小さくて優しい皇太子
「殿下」
控えていた年配の侍従が、静かに声をかけた。
「そろそろ、謁見のお時間でございます」
「ああ」
カリスは頷いた。
それから一度、繋いだままの手へ視線を落とす。
ティアもつられて見る。
てっきり離すのだろうと思ったが、少年の指は、ほんの一瞬だけ迷うように動いたあと、離れるどころか、もう一度ティアの手を握り直した。
「……殿下?」
「では、参りましょう。皇帝陛下がお待ちです」
何事もなかったように、カリスが歩き始める。
周囲の侍従たちも、わずかに表情を変えている。
「殿下」
後ろから、侍従長らしき男が遠慮がちに声をかけた。
「ご令嬢は我々がお連れいたしますのでーー」
「必要ない」
「ですが……」
「僕の妃なのだから、僕が案内する」
誰も、それ以上は何も言わなかった。
小さな身体のわりに、思ったより足が速い。
ティアも慌ててその隣に並んだが、数歩進んだところで、カリスがふいに足を止めた。
どうしたのだろうと思っていると、少年はちらりとティアのドレスへ目を落とした。
それから自分の足元を見ると、何かを考えるように黙ったあとーー今度は、先ほどよりずっとゆっくりと、再び歩き出した。
ティアは瞬きをする。
どうやら、ティアが歩きやすいように、歩幅を合わせてくれたらしい。
そんな些細なことが、なぜだか妙に可笑しかった。
カリスは前を向いたまま、ふいに尋ねた。
「船旅は、辛くはありませんでしたか?」
「あ……はい。船に乗るのは初めてでしたので、少し船酔いはしましたけれどーー大丈夫でしたよ」
「船酔いですか……」
カリスが、心配そうにこちらを見る。
「今も気分が悪いですか?」
「いいえ。もう大丈夫ですよ」
「本当に?」
思いのほか真剣に尋ねられ、ティアは少し笑った。
「本当です」
「そうですか」
カリスは安心したように前を向いたが、しばらくすると、またこちらを見た。
「お食事は?」
「え?」
「船の中で、食べられましたか?」
「ええ。食べましたよ」
「そうですか」
「殿下」
「はい、なんでしょう」
「もしかして、心配してくださっているのですか?」
カリスは足を止めて、ティアを見上げた。
「当然でしょう?」
何をおかしなことを聞くのだ、という顔をした。
「あなたは僕のために、この国へ来てくれたのですからーー僕には、あなたが困らないようにする責任があります」
そう言うと、カリスはまた歩き始めた。
ティアは一拍遅れて、その隣を歩く。
二人とも、繋いだ手だけは、離さなかった。
***
やがて、巨大な扉の前でカリスが足を止めた。
近衛兵が左右から扉を開くと、眩い光が差し込んだ。
ーー謁見の間。
その最奥の数段高く設けられた場所に、二つの玉座があった。
片方には、壮年の男。
その隣には、金髪の美しい女性が座っている。
皇帝と皇后だろう。
そしてーー、玉座へ続く左右には、六人の青年や少年たちが並んでいた。
ティアは一目で理解した。
カリスの兄たちだ。
第一皇子から、第六皇子。
年齢も、容貌も、纏う雰囲気も違うけれどーー共通していることが一つだけあった。
皆、カリスを見ていた。
ティアは無意識にカリスの手を握った。
すると、少年の指が、すぐに握り返してきた。
まるで、「大丈夫です」とでも言うように。
「カリス」
玉座から声が降ってきた。
皇帝だった。
「いつまで手を繋いでいる」
「失礼しました」
すぐに手が離れーーティアは、なぜだか少しだけ寂しく感じた。
カリスは数歩前へ進み、片膝をつく。
「皇帝陛下。ティア・グレンヴィル公爵令嬢をお連れいたしました」
ティアも、ドレスの裾をつまんで深く礼を取る。
「ティア・グレンヴィルにございます。イオスフィア帝国の太陽と月に、ご挨拶申し上げます」
「顔を上げよ」
ティアはゆっくり顔を上げた。
皇帝がじっとこちらを見る。
「よく来たな、グレンヴィル嬢。歓迎しよう」
「ありがとうございます」
「話には聞いているぞ。王家にも連なる公爵家だそうだな」
「恐れ入ります」
「我が国との結びつきが、両国に長き安寧をもたらすことを期待している」
完璧な外交辞令。
ティアがどう答えるべきか考えていると。
皇帝の視線が、カリスへ移った。
「お前には、過ぎた相手だ」
ティアの瞳が僅かに動く。
カリスは慣れているようだった。
「承知しております」
「……」
ティアはカリスの横顔を見る。
「ティア嬢」
今度は皇后が口を開いた。
「カリスはまだ幼いでしょう?」
優雅な微笑みだった。
けれど、なぜだろう。
ティアには、先ほどの皇帝よりも、この女性の方が恐ろしく見えた。
「ティア嬢は確か、十八だったわね。カリスとは七つ違い……。夫というより、可愛い弟が一人増えたような心持ちではなくて?」
ティアは目を見開いた。
ここで初めて、カリスの年齢を知ったのだから、無理もない。
(……七つ違い……。ということは、カリス殿下は……十一歳なの!?)
