九.帰郷(2)
竜は深手を負っていた。ルディオに似た、しかし一層深い青の鱗にはいくつも深い傷が走り、どす黒い血の滴る石畳からは悪臭を放つ湯気が立ち上っている。竜の血は猛毒だ。空気に触れれば無毒化するが、鮮血は人間の膚を焼き、多量を浴びれば命さえ奪う。決してエリサに近づけさせてはならない。
竜は地に倒れ伏したまま、折れ曲がった翼のみを動かし、ゆっくりと広げていく。その不自然な動作を注視すれば、血の色に紛れて赤黒い霧のような禍々しい気配が身体に纏わりついているのが見えた。
異様な光景だった。霧は生き物の如く蠢き、まるで人形を操る糸のように、翼を、頸を、足を順に伸ばして、ゆっくりと巨体を起き上がらせる。竜はもがくように咆哮した。血の混じった泡が石畳に飛び散る。
「魔法で、操られてる……?」
エリサが呟く。そうとしか考えられなかった。瀕死のように見えていた竜は今や、開ききった瞳孔を爛々と光らせ、低い唸り声を発しながら眼前に立ちはだかっていた。
「皆、聞け」
騎士団長の低く鋭い命令が、茫然自失としていたその場の全員の意識を現実に呼び戻す。いつしか炎が落葉に広がり、黒煙を上げながら建物に燃え移って、今にも逃げ場を絶とうとしていた。
「声を出さず静かに、速やかに城まで退避せよ」
ルディオは目だけを動かしザウロを見た。右腕に深い傷を負っている。周囲の人々を庇い、飛んできた瓦礫を受けたのだろう。しかし痛がる素振りも見せず、血に濡れた手で剣を抜く。
「怪我人には手を貸してやれ。焦る必要はない。俺が奴を止める」
冷静な声が、人々の恐怖と混乱を一時鎮めてくれた。指示に従い皆が息を潜め、あるいは泣き出す子どもの口を手で塞ぎながら、怪我人を助け起こし、城へ向かって避難していく。竜は唸って羽撃こうとしたが、ザウロの剣が皮膜を切り裂き、動きを止める。
「ルディオ」
返り血を躱し、竜から目を離さぬままザウロが続けた。
「城に戻り、騎士団の連中に知らせてくれ。この場は俺に任せろ、お前が守るべきはただ御一人だ。分かるな」
ルディオは翼の先でエリサを掬うように背中へ載せ、間髪入れず飛び立った。乱暴だが今は他にやりようがない。エリサが悲鳴をあげかけたが、ザウロの指示を思い出したか必死に声を呑み込む。
城まではそう遠くない。数分もかからず城門の内に到着する。転げるように背から下りたエリサは今にも泣き出しそうな顔でルディオの翼の先に縋った。
「ルディオお願い、戻って、ザウロを助けて!」
ルディオもそのつもりだった。いくら歴戦の騎士といえど相手は竜、一方でザウロは怪我を負い、炎に囲まれてもいる。人の姿に変化し、早口でエリサに言い聞かせる。
「俺は戻ってザウロ殿を援護する。お前は騎士団を呼んで、ファルジアラにも知らせてくれ。絶対に城から出るな。いいな」
エリサが頷くより早く竜の姿に戻り、一飛びで元居た場所へ戻る。飛び立とうとする巨竜を押し留めるように剣を振るうザウロが見えた。黒煙に巻かれて苦しげに息をつく、その瞬間を狙って牙を剥いた竜の顎めがけ、ルディオは下降しざまに頸を振るい、角で横殴りにした。竜の頭部が大きく揺れた隙にザウロを庇い、翼を広げて立ち塞がる。
「なぜ戻った!」
背後からの叱責に応える余裕はなかった。正気を失った黒い瞳がぐるりとこちらを向く。まともに対峙すると、竜はルディオの倍以上あるのではないかというほどの大きさだった。意思を確かめるように唸ってみるも、返ってくるのは敵意に満ちた唸り声だけだ。
声が途切れた。竜は巨体からは想像もつかない速度で飛びかかってきた。姿勢を低くし、襲い来る牙を躱したルディオは相手の喉へ喰らいつこうとしたが、赤い霧を纏った翼が信じられない角度に動き、凄まじい力で顔を殴られた。石畳へ叩きつけられ、息が詰まる。傷ついた額から血が流れて右目に入り視界を奪った。地を揺るがす咆哮が上がる。赤い霧に煽動されるように竜は壮絶にもがき、曲がった翼を持ち上げた。息を荒らげ血を滴らせながら、黄昏の空へ飛翔する。その方角は――
「大聖堂か!」
