十.旅立ち(1)
感謝祭から一月が経ち、王都はすっかり雪に埋もれた。
大粒の雪が降りしきる朝、ルディオは城の隣に建つ近衛騎士団の兵舎の門をくぐった。赤煉瓦造りの五つの棟が複雑に入り組んだ構造はまるで小さな砦だが、一月も通えば迷うことはない。すれ違う騎士や使用人たちと挨拶を交わしながら敷地の奥へ進む。裂帛の気合と木剣の激しくぶつかり合う音が徐々に大きくなる。視界が開けた。一面に雪を被った訓練場の隅、太い柱で囲まれた石造りの大屋根の下で、騎士見習いたちが稽古試合を行っていた。
何十人もの集団に紛れていようと、エリサの姿は真っ先に目に飛び込んでくる。子ども用の大きさに誂えられた濃紺の戦衣を身に纏い、同じ歳の頃の少年と剣を交えていた。突きを躱し、斬撃を受け流し、素早く背後に回り込んで切り込む。習い始めた当初より随分と様になってきた動きに目を奪われていると、前方から名を呼ばれた。柱にもたれて稽古の様子を見ていたザウロが片手を上げていた。
「いつもありがとうございます」
「随分迎えが早いな。どうした」
「遺体調査の報告書がまとまりました。これからマーチェル様へご報告差し上げるとのことなので、エリサ様にもご同席願おうと」
巨竜との戦い以降殆ど毎日、エリサは騎士見習いたちの稽古に交ぜてもらっていた。ルディオはといえばエリサが木剣で叩かれる様を冷静に見ていられる自信がなく、稽古の見学はせずに王城の魔法研究室で巨竜の遺体調査を手伝っていた。できることと言えば重たい器具の持ち運びや文献探しや部屋の掃除、そんな雑用ばかりだったが、学者や医師たちの尽力の甲斐あってようやく一区切りがついたところだった。そうかとザウロは頷き、一段声量を落とす。
「報告書のような立派なものはないが、いい機会だ。この一月エリサ様を見てきた所感を俺も伝えよう」
前置きすると、懸命に木剣を振るうエリサへ目をやった。
「反射神経と胆力には確かに目を瞠るものがある。だが総合的に見て、身体能力が比較的高いという程度。現状、取り立てて優秀というほどではない」
「そうですか……」
十歳の少女が、弓を初めて触ったその日に、手負いとはいえ竜を倒したのだ。武術の才が開花したのではと思っていたが、考えが甘かったらしい。
「運が良かっただけなんでしょうか」
「運だけで竜は倒せん。戦闘の才能があることは確かだが、それを使いこなす土台……体力や技術がまだ足りていない。あのときはお前の危機がきっかけで、一時的に実力以上の力を出せたんだろう」
俺も見たかったな、と軽口を挟みながらもザウロは真剣な面持ちで続ける。
「欠かさず鍛錬を続ければいずれ、才能を存分に発揮できるようになる。その上諦めが悪く、度胸もおありだ。どんな劣勢でも活路を見い出す優れた剣士となる、その素質は充分にある」
ルディオにとって喜ばしい言葉ではなかった。けれどもエリサが選んだ道をともに行くともう決めた。複雑な胸中を汲んでくれたのか、ザウロはそれ以上何も言わずルディオの肩を叩くと前へ進み出、そこまで、と声を張る。見習いたちが剣を収め、稽古相手に一礼し、休憩に入った。快いざわめきが稽古場を包む。手巾で汗を拭っていたエリサがこちらに気づいてぱっと顔を輝かせ、一つに括った髪を揺らして駆け寄ってくる。
「ルディオ、いつからいたの?」
「今来たところです」
「じゃあ、見てくれてはいないのね。さっき初めてレオルトから一本取れたのよ。ねえザウロ」
「まことにあの一戦はお見事でしたな。着実に上達していらっしゃる」
称賛を受けてエリサは笑顔になり、こちらを振り向く。
「何か用事があったの?」
「これから竜の遺体調査の結果報告を行うそうです。オムル殿が、エリサ様にもぜひご同席いただきたいと」
エリサの顔から笑みが消えた。固い表情で頷き、ザウロに指導の礼を伝えて、武具を片付けに離れていく。見計らったように、遠巻きにこちらを見ていた騎士見習いの若者たちがわらわらと寄ってきた。
「ルディオ殿、今日こそどうです」
「一戦お願いできませんか」
エリサの稽古初日、世話になる礼として希望者との手合わせを片っ端から受けて以降、見習いたちはルディオを見るやことあるごとに試合に誘ってくる。竜に勝てたならすぐにでも騎士団に入れてやる、とザウロが約束したせいだ。ルディオとしては力加減を誤ってしまわないか冷や汗ものだったので、できれば二度と戦いたくはない。
