中編
国賓来訪の事故から十日が過ぎた。
王都の警備は以前とは比べものにならないほど厳しくなっていた。
隣国王弟の身辺には昼夜を問わず近衛騎士が張りつき、移動経路は直前まで伏せられる。食事も飲み物も、口に入る前に必ず検査されるようになった。
それでも和平交渉そのものは中止されなかった。
国王は今回の襲撃に屈することなく協議を続けると宣言し、その意思を示すため、十日目の夜、王宮に隣接する迎賓館であらためて歓迎晩餐会を開くことになった。
その日の朝。
《春告鳥》にも、いつもとは少し違う注文が入った。
「白薔薇九本と、季節の花を少し?」
注文書を見ながら、リリアが首を傾げる。
「迎賓館の控え室に飾る花ですって」
母は嬉しそうだった。
「王宮関係のお仕事なんて初めてじゃない」
「でも、ずいぶん小さな注文ですね」
「いきなり大広間全部を任されるよりいいでしょう」
「それはそうですけど」
リリアは白薔薇を一本ずつ確認した。
その日に《春告鳥》へ入荷した白薔薇は二十四本。
午前中には、近所の商家から頼まれた結婚祝いの花束として十五本が売れていた。
残っているのは九本。
ちょうど今回の注文数だった。
「これで全部ですね」
リリアは九本の白薔薇と季節の花をまとめ、納品票へ署名する。
荷車を見送りながら、ふと母が言った。
「宰相様が贔屓にしてくださったのかもしれないわね」
「そんなわけないでしょう」
「だって、あの方、ずっとここに通ってらしたんでしょう?」
リリアは返事をしなかった。
事故以来、レオニスとの距離は以前より少し遠くなったままだった。
同じ人だとは分かっている。
けれど、「レオさん」と何気なく呼んでいた男が侯爵であり宰相だったという事実は、簡単に消えてはくれない。
夕刻。
迎賓館では晩餐会の準備が進んでいた。
今回、最も厳重な検査を受けていたのは、隣国王弟へ歓迎の印として直接手渡される花束だった。
白薔薇を中心に組まれ、王家の紋章を織り込んだ飾り紐で束ねられている。
「待て」
警備担当の騎士が、花束を手に取ったまま眉を寄せた。
「どうしました?」
「持ち手がおかしい」
飾り紐の内側。
指が触れる位置に、不自然な硬さがある。
慎重に解かせる。
細い針が三本、内側へ向けて仕込まれていた。
花束を強く握れば、掌へ刺さる位置だった。
針の先端には透明な液体。
鑑定に回すまでもなく、騎士の表情が変わる。
「宰相閣下へ報告を」
間もなく、レオニスのもとへ花束と納品書が運ばれた。
「毒針です」
報告する騎士の顔は青ざめていた。
「即効性の毒が塗られていました。殿下が花束を受け取っていれば、命を落とされていた可能性があります」
「殿下への被害は」
「ありません。事前検査で発見しました」
「そうか」
レオニスは花束を見る。
「出所は」
差し出された書類。
そこに書かれていた店名を見て、目が止まった。
《春告鳥》。
そして、その下。
『白薔薇五十本を含む歓迎用花束一式』
署名。
『リリア・フェルン』
レオニスの指が、ほんのわずかに止まった。
「これが原本か」
「はい」
「運送経路は」
「王都花卉商組合を経由し、迎賓館へ」
「調べろ」
「はっ」
その夜のうちに、次々と証拠が上がってきた。
リリア名義の納品書。
《春告鳥》のものとされる帳簿には、多額の金貨を受け取った記録。
裏通りの薬種商では、リリアに似た女が毒草を購入したという証言まで出た。
さらに。
「第一の暗殺未遂の際にも、リリア・フェルンは現場におりました」
捜査官が言う。
「偶然と見るには、いささか出来すぎております」
レオニスは黙って書類を見る。
署名。
帳簿。
証言。
第一の事件との接点。
すべてが一人の女を指している。
「……リリア・フェルンを拘束しろ」
「承知しました」
「ただし」
捜査官が足を止める。
「必要以上の拘束具は使用するな。店や家族への捜索も、規定を越えるな」
「はい」
「それから、全証拠の複写を取れ。正本は司法へ。複写は私の執務室へ」
捜査官は一瞬だけレオニスを見る。
「承知しました」
同じ頃。
《春告鳥》では閉店準備が始まっていた。