ザウロの声と同時にルディオは羽撃いていた。ザウロが何か叫んだが、声はすぐに背後に遠ざかっていく。必死に巨竜へ追いつき、尾に喰らいつくと、竜は暴れ狂って振り払おうとする。尾の先がちぎれ、ルディオは血飛沫とともに宙へ放り出されたが、どうにか翼を広げて体勢を立て直した。瞬間、竜が眼前に迫った。巨大な口が開く。噛みつかれるかと思ったがそうではなかった。赤くぬめる肉でできた隧道のように深い喉の奥から、白焔の柱が渦を巻いて迸った。
焔を、吐いた。
そんな業を使える竜は遥か古の存在、もはや竜谷には存在しない。そんなことができるのは——
避けきれなかった。右の翼が焼けちぎれるような痛みに襲われ、ルディオは地面に墜落した。
視界が明滅し、口腔に血の味が広がる。白黒になった世界が不安定に揺れ、やがてじわじわと色が戻ってきた。城の裏手の丘だ。場所を把握すると同時に、巨竜が傍に降り立った。先にルディオに止めを刺す方が円滑に事を進められると判断したのだろう。
身体が起こせない。左の翼を広げようとしたが叶わない。落下時に折れたのだ。竜の回復力であれば数分で完治するはずだが、そのような猶予が与えられるはずもない。
――お前にだって何が起こるか分からんぞ。
ザウロの言葉が耳の奥でこだまする。最後に見たエリサの泣き出しそうな顔が脳裏に浮かぶ。自分が居なくなることなど考えもしていなかった。
巨竜がルディオの翼を足で押さえ込み、牙を剥いた。力を振り絞って身を捩り抵抗するも、足の下から逃れることさえできない。
空を切る微かな音がした。
カン、と高い音とともに呆気なく青い鱗に弾かれたのは一筋の矢だった。巨竜は鬱陶しそうに目を眇めて振り返る。ルディオもどうにか片目を動かし、矢の放たれた方へ視線をやった。
「こっちよ!」
エリサだった。
夕陽の照らす丘の上、小さな手に不釣り合いな大弓を構えて、竜の注意を引こうと声を張り上げている。なぜ来た。逃げろ。叫んでも声は言葉にならない。もう一度放たれた矢を翼で払い落とし、巨竜はルディオを踏みつけたまま、邪魔者を焼き尽くそうと口を開く。
ルディオは咆哮をあげた。死にもの狂いで暴れ、地を這いずり、翼を引きちぎる勢いでどうにか起き上がろうとあがくが動けない。エリサはルディオから竜を引き離そうと、三度目の矢を放ちながら後ずさっていく。巨竜は狙いを定めて飛び立った。間に合わない。
――その後に見たものを、ルディオは夢なのではないかと思った。
竜の飛翔とともに広範囲に散った血の雨を、エリサは身を翻して避けた。そのまま怯むことなく丘を駆け下ってくる。小さな身体のどこにそれほどの力を秘めていたのかと思うほど、まるで放たれた矢そのものになったかのような速さで、泥濘に足を取られて転びながら、吐かれた焔を転がって躱し、血だまりを飛び越え、旋回する竜の真下へと躍り出る。
竜はさらに上昇し、雲の中へと紛れていく。射るには遠すぎる。エリサがこちらを見た。目が合った。思い描く光景が重なったことを、疑う余地もなく互いに理解した。僅かながらも癒えたか、翼は動く。ルディオは地を蹴り一瞬でエリサへ迫るや、身体を翼で掬い上げて宙へと舞い上がった。
今にも沈もうとする太陽の最後の光が、空を眩いほどの黄金に染めていた。刃のような風が全身を切り裂く。みるみるうちに距離が縮まり、雲の切れ間に竜の姿がはっきりと見えた。長くは飛べない。機会は一度だ。ルディオの肩に脚を掛けて背を反らしながら、エリサが深く息を吐くのが聞こえた。
弓弦が音高く鳴る。ルディオは視線を上げた。頭上遥か、白く輝く竜の剥き出しの喉を、矢が過たず貫いた。
竜は声もなく仰け反った。翼の動きが鈍り、やがて巨体はゆっくりと傾いて、地上へ落ちていく。地響きが大気を揺るがし、土煙が上がった。
エリサの身体から急速に力が抜けるのが伝わってきた。必死に支えようとしたが、ルディオの翼も限界だった。為す術もなく墜落する。地面へ叩きつけられる瞬間に人の姿へ戻り、エリサを庇うように抱きしめたまま草の上を転がった。エリサは目を閉じたまま動かない。
「エリサ」
腕の中の少女を呼び、身体を揺さぶる。やがて睫毛が震え、徐に瞼が開いた。ルディオを見つめ、微笑んで、エリサはルディオの胸へ額を押しつけた。その感触で強張っていた身体が緩み、温かな安堵が一気に全身に広がる。乾いた血が顔を汚してしまうのではと一瞬案じたが、もはやそんなことは気にもならないくらい、二人とも泥まみれだった。
「怪我していないか」
