十一.旅立ち(2)
女王の私室が位置する最上階の廊下には、常に見張りが立っている。見咎められずたどり着くには外から向かうしかない。
大窓のカーテンを開く。外は吹雪だった。エリサを振り向くと、怯んだ様子もなく力強く頷く。風除け布を纏わせ、頭巾を深く被せてから、露台へ出る。膚を抉るような寒さが襲ってくる。人化の術を解き、エリサを背に乗せて、ルディオは女王の部屋を目指し飛び立った。
悪天候は好都合だった。姿は目立たず、羽撃きの音もかき消してくれる。あっという間に一際広い露台へと到着する。ずっしりと積もった雪の上へ降り立った瞬間、心臓が止まりそうになった。
カーテンが開いていた。暖炉の炎だけが仄かに揺れる部屋の中、白い寝間着を纏った女王が窓辺に立ってこちらを見ていた。
背の上でエリサも絶句しているのが伝わってきた。かつての威厳に満ちた姿が見る影もなく、女王は痩せ細っていた。美しかった髪は艶を失くし、袖から覗く青白い手はもはや骨と皮だけだった。素人目にも分かるほど、はっきりとした死相が表れていた。
硝子越しに、頬骨の浮き出た顔が微笑みを浮かべる。大窓がゆっくりと開かれる。
「お母様!」
エリサが背から飛び降りた。勢いよく投げ放たれた鞠のように、母の胸へと飛び込んだ。女王は娘を受け止め、乱れた髪を指で優しく梳く。
「マーチェルから話を聞いて……」
声は小さく掠れてはいたが、しっかりとした芯があった。
「貴方たちは、きっと来るのではないかと思ったの」
女王に手招かれて、ルディオも人の姿に戻り、部屋へと入った。衣服の雪を払い、大窓を閉める。暖炉の熱が痺れた四肢に血を通わせ始める。
「何か、言いたいことがあって来たのでしょう」
何もかもお見通しのようだった。エリサが絨毯に跪き、ルディオも主君に倣った。
「陛下、どうか、氷壁の外へ出るお許しをください」
深々と頭を下げ、エリサは意志の固さを示すかのように、張りのある声で願い出た。
「一刻も早く行きたいんです。あの竜が伝えようとしていたことを、どうしても知りたいんです。それがきっと、この国を守ることに繋がると思うから。不死者をたおす方法も、きっと見つけてきます。お母様の病気を治せる薬も、今度こそ絶対に持ち帰ります。だからどうか」
目の前が陰った。女王がエリサの前に屈み、膝をついていた。息を呑んだ娘の肩に触れ、真正面から顔を見据える。
「一つ、約束してほしいの」
揺れる炎の影を瞳に映し、口を開く。
「私のことは忘れなさい」
「え?」
目を見開いたエリサに、静かな声が説く。
「私の病を治すことは、もう考えないで。貴方は王国の未来のために行く。いつか私と同じ病にかかるかもしれない国民を救うために。進んだ技術と豊かな資源があれば救えるかもしれない人々のために。これから生まれてくる子どもたちが、禍に脅かされることなく、どこへでも行きたい場所へ行き、広い世界を知る……その自由を手に入れるために、貴方は行くの」
落ち着いた口調の底には、目の前の痩せ衰えた女性から発されたとは思えないほどの、燃え滾るような気迫があった。
「わたし、お母様のことを……忘れたくありません」
エリサが顔をくしゃくしゃにした。丸い瞳にみるみる涙が盛り上がった。
「約束します。薬を探すことは、もう考えません。だから、思い出してもいいですか。お母様のこと、ずっと覚えていてもいいですか?」
すすり泣きが聞こえた。エリサではなかった。女王が声を押し殺して泣いていた。常に毅然と振る舞ってきた彼女の涙を見るのは初めてのことだった。
「もう一つ約束して。二人とも……」
深く息を吐き、慟哭を必死に抑え込みながら、女王はエリサを抱き締めた。折れそうなほど細い腕で、強く強く抱き締めた。
「必ず無事に、帰ってきて」
エリサは一瞬嗚咽を漏らしたが、すぐに歯を食いしばって頷いた。
「はい!」
女王はゆっくりと腕を解くと立ち上がり、ルディオを見た。涙に濡れた口許に微笑が浮かんだ。
「エリサを頼みます」
その一言でまざまざと思い出す。朝焼けの竜谷の湖を。腕の中に託された嬰児の重みを。
