序
生きながらにして炎に炙られる女の姿を今も覚えている。
曇天の夕べだった。真冬だというのに石畳の広場は燃え盛る炎と人の脂の匂いでじっとりと蒸し暑かった。人だかりの中央で痩せた女は繭のように四肢を封じて太い柱に縛りつけられ、躍る炎に身を晒されていた。髪の焼け落ちた頭を振り乱し、狂犬の唸声の如き絶叫をあげて悶え、息絶えてもなお陽に灼かれる蚯蚓のように無様に身体を捩らせながら、見る間に真黒な肉塊と化していった。
いつの間にか霧雨の帳が街を包んでいた。誰かが投げた石が二つ三つ、燃え殻の中に転がった。女が動かなくなったことを見届け、透視を解く。目の前が暗くなった。肉付きのいい柔らかな手が、しっかりと目許を覆っていた。
「司書長」
背後から野太い男の声がした。
「本当にそのガキを引き取るんですか。考え直すなら今のうちですよ、処刑しちまうのが世のためだ」
発言の内容よりも、男が身動きする度に鎧と武具の擦れる音ががちゃがちゃと鳴るのが耳障りだった。
「この子になんの罪があると言うのですか」
手の主の女が言葉を発した。柔和な中に芯の通った声だった。目許から離れた右手が肩に触れ、半ば強引に身体の向きを変えられる。この残虐な処刑場から、人の肉の焼ける匂いから、少しでも遠ざけようとするかのように。
「刑吏長と話はついています。この子はもう私の息子です」
「左様ですか。その不自由なおみ足でも、刑吏長殿を満足させる働きができるものなんですなあ」
あからさまな侮辱を女は無視し、男に背を向けた。肩に添えられた手に促されて歩き出す。歩を進める度、女が左手で突く杖の先が石畳にぶつかってこつりこつりと音を立てた。喧しい金属音とは違う、心の落ち着く音だった。
「後悔しますよ」
嘲笑混じりの恫喝が背にかかる。
「森狼の仔は森狼だ、そいつも魔導使に決まってる。その悍ましい眼を見りゃ分かる」
「どのような力を持っていたとしても」
女は振り返らず、足を止めることもなく、低く呟いた。
「それ自体は問題ではない。大切なのは使い方です。貴方の母上はそれを誤ってしまった」
貴方というその柔らかな呼称が己を指すのだと、すぐには分からなかった。
「けれど、貴方は間違えない。私がついています」
自分に向けられた言葉だとようやく理解して、思わず隣を見上げると、女はこちらを見つめて目を細める。目尻に皺が刻まれ、ふくよかな頬が持ち上がる。
「貴方の瞳は本当に綺麗。まるで夜空に輝く極光のよう」
それは一体何なのか、知らなかったが訊ねることもできなかった。笑顔で視線を合わせてくれた人は記憶にある限り初めてで、どんな顔をして見つめ返せばよいのか分からずにただ俯いた。
路地を進み大通りに出ると、道端に馬車が停まっていた。逞しい馬の栗毛が雨に湿って艶めいていた。御者が席から降り、慇懃な所作で客室の扉を開く。扉の前で女は立ち止まり、もう一度こちらの顔を覗き込んだ。夕闇の中でその瞳は少女のようにきらきらと輝いていた。
「私たちの帰る場所は知の都ユールベルン。どんな力を持っていようといなかろうと、皆平等に歓迎される。貴方はそこで眠ることも忘れる物語に出会い、心躍る知識に出会い、まだ知らない世界の姿をたくさんたくさん、その眼で見るのよ」
それがどれほど素晴らしいことなのか今はまだ分からない。ただ溢れんばかりの熱に満ちた眼差しを、高揚した声を、まるで長い間夢に見ていたものだったかのように思った。女が馬車に乗り込もうとする。杖で体重を支えた瞬間、濡れた石畳で杖先が滑るのが見えた。咄嗟に手を伸ばし、身体が均衡を崩すより早く背を支えると、女は驚いたように笑った。
「ありがとう」
――身体に触れて、微かな震えに気づいたそのとき、かつてない温かな感情が清らかな泉のように胸に湧き上がった。その思いの名も知らぬまま、車上から差し伸べられた手を取った。革張りの座席に腰掛けると軋みを上げて扉が閉まる。闇に沈んでゆく広場を窓越しに視る。燻る薪に囲まれて柱に括られているのはただ焼け焦げた肉塊だった。黒く縮んで、煙を上げている。容赦のない打擲を繰り返す手足も、刃のような呪文を発する唇も、もうぴくりとも動きようがないと分かった。女が手を伸ばして窓の覆いを閉めた。
「大丈夫。貴方を傷つけるものはもういない」
馬車が動き出す。広場から曇天へ吸い込まれるようにゆったりと立ち上る黒煙は、徐々に彼方へ遠ざかっていった。




