前編
夕暮れの鐘が王都に響くころ、城下町の裏通りにある小さな花屋《春告鳥》で、カラン、と控えめな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
作業台で花束を整えていたリリア・フェルンが顔を上げる。
戸口に立っていたのは、目立たない濃紺の上着をまとった男だった。
三十を少し過ぎたくらい。背が高く、顔立ちは整っているのに、愛想というものがほとんどない。
半年ほど前から週に一、二度、夕暮れどきになるとやって来る常連客だった。
「こんばんは、レオさん。今日は何にします?」
レオニスは店内を一巡り見渡した。
そして、いつもの言葉を口にする。
「今日、一番売れ残りそうな花を」
リリアは肩を落とした。
「またですか?」
「はい」
「普通は一番綺麗な花を選ぶものなんですよ」
「売れ残れば捨てるのでしょう」
「まあ……そうですけど」
「なら、こちらでいい」
あまりにも当然のように言われて、リリアは苦笑する。
棚の端に目をやる。
今日なら、花弁の先がわずかに傷み始めた白い芍薬だろう。
「じゃあ、この子ですかね」
リリアが手を伸ばした。
芍薬は少し高い位置に置いてある。
背伸びをして取ろうとした、そのときだった。
横から長い腕が伸びた。
「これですか」
「わっ」
レオニスがあっさり花を取る。
「ありがとうございます。でも、これくらいなら取れますよ」
「先週、同じ棚の花瓶を落としかけていました」
リリアは目を瞬いた。
「……見てたんですか?」
「偶然です」
「偶然にしては、よく覚えてますね」
「危なかった行動は忘れません」
真顔だった。
リリアはしばらく彼を見つめ、それから吹き出した。
「レオさんって、変なところで優しいですよね」
「優しいわけではありません」
「じゃあ何なんです?」
「合理的なだけです」
またそれだ。
リリアは笑いながら芍薬を包み始める。
レオニスはその手元を黙って眺めていた。
花を渡すときも、彼は茎を傷つけないよう、指先だけでそっと受け取る。
その扱い方だけを見ていると、この無表情な男が「合理的なだけ」と言い張ること自体が、なんだか可笑しかった。
「そういえば」
代金を受け取りながら、リリアが思い出したように言った。
「明日は大通りが大変らしいですよ」
レオニスの目が、ほんのわずかに動く。
「隣国から国賓がいらっしゃるって。和平交渉のために王弟殿下がお見えになるそうです」
「……ええ」
「うちの前も通るみたいです。母なんて朝から見物する気満々で」
「人混みにはお気をつけください」
あまりに即座に返されたので、リリアは目を丸くした。
「心配してくれるんですか?」
「事故が起きれば店にも影響するでしょう」
「はいはい。合理的なんですね」
「そうです」
言い切る顔はいつもと同じだった。
けれどリリアは、少しだけ笑った。
「レオさんって、本当は何のお仕事をしてるんです?」
以前にも聞いた質問だった。
レオニスは一瞬だけ間を置く。
「……役所勤めのようなものです」
「相変わらず怪しい答え」
くすくすと笑いながら、リリアはレオニスの顔を見上げた。
が、それでもレオニスは答えなかった。
リリアも、それ以上は追及しなかった。
人には話したくないことくらいある。
毎週、捨てられそうな花を買って帰る人なら、それで十分だと思っていた。
「では」
包んだ芍薬を手に、レオニスが店を出る。
「また来週」
そう言うと、彼は一度だけ振り返った。
「……ええ」
店の外に出た瞬間、その表情からわずかな柔らかさが消えたことを、リリアは知らなかった。
◇
翌朝。
王都は早くから浮き足立っていた。
大通りには王国旗と隣国旗が並び、騎士たちが一定の間隔で立っている。
露店商は荷車を移動させられ、通行人たちは道の両側へ押しやられていた。
《春告鳥》の前も例外ではない。
「リリア、来たわよ!」
母に呼ばれ、リリアも店の外へ顔を出した。
遠くから蹄の音が聞こえてくる。
最初に現れたのは王都騎士団。
その後ろに、隣国の紋章を掲げた豪奢な馬車。
和平交渉のため来訪した隣国王弟を乗せた馬車だ。
さらに後方には、王国側の高官たちが続いていた。
リリアは何気なくその列を眺める。
そして。
見覚えのある横顔を見つけた。
「……え?」
背の高い男。
黒髪。
見慣れた無表情。
けれど今日は、質素な濃紺の上着ではない。
深い青を基調とした正装。肩には金の飾緒。胸元には王国の紋章。
周囲の役人が次々に彼のそばへ寄り、何かを報告している。
そのたびに男は短く指示を返し、役人たちは頭を下げて散っていく。
リリアは目を細めた。
似ている。
いや。
どう見ても。
「……レオさん?」
声が漏れた、その瞬間。