「はい」
胸に片手を添え、頭を下げる。女王は穏やかな顔で頷いた。もはや動揺は見られなかった。
「明日の朝、出立式を行います」
その言葉を待っていたかのように、部屋の奥で闇に溶け込み佇んでいたファルジアラが、音もなく歩み寄ってくる。丁重にエリサへと差し出したのは、今朝目にしたばかりの小さな木箱だった。中に入っているものは見ずとも分かる。
「ありがとう」
エリサが立ち上がり、箱を受け取る。今度はしっかりと両手で支えた。
「ファル。お母様のことを、どうかよろしくね」
ファルジアラは赤い眼を細めた。
「可愛い姫君。どうかご無事で」
愛おしげにエリサの頬に触れた後、ルディオの方を振り向く。言葉はなかった。ただ乱暴に背を叩かれた。痛いほどの力強さに籠められた思いを受け止めて、一礼する。
「お世話になりました」
「エリサ、ルディオ、荷造りを始めなさい。ファル、マーチェルを呼んできて。出立式について詳しく話しておきたい」
「御意」
指示を受けて、ファルジアラが部屋を出ていく。ルディオも続く。エリサは最後に母へと抱きつき、笑顔を見せた。
「大好きです、お母様。離れてもずっと」
女王はエリサの頭を撫でた。柔らかな髪を掻き上げ、身を屈めて、青白い唇で丸い額に口づけた。
「私もよ。エリサ」
一瞬のようにも永遠のようにも思える抱擁の後、エリサは母から離れ、最後まで笑顔を見せたまま、迷いを振り切るように背を向けた。
翌朝は城中がてんやわんやだった。
エリサの出立の報せは朝の鐘が鳴るより早くに城中を駆け巡った。侍女のメイはすぐさま、街中で着ていても目立たない、小綺麗で動きやすい衣服を手配してくれた。そしてしばしの別れを惜しみながら、一編み一編み無事を祈るように丁寧にエリサの髪を結ってくれた。
「寂しくなりますわ。エリサ様」
編み込んだ髪をいつもの赤い髪紐でまとめながら、メイは鏡台の前に座るエリサを鏡越しに見つめて目を潤ませる。
「まだお小さいのに、重いお役目を背負われて……」
「自分で行きたいと言ったんだもの、心配しないで。帰ったらおみやげ話をたくさん聞いてね」
肩に触れるふっくらとした手に小さな手を重ね、エリサはメイを見上げて笑った。
「それにわたし、もうすぐ十一になるわ。もうお姉さんなんだから」
「ええ……ええ、そうですわね」
メイは目許を拭い、懸命に笑みを返しながら、思い出したように前掛けの内側の衣嚢へ手を入れた。
「実は厨房から、エリサ様にお渡しするものを預かってきたんです」
差し出されたのは小瓶だった。中身は蜂蜜に浸った真紅の果実――花苺の蜜漬けだ。エリサの顔がここ最近で最も明るく輝いた。
「急ぎで作ってくれたそうですよ。旅先で故郷の味が恋しくなりましたら、少しずつつまんでください。一気に食べすぎないように」
「ありがとう! 厨房のみんなにもお礼を伝えて」
礼を述べながら早速さりげなく瓶の蓋を緩ませようとする手を、ルディオは軽く叩いて咎める。メイがくすくすと笑う。
「ルディオ殿、エリサ様の健康管理はお願いしますね」
「はい。おやつの食べすぎは決してさせませんのでどうぞご心配なく」
エリサが拗ねたように顔をしかめ、メイが朗らかに笑う。その声に重なるように、部屋の扉が叩かれた。ルディオが扉を開けに行くと、見慣れた男が、存外よく似合う騎士の正装で立っていた。
「ザウロ殿」
「婦女のお部屋への突然の訪問は、礼儀を欠いているとは思ったんだが」
おどけて笑ったザウロの声を聞きつけ、エリサが小走りで寄ってくる。
「ザウロ、来てくれたの?」
「エリサ様、少しお時間をいただけませんか。式では恐らく、お話しできる時間はないでしょうから」
エリサが廊下へ出ると、ザウロは片膝を突き、小脇に抱えていた麻袋の口を開いた。
「何分急なお話でしたので、新品のご用意が難しく、見習い用のもので申し訳ございませんが」
袋から取り出されたのはいくつかの武具だった。柄に飴色の革の巻かれた簡素な意匠の片手剣、木目の美しい短弓、そして革製の矢筒。どれも年数を経ていることが分かるが、同時に欠かさず手入れされていたことも伝わる。エリサの表情が引き締まる。