「今日は疲れたわね」
母が腰を伸ばす。
リリアは花瓶の水を替えていた。
カラン。
鈴が鳴る。
「すみません、今日はもう――」
顔を上げたリリアの言葉が止まった。
店へ入ってきたのは客ではない。
鎧姿の衛兵。
その後ろに司法官。
「城下町《春告鳥》のリリア・フェルンだな」
「……はい」
「国賓暗殺未遂の容疑により、身柄を拘束する」
言葉の意味が、すぐには頭に入らなかった。
「……え?」
手から水差しが落ちた。
陶器が床で割れる。
「ちょっと、何を言ってるんですか!」
母が叫ぶ。
「娘がそんなことするわけないでしょう!」
「事情は司法で確認する」
「お母さん」
リリアが母の腕を掴んだ。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「大丈夫」
「何が大丈夫なの!」
「……たぶん」
誰の顔を思い浮かべたのか。
リリア自身にも分かっていた。
「ちゃんと調べてくれる人がいるから」
◇
その夜。
王都の公爵邸。
豪奢な私室で、公爵は報告を聞きながら葡萄酒を傾けていた。
「リリア・フェルンは拘置所へ移送されました」
「レオニスは?」
「自ら拘束を命じています」
公爵の眉がわずかに動いた。
「……ほう」
向かいの長椅子では、セレスティアが書類へ目を通していた。
「あの男にしては、随分と冷静ね」
「表面上はな」
公爵が杯を置く。
「娘を救うために宰相権限を使えば、私的な関係にある暗殺容疑者の捜査へ介入したことになる」
「当然、そこを突ける」
「反国王派の諸侯にはすでに話を通してある。レオニスが一度でも規定を曲げれば、宰相罷免を要求できる」
セレスティアが顔を上げる。
「では、動かなければ?」
「娘は裁かれる」
淡々とした言葉。
「大事なものを自ら見捨てた男が、以前と同じように働けると思うか?」
「どちらでもいいのね」
「ああ」
公爵は窓の外へ目をやった。
「権力で救えば、宰相として死ぬ」
一拍。
「救わなければ、人として折れる」
セレスティアは答えなかった。
「完璧な罠だ」
「……そうね」
声がわずかに低い。
公爵が妻を見る。
「気になるのか」
「何が?」
「花屋の娘だ」
セレスティアは視線を落とした。
「何も知らないのでしょうね」
「ああ」
「レオニスと知り合った。それだけ」
「ああ」
少しの沈黙。
「後悔するか」
「しないわ」
即答だった。
けれど、その後に続いた声は小さい。
「……王冠は、誰かが譲ってくれるものではないもの」
公爵は何も答えなかった。
それ以上の説明は、夫婦の間には必要なかった。
◇
翌朝。
宰相府。
副官が厚い書類束を抱えて入室する。
「リリア・フェルンの身柄確保は完了しております。現時点での証拠も確認しました」
「司法への送致予定は」
「本日中です」
「待て」
副官の動きが止まった。
「証拠を全部、最初から調べ直せ」
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「いえ。しかし」
副官が書類を見る。
「署名の筆跡は本人とほぼ一致しています。金銭授受記録、毒物購入の目撃証言もあります」
「だからだ」
「……だから?」
「揃いすぎている」
レオニスは書類を一枚持ち上げた。
「署名。帳簿。証言。第一の事件との接点。まるで捜査官に、ここを見ろと教えているようだ」
「閣下は」
副官が少しためらう。
「彼女を信じておられるのですか」
レオニスはしばらく答えなかった。
「私が彼女を信じるかどうかは、司法には関係ない」
「では」
「だが」
書類を机へ置く。
「私は、出来すぎた証拠を信用しない」
副官は少しだけ口元を緩めた。
「承知しました」
「署名。仕入れ。運送経路。毒物。金の流れ。証言者の素性。全部だ」
「最初から?」
「最初からだ」
「急げ。ただし慎重に見直せ」
「はい」
副官が退室する。
廊下へ出たところで、若い官僚が待っていた。
「どうでした?」
「全部調べ直せ、だとさ」
「やっぱり花屋の娘を?」
「どうだろうな」
副官は扉を振り返る。
「相変わらず氷みたいな男だ」