ぎしり。
耳障りな音がした。
次いで、木材が裂けるような轟音。
国賓を乗せた馬車が大きく傾いた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
車軸が折れ、馬車の片輪が石畳を跳ねる。
驚いた馬が狂ったように暴れ、手綱を振り切った。
馬車が歩道側へ滑ってくる。
群衆から悲鳴が上がった。
リリアは咄嗟に母を後ろへ押す。
誰かの肩がぶつかった。
体勢を崩した瞬間、腕を引かれた。
次の瞬間には、横転した馬車が目の前を塞いでいた。
粉塵。
悲鳴。
泣き声。
騎士たちの怒号。
ほんの数秒で、祝賀の大通りは惨状へ変わっていた。
◇
「王弟殿下を最優先で!」
近衛騎士の声が響く。
「第一隊、馬車へ! 残りも殿下の護衛に回れ!」
その声を遮ったのは、低く静かな声だった。
「第一隊は殿下を保護。第二、第三隊は市民の救出へ」
リリアが顔を上げる。
先ほどまで馬上にいた男が、すでに地面へ降りていた。
レオニス。
いや。
周囲の者たちが呼んでいる名前は違った。
「しかし閣下! 殿下の安全確保が最優先です!」
「第一隊が対応しています」
「ですが、万一があれば外交問題に」
「聞こえなかったか」
声は大きくない。
それなのに、騎士は言葉を止めた。
レオニスが倒れた馬車と負傷者へ視線を走らせる。
「第二、第三隊は救助へ。生きている者から救え」
騎士は一瞬、迷った。
視線の先には、倒れた市民たち。
「しかし……平民は後でも」
レオニスの目が、その騎士へ向いた。
空気が変わった。
「身分によって」
一語ずつ、冷たく落ちる。
「死んで構わない者でもいるのか?」
誰も答えなかった。
「行け」
「はっ!」
騎士たちが一斉に散る。
「……氷の宰相」
近くにいた誰かが囁いた。
その言葉を聞いて、リリアは初めて知った。
国中で「冷酷」「非情」「血も涙もない」と恐れられている若き宰相。
レオニス・アルヴェール侯爵。
それが。
レオさん?
レオニスは自らも負傷者のもとへ向かった。
横転した馬車の陰で泣いていた幼い少年を抱き上げ、騎士に渡す。
血を流している老人のそばへしゃがみ、救護班を呼ぶ。
動きに無駄がない。
表情も変わらない。
確かに冷たく見える。
けれど。
リリアは胸の奥で、妙な納得を覚えていた。
同じだ。
捨てられる花を見て、
「なら、こちらでいい」
と言った男と。
傷ついた平民を見て、
「生きている者から救え」
と言った男。
まるで違うように見えて、何も違わない。
ただ、目の前にあるものを見捨てない。
それだけだ。
そのとき。
レオニスがこちらを向いた。
目が合った。
リリアの口から、自然に名前がこぼれる。
「……レオさん?」
レオニスが止まった。
ほんの一瞬。
けれど、半年間彼を見てきたリリアには分かった。
明らかに動揺している。
「閣下」
傍らの役人が怪訝そうにリリアを見る。
「あの娘をご存じで?」
レオニスは答えなかった。
一瞬だけリリアを見つめる。
それから、いつもの冷たい宰相の顔へ戻った。
「後だ」
短く言う。
「今は救助を続けろ」
「はっ」
レオニスは再び負傷者の方へ向かった。
リリアはその背中を見送る。
問いかけたいことはいくらでもあった。
けれど今は、そのどれも口にできなかった。
少し離れた場所。
救助の混乱に紛れるようにして、一人の男がその様子を見ていた。
王妹付きの侍従だった。
花屋の娘が宰相を親しげに呼んだ。
そして、あのレオニスが足を止めた。
それだけを確認すると、侍従は何も言わず、人混みの中へ姿を消した。
◇
それから数日後。
《春告鳥》の扉が鳴った。
リリアは花の茎を切っていた手を止める。
入ってきた男を見た瞬間、無意識に背筋が伸びた。
平民服ではない。
深い色の上着。
上質な生地。
袖口には控えめな金糸。
城下町を歩くだけでも、高位の貴族だと分かる装いだった。
「……いらっしゃいませ」
少し迷ってから、続ける。
「宰相閣下」
レオニスの眉間に、ほんの少しだけ皺が寄った。
「その呼び方は、必要でしょうか」
「必要じゃないですか?」
「昨日まではレオさんでした」
「私が知らなかっただけでしょう」
リリアは花へ視線を戻した。
思ったより、声が硬くなった。
自分でも分かる。
レオニスはしばらく何も言わなかった。
「黙っていたことは謝ります」
「騙してたんですか?」
「そのつもりはありませんでした」
「だったら、どうして?」
沈黙。
やがてレオニスが答える。
「ここでは」
珍しく、言葉を探すような間。
「ただのレオでいられたので」
リリアの手が止まる。
「侯爵でもなく、宰相でもなく」
静かな声だった。
「ただ花を買いに来る人間でいられる場所が、心地よかったのです」