「すみませんが急ぎの用事がありますので、またいずれ」
丁重に断ると若者たちは口々に残念がる。片付けを終えたエリサが外套を手にして戻ってきた。ルディオは外套を受け取り、エリサの腕を袖に通して釦を留める。
「一度お部屋に戻られますか」
「このまま向かうわ。お姉様をお待たせしてしまってはいけないから」
「お帰りですか?」
姿勢を正す見習いたちに、エリサが丁寧に膝を曲げて応える。ドレス姿ではないのであまり様になってはいなかったが。
「今日はこれで失礼するわ。ありがとうございました」
「お疲れ様でした!」
大屋根の外へ出る。人化の術を解き、竜の姿を現すと、普段竜を見る機会のない見習いたちがわっと沸き立つ。若干のくすぐったさを覚えながらも、エリサが背に乗るのを確認し、ルディオは雪の舞う空へと飛び立った。
魔法研究室は城の地下にある。中庭を囲む回廊の最奥、物置と見紛うほど小さな扉を開けば、ひんやりと湿った闇の中、古い木の匂いの漂う階段が石壁沿いに螺旋を描いて下へと続いている。
「こんなところにお部屋があったのね」
声を弾ませるエリサの手を取り、軋みを上げる狭い階段を慎重に下りる。天井に吊るされた魔法の銀の燭台が青い炎を揺らめかせ、石壁に淡く影を映し出して来客を知らせるが、学者たちは大抵研究に没頭しており、声をかけるまでは気づいてもらえない。
半ばまで段を下りて部屋の様子が見えてくると、エリサが小さく歓声を上げた。燭台に迫るほど背の高い書棚が、分厚い本をはち切れんばかりに抱えて所狭しと林立している。板張りの床には赤牙蛇の這ったような字で書き殴られた書類や、鈴の形やら壺の形やらをした使い道の想像もつかない大小の魔法道具があちらこちらに散乱し、足の踏み場は殆どない。初めて手伝いに訪れたときにはこの惨状を片付けなければいけないのかと戦慄したが、数分後にはこれが常態らしいと判明し、安堵とともに唖然としたものだ。
「なんだか、異国の市場を思い出すわ」
階段を下り切ったエリサは、興奮を隠しきれない表情で部屋のあちらこちらに目をやる。「面白そうなものばっかり」
「触るなよ」
ところどころで足を止めそうになるエリサを急かしながら、狭い通路を進んで書棚の林を抜ける。大きな机に山と積まれた本の向こう、忙しく動いている禿頭が見えた。
「オムル」
エリサが呼ぶと、本の山の陰から厳めしい顔立ちの小柄な老人が顔を覗かせた。
「エリサ様。お見苦しい場所にお呼び立てして申し訳ございません」
「いいえ、呼んでくれてありがとう。お姉様は?」
「隣室でお待ちです」
先に到着していた。やはり稽古場から直接来て正解だった、とエリサと目で会話しつつ隣室へ向かう。ルディオも入るのは初めてだ。扉を開くと、打って変わって不気味なほどに物の少ない部屋だった。小さな暖炉が照らし出す中央には六人掛けの円卓があり、マーチェルとエクシオスロ、そして細身の若い男――遺体の腑分けを担当した獣医師のマルスが座して待っていた。マーチェルが目を上げ、戦衣姿のエリサに眉をひそめたが、何も言わない。
「お待たせして申し訳ありません」
急いで席につく。続いて入ってきたオムルが扉を閉めた。留め金でまとめられた報告書らしき紙束と、分厚い本、そして掌大の木箱を卓上に置く。
「王女殿下方、それに守護竜殿。お時間をいただきありがとうございます」
席につくや、オムルが口火を切った。
「早速ですが調査結果のご報告を。マルス」
「はい」
マルスはマーチェルの前に報告書を広げた。竜の身体の内外を正確に描いた図が並び、細かい文字で注釈がついている。エリサは横から身を乗り出してちらりとそれを覗き込んだが、すぐに姿勢を戻した。全く理解できなかったのだろうと、かつて同じ思いをしたルディオには察することができた。
「口頭でご説明いたしますので、ご心配なく」
マルスがエリサに笑みを向け、次いで真剣な表情で図を示す。
「まず竜の素性についてです。性別は雌。焔を吐いたとの証言や、鱗の輪紋から見ても、推定千歳以上と思われます。氷壁の外から飛来したとのことですが、この国の竜と同種で間違いありません」
「魔法の痕跡を調べましたところ」
オムルが引き継ぎ、報告書をめくる。「血液中から始祖オリヴェルダの主従契約魔法、及び人化の術の反応がありました。さらにルディオ殿の報告では、竜は最期に始祖の名を呼んでいたとか」
水を向けられ、ルディオは頷いた。
「約束を果たせずすまないと、詫びていました」
忘れもしない光景を思い返しながら、遺された言葉をなぞる。
「『皆が待ってる。どうか探して……』」
場がしんと静まった。各々がその発言の意味を思案しているようだった。
「発言の内容は一旦置いておくとして。全ての要素を踏まえると、かの竜は恐らく――」
オムルは卓に置いていた分厚い本を開き、図の横に並べる。オリヴェルダ王国の民ならば誰もが知っている、建国にまつわる古い民話を記した本だ。ルディオも幼いエリサが眠れないとぐずる夜に語り聞かせたことがある。開かれた頁には色褪せていながらも緻密で美しい挿画がある。
「大聖堂の……」
エリサが呟いた。始祖と初代守護竜の姿を描いた、大聖堂の壁画そっくりの画だった。四頭並んだ竜の右端、退色した青で描かれた竜を、節くれだった手が示す。
「初代守護竜の一人、青竜セヴリア」
エリサが息を呑む横で、マーチェルが静かに頷いた。
「私もそうではないかと思うわ。疑問は残るけれど。続けて頂戴」
「では次に、竜の死因について」
マルスが報告書をめくる。「直接的な死因はエリサ様の与えた射創。しかし王国へ飛来する以前に負ったと思われる外傷が、全身に百箇所以上見られました」
図に描かれた竜の身体には、夥しい数の傷が丁寧に記録されていた。血で汚れた美しい鱗、苦悶に満ちた咆哮を思い出し、ルディオは思わず目を逸らす。
「いずれも強力な魔法でつけられた傷であり、回復速度が著しく鈍化していました。この傷による流血や苦痛が竜の体力、気力を削ぎ、死の遠因となったことは間違いありません。ただ……」
マルスは眉をひそめながら、図の竜の頭から腹へゆっくりと指を滑らせた。
「命に関わる急所は、不自然なほど無傷。命を奪うことではなく、苦痛を与えることを目的とした暴行だったのではないかと思われます」
マーチェルが目を細め、対照的にエリサは瞬きも忘れたように目を見開いて図を見つめていた。二人の表情に怒りが満ちていることに、ルディオはなぜか自分が救われたような気になった。
「竜を操っていた魔法については痕跡が残っておらず、ルディオ殿の証言に依りますが……赤い霧状で、傀儡の如く竜の身体を動かしていた。竜の死後には女が姿を現し、不死者の力を狙っての襲撃であると述べた、と」
確認を求めるオムルの視線を受けて頷くと、エリサも隣で頷いている。
「そんなものが地下に眠っているだけでもおぞましいのに、邪悪な者の手に渡ったらと思うと、心底ぞっとします」
マルスが呻いた。オムルをはじめ魔法研究員たちはもとより不死者を斃すための研究を行っており、その存在を知っていたが、マルスには調査の便宜上、今回初めて明かさざるを得なかった。明かした当初は「ぜひ腑分けして調べてみたいものですね」などと冗談を言ってのけ、気丈な男だとオムルを感心させていたが、内心やはり恐怖はあっただろう。
「最後に、お二人にお見せしたいものがあります」
オムルが立ち上がった。報告書の傍らに置いてあった木箱を手に取り、王女たちの傍へ歩み寄る。蝶番で留められた木箱の蓋がゆっくりと開かれた。エリサが首を傾げる。
「これは……?」
柔らかな赤い天鵞絨の敷かれた箱の中には、冷たく黒光りする拳大の立方体が収まっていた。石のようにも、金属のようにも見える。
「竜の胃の腑から見つかったものです」
マルスが答え、王女たちに薄手の手袋を渡す。「手に入る全ての資料を調べましたが、材質も、文字も、特定には至っておりません」
「文字?」
見れば立方体の面の中央には、文字らしきものが線を成すように連なって刻み込まれていた。直線のみで形成された、見たことのない文字だ。
「確かに、初めて見る文字だわ。少なくとも王城の図書館には参考となる文献はない」
図書館の本を全て読破したかのような空恐ろしい発言をするマーチェルの隣で、エリサは不思議そうに首を傾げた。
