番外編 赤い髪紐
冬も終わりに差し掛かった、霰の降る夜だった。メイは戸締りの確認のため、角灯を手にして王城の三階を見回っていた。第二王女エリサ付きの侍女であるメイは普段から、エリサの私室のある三階の管理を任されている。その私室の前を通りかかったちょうどそのとき、部屋の中から可愛らしい声に似合わぬ剣幕の怒声が聞こえてきた。
「ルディオなんて大きらい!」
驚いて足を止める。部屋の中で何やら揉めている気配がする。やがて美しい装飾の施された白い扉が開き、長身の青年が血相を変えて飛び出してきた。メイとばっちりと視線が合うや、青年――第二王女付き守護竜ルディオは、助けを得たりとばかりに金の眼を見開いた。
「メイ殿!」
半ば縋るように壁際の窓辺へと手を引かれる。さりげない移動は廊下を塞いでしまわないようにだろう。よく気配りのできるこの若竜が一体何をして幼い主君の機嫌を損ねたのか、まるで見当もつかなかい。
「突然すみません、少しお時間をいただけませんか」
「一体どうなさったんです、そんなに慌てて」
落ち着かせようと宥めるような口調で訊ねたが、ルディオの視線は内心の動揺を反映して忙しく宙を泳いだままだ。「大嫌い」がよほど堪えたらしい。
「今朝処分をお願いした服なんですが……あの、赤い飾り紐のついた」
「ああ、あれ」
一年前、エリサの三歳の誕生日に合わせて女王から贈られた服だった。冬天蚕の絹のなめらかな肌触りと、女王直々に娘に似合う色を選んだという胸元の真紅の飾り紐を、エリサはいたく気に入っていた。しかし、丈が合わなくなってきたため新調したいと先日ルディオから相談があり、昼間エリサたちが外出している間に、他のいくつかの衣類とともにメイが新しいものに取り替えたのだ。子どもの成長は早いものだと感慨に耽りながら作業を終えたのだったが。
「今どこにありますか。もう捨ててしまいましたか?」
「大きな汚れも傷みもなかったので、孤児院への寄付品として保管してあるはずですが……」
洗濯係に手渡して以降、どこにあるかまでは把握していない。だがその質問で合点がいった。
「あの服のことで、エリサ様がお怒りに?」
「そうなんです。処分したと申し上げたら、泣き出してしまって」
「あらあら」
「大嫌いと言われてしまいました……」
ルディオはこの世の終わりだとでも言いたげな表情で弱々しく呟き、霰が激しく叩きつける窓の外へ虚ろな目をやった。夜空を重苦しく覆う雲が数度明滅し、竜の咆哮の如く激しい雷鳴が城を震わせる。深刻な落ち込みようと空模様が絶妙に合致していて思わず笑ってしまう。
「そんなにお気になさることはありませんよ。エリサ様はまだお小さいのですもの、傷ついたお心を伝える方法が分からずに、つい強い言葉を使ってしまっただけです。嫌いだなんて、本心から仰ってはいません」
「そうなんでしょうか?」
「私も息子たちが小さい頃には、うるさいだの嫌いだのはしょっちゅう言われましたよ。大丈夫、すぐに仲直りできます」
ルディオは半信半疑といった顔だった。人界で暮らし始めてまだたった四年なのだから無理もない。幼い子どもの情緒に寄り添うのは四十路を過ぎた大人でも難しい。
「エリサ様は、本当に女王陛下のことが大好きなのですねえ。けれど着られなくなった服をいつまでも置いておくわけにはいきませんし、どうすればいいかしら……」
「すみません、巻き込んでしまい」
「いいえ、実行犯は私ですもの。二人で解決しましょう」
おどけて旗手よろしく灯りを掲げると、ルディオはようやく笑顔を見せた。笑うと鋭い目つきが和らぎ、少年のようにも見える。実年齢は百歳を超えていると聞き及んだことがあるが、人間に換算すれば高く見積もっても二十歳過ぎだろう。どことなく放っておけないのは息子たちの歳にほど近いからだろうか。
「とりあえず、あの服は私が確保いたしますわ。今日はもう遅いですし、明日お持ちしますから、お返しするか説得するか、そのとき二人で考えませんか」
「本当にすみません」
「お気になさらず。今夜は寝かしつけが大変そうですわね」
「泣き疲れて寝てくださるといいんですが」