皇后が笑うと、続いて小さな笑い声がした。
皇子の誰か、あるいはーーその後ろに控えている貴族だろうか。
ティアにはわからなかった。
だが、カリスにはわかったらしい。
海青の瞳が、声のした方へ動いた。
表情は変わらない。
「母上」
第一皇子と思しき青年が口を開いた。
二十歳を越えているだろう。
濃い金色の髪に、堂々とした体格だ。
「そのようにおっしゃっては、カリスが可哀想ですよ。まあ、でも確かにーー年上の御令嬢をお迎えして、どちらが面倒を見る側なのかわかりませんがね」
今度は、はっきりと笑い声が起こった。
「兄上のおっしゃる通りです」
カリスが答えた。
「僕はまだ幼く、至らないことばかりです」
「なんだ?今日は随分と素直だな」
「事実ですから」
「それでも皇太子だろう?」
第一皇子は笑う。
「神がお選びになったのだからな!」
カリスは何も言わない。
言い返せないのではない。
言い返さないのだ。
こんなに幼いのに、もう理解しているのだ。
どう対応すれば、これ以上、相手を喜ばせずに済むのかを。
そのことが、たまらなく悔しかった。
「陛下」
気づけば声を出していた。
室内の視線が一斉にティアへ向く。
カリスが驚いたようにこちらを見た。
「何だ?」
皇帝が尋ねる。
ティアは微笑んだ。
「先ほど陛下は、カリス殿下にはわたくしが過ぎた相手だとおっしゃいましたがーー訂正させていただいてもよろしいでしょうか?」
周囲が静まった。
「ほう、申してみよ」
ティアは一度、カリスを見る。
少年が目を見開いている。
それから、ティアは再び皇帝へ向き直った。
「わたくしにとっても、カリス殿下は過ぎたお方でございます」
周囲は静寂に包まれた。
「海を渡り、見知らぬ国へ参りましたわたくしを、殿下は自らお迎えくださいました」
皇帝の目が僅かに細くなる。
「それだけではありません。長旅で私が体調を崩していないか、食事はできたのかーー。初めてお会いしたばかりのわたくしを、心から気遣ってくださいました」
ティアはちらりと第一皇子を見る。
「年齢だけを理由に、その方の器まで幼いと決めつけるのは――少々、もったいないことかと存じます」
そう言って、ティアは微笑んだ。
第一皇子の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
(……ちょっと言いすぎたかしら)
海を渡って一日目。
早くも外交問題を起こしたかもしれない。
けれど、不思議と後悔はなかった。
皇帝だけがしばらくティアを見つめて、低く笑った。
「なるほど。美しいだけの娘ではないらしい」
玉座へ深く背を預ける。
「スタンティノ王国は、ずいぶん胆の据わった娘を寄越したものだ」
「お褒めにあずかり光栄です」
皇帝は再び低く笑った。
「よかろう。カリス」
「はい」
「せいぜい、その娘に見限られぬよう励め」
「はい……心得ております」
「ティア嬢、長旅で疲れただろう。今日は休むがよい。正式な歓迎宴は明晩開くことにしよう」
「お心遣い感謝致します、陛下」
ティアが礼を取る。
話は終わったらしい。
ティアは再び頭を下げ、二人は謁見の間を後にした。