「どうして、こんなおいしくなさそうなもの食べたのかしら」
場に似合わぬ素朴な疑問にマルスが一瞬頬を緩ませたが、すぐに取り繕う。
「お伝えが遅くなり申し訳ございません。『それ』——便宜上、『石』としますが、その石は強力な魔法で保護されており、消化された形跡はありませんでした」
エリサが目を瞬く。
「食べたのではないってこと?」
「ええ。恐らく、秘密裏に持ち運ぶため自ら呑み込んだのだと思われます。非常に貴重なものだったか、あるいは、他者に見つかってはならないものだったか」
「もしくはその両方ね」
マーチェルは速やかに手袋を嵌め、物怖じもせず石を手に取った。瞬間、大きく目を見開く。
「封印が施されている……中に、何かが入っている」
部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
「何かお分かりになりますか」
食らいつくように訊ねたオムルの声も耳に入らないかのように、マーチェルは視線の高さまで石を持ち上げ、青い瞳で凝視した。目に見えぬ攻防を繰り広げているのか、しばらくの間そうしていたが、やがて悔しげに頬を歪める。
「分からないわ。良いものか、悪しきものなのかさえ判別できない」
「左様ですか」
オムルも口惜しさを隠そうともせず歯噛みした。「私どもも部下たちの魔法や、持てる魔道具を全て使って試しましたが、解析は叶いませんでした。マーチェル様や陛下であればあるいは、と思っていたのですが」
「申し訳ないけれど私では力になれない。陛下にもご相談はしてみるけれど、今は魔法をお使いいただくことは難しい」
「でしたら、無理は申し上げられません。ですが何かお気づきのことがあれば、お知らせいただければと」
「ええ」
「わたしも、見てみてもいいですか」
エリサが両手を伸べると、マーチェルが石を手渡してくれる。ちょうど両手にすっぽりと収まる大きさだったが、思ったよりも重かったようで、受け取った手ががくんと下方へ沈む。慌ててルディオも片手を添えて支えた。
「ずっしりしてるわ」
二人で手の中を覗き込む。黒々と艷めく表面はなめらかで、暖炉の揺れる炎を僅かに反射している。刻まれた文字以外には傷一つなく、匂いも殆どない。手の中で回転させる。各面全てに異なる文が刻まれている。いずれの文も面の中央に一行のみで、読み方はおろか、読むべき順も、上下の区別すら分からない。
エリサが石に耳を近づけ、軽く揺すった。中に入っているものを探ろうとしたのだろうが、なんの音もしない。残念そうに姉へと返す。マーチェルは石を木箱へ戻して睨むように見下ろし、嘆息する。
「あの竜にとって重要なものであったことは間違いない。彼女の遺した言葉を読み解く手がかりになるものかもしれない。それなのに……」
「何も分かってあげられないのは、悔しいです」
俯いたエリサの声には力が籠もり、震えていた。オムルが首肯する。
「そうですな。文字の解読、及び封印の中身については、全霊で研究を続けてまいる所存です」
ですが、とマーチェルに向き直り、一礼する。「ひとまずご報告は以上です。陛下にご奏上いただければと」
「ええ。私からお伝えします」
マーチェルの言葉を受けてエクシオスロが席を立った。足元に置いていた箱型の鞄を卓上に開き、預かった報告書と木箱とを無駄のない動きで収めていく。エリサが落ち着きなくマーチェルの横顔へ目をやった。身を乗り出し、口を開きかけて閉ざす。何かを言おうと迷っている。
「二人とも御苦労でした。他の皆にも礼を伝えて頂戴。引き続きよろしく頼みます」
労いの言葉に、オムルとマルスは立ち上がり、胸元に片手を添える正式な礼で応えた。エクシオスロが部屋の扉を開く。同時にエリサは迷いを振り切るように立ち上がり、マーチェルの背に声をかけた。
「お姉様!」
扉の前で足を止めた姉に駆け寄り、微かに震える声で訊ねる。
「お母様には……陛下には、わたしからご報告させていただけませんか」
感謝祭以降、一度も女王には会えていなかった。安静のため極力人と会うことを控え、マーチェルと限られた医師のみが面会していると聞いている。姉姫は半身で振り向き、表情一つ変えることなく答えた。
「貴方には任せられないわ」