リリアは顔を上げる。
嘘を言っているようには見えない。
むしろ。
これまでで一番、本当のことを話している顔に見えた。
それでも。
胸に引っかかるものは消えなかった。
レオニスは最初から、二人の身分差を知っていた。
自分だけが知らなかった。
彼にとっては「ただのレオ」でいられる場所でも、リリアにとっては、知らない間に宰相閣下を友人のように扱っていた場所になってしまった。
以前と同じように笑っていいのか。
軽口を叩いていいのか。
分からない。
「……今日は、何になさいますか」
結局、店員としての言葉が出た。
レオニスは棚を見る。
「今日、一番売れ残りそうな花を」
いつもと同じ答え。
リリアは紫色の小花を一輪選ぶ。
包んで手渡す。
レオニスも、いつも通りに受け取った。
何も変わっていないはずなのに。
リリアには、その距離が昨日までより少し遠くなったように感じられた。
◇
宰相府。
レオニスの執務机には、馬車から取り外された車軸の一部が置かれていた。
向かいに立つ技術官僚が、図面を広げる。
「自然な破損ではありません」
「根拠は」
「固定用の楔が意図的に浅く打ち込まれています。さらに外から木片を詰め、通常の点検では分からないよう細工されていました」
レオニスが車軸を見る。
「走行中の振動で外れる」
「はい。人の多い大通りへ入った頃に壊れるよう、計算されていた可能性があります」
偶然ではない。
国賓暗殺未遂。
レオニスは椅子へ深く腰掛ける。
「国賓が我が王都で死亡すれば、隣国は我が国の警備責任を問う」
「和平交渉も……」
「まず破綻するでしょう」
現在の国王は、即位してまだ日が浅い。
先王時代から続く派閥も残っている。
国賓が和平交渉の最中に殺されれば。
「反国王派は陛下の外交能力と統治能力を攻撃する」
技術官僚が息を呑む。
レオニスは車軸から目を離さない。
狙われたのは国賓。
しかし、本当の標的が国賓だけとは限らない。
「この細工に使われた工具を特定しろ」
「はい」
「車軸を最後に整備した者。運送業者。馬車へ接触できた者を全員洗え」
「承知しました」
官僚が退出する。
一人になった執務室で、レオニスは窓の外を見る。
脳裏に一瞬だけ、花屋の娘の顔が浮かんだ。
「……レオさん?」
あのときの声。
レオニスは目を閉じる。
今は考えるべきではない。
そう判断し、机上の書類へ意識を戻した。
◇
「花屋の娘?」
王宮の一角。
王妹セレスティアは、侍従からの報告を聞きながら静かに紅茶を置いた。
「はい。事故現場で宰相閣下を『レオさん』と」
「それだけ?」
「いいえ」
侍従がわずかに声を落とす。
「宰相閣下は、その声に足を止めました」
セレスティアの指が止まった。
「……レオニスが?」
「私の見間違いでなければ」
少し離れた場所で書類を読んでいた公爵が顔を上げる。
王妹の夫。
三代前の王弟を祖とする、公爵家の当主。
「珍しい話だな」
それだけ言って、書類を閉じる。
「娘について調べたの?」
セレスティアが尋ねる。
「城下町の花屋《春告鳥》の娘、リリア・フェルン。二十二歳。平民です」
「レオニスとの関係は」
「半年ほど前から、閣下が定期的に店を訪れているようです」
セレスティアは窓の外を見る。
遠くに、宰相府の塔が見える。
「そう」
それだけだった。
笑いもしない。
声を弾ませもしない。
ただ、少し長く宰相府を眺める。
「あの人にも、大事なものがあったのね」
公爵は妻を横目に見る。
「大事かどうかは分からない」
「でも、動揺したのでしょう?」
「ならば」
公爵の声には感情がない。
「利用できるかどうかを調べればいい」
侍従は静かに頭を下げた。
「承知しました」
部屋を出ていく。
扉が閉まる。
セレスティアは再び紅茶へ手を伸ばした。
「兄上のそばには、優秀な人間が多すぎるわ」
「特にレオニスは厄介だ」
「ええ」
それ以上、二人は口にしなかった。
けれど長年連れ添った夫婦には、説明する必要もなかった。
レオニス・アルヴェール。
現国王を支える最大の柱。
もしその男に、触れられたくない場所があるのなら。
そこには、使い道がある。
セレスティアは静かに紅茶を飲んだ。
窓の向こうでは、何も知らない王都がいつも通り動いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ただの常連客だったレオさんの正体が、ついにリリアに知られてしまいました。
少し遠くなった二人の距離と、不穏に動き始めた事件。
続きも楽しんでいただけたら嬉しいです。
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