かが落ちた気がした。
それが未練なのか、後悔なのか、自分でもわからない。
凜はそっと目を閉じ、深く息を吸った。
(大丈夫。わたしはちゃんと自分が決めた前を向く。)
そう思いたかった。思えるようになりたかった。
けれど、胸の奥の小さな揺れは、まだ収まりそうになかった。
凜は小さく息をつき、ポケットの中でこぶしを握る。
「よし……帰ろ」
誰に聞かせるでもない声が、境内に吸い込まれていった。
階段を下りようと歩き出した瞬間、ふと振り返ってしまう自分がいた。
スマホを取り出す。翔太からの未読メッセージがひとつ、光っていた。
『今日、帰りに会いたいな』
画面を見つめる指先が少し震える。
だけど、すぐに気づかれないよう深呼吸して、落ち着かせた。
わたしは翔太くんと進んでる。
凜は小さく笑顔を作り、返信を打った。
『ごめん、少し寄り道してた。これから帰るね』
送信したあと、胸の奥に残る霧は晴れなかった。けれど、それでも歩き出す。
石畳を抜け、神社を出ると、夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。影が長く伸び、その先に続く道が、どこか知らない未来へ向かっているように見えた。
だけど、背中の方で夕風が吹くたび、神社の鈴の音が聴こえた気がして、何度か立ち止まりそうになった。
数日後、学校で偶然見かけた勇真のとなりには麗華がいた。麗華が楽しそうに話しかけ、勇真は少し照れたように笑っていた。どこかぎこちなくも見えたけれど、それでも確かに手を繋いでいた。
——
遊園地の空は、午後の陽射しにきらめく。冬の寒い空気の中、ふたりは手を繋ぎ温めあっていた。
「ねえ、勇真先輩」
「ん?」
「やっぱ、変だよね。先輩って呼び方」
勇真はチュロスを口に運びながら、少し首をかしげた。
「え、なんで?」
「だってさ、もう付き合ってるんだよ? なのに先輩って、なんか距離ある感じしない?」
「だから、今日から勇真って呼ぶね」
「えっ!」
「ダメ?」
「いや、ダメじゃないけど、なんか照れるな」
「よし、じゃあ、これからは勇真で決定ね」
「勇真、あれ乗ろうよ! 絶叫系って、カップルの定番でしょ?」
「こっちこっち!まずはジェットコースターでしょ!」
麗華はまるで子どものように駆け出した。勇真は少し遅れて追いかけながら、苦笑い。
「いきなりそれかよ、俺絶叫系あんまり得意じゃないんだけど」
「知ってる。そんな感じする。でも、今日くらいはわたしに付き合ってよ。彼氏なんだから!」
その言葉に、勇真は顔を赤らめながらも頷いた。
「うん。彼氏だ」
ジェットコースターが急降下するたび、麗華は笑い声をあげ、勇真は必死に手すりを握っていた。
「ねえ、顔真っ青だったよ?」
「勇真って、怖がりなのに頑張るとこ、好き」
次はメリーゴーランド。麗華が選んだのは、馬車のオブジェ。
「ねえ、これってちょっとロマンチックじゃない?」
「これで、遊園地の人たちに、私たちの事を見せつけるの!」
ふたりの笑い声が響いた。
麗華は、勇真の手をぎゅっと握ったまま、そっと呟いた。
「ねえ、次はどこ行く?もっともっと、思い出作ろうよ」
勇真は、彼女の横顔を見ながら、少しだけ照れくさそうに笑った。
「うん。行こう」
麗華はスマホを構え、勇真の照れた笑顔を何枚も撮った。
その後も、射的で麗華がぬいぐるみをゲットしたり、ポップコーンを分け合ったり、ふたりは時間を忘れて二人の時間に浸り続けた。
「ねえ、勇真。楽しい?」
「うん。すごく。麗華って、ほんと元気だな」
「でしょ? でもね、こうして勇真と一緒にいるから、余計に元気になれるんだよ」
夕暮れが近づく頃、麗華がふと立ち止まった。
「ねえ、遊園地の最後は観覧車にしようよ。思い出って、やっぱり高いところから見る景色でしょ」
「うん。いいね。今日の思い出、焼き付けよう」
ふたりは手をつないで、観覧車の列に並んだ。
麗華の手は、温かく感じて、確かに恋人のものだった。
ゴンドラに乗り込むと、ふたりきりの空間に少しだけ沈黙が流れた。
麗華は窓の外を見ながら、ふと勇真の手に自分の手を重ねた。
「付き合い始めて、初めてのデートでしょ? ちゃんと覚えててね。わたし、こういうの大事にするタイプだから」
勇真は少し驚いたように彼女の顔を見た。
「うん。俺も、忘れないよ。今日のこと」
ゴンドラが頂点に差し掛かると、麗華は小さく息を吸った。
「見て、すごい。全部見える。あのジェットコースターも、さっきのメリーゴーランドも」