今度こそ振り返らず去っていく背中を、エリサは唇を噛み締めて見送った。見るに忍びなく、ルディオは主君の傍へ寄り、肩を支える。重い使命を背負った日から、エリサは母を案じる言葉を口にすることはなくなった。周囲に気を遣わせまいと、母が頼るに足る存在であろうとしていた。それでも常に、胸の底には不安が淀んでいる。涙する夜があることも知っている。
「ファルジアラに相談してみないか。窓の外から少しお顔を見るくらいなら許してもらえるかもしれない」
王女たちに甘いファルジアラであればきっと許してくれる。エリサは僅かに迷う素振りを見せたが、笑って首を振った。
「ありがとう。でもやっぱり大丈夫」
らしからぬ諦めのいい返事の裏に、言葉にならない感情がわだかまっている気がしたが、ルディオはそれ以上何も言えなかった。
その晩のことだった。夕食を済ませた後、エリサとルディオは私室の机を挟んで向かい合い、すっかり日課となった薬草図鑑の確認を進めていた。木箱いっぱいに詰められていた図鑑は、確認を済ませたものからエクシオスロに返却し、少しずつではあるが減ってきている。薬草の見た目や名前も徐々に覚えて、作業も速くなってきた。
蝋燭の火が揺れる。頁をめくる音だけが響く沈黙の中で、エリサが唐突に、深く息を吸った。
「ルディオ」
呼ばれることが心のどこかで分かっていたのか、声と同時に顔を上げていた。エリサはこちらを見ていなかった。図鑑の頁へと伏せられた眼差しに既視感を覚える。
「あの竜を看取ってから、ずっと考えていたの」
ぽつりと、小さな声が零れた。
「いっぱい悩んだ。また貴方を困らせる。お母様、お姉様、みんなに迷惑をかける。だけどやっぱり、どうしても」
躊躇いながら次の言葉が紡がれるまでの、その一瞬のうちに、声になる直前のエリサの心と自分の心が繋がったかのような、奇妙な感覚に襲われた。忘れようとしても忘れられなかった記憶が脳裏から全身になだれ込み、鮮やかに五感を支配した。潮風、満天の星、草木の匂い、色とりどりの街と人いきれ。
「――わたし、」
榛色の瞳が、あの夜と同じ強い光を宿してルディオを射た。
「もう一度、壁の外へ行きたい」
「……だと思った」
もはや驚かない。ルディオの胸の裡にも確かに同じ思いがあった。
「あの石のことを、調べに行きたいんだな」
エリサが頷いた。
「あの竜を……殺したのは、わたしなんだもの。わたしが突き止めなきゃいけない」
「負い目に思うことは何もない。お前が来てくれなかったら俺は死んでいた」
エリサが泣き出しそうに口の端を歪めた。
「後悔はしてないわ。でも」
涙を零さないようにと懸命に見開かれた眼がたちまち潤んでいく。絞り出された声が揺らいだ。
「目が合ったの。どうかみんなを探してと、あの竜はわたしに頼んだの」
考えすぎだ、とは言えなかった。あのとき、竜は確かにエリサに語りかけていた。エリサの中の始祖の血に。
「みんなって誰のことか、約束ってなんなのか、何も分からないけれど……お姉様がおっしゃったとおり、あの石の謎を解くことができればきっと分かる気がするの。あんなひどいことをされたのに、最後の願いを聞き届けたのに、成人するのを待つだけなんてどうしても嫌なの」
瞬きとともに涙が溢れた。エリサは頬を拭うこともせず、食い入るようにルディオを見つめた。
「お母様にお会いして、説得したい。力を貸して」
ルディオは目を閉じた。見知らぬ街で投げつけられた罵声を、悪意に満ちた眼差しを思い返した。マーチェルの叱責を、エクシオスロの言葉を反芻した。……何をしても、既に答えは出ていた。あの泥と血にまみれた、残照の丘で。
——お前の判断にエリサ様の命が懸かっていることを忘れるな。
忘れない。忘れない上で、それでも選ぶのだ。自分が本当に守りたいのはエリサの安寧ではない。王家の血でもない。ともにどれほど汚れ傷つこうとも、エリサが迷いながら自分で選んだ道を、もがきながら切り拓き、歩んでいこうとする、その意志こそを守りたい。守護竜失格の選択だと、嫌というほど分かっている。どんな罰も裁きも受け容れる。
瞼を開いた。エリサの視線を真っ直ぐに受け止めた。
「行こう」
エクシオスロ、貴方の言葉は全て正しい。
それでも俺は、貴方と違う道を行く。




