6.エスファンテの青年衛兵9
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三人は月を見上げながら、夜の街を歩いた。
ズレンがオリビエをからかえば、キシュが拗ねたようにズレンにからみ、それを気にしてかオリビエは二人から離れようとする。その間をランドンが尻尾を振りながら走り回る。
空にある月は、流れてきた雲に徐々に隠されていった。
商店街の大通りを行くと正面に街の教会がそびえる。大きくはないが色とりどりのレンガでモザイクをつけられたそれは、今もかすかにその片鱗を見せる。かつてそこがこの町の中心であり人々の祈りを集めた。むき出しの黄色い地面に教会を囲むように低木が植えられている。小さな葉を持つヒイラギは何かから教会を守っているようにも見えた。
正面の広場は丸く、その中心には小さな少女の像が立っている。その脇から延びる狭い下り坂を三人は降りて行った。
オリビエにとって、キシュの住む界隈は初めてだった。
オリビエが想像した街の中心街とは少し違い、二階建ての共同住宅がぎっしりと通りに面してつながっている。共同の井戸の脇で、水汲みの桶ががらんと空虚な音を立てた。
びく、とオリビエはその暗がりを見つめ、わふ、と護衛の声に猫が走り去るとホッと肩を落とした。
いつの間にか、キシュが先を行きオリビエの少し後ろをズレンが歩く。
「初めてくるよ」
オリビエが住民の声をもらす小さな二階の窓を見上げた。木のよろい戸の窓が、どこかで音を立てて閉められた。
自分の声が聞こえたのかと、オリビエは口元を押さえた。
「キシュ、この辺りまででいいだろう」
オリビエを背後からとどめて、ズレンが言った。
少女は振り向いて、何、皆に会う勇気がないの、と睨みつける。
背後のズレンの手に力がこもるのを感じて、オリビエは二人の顔を見比べた。
ズレンにとって久しぶりの街なのだろうか。裏切り者などと呼ばれるくらいだ。あまり、足を踏み入れたくないのだろう。オリビエは青年の手に手を重ね、どうする、と問いかけた。
「君がいけないなら、僕一人で送っていくけど」
「オリビエ。呆れる」
「え?」
「言っているだろ?俺はお前の警護のためについてきているんだ。キシュは放っておいても自分で帰れる。いつもは、あの広場の辺りまでで分かれるんだ」
ズレンが言う、教会前の小さな広場はもう、ずっと前に通り過ぎていた。
がん、と通りに出ていた樽を押しのけて、誰かが扉を開いた。その影はよろけて地面に突っ伏す。
さすがに驚いたのかランドンがワンワンと二度吼えると「うるさいよ」とどこかの窓から女性が怒鳴る。
赤ん坊が泣きだす声。
地面の影は酔っ払いのようで、何事かを低い声でつぶやいて寝ている。
月はいつの間にか隠れ、湿った風が頬をなでていた。
暗がりにただ、家々の窓の明かりだけが頼りなく揺れた。
オリビエは見回し、前を行くキシュの表情すら見えないことに気付いた。
「で、来るの?来ないの?」
「君は僕に、教会に来いって言わなかったかな」オリビエが笑う。
「あんたに言ってない。ズレンに言ってるの。セイリア姉さんに合わせる顔が在るかって聞いてるの」
オリビエは小さくため息をついた。
「ズレン、任せるよ。なんだか分からないけど、解決しなきゃならないんじゃないか。僕はここで」
「キシュ、セイリアの病はどうしようもなかったんだ。俺が医者にならなかったからってお前にそこまで言われる理由はない」
「ひどいよ!姉さんは、あんたの事待ってたのに!医者になって、治してくれるって」
「それはお前を気遣っていたんだろ。最初から、俺は医者になるつもりなんかなかった。セイリアも分かってくれていた。俺たち二人のことをお前がどれだけ知っていたって言うんだ。あの時お前はまだ小さかっただろ。彼女を失って、つらかったのは俺なんだ」
そこまで一気に怒鳴ると、ズレンは立ち止まってみていたオリビエの腕を取った。
「行こう。長居は無用だ」
「だけど」
「待ってよ!」
キシュが何か叫んだ。
と、再び先ほどの扉が開く。店内のランプの明かりに軒にかかったワイン樽の鉄輪が目に入った。酒屋の印だ。今度は開け放たれたので、酒屋らしいそこからは店内のざわめきが漏れ出した。静まり返っていた街が息を吹き返したかのようだ。寝転んでいた男がうめいて起き上がった。
「おい、生きてるか?」
誰かが扉から顔をのぞかせた。
「あー?お、キシュじゃねえか、大丈夫か」
「また夜遊びか、パーシーにどやされるぜ」
男たちが数人。
一人がゆらりとキシュに向けて手を挙げて、通りに出てきた。酔っているようだ。その後にまた二人。背の高い男がズレンとオリビエを睨んだ。
「なんだ?貴族様か」
「違うよ、こいつ、ズレンだもの」
「はぁ?あのズレンの小僧か。でかくなったな」
オリビエを庇うように立つ青年は、腰のサーベルに手を置きながら、一歩下がった。
「おいおい、そんな顔すんなよ。別に俺たちは妖しいもんじゃねえし」
後ろの男が言う。
「にしても、ご立派になったなぁ。お前がメジエールに行くことになったときはたまげたもんだ…あれ、お前」
髭の男が一人、顎に手を当てて二人をじっと見ていた。
と、急に隣の男の腕を数回叩く。
「んだよ」
「おい、こいつ。司祭会の会長の、ほら」
「ラストン・ファンテルの、息子です」
オリビエが男の視線に応えた。
急に背中を小さく丸めると、男たちは口元を緩め愛想笑いを浮かべた。
「こりゃ、また。立派になられた。そうか、あのボウヤか」
「いや、お父上にはお世話になってね」
オリビエにも覚えがあった。
このエスファンテの中心街を教区とする司祭を援助する市民の集り、司祭会でオリビエの父親は会長を務めていた。ボランティアの会だったが、街の弁護士や医者、思想家や教師が集っていた。母マリアの実父が司祭だったこともあり、オリビエの父ラストンは教会関係者には少しは名の知れた人物だった。
「いやあ、お元気そうでなによりです」
言いながら、皆一歩も近寄ろうとしない。
オリビエは眉をひそめ、隣に立つズレンの手を引いた。
「帰ろう」
ちらりと向こうにキシュの顔が見えたが、オリビエは目を合わせなかった。