ルディオと別れ、再び廊下を歩き出す。あの服は寄付品の管理係に訊ねれば容易に回収できる、エリサとルディオもすぐに仲直りできるはず。そう思うと同時に、素直に返してしまっていいのかという迷いもある。丈の足りなくなった服を着続けることはできない、いつかは必ず手放すときが来る。今取り戻せたとして、一時喜んでもらえても、それは根本的な解決にはならないのではないだろうか。
翌日、メイは昼寝の時間を見計らってエリサの私室を訪れた。
「すみません、お手数をおかけして」
囁き声のルディオに招き入れられ、部屋に入る。いつもは無防備な寝顔を見せてくれるエリサであったが、今日は姿が見えない。寝台の天蓋から下りる白い麗糸のカーテンが、ルディオを拒むかのごとくきっちりと閉められている。まだ仲直りはできていないらしい。話し声で起こしてしまわないようにと、隣接したルディオの私室へ入れてもらう。最低限の家具だけの質素な部屋だ。
「見つかりましたか」
メイに丸椅子を勧めてすぐ、ルディオは喰らいつくように訊ねてきた。
「それなのですが……」
携えた布袋の中から、持参したものを取り出す。衣服ではない。なめらかな絹地の、真紅の飾り紐だ。ルディオが片膝を突き、紐に手を触れる。
「これは」
「紐だけいただいてきましたの。これを使って、新しい贈り物を作りませんか?」
目を見開いた青年にメイはそっと微笑みかけ、紐を手渡した。
「いくらお気に入りでも、あのお召し物をずっと着続けることはできないでしょう? 念のため、寄付は少し待ってもらうよう伝えましたけれど、これからたくさんのものを卒業していく練習としても、やはりあれは手放した方がいいと私は思います」
エリサと一刻も早く仲直りしたいであろうルディオは反対するかもしれないと思っていたが、真剣な表情で耳を傾けてくれている。
「ただ、陛下からの贈り物を大切にしたいエリサ様のお気持ちも、よく分かりますし……孤児院の子たちはやんちゃで、引っかかるような飾りはない方がいいとのことでもありましたから、せっかくならこの紐を、永く使えるものに作り直して差し上げるのはどうかしらと」
「永く使えるもの、ですか?」
「ルディオ殿、お裁縫のご経験は?」
ルディオが不安げに首を振る。
「針を持ったこともありません」
「では私がお手伝いします。少し手を加えて、エリサ様にお贈りするんです。襟締や髪飾りにも良さそうですし、身の回りのお小物の装飾にもできますわ。ルディオ殿が差し上げたいものはありますか?」
問うと彼は考え込むように目を伏せて少し黙ったが、やがて微笑んで視線を上げた。
「髪を結う紐を差し上げたいです。髪が伸びてきていらっしゃいますし、この赤はエリサ様の髪色に良く似合いそうなので」
「ではそうしましょう」
髪紐なら殆ど形を崩さずに作れる、完成までそう時間はかからなさそうだ。何よりルディオの言う通り、ふわりと軽い生地や華やかな赤は、エリサの髪にぴったりだと感じた。
「仲直りまでは、もう少し我慢していただけますか」
「はい。ご指導よろしくお願いします」
生真面目に礼を交わして笑い合う。明日から昼寝の時間に裁縫の指導を行うという約束をして、メイはエリサを起こしてしまわないよう慎重に退散した。
それからメイは毎日エリサが寝静まる頃を見計らい、針と糸とを持参してルディオの私室を訪れた。ルディオは大きく逞しい手指からは想像もつかないほど手先が器用で、教えたことは時間はかかれど丁寧にこなし、殆ど手直しの必要はなかった。三日後、髪紐は無事に完成し、翌日午後の散歩の際にエリサに渡す算段となった。
決行当日。雲の切れ間から少し陽の差す昼下がり、ちょうど時間を合わせて休憩を取ることができたメイはルディオに断りを入れ、庭園の背の高い生垣の陰に隠れて様子を見守ることにした。すぐ傍ではエリサの好きな雪冠花の蕾が少しずつ綻び出している。エリサはきっとここへ見に来るだろう。
「ルディオ、こっち!」
はしゃいだ声が庭園の入口から聞こえた。雪を踏みしめる軽い足音が近づいてくる。さすがにもう怒ってはいないようだが、先日の騒動は悲しい思い出として心に残っているに違いない。贈り物で払拭できればいいのだが。
「エリサ様」