そして、小さく付け足した。
「ただ、あの氷は、人を切り捨てるためにあるわけじゃないらしい」
◇
南拘置所の面会室。
冷たい石壁。
高い位置に小さな格子窓。
木の椅子が二脚。
リリアはその片方に座っていた。
眠れていないのだろう。
顔色はよくない。
扉が開く。
レオニスが入ってくる。
リリアは少しだけ目を見開いた。
「……レオさん」
その呼び方に、レオニスの足が一瞬止まった。
宰相閣下ではない。
事故以来、距離を取るようになっていた彼女が、以前と同じ名前で呼んだ。
レオニスは向かいへ座る。
「話を聞かせてください」
「尋問ですか?」
「正式な事情聴取です」
「じゃあ、尋問じゃないですか」
「……そうとも言います」
リリアがわずかに笑った。
その表情を見て、レオニスの肩からほんの少しだけ力が抜ける。
「最初に聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「私を信じてるんですか?」
レオニスは答えなかった。
一瞬だけ。
宰相としてなら言える。
個人的感情は捜査に関係ない。
証拠だけを見て判断する。
いつもの答えだ。
けれど。
「信じています」
リリアが目を上げた。
「本当に?」
「はい」
「証拠がいっぱいあるって聞きました」
「あります」
「それでも?」
「それでもです」
リリアは少し黙った。
そして、ふっと笑う。
「じゃあ安心しました」
「なぜです?」
「レオさん、頭いいですから」
レオニスは返答に困った。
「私、毒草なんて知りません」
「ええ」
「どこで買うかも分からないし、毒針なんて作れません」
「分かっています」
「あと」
リリアが身を乗り出す。
「納品書、おかしいと思います」
レオニスの目が変わった。
「何がです」
「白薔薇です」
「続けてください」
「あの日、うちに入った白薔薇は二十四本です。十五本は朝のうちに結婚祝いで売りました」
「残り九本」
「はい。それを王宮から来た注文に全部使いました」
「五十本ではない?」
「はい」
リリアは即答した。
「そもそも五十本なんて、仕入れはしません」
「記録は?」
「作業台の引き出しに仕入れ帳と販売帳があります。母も知ってます」
レオニスは手帳へ書き込む。
「署名は?」
「見せてもらってないので分からないけど、私の字なら最後の『ン』が崩れていると思います」
「確認します」
「それと」
「まだありますか」
「ありますよ。花屋ですから」
その言葉に、レオニスがほんのわずかに笑った。
リリアも笑う。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
「……怖くないわけじゃないんですよ」
「そうでしょう」
「母も心配してるだろうし」
「店とお母上にはこちらから説明しています」
「ありがとうございます」
沈黙。
リリアが小さく言う。
「でも、レオさんが来てくれたから」
顔を上げる。
「大丈夫な気がします」
レオニスは手帳を閉じた。
「必ず、ここから出します」
リリアが少し首を傾げる。
「宰相として?」
以前なら、そこで理屈を言ったかもしれない。
だがレオニスは首を横に振った。
「これは宰相としてではありません」
真正面から彼女を見る。
「レオとして、約束します。必ずあなたをここから出します」
リリアの目が少し赤くなった。
「……はい」
それだけだった。
それだけで十分だった。
◇
《春告鳥》の作業台。
副官が仕入れ帳を開いていた。
隣には販売帳。
さらに、問題の日に花を購入した商家の主人も呼ばれている。
「白薔薇、二十四本入荷」
調査官が読み上げる。
「午前中、十五本販売」
「はい。娘の結婚祝いでした」
商家の主人が頷く。
「残りは九本」
副官が書類へ目を落とす。
偽造された納品書。
『白薔薇五十本を含む歓迎花束一式』
「成立しないな」
「はい」
調査官が答える。
「《春告鳥》には、最初から五十本の白薔薇が存在していません」
さらに、本物の注文票が出てくる。
『白薔薇九本および季節花。迎賓館控室装花』
「こちらが実際に《春告鳥》へ出された注文です」
