プロローグ
九年という歳月は、不思議なものだ。
忘れたと思ったはずの人を、たった一目でーー、
まるでつい昨日まで一緒にいたかのように鮮明に思い出させるのだから。
美しい男が立っていた。
その周囲には帝国の高官や近衛騎士たちが控えている。
昔はティアの肩にも届かなかった少年が、今では、見上げなければならないほどに。
幼さはどこにもなかった。
端整だった面差ちは鋭さを増し、頬から顎へ続く線も、低くなった声も、ティアの記憶とはまるで違う。
それでも、一目で彼だと分かった。
「……カリス?」
名は、考えるより先に唇から零れた。
父が隣で小さく咳払いする。
今の彼は、一国の皇帝だ。
昔のように名を呼び捨てにしていい相手ではない。
けれど、当の本人だけは、ふっと、嬉しそうに目を細めた。
その表情に、ティアは九年前の少年を見た。
「お久しぶりです、ティア」
この国では珍しい天泣のに日には、信仰したこともない神に祈りを捧げ、彼の無事を祈っていた。
どうか、カリスが生きていますようにーー、と。
「どうして……。どうして、あなたがここに?」
カリスは答えず、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、九年という時間の流れを感じる。
彼はもう、あの頃の少年ではない。
自分が庇わなければと思っていた子どもではない。
今、こちらへ歩いてくるのは、大陸最大の帝国を治める皇帝なのだ。
やがてカリスは、ティアの目の前で足を止めた。
そして、カリスは躊躇いなく手を差し出した。
ティアは息を呑む。
ーーあの日と同じだ。
『ようこそ、僕の妃』
小さな手を差し出して、一生懸命に皇子らしく振る舞っていた少年。
「何のつもり?」
ティアは尋ねた。
カリスがわずかに笑う。
「九年前の続きをしましょう」
「続き?」
「ええ」
カリスは言った。
「私は一度、あなたを手放した」
ーーあの日が蘇る。
『どうか、国に帰ってくださいーーティア』
忘れたことなどなかった。
ただ、思い出さないようにしていただけだ。
この九年、何の便りもなかった。
彼が生きていることも、皇帝になったことも、全部ーー新聞や噂で知った。
カリスはティアを見つめた。
視線を逸らさない。
ーー次の瞬間。
彼は、その場に片膝をついた。
大陸最大の帝国を治める皇帝が、一介の公爵令嬢の前に膝をついている。
背後の高官たちが息を呑む気配がする。
父さえ、言葉を失っていた。
「カリス?」
「九年前は、あなたを守るために、手放すことしかできませんでした」
指先へ。
唇が触れる。
「でもーー」
そして、ゆっくり顔を上げる。
「もう、手放す理由がありません」
カリスは、昔と同じようにーーけれど昔とはまったく違う声で告げた。
「迎えにきましたよ。私の妃」
ティアが守りたいと願った少年は、九年の歳月を越えーー皇帝になって、彼女を迎えに来た。




