星が沈む場所へ
迷子は回避したんだけど。。。。。w
1 ―― 乾いた骨の音
JR東海バスのエンジン音が止んだとき、遠山透は背中のリュックを掴んで席から立ち上がった。四十八席ある大型車の最後列だった。降りる人間は彼だけだった。
「お先に失礼します」
運転手が振り返って言ったが、透は頷くだけで答えなかった。ドアが開き、冷たい空気が車内に流れ込んでくる。十月下旬の信州の空気は、吸い込むたびに肺が冷たいガラス片で削られるようだった。透はその空気を深く吸い込み、鼻から吐き出した。
バス停に降り立って振り返ると、バスはすぐに山道へと消えていった。エンジン音だけが、枯れ葉を踏むような足音を連れて遠ざかっていく。
「さて……」
透は左手のポケットから折られた地図を取り出し、広げた。父が遺した古い紙だった。インクは薄れており、まるで父の声そのものが時間のなかで溶けていくようだった。
『湯守庵まで、あと二キロほど』
透は自分の位置を推定し、地図を再びポケットに戻した。足元には、赤茶けたブナの葉が厚く積もっていた。一歩踏み出すたびに、足音が乾いた骨が砕けるような音を立てた。それは秋の森が、自分の死期を知っているかのように発する音だった。
リュックの肩紐を調整しながら、透は山道を進んだ。背中の重みは、父の手記と古書修復用の道具、そして三日分の食糧によって生じていた。荷物は重い。だが、彼にとって荷物は旅の一部であり、それなしにはただの移動に過ぎなかった。
山道の両側には、倒木が横たわっていた。樹皮からは白い苔が生え、まるで森そのものが白髪を生やして老いていくようだった。透は足を止めて、一本の倒木を指で触った。冷たく、湿っている。触れた瞬間に、その表面から微かな香りが立ち上がった。腐敗と再生が混ざり合った匂いだ。
「父も、ここで同じことを思ったのか」
透は独り言のように呟いた。父・遠山剛は、三十五年前にこの湯守庵に住んでいたという。手記には、その理由についてほとんど何も書かれていなかった。ただ、一つだけ明確な一文があった。
『夜になると、星が池に沈む』
それだけが、彼をここへ引き寄せたものだった。
透は再び歩き始めた。山道は次第に狭くなり、両側から木々が迫ってくる。日差しさえも、葉の隙間からこぼれ落ちる断片だけになった。光は金貨のように地面に散らばり、彼が歩くたびに揺らめいて消えていった。
やがて、遠くから水の音が聞こえてきた。透は耳を澄ませた。それは川ではなく、より静かで、より深い音だった。泉の音だ。彼は足を早めた。
2 ―― カビと檜の匂い
山道が終わった瞬間、眼前に古い木造りの建物が現れた。二階建てで、屋根には苔が生えている。看板は風化しており、「湯守庵」という文字はかろうじて読める状態だった。
透は建物の前に立ち止まり、深く息を吸い込んだ。鼻の奥に刺さってくる匂いがあった。カビと檜の香ばしさが混ざり合った、温泉宿独特の香りだ。それは懐かしさと、同時に閉塞感を彼に与えた。まるで、ここには時間が停滞しているかのような感覚だった。
「お邪魔します」
透は建物の入口に向かって声をかけ、土足で上がりかけた足を引っ込めた。靴を脱ぎ、室内履きに履き替える。その動作を繰り返しながら、彼は自分の存在がここでは異物であることを意識した。ここには、彼以外の人間がいる。そして、父の痕跡もある。
座敷に案内されると、老けた女性が立っていた。白髪で、背中は少し曲がっている。目が細く、口元は常に笑みを帯べているように見えた。
「遠山さんですか?お待ちしていました」
女性の声は低く、震えがあった。それは年齢によるものではなく、何か別の理由からだった。透はその理由を考えようとはしなかった。彼はただ、「はい」と答えるだけであった。
案内された部屋は、六畳の和室だった。壁紙は剥がれかけており、襖には汚れが付着している。しかし、床の張りは新しく、清潔に保たれていた。透はリュックを床