「壁の外には、我が国を敵視する者たちや、竜を操っていた魔導使のような邪悪な者たちが、恐らく大勢いるでしょう。子どもだからと手加減してくれる連中ではない。身の危険を感じたら、躊躇わず使ってください」
真摯に語りかけながら、ザウロは剣を繋いだ帯革を手際よくエリサの細腰に巻き、肩紐を腕に通して弓と矢筒を背負わせてくれる。
「重たくはありませんか」
「ええ、平気」
エリサはその場でくるりと回ってみせる。剣や弓はエリサの背丈には少し大きかったが、それでも随分様になっていた。
「よくお似合いです」
言葉とは裏腹に、ザウロの眉尻が下がった。
「……もっとたくさん、いろいろなことを、教えて差し上げたかったのですが」
エリサが泣き出しそうに顔を歪めた。
「本当に、ありがとう。ザウロ」
涙を隠すようにザウロの首へと両腕を回し、肩に顔を埋める。鍛え上げられた傷だらけの手が優しくエリサの背をさすった。
「どうかお気をつけて」
「欠かさず稽古を続けるようにするから、帰ってきたら、どれだけ上手くなったか見てくれる?」
「もちろんです」
笑顔を交わして抱擁を解き、立ち上がったザウロはルディオを見た。真剣な表情を崩してにやりと笑みを浮かべ、ルディオの胸を拳で二度、軽く叩く。
「頼んだぞ、守護竜殿」
「はい」
力強く頷くと、ザウロは満足げに頷き返した。エリサに丁寧に一礼した後、振り返らずに去っていった。
急な決定であったため、出立式は来賓を迎えず王城の家臣のみの限られた面々で執り行われることとなった。
広間の扉が開かれる。ザウロやオムルをはじめ長年王家に仕える臣下たちに見守られながら、エリサとルディオは赤い絨毯の上を進む。玉座で待っているのは女王ではなくマーチェルだ。階を上り、玉座のすぐ前まで進み出たエリサがゆっくりと跪く。マーチェルが立ち上がり、左手を高く翳した。その小指には、王のみが身につけることを許される、国章の彫り込まれた指環がある。
「国王陛下の名代として、私、第一王女マーチェルが出立式を執り行います」
広間が僅かにざわめいたが、エリサは身動ぎもせず頭を下げたままでいる。
「旅の無事を祈り、陛下より第二王女エリサへ餞別の品を贈呈します」
玉座の隣に控えていたエクシオスロが進み出る。捧げ持つ天鵞絨の盆に何が乗っているのか、階の下からでは確認できない。立ち上がったエリサが目を瞠った。
「これは?」
「陛下が魔力を籠めてくださった魔道具です。左腕を」
言われるがままエリサが左腕を差し出すと、マーチェルはエリサの手首にそれをくるりと巻いて取り付けた。ほんの一瞬、金粉が舞うかのような魔法の光がエリサの腕を取り巻いた。エリサが腕を掲げると、白い膚を彩る繊細な金の鎖を見てとることができた。少しゆとりのある鎖は、硝子扉越しに射す朝陽を受けてきらきらと揺れた。
「願いを込めてこの鎖を断ち切れば、陛下の移動魔法を使うことができる。どこにいても、この城へ瞬時に戻ってくることができるでしょう。ただし」
マーチェルは言葉を切り、厳しい眼差しで妹を見据えた。
「魔法を使えるのは一度きり。旅を諦めるか、完全に目的を果たしたか。そのいずれかのときにだけ、使いなさい」
「承知いたしました」
エリサが頷くと、マーチェルは正面へ向き直り、衛兵たちへ向けて声を張り上げた。
「出立です」
硝子扉が開け放たれる。エリサを先頭に、マーチェル、エクシオスロ、ルディオが続いて露台へ出る。この真冬には奇跡のような、雲一つない青空が広がっていた。
預けていた荷物を侍従たちが持ってきてくれる。ルディオはエリサの腰に剣を提げ、風除け布を着せて、弓と矢を背負わせる。ルディオの背負う革鞄には最低限の着替えと、路銀代わりの貴金属に宝石、花苺の蜜漬け、そして謎に包まれた立方体の石が入っている。金の刺繍の入った手巾をエリサがこっそり忍ばせていることもお見通しだ。
「お姉様」
身支度を整えたエリサが、そっと姉に歩み寄った。