「では、問題の歓迎花束は」
「《春告鳥》から出たものではありません」
次の証拠。
毒針入りの花束に使用された飾り紐。
「この紐は?」
「王族が国賓へ直接贈答する品にのみ用いられる特注品です」
「市中では?」
「流通していません」
「出庫先」
調査官が書類を差し出す。
「問題の前日、王妹セレスティア殿下付きの侍従名義で持ち出されています」
副官の表情が変わった。
「馬車の件は」
「細工を行った職人への資金を追跡しました」
別の調査官が答える。
「複数の商会と名義人を経由していますが、最終的な出所は公爵家の管理口座です」
宰相府。
机の上へ、一つずつ証拠が並べられていく。
馬車の車軸。
職人への支払い。
偽造納品書。
本物の注文票。
王家専用の飾り紐。
出庫記録。
王妹付き侍従。
そして公爵家。
「二つの暗殺未遂がつながりました」
副官が言う。
レオニスはしばらく証拠を見ていた。
「侍従を確保しろ」
「はい」
「公爵家への資金経路も完全に固める。推測は要らない」
「承知しました」
「証拠だけを持ってこい」
◇
王妹付き侍従が口を割るまでに二日を要した。
最初は知らぬ存ぜぬを通した。
しかし飾り紐の出庫記録。
職人への資金。
公爵家からの指示書。
そして、仲介者の証言。
一つずつ逃げ道を塞がれる。
「……王妹殿下と、公爵閣下から命じられました」
そこからは早かった。
公爵邸の書類。
過去の書簡。
古い婚姻交渉の記録まで調査対象になる。
「王妹殿下が現在の公爵家との婚姻を強く希望されたのは、十二年前です」
調査官が報告する。
「当時十八歳。王国内外から複数の縁談がありましたが、その中から現在の公爵家を自ら選ばれています」
「理由は」
「公爵家の血統です」
三代前。
当時の国王の弟が臣籍へ下り、公爵家を興した。
その際、
<<公爵家の男子には、王家直系が絶えた場合に王位継承資格を認める>>
という規定が残された。
つまり現在の公爵も王家傍系。
その息子にも継承権がある。
「そしてセレスティア殿下は現国王陛下の実妹」
調査官が続ける。
「両者の間に生まれたユリウス公子は、父方から法的な継承資格を持ち、母方からも現王家直系に極めて近い血を引きます」
現国王夫妻には子がいない。
ゆえに現在、
<<ユリウスが王位継承第一位。>>
「王妹自身には継承権がない」
レオニスが言う。
「はい」
「だが息子なら王になれる」
「はい」
「そして十歳の王には」
「摂政が必要になります」
室内が静まり返った。
王妹セレスティア。
王母。
摂政。
レオニスは古い婚姻書類を見る。
今回思いついた計画ではない。
十二年前。
十八歳の少女が、自ら王家傍系の公爵家を選んだ。
その時点から。
「公爵側の目的は?」
「書簡があります」
調査官が差し出す。
公爵が父親へ宛てた古い手紙。
そこには、
『我が家の血を、再び王座へ戻す』
という趣旨の記述があった。
レオニスが静かに息を吐く。
「似た者同士だったわけか」
王妹は、自分が届かなかった王冠のため。
公爵は、傍系となった家を王統へ戻すため。
二人の野心が一致した。
「ユリウス公子については」
レオニスが言う。
「すでに確認を開始しています。現在まで、ご本人が計画を知っていた形跡はありません」
「調査を続けろ」
「はい」
「ただし」
調査官が顔を上げる。
「公子を犯罪者として扱うな」
「……はい」
「これは公子を疑うためではない。公子が利用されていただけだと証明するための調査だ」
「承知しました」
レオニスは立ち上がる。
「陛下へ御前会議を願い出る」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
リリアの冤罪と、それを感情ではなく証拠で覆そうとするレオニス。
花屋だからこそ気づけた違和感が、事件の核心へつながっていきます。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
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