信頼できる人間
夕食は、ティアに与えられた宮の食堂で用意されていた。
長い卓、白い卓布、金の燭台。
大きな窓の向こうには、すでに夜の帳が下り始めている。
そして、卓の向こうには、先にカリスが座っていた。
「ティア」
ティアを見るなり、カリスは椅子から立ち上がった。
先ほどの礼装から、少し簡素な濃紺の衣装へ着替えている。
「お疲れは取れましたか?」
「ええ。休ませていただきましたので」
「そうですか。それは良かったです」
それだけ聞いて。
カリスは安心したように頷いた。
「こちらへ」
ティアはカリスに示された席につく。
給仕だけで一体、何人いるのだろう。
壁際には騎士、そのさらに後ろには侍従と女官。
ほどなくして、最初の料理が運ばれてきた。
澄んだ琥珀色のスープ。
香草の匂いが湯気とともに立ち上る。
ティアが匙へ手を伸ばそうとすると、一人の侍女が進み出た。
「お待ちくださいませ」
侍女は先ほど見たものと同じ銀針を取り出す。
針先を静かにスープへ沈め、変色がないことを確かめる。
さらに別の女官が一口分を取り分け、自ら口へ運んだ。
「問題ございません。お召し上がりくださいませ」
そう言って、侍女は頭を下げた。
ティアは匙と女官を交互に見る。
「……本当に毎回するのですね」
「はい」
向かい側のカリスは。
何事もないように答えた。
「どうしました?」
カリスが尋ねる。
「いえ」
ティアは首を振った。
「いただきます」
ティアはスープを一口飲む。
「美味しいです」
「よかったです」
カリスの顔が少し明るくなる。
ティアが食べている姿を見て、カリスが安心したように食事を始めたので、ティアも深く考えるのをやめた。
***
食事が終わり、温かな茶と果実が運ばれてきた頃だった。
年配の侍従が、静かに一歩前へ進み出る。
「殿下」
「ああ」
カリスが頷いた。
「ティア」
「はい?」
「今日のうちに、あなたにつく者を紹介しておきます」
カリスが年配の侍従へ目を向ける。
「呼んで」
「かしこまりました」
ほどなくして、食堂の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、一人の女性だった。
三十代半ばほどだろうか。
黒髪を一筋の乱れもなくまとめ、濃紺の侍女服を身につけている。
派手さのない女性だった。
けれど、その立ち姿には不思議なほど隙がなかった。
ティアの前まで進むと、女性は深く頭を下げる。
「リディア・フェルンと申します。本日より、ティア様のお側に仕えさせていただきます」
ティアはカリスを見る。
「この国での、私付きの侍女ということですか?」
「はい」
カリスは頷いた。
「エマたちだけでは、この宮殿の事情まではわからないでしょうから」
それはもっともだった。
宮廷には、その国独自のしきたりがある。
しかも、この皇宮には、しきたりだけでは済まない事情もありそうだ。
「リディアは信用できる人ですから、安心して下さい」
「長く殿下にお仕えしている方なのですか?」
ティアが尋ねると、リディアが答えた。
「はい。私は殿下がお生まれになった時から、お側におります。もとは、殿下のお母上にお仕えしておりましたので」
「そうなのですね」
「殿下の瞳が、マティであると確認されたのは、ご誕生の直後でございました。その報せが宮中を駆け巡った、その日の夜には――産室へ運ばれる水に毒が混ぜられておりました」
「……」
ティアは息を呑んだ。
思わずカリスを見る。
まるで、自分とは関係のない昔話を聞いているような顔をしている。
「どうしてそんな……」
理由はわかっていたが、聞かずにはいられなかった。
老侍従は静かに答える。
「マティを持つ皇子が生まれたからでございます。殿下がお生まれになるまで、陛下は次代の皇位は第一皇子殿下にと考えられておりました」
だがーー、神の選んだ色を持つ子どもが現れた。
それまで皇位を期待されてきた六人の兄を飛び越えーー次の皇帝となり得る証。
「殿下がご自分で何かを望むより先に、殿下を始末してしまおうと考える者が多くいたのでございます」
ティアは膝の上で手を握った。
毒見の針を前にして、カリスが「普通のことですよ」と言った理由が、よくわかった気がした。
「その翌日からでございます。殿下のお食事に毒見が付くようになったのは」
リディアが静かに言った。