「任された仕事を、二度も放り出して……本当に申し訳ありません」
マーチェルが溜息をつきかけたが、公の場だからと思い直したのか、留まる。
「初めから期待などしていなかったわ」
溜息よりも痛烈な言葉に刺されたが、何を言われても仕方がない。唇を噛んで俯いたエリサに、辛辣な声がぴしゃりと告げる。
「行くと決めたからには、いつかのように泣いて逃げ帰ってくるのは止めて頂戴」
女王によく似た、燃えるような力強さを湛えた青い瞳がエリサを射た。
「必ず成し遂げるの。私と貴方でこの国を守るのよ」
エリサが息を詰まらせた。喉の奥から溢れかける涙声を必死に呑み込んで頷いた。
「はい!」
エリサとマーチェルが言葉を交わしている間に、ルディオはエクシオスロへと歩み寄り、頭を下げた。
「忠告をいただいたのに、申し訳ありません」
視線を雪の上へ落としたまま続ける。「エリサ様のお望みが危険なものと分かっていても、断るべき我儘だとは思えませんでした。私の全てを懸けても、ご自分で選んだ道を歩ませて差し上げたかった。だから」
「御託はいい」
淡々と遮られ顔を上げると、無表情の黒い隻眼はこちらを見ていなかった。向かい合うマーチェルとエリサ、二人の姉妹の横顔へと向けられていた。
「無事にお帰ししろ。それを果たせず帰参したならば、お前の命はないと思え」
元よりその覚悟はできている。容赦ない言葉に貫かれて身体の内にこみ上げるのは不安ではなく、心の臓が震えるほどに昂る熱だ。
「はい。必ず」
エリサが話を終え、こちらを向いて頷いた。並んで露台の先へ歩み出る。旅立つ前に目に焼き付けておこうと、山々を、街を眺め、庭園を見下ろして――目を疑った。
「花が……」
庭の雪冠花が満開だった。
雪の中に紛れてもなおいっそう白く輝く美しい王冠。王国の象徴。エリサの生まれた季節の花、大好きな花が、庭一面に溢れるように咲き誇っている。雪冠花は春を告げる花、冬の只中に咲くことなどありえない。エリサは姉を振り返る。厳格な色を湛えた眼は表情一つ変えることはなかったが。
「行きなさい」
見守る人々へと深く一礼した後、ルディオは人化の術を解いた。竜の姿でいる間、人の姿で身につけた荷物は衣服等とともに跡形もなく消えてしまうが、再び人化すれば元に戻る。背を低くし翼を下げると、エリサが翼を伝って軽やかに背に上り、角を握って跨った。
「行ってまいります」
決然とした声と同時に、ルディオは翼を大きく広げ、雪を蹴り上げて飛び立った。
蒼穹を切り拓くように、青い竜が飛んでいく。銀の街を越え、急峻な山脈を越え、振り返らずに、どこまでも真っ直ぐに。楽しい旅であれと願う。重い使命をひととき忘れるほどの美しい情景と、素晴らしい出会いに満ちた旅であれと。
「――陛下」
私室の露台の縁に立って空を見ていた女王の隣に、ファルジアラが並んだ。
「あの子たちなら大丈夫。貴方様の血を引く娘と、私が育てた若竜だ」
冷たい風に白髪をなびかせて微笑み、空を仰いだまま、そっと訊ねる。
「御心は、変わりませんか」
女王は頷いた。
「不死の力を狙う者たちが、またいつ襲ってくるか分からない。残り僅かの命だもの、惜しくはないわ。予定より随分早くなってしまったけれど……」
思い切るように息を吸い、はっきりと告げる。
「この国を再び、鎖します」
「陛下……」
痛みを堪えるように柳眉を歪めたファルジアラへ女王は笑顔を見せ、抱擁をねだる少女のように両腕を広げた。
「昔のように呼んでよ。ファル」
ファルジアラは目を閉じ、脆い身体を抱き締めた。硝子細工を扱うような優しい抱擁に、やがて思いを振り絞るように力が籠っていく。
「レイナーデ」
「私、頑張ったでしょう」
「ああ」
ファルジアラは掠れ声で笑う。
「あの弱虫が、信じられないくらいだよ。本当に、よく頑張ったな」
痩せこけた頬を片手で撫でる。誰よりも傍で見守ってきたこの友と、正面から見つめ合えたのはいつぶりだろうと思った。民を、臣下を、娘たちを、王国を、見守る横顔ばかりずっと見ていた。それが少し寂しくて、たまらなく幸福だった。