エリサの後に続き、重みのある足音がゆっくりと近づいてきた。近くまで来ると、長身のルディオは頭の先が生垣からはみ出して見えた。深い青の短髪が陽光を受けて明るく輝き、雪に美しく映えている。
「少しお話があるのですが、よろしいですか」
「どうしたの?」
メイの潜む場所から生垣を挟んですぐ向こうに、二人が立ち止まる。ルディオの頭が引っ込み、見えなくなった。エリサに視線を合わせたのだろうと思われた。
「先日は、大切なお召し物をご相談もなく処分してしまい、申し訳ございませんでした。今後は必ず、事前にご相談するようにいたします」
メイは音を立てないよう気をつけつつ生垣からそっと雪を払い落とし、枝葉の隙間から二人を見守る。豊かな茶髪を外套の肩に垂らしたエリサは驚いたような表情で、雪上に跪くルディオと向かい合っていた。
「お召し物は寄付品として孤児院へ送る予定ですが、まだ保留してもらっています。お返しすることもできます。ですがあれは、小さな子どもの背丈に合わせて作られたものです」
ルディオの横顔は真剣だったが、口調はあくまで柔らかい。エリサを怖がらせないよう普段から気を配っているのだろうとよく分かる。
「エリサ様はもう大きくなられて、これからどんどん大人になっていかれます。陛下も、お召し物をずっと手元に置いておくことより、エリサ様があれを着られないほど成長なさったことこそを喜んでくださるはずです。ですからどうかあの服は、小さな子どもたちにお譲りいただけないでしょうか」
誠実な諭し方だった。エリサは少しの間俯いて悩んでいたが、やがて迷いを振り切るように頷いた。
「分かったわ。ぴったりな子に着てもらえた方がいいものね」
「ありがとうございます」
ルディオはほっとしたように肩の力を抜いたが、すぐに表情を引き締め、携えていた布袋を開く。
「その代わりには、ならないかもしれないのですが」
袋から現れた真紅を見て、エリサが小さく息を呑んだ。
「これって……」
「あのお召し物の飾り紐です。メイ殿に教えていただいて、髪紐にしました。陛下の選んでくださった色ですから、きっとエリサ様に似合われると思います」
エリサは目を見開いてじっと紐を見ていたが、やがて顔を上げてルディオを見つめる。
「今、結んでくれる?」
くるりと後ろを向いたその髪に、ルディオは恭しい手つきで触れた。艶やかな髪を持ち上げ、赤い髪紐で丁寧に結い上げる。結い終わるとエリサは庭園の中央まで駆けていき、氷の張った噴水を覗き込んだ。左右交互に顔を傾けて、揺れる髪紐を飽かず眺める。陽光が氷雪をきらめかせ、軽やかに動く少女の姿を輝かしく彩る。
「すてき。とってもかわいい」
エリサはルディオを振り返り、眩いばかりに顔を綻ばせて、駆け戻りざまその胸に飛び込んだ。
「ありがとうルディオ、すごく嬉しい。大切にするわ」
メイが胸を撫で下ろすと同時に、ルディオも安堵の息を吐いた。しかし表情はまだ少し硬い。恐る恐る窺うような声が訊ねる。
「では、私のことも少しは……嫌いでなくなっていただけたでしょうか」
まだ気にしていたのか。メイは思わず苦笑する。エリサはきょとんと首を傾げている。
「なんのこと?」
「先日、大嫌いと仰いましたので……」
「あれは」
エリサは言葉に詰まり、決まり悪そうに目を泳がせた。
「あのときは悲しくて腹が立って、ついあんなこと言ってしまったの」
小さな両手をルディオの首筋に回し、肩に顔を埋めるようにして小さな声で囁く。
「ひどいこと言ってごめんなさい。ルディオのこと、ほんとは大好きよ」
その言葉を聞いて、ルディオはようやく表情を和らげた。華奢な背にそっと手を回して微笑み、目を閉じる。
「良かった。安心いたしました」
これ以上ここに居るのは野暮だろう。抱き締め合う二人に背を向けて、メイは足音を立てないようにひっそりと庭園を後にした。
王国を覆った雪は少しずつ溶け、雪冠花が美しく花開く頃、エリサは五歳になった。