「母上が亡くなった後も、リディアは、ずっと僕の側にいてくれました」
カリスがそう言うと、ティアは改めてリディアへ向き直った。
「……リディアさん。これまで、殿下のお側にいてくださって、ありがとうございます」
思いがけない言葉だったのだろう。
リディアだけではない。カリスも、そばに控えていた侍従たちも、わずかに目を見開いた。
ティアにとっては、ただ素直に口にしただけだった。
幼い頃に母を亡くしたカリスの傍らに、変わらずいてくれた人がいる。
それが、なぜだか嬉しかったのだ。
リディアはしばらくティアを見つめたあと、ふっと表情を和らげた。
「……どうぞ、リディアとお呼びくださいませ。『さん』など、わたくしにはもったいのうございます」
そして今度は、先ほどまでの侍女としての微笑みではなく。
どこか安堵したような、柔らかな笑みを浮かべた。
「ティア様にお仕えできますことを、嬉しく思います」
***
「……それから、護衛も紹介します」
気を取り直したように、カリスが言った。
再び扉が開き、入ってきたのは、一人の騎士だった。
二十代半ばほどだろうか。
黒に近い茶髪に、鍛えられた身体。
左の頬には、傷跡が走っている。
男はティアの前で片膝をついた。
「皇太子直属近衛騎士、レオン・ハルバート。ティア様の護衛を拝命いたしました」
「皇太子直属……ですか?」
「はい」
ティアはカリスを見る。
「殿下の護衛なのでは?」
「はい。そうです」
「でしたら、なおさら……。私につけてしまってよろしいのですか?」
「レオンだから、つけるのです。レオンは僕が信用できる騎士だから」
「ありがたきお言葉です。私が殿下のお側へ上がったのは、殿下が一歳になられる少し前でございます。当時、私は皇宮警備隊に所属しておりましたが、マティを持つ第七皇子の警護を増員することになり、その一人に選ばれたのが始まりです」
「……なるほど」
「最初の仕事は、殿下の乳母車の周りを歩くことでしたが、その乳母車を狙って、矢が飛んできたこともございました」
ティアの笑みが消える。
「……その時、殿下は?」
「無傷でした。レオンが庇ったそうです」
カリスが言う。
ティアがレオンを見る。
「まあ、肩を掠れただけですよ。それから、五歳の時には、殿下が乗る予定だった馬の鞍に細工がされていたことがありましたし、七歳の時は、祭礼の帰りに襲撃されましたね」
「……」
レオンが続ける。
「私はこれまで、殿下をお守りするために剣を振るってまいりました」
右手を胸へ当てる。
「ですから、殿下がティア様をお守りせよと仰せになるのであればーー本日より、あなたも私の主でございます」
そう言って、レオンは深く頭を下げる。
「ですが……」
ティアはカリスを見る。
「そこまで殿下が信頼されている方なら、なおさら私につけてしまってよろしいのですか?」
カリスが首を傾げる。
「だって、レオンはずっと殿下を守ってきたのでしょう?」
「はい」
「でしたら、殿下のお側にいた方が――」
「大丈夫です」
カリスはあっさり答えた。
「僕の護衛は、レオン一人ではありませんから」
そう言って、視線を食堂の壁際へ向ける。
ティアもつられてそちらを見た。
そこには、先ほどから何人もの近衛騎士が控えている。
その中でも、一人だけ、ほかの騎士とは少し離れた位置に立つ男がいた。
年齢はレオンと同じくらいだろうか。
青みを帯びた黒髪を短く整え、背は高い。
カリスが呼ぶ。
「アーヴィン」
男がすぐに前へ出た。
「はい、殿下」
「こっちに来て」
アーヴィンはティアの前まで来ると、ティアの前で片膝をついた。
「皇太子直属近衛騎士、アーヴィン・クロウでございます」
「アーヴィンは、これまで通り僕の側に残ります」
カリスが言った。
「それに、近衛騎士はほかにもいます。だから心配しなくて大丈夫です」
「そう……なのですね」
ティアは小さく頷くと、改めてレオンへ向き直った。
「では、これからよろしくお願いしますね。レオンさん」
そう言って微笑む。
レオンはほんの一瞬だけ目を見開いたが、すぐに騎士らしい静かな表情へ戻った。
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします。ティア様。この身に代えましても、必ず御身をお守りいたします」
その声音は先ほどよりわずかに柔らかかった。




