夫になる人
ティアが後になって知ったことだが……。
十一歳のカリス・シュレースヴィヒは、その日、彼女を迎えるために三時間も宮殿の前で待っていたらしい。
もちろん、ティアを迎えるために、宮殿には侍女や、近衛騎士たちが揃い、正式な出迎えの準備が整えられていた。
けれど、彼らが所定の位置につくよりもずっと前からーーカリスだけは、そこにいた。
『イオスフィアの皇太子ともあろうお方が、外で待ち続けるなどなりません』、と何度も侍従に諫められていたそうだ。
それでも少年は、宮殿へ戻ろうとしなかった。
それでも少年は、待ち続けたのだ。
ーーこれから出会う、ただ一人の“妃”を迎えるために。
***
海を渡る船の上で、ティア・グレンヴィルは何度も同じことを考えた。
ーー本当に、これでよかったのだろうか。
だが、最初から答えなど必要とされていなかった。
ティアはグレンヴィル公爵家の長女である。
そして今回の婚姻は、ティア個人の幸福のために決められたものではない。
二国間に新たな同盟を結ぶため、その証としての駒となるーーそれだけの話だった。
「お嬢様。間もなく港へ到着いたします」
侍女の声に、ティアは窓の外へ目を向けた。
青い海の向こう。
霞んでいた陸地が、少しずつ近づいてくる。
白い石造りの街。
いくつもの尖塔。
そのさらに奥、丘の上には巨大な城壁に囲まれた宮殿が見えた。
「思っていたより、ずっと大きいのね」
「……ええ。そのようですね」
侍女のエマは、不安そうに微笑んだ。
ティアも笑い返した。
自分まで怯えた顔をしてはいけない。
この国へ連れてきた侍女たちは、ティア以上に不安なはずなのだから。
言葉こそ通じるが、文化も習慣も違う。
そして何よりーーティアは、これから夫となる男の顔すら、まともに知らない。
知っているのは、名前だけだった。
年齢についても、父から詳しい説明はなくーーただ、『かなり若い皇子だ』そう聞かされていたので、せいぜい十五、六歳だろう、とティアは思っていた。
自分より少し年下で、まだ社交界にも慣れていない少年なのかもしれない。
だからこそ、年上である自分が支えればいい。
そんなふうに考えていた。
――この時までは。
***
港では、帝国の外務官と皇宮から派遣された侍従たちがティアを迎えた。
形式に則った挨拶を済ませ、帝国の紋章が刻まれた馬車へ乗り換える。
そこから皇宮までは、およそ一刻。
帝都の中心へ近づくにつれ、道幅は広くなり、建物は壮麗さを増していった。
宮殿へ到着すると、すぐに、一人の少年が見えた。
(……子ども?)
年齢は十歳を少し過ぎた程度だろう。
淡い銀色の髪をきっちりと整え、黒地に金糸の刺繍が施された礼装を身につけている。
その両脇には、騎士が二人整然と並んでいた。
階段の前には侍女をはじめ、帝国の高官たちが控えているようだった。
少年の前で、ティアは足を止めた。
(……まさか)
少年と目が合った瞬間ーー、公爵の言葉が、頭の中に蘇った。
『イオスフィア帝国で崇拝される守護神は、果てなき海そのものを宿したような青い瞳を持っていたとされる』
ーーティアは、その瞳に釘付けになった。
少年が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
そしてティアの前で立ち止まる。
「長旅、お疲れ様でした。イオスフィア帝国へ、ようこそお越しくださいました」
声変わりもしていない、幼い声だった。
それでも言葉遣いには迷いがない。
その瞬間、ティアはようやく理解した。
この少年こそーー自分が嫁ぐ相手なのだ、と。
「あなたの夫になる、カリス・シュレースヴィヒです」
そう言って、少年は右手を差し出した。
ティアは瞬きをした。
(お父様……!)
心の中だけで父を睨みつける。
十五、六歳どころではない。
どう見ても、子どもだ。
帰国したら絶対に文句を言ってやる。
ーーいや。
帰国する予定など、もうないのだけれど……。
ティアが黙り込んでしまったからだろう。
カリスは差し出していた手を、ごくわずかに引いた。
その動きで気づいた。
彼の指先が、ほんの少し、震えている。
ティアは少年の顔を見る。
表情には何も出ていない。
まるで大人の皇族のように、完璧な微笑みを浮かべている。
だが、まだ子供だ。
(……彼も、緊張しているのね)
考えてみれば、当然のことだった。
年上の外国人を婚約者として与えられたのは、カリスも同じなのだ。
ティアばかりが見知らぬ国へ連れてこられたと思っていた。
けれどーー、目の前の少年だって、今日初めて会う女を、これから自分の妻として受け入れなければならないのだ。
ティアは、小さく息を吐き、そしてーー差し出された手を取った。
「ティア・グレンヴィルです」
カリスが、わずかに目を見開く。
ティアは優しく微笑んだ。
「これから、よろしくお願いいたしますね。殿下」
少年の手は、思った以上に小さかった。
ティアの手の中に、すっぽりと収まってしまいそうなほどに。
けれど、カリスはすぐに力強く握り返してきた。
「……こちらこそ」
そう言ってから、カリスは少しだけ顎を上げた。
そして、まるで用意していた台詞を言うように告げた。
「ようこそ、僕の妃」
周囲から、小さなどよめきが起こった。
婚約者に対して「妃」と呼ぶのは、ずいぶん気が早い。
だが本人は気づいていないらしい。
真剣な顔をしている。
ティアは思わず笑いそうになり、慌てて唇を結んだ。
「……はい」
それだけ答えた。
すると、カリスは安心したように見えた。