「平気よ。あなたの方がひどい怪我」
「すぐに治る」
傷んだ片目の視界が元に戻ってきた。上体を起こし、エリサを支え起こす。残照に染まった顔は疲れ果てていながらもいつも通りにあどけなく、先ほどの俊敏な身のこなしも稲妻のような力強さも、別人だったのではないかとすら思えてくる。
「どうしてお前が来たんだ。騎士団やファルジアラは」
「お母様が体調を崩されて……ファルは離れられなかったの。騎士たちは急いで向かうと言ってくれたけれど、相手は竜だから、装備を整えるのに時間がかかって。ルディオが飛んでくるのが見えて、落ちていくのが見えて……」
声を震わせ、エリサは顔をくしゃりと歪めた。大粒の涙が頬を伝った。
「死んでしまうかと思って……怖かった……」
張りつめた糸が切れたように嗚咽するエリサを、たまらない気持ちのままに抱き寄せる。
「ひどいことを言って悪かった」
なんの話か、言わずとも伝わっているはずだった。
「俺の力が足りないせいで、お前にこれ以上望まないことをさせるのが嫌だった。人と戦う魔法は要らないと言ったお前が、剣を握って、あんな心無い人々に囲まれて、人殺しの方法を探すなんて耐えられなかった。俺一人で背負えるものなら背負いたかった。でも……」
骨身に染みて分かった。敵は帝国だけではない。底が見えず、たった一人で立ち向かうにはあまりにも強大だ。
「ずっと傍にいるって、言ってくれたでしょう」
エリサはルディオの手を取り、握り締めた。雪冠花の庭で約束をしたあの時のように。
「どんな道でも、一緒に進むの。わたし、この国が好き。だから大丈夫。頑張れるの」
冷たく澄んだ風が丘を吹き抜けた。くしゃくしゃに曲がった赤い髪紐を揺らしながら、エリサは泥だらけの顔で、真っ直ぐにルディオを見つめて微笑む。言うべきことはもう何もなかった。ルディオはエリサの頬を濡らす涙を拭い、微かに震える小さな手を握り返して頷いた。
竜にはまだ息があった。力なく横たわる頭の傍らにエリサが膝をつく。
「ごめんなさい」
声が届いたのか否か、瞼が動いた。半開きの口から微かな唸り声が漏れた。
――約束を。
声の奥に、野生では会得できるはずのない人間の感情を、ルディオは確かに感じ取った。
――果たせず、すまない。オリヴェルダ。
始祖の名を、呼んだ。ルディオはエリサの隣に片膝をつき、身を乗り出す。
「貴方は誰なんだ。かつての守護竜なのか」
竜は答えない。もはや殆ど見えていないのであろう濁った眼が彷徨い動き、エリサを捉える。
――皆が待ってる。どうか探して……
虚ろな瞳から、最後の光が消える。
エリサは項垂れ、ルディオは拳を握り締めた。傷だらけで血にまみれた同族の屍を見下ろすと、煮え滾るような憤りが胸に湧き上がってくる。竜の瞼を閉ざそうと手を伸ばしかけたエリサが、驚いたように手を引いた。
「これは……」
ルディオはエリサを背に庇い、立ち上がる。生気の抜けた竜の身体から、纏わりついていた赤黒い霧がゆっくりと離れ、引き寄せられるように一点に集まっていた。霧は徐々に一つの影を成し、やがて人間の形となる。口らしき部位がぱかりと開いて、歪んだ女の声が響く。
『ようやく故郷へ帰れたお仲間を、まさか殺めてしまうなんて』
聞いたこともない異国の言葉だった。理解できるはずがないのに、頭の中に直接流れ込むように意味が伝わってくる。霧は今やはっきりと、一人の女の姿を形作っていた。
『噂に違わぬ野蛮な国ですねえ』
「誰なの。どうしてこんなことを」
エリサが問うと、霧の女は口角を吊り上げて、ふふ、と妖しく嗤う。
『私はただ、英雄を解放して差し上げたいだけ』
エリサが鋭く息を呑んだ。氷に鎖された男の姿が否応なしに脳裏を過った。
『不死の肉体。竜をも鏖殺する力。ようやく、我らが王のものとなる……』
——彼を復活させ、強大な力を手に入れようとする邪悪な者たちから、王国を、世界を守るために。
女王の言葉が蘇り、背筋に寒気が走る。
これが、そうなのか。
『じきに……必ず……』
不気味な嗤い声を響かせながら、赤黒い影は空へと立ち昇り、跡形もなく霧散した。見送ることしかできぬまま、ルディオはエリサと二人、呆然と立ち尽くす。黄金から紺青へと移りゆく空には、いつしか冬の星座が輝いていた。