「最後まで、傍に居て」
レイナーデが自身の襟の中へ手を差し入れた。首に掛かる華奢な鎖を手繰り寄せると、衣の下から現れたのは指環だった。ほっそりとした銀細工で、台座には砕けた氷河の欠片のように透き通った、小ぶりな石が据えられている。石の中では白い靄のような光が絶えず揺らめいていた。指環を持って軽く引くと、鎖は呆気なく千切れ、胸元を滑り落ちていく。それが雪の上に落ちる軽い音とともに、ファルジアラは思わず両手を伸ばし、指環を手にした細い指を包み込んでいた。
「二人で逃げないか。レイ」
押し殺していた感情が、堰を切って溢れ出た。
「お前は充分よくやった。姫君たちは立派に育った。こんなもの捨てて、最後くらい、好きに生きたっていいだろう」
そうできたならどんなにいいだろうか。一声命じられればどんな障害も乗り越えられる。必ず望みを叶えてみせる。
「行きたいところへ連れていってやる。子どもの頃に散々行きたがった壁の外へも、どこへでも」
レイナーデはファルジアラの赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。そうして微笑んで、首を振った。――そう答えることは知っていた。どのような言葉をかけようと、どんなに願おうと、決意が揺らぐことはないと。嘆息するファルジアラの手に、そっと指環が載せられる。
「自分じゃ勇気が出ないから、貴方に頼んでもいいかしら」
ファルジアラは苦笑を浮かべ、指環を受け取った。昔から、こうと決めたら動かない子だった。そんなところはそっくり王女たちに受け継がれた。
「最後まで頑固者だな、私のお姫様は」
冗談交じりの口調で言うと、騎士が姫君を導くように恭しく、レイナーデの左手を取る。
「では、姫。誓いの言葉をどうぞ」
レイナーデは深く呼吸をした。
目が眩むほど空が青かった。火照った頬に風が心地よかった。旅立ちに最良の日だ。青い竜の姿は、もう見えない。ファルジアラに合わせて少しふざけてみようかと思ったのに、口を開けば素直な言葉が零れ出た。
「今までありがとう、ファルジアラ。私の守護竜になってくれて、ありがとう」
「……こちらこそ、ありがとう。レイナーデ」
白竜が微笑んだ。柔らかな唇が指先に触れた。どんな宝石より美しい赤い瞳を、最後まで目に焼きつけた。薬指に指環の嵌る感覚がした。
ぱきん。
大気に氷の生まれる瞬間のような、微かな音が耳に届いた。背の上でエリサが振り返る気配がする。
「今、何か聞こえた気がしなかった?」
ルディオにはそれが何なのか分かる気がしたが、黙って翼に力を籠めた。王国は既に水平線の彼方に消え、影も形もない。音の正体をエリサはしばらく思案しているようだったが、未練を振り切るように頭を振って前へ向き直る。
「もう引き返せないものね」
ルディオは首肯するように喉の奥で唸り、僅かに加速した。振り向くことはもうできない。目的を果たすまでは、帰れない。
身体を打つ風は厳しい冷たさで、それでもどこか清々しかった。遮るもののない陽光が眩しくて眼下へ視線をやれば、深い碧色の海がどこまでも広がっている。広大無辺な水面を、ちっぽけな竜の影がなめらかに滑っていく。きらめく波間に、白い背を見せて戯れるように泳ぐ氷鯨の群れが見える。
「見えたわ!」
エリサが前方を指差した。海の果てにぽつりと姿を現した緑豊かな陸地は、近づくにつれ、際限なくその姿を膨らませていく。密集した赤煉瓦の建物、森林、乾いた砂地、荒々しく聳え立つ白い山脈まで、あらゆる色と光影の刻み込まれた巨大な大陸へと変貌する。
角を掴んでいたエリサの左手が離れた。金属が鱗に擦れる玲瓏な音がした。その腕にある金の鎖を見つめているのだろうと、小さく呟く声で分かった。
「行ってきます」
愛しい人々。美しい故郷。再会の日が遥か先になることを――それが望まぬ形となることを、王女と竜はまだ知らない。眩い朝陽が昇りゆくともに、新たな出会いと波乱に満ちた長い旅路の幕が今、上がろうとしていた。