幼い子の成長はあっという間だ。好きだった絵本の読み聞かせをねだらなくなったり、苦手な人参が食べられるようになったり、目まぐるしく変わってゆく様を見ているのは嬉しいやら寂しいやらで――最も近くでその姿を見守っている若き竜は、きっとメイよりも、誰よりも喜びや寂しさを強く感じていることだろうと思う。赤い髪紐は変わらずに豊かな茶髪を彩って揺れている。けれどいつの日か、手放すときが来るのかもしれない。それはそれでいいのだろう。贈ったものがなくなったとしても、交わした言葉や籠めた思いは、決して消えることはないのだから。
王城が春の陽気に包まれたある日の午後、メイは箒を手にして三階へ向かっていた。階段を軽く掃きながら上りきり、いざ廊下の掃除を始めたそのとき、白い扉の前に立っている長身の青年に気づく。まるで誰かを待っているかのような――
「メイ殿!」
金の瞳がこちらを捉えた瞬間、名を呼ばれた。ルディオが速足でこちらへ向かってくる。丁寧に手を引かれ、いつかの如く窓辺へ導かれる。当時と殆ど同じ流れに、可笑しいような不安なような、妙な気分になる。
「お仕事中に申し訳ありません、少しご相談したいことが」
「どうなさったのですか。まさか、またエリサ様に何か……」
訊ねると、ルディオは困ったように眉根に皺を寄せた。
「実はエリサ様に、態度を改めてほしいと言われてしまい」
「えっ?」
素っ頓狂な声が漏れる。そのようなことを言われなければならないほどルディオの態度が悪いとはとても思えない。
「経緯を詳しく教えていただけますか?」
「昨日、エリサ様を城下の視察へお連れしたのですが……」
ルディオは記憶を辿るように窓の外を見やった。城の裏手のなだらかな丘の向こうには、色とりどりの屋根が連なる城下の街が広がっている。
「町民同士の気取らない接し方をいたくお気に召されたようで、私の言葉遣いや振舞いも同じようにしてほしいと仰るんです。もっと対等に、友人同士のように話したいと」
「ああ、そういう」
想像していた方向とは違っていて安堵する。王女ともなれば対等な友人を作ることは困難だ。我儘と言うよりは、可愛らしくも切実な願いのように思われる。
「エリサ様がお望みなら、二人きりのときくらいはそうして差し上げたいのですが、城を出る機会が少ないので城下の人々を参考にすることは難しく……何度も恐れ入りますが、またご教示をいただけないでしょうか」
ルディオは声を尻すぼみにしながら申し訳なさそうに目を逸らす。頼ってもらえたこと自体は嬉しかった。しかし男性の所作について指導するとなると、自分が適任とはとても思えない。
「お力添えできることなら喜んでいたしますが、そういうお話でしたら、私よりも殿方に教わるのがいいのではありませんか? 例えば……」
真っ先に思い浮かんだのはいつもエリサを可愛がってくれる気さくな騎士の顔だ。「エリサ様とよく遊んでくださる、騎士団のザウロ様でしたら、親切に教えてくださりそうですが」
「あの方は声が大きくて苦手なんですよ……」
ルディオが露骨に顔をしかめる。いつも礼儀正しい彼の苦々しげな表情は珍しく、思わず笑ってしまう。確かに豪放なザウロと生真面目なルディオとでは正反対のようにも思えるが、得てしてそうした相反する性格の二人は良い関係を築けるものだ。
「確かにお声は大きいですれけど、面倒見の良い方でもいらっしゃいますよ。ルディオ殿とはきっと仲良くなれます」
「そうでしょうか」
「ええ、保証いたしますわ。今度お会いになった際、ご相談してみてはいかがですか」
ルディオの表情はまだ煮え切らなかったが、こればかりはメイでは力になれそうもないのだから仕方がない。彼にも主君同様、成長すべきときが来たということだ。
「エリサ様だって人参が食べられるようになったのですから。ルディオ殿も、苦手を克服する良い機会だと思ってみては?」
「人参扱いはさすがに失礼なのでは」
大胆な例えに慄きつつも、エリサの話題に励まされたか、ルディオは覚悟を決めた顔で頷いた。
「分かりました。ご相談してみます」
「その意気です」
励ますように箒を突き上げたメイに笑って一礼を返し、ルディオはエリサの部屋へ戻っていく。エリサの望みが叶うようにと願いながら、メイは掃除を再開する。――全く同じこの場所で、気の置けない友人同士のように笑い合う少女と竜の声を漏れ聞くことになるのは、まだ少し先の話だ。