観覧車の扉が開く。ふたりは顔を見合わせて、そっと手をつないだ。
「じゃあ、行こっか。勇真」
その呼び方が、ふたりの関係をそっと照らす、夕暮れの光のようにあたたかかった。
——
部活帰りの夕暮れ。時おり吹く風に、校庭には桜の花が舞っていた
テニスコートでは、最後まで残った勇真が一人サーブの練習をしている。その姿を、ふと遠くから眺めていた。
高校三年生となった翔太は、凜と付き合い始めて半年が過ぎた。だけど、未だに「翔太くん」から変わらない呼び方。手をつないだことも、肩を寄せ合ったこともあったにはあった。
でもそのたびに、彼女の表情はどこか遠くを見ているようで。俺の中に、答えの出ない違和感が残った。
(どうしてだろう。俺じゃ、だめなのかな)
彼女のことは、本気で好きだ。ただの綺麗な優等生としてじゃなく、気遣いができて、時折見せる不器用な笑顔に惹かれて。
でも、彼女はたまに笑うとき、誰か別の人を思い出してるような顔をする。それが、悔しかった。
教室の窓辺で、笑って話す凜と勇真を見かけたとき。あの自然な空気感に、俺は一歩も踏み込めていない。
(勝てると思ってた。勉強でも、スポーツでも、努力すれば結果はついてくるって。だけど、恋って、なんでこんなに勝ち目が見えないんだろう)
ポケットの中のスマホを握る。LINEの画面には、凜の既読がついているだけで、返信はなかった。
ふと見上げた空には夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れていく。
(俺は、勇真みたいに、本能の赴くまま全力でぶつかることができない。
でも、雪解けがくるまで、俺はがんばる)
翔太は静かに目を閉じた。
その胸の奥には、「好き」の一言では言い表せない、複雑な思いがあった。
——
夕暮れのテニスコートは、真昼の熱気がまだ残る空気をまとっていた。
部活の終わり際、麗華はいつものように笑顔でやってきた。手には冷たいスポーツドリンクと、タオル。
いたずらっぽく、気づかれないように、木陰からそっと近づこうとしていたその時――
「お疲れさま、勇真」
勇真を挟んだ向こう側から声がした。
そこには凜の姿があった。白いシャツに薄手のカーディガン、手には折りたたまれたタオル。
「ありがと。今日は早かったんだな」
「うん。お父さんが今日は少し体調悪いから、わたしがお父さんに付き添ってテニス部の練習を見に来たの」
二人の距離は自然と近い。言葉が少ないのに、妙に落ち着いて見えた。凜がタオルを差し出すと、勇真はそれを迷いなく受け取った。
「ちゃんと、ご飯食べてる?」
「食べてるよ。お前、昔からそれ言うよな」
「だって、昔から勇真は食事もせずに練習とか無茶するから」
凜が少し笑った。小さな笑い声。それに、勇真も釣られるように笑う。
麗華は、二人のやりとりを木陰から見ていた。距離があるはずなのに、その会話はまるで耳元で囁かれているように、はっきりと胸の奥に響いた。
その時――
勇真が凜の方をまっすぐに見た時――
その目、麗華は知ってしまった。
何かを見守るような目。まるで目の前の人が、この世界で一番大切なものだと確信しているようなまなざし。
思わず麗華は一歩、後ずさった。麗華に向けたことのない目だった。どれだけ笑っても、デートを重ねても、手を繋いでも……一度だって、あんな目で見られたことはない。
麗華の手の中に残る、ドリンクの冷たさがやけに現実味を帯びた。
麗華はそのままその場を後にした。
——
部活が終わり、帰り道。勇真と麗華。校門の前まで歩いてきた二人。勇真の横顔はいつもと変わらない。優しく、飾らない表情。
でも、麗華の中では、何かが崩れそうになっていた。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「ん?」
「凜ちゃんって、特別?」
その瞬間、勇真の足がわずかに止まった。
「え?なんで?」
「さっき、タオルもらってたでしょ?いつも、私の時はサンキューって軽く言うのに、凜ちゃんの時は、なんか違って見えたから」
勇真は少し笑って、髪をかいた。
「気のせいだよ。凜とは長い付き合いだからさ、ただそれだけ」
麗華は、笑顔を作った。
「そっか。うん、変なこと聞いちゃってごめん」
歩き出す。彼のとなりで、いつもと同じように。
でも不安でその胸は、ギュッと何かに抑えされたようだった。
恋人の私には向けられなかった、あの目。
幼馴染の彼女だけが知っている、あのぬくもり。
でも私は、気づかないふりをすることしかできなかった。




