突然の政略結婚
「ティア。お前には、イオスフィア帝国の皇子のもとへ嫁いでもらうことになった」
父にそう告げられた時ーー、ティア・グレンヴィルは、手にしていたティーカップを静かに受け皿へ戻した。
「……イオスフィア帝国、ですか」
「ああ」
父ーーグレンヴィル公爵は、いつになく険しい顔をしていた。
書斎にはティアと父の二人きり。
窓の外では、庭師が薔薇の枝を剪定している。
午後の日差しも、壁際で時を刻む古時計の音もーー昨日までと何ひとつ変わらない。
ただ、自分の人生だけが大きく動いた瞬間だった。
ーーイオスフィア帝国。
海を隔てた大国だ。
歴史も古く、領土も広い。
軍事力に至っては、周辺諸国が束になっても敵わないとまで言われている。
ティアの祖国にとっても、決して敵に回したくない国だった。
その帝国との婚姻。
驚きはしたけれど、公爵令嬢として生まれた以上、いつかは政略結婚することになるのだろうと、覚悟していた。
むしろ、相手が隣国の伯爵でも、国内の老侯爵でもなく、大国の皇族だと聞けばーーこの上ない縁談なのだろう。
ティアは一度息を整えた。
「承知いたしました」
公爵が顔を上げた。
「……いいのか」
思わず、ティアは笑った。
「お父様が、それをお尋ねになるのですか?」
「……それもそうだな」
「公爵家の娘ですもの。いつかは、こういう日が来ると思っておりました」
恋をして、好きな人と結婚してーー。
そんな人生を思い描いたことがないわけではない。
けれど、それは夢と現実を混同するほど幼い頃の話だ。
「それで……、私は、どの皇子様に嫁ぐのでしょうか?」
確か、イオスフィア帝国には七人の皇子がいるはずだ。
さすがに、皇太子ではないだろう。
第二皇子、もしくは第三皇子あたりだろうか……。
頭の中で候補を思い浮かべていると、父が妙に言いづらそうに口を開いた。
「……第七皇子でありーー皇太子でもある、カリス・シュレースヴィヒ殿下だ」
「第七皇子で……、皇太子……ですか?」
「ああ」
「第七皇子が、皇太子なのですか?」
思わず聞き返してしまう。
普通に考えれば、第一皇子が最も皇位に近い。
もちろん国によって継承法は違うだろうが、七人いる皇子の末の一人が皇太子というのは、どうにも不自然だった。
「ちなみにーーカリス殿下は、おいくつですの?」
そこで、公爵が黙った。
ティアは首を傾げる。
「お父様?」
「……かなりお若いそうだが……、まあ、お前ならうまくやれるだろう」
「……?」
それから、公爵は少し考えるようにしてから、口を開いた。
「《マティ》という言葉を聞いたことはあるか?」
「……マティですか?いいえ、聞いたことがありません」
ティアが首を振ると、公爵は静かにいった。
「イオスフィア帝国で崇拝される守護神は、果てなき海そのものを宿したような青い瞳を持っていたとされる。ゆえに、皇族にごく稀に現れるこの瞳はマティと呼ばれ、その瞳を持つ者は神に選ばれたものであるとされているそうだ」
「では……カリス殿下は」
「あぁ。七人の皇子の中で、ただ一人、マティを持って生まれたそうだ」
父は静かに告げた。
しばしの沈黙の後、ティアが口を開いた。
「……ところで、お父様。なぜ、私なのでしょうか?イオスフィア帝国ほどの大国なら、殿下のお相手など選び放題でしょうに」
父は机の上で指を組む。
「今回の婚姻は、帝国側から申し入れられたものだ」
「帝国から……ですか?」
「ああ」
それは意外だった。
公爵は続ける。
「いやーー、正確に言えば、先に同盟を申し込んだのは我が国だ。我が国は今、イオスフィアとの同盟を必要としている。もしこの交渉がまとまらなければ、数年先には国そのものが立ち行かなくなる可能性さえある。そしてーーイオスフィアは、同盟を結ぶ条件として一つの要求を出してきた」
「……それが、皇太子カリス殿下との婚姻関係なのですね」
「あぁ。同盟を確かなものにするための婚姻――そう言えば聞こえはいいが……、彼らが望んでいるのは、同盟のための人質ーーとでも言った方がいいのだろうな」
(だから、お父様は険しいお顔をされていたのね……)
ティアはわずかに目を伏せた。
「……ええ。理解しました」
ティアがそう答えると、父は苦い表情を浮かべた。
「……今回の婚姻は、両国の同盟を形にするためのものだ。本来であれば、王家から姫君を嫁がせるのが最も望ましいのだが、我が国には王女がいない」
ティアは頷いた。
確かに、この国には王子しかいない。
「ーーとなれば、次に求められるのは王家に近い血筋と、それに見合う家柄の娘というわけだ」
父の視線が、まっすぐティアへ向けられる。
「そして我が国で、それに該当する家はそう多くないだろう。中でも我がグレンヴィル公爵家は王家との縁も深く、家格も申し分ないからな」
「ええ、そうですね」
ティアは納得したように頷く。
「……それから、カリス殿下には、後ろ盾がないそうだ」
ティアは父を見る。
「後ろ盾ーーですか?」
「ご側室だった母君は、殿下が幼い頃に亡くなられたそうだ。そして、母君は元々、皇后陛下の侍女だったそうなのだが……そのせいで、宮殿でカリス殿下はこれまで、随分と肩身の狭い思いをしてきたそうだ」
「……そうなのですね」
「カリス殿下は、マティを持って生まれた。ただ、それだけで皇太子になったのだからーー仕方のないことだろうがな。第一皇子から第六皇子まで、皆それぞれ母方に有力な家門がついているらしい。長く皇位を期待されていた皇子もいたのだろう」
その中へーー第七皇子が、ただ一つの瞳を理由に割って入った。
ティアにも、それがどういう立場なのかくらい想像できた。
――カリス・シュレースヴィヒ。
まだ顔も知らない未来の夫を、ティアはその時初めて、ひとりの人間として想像したのだった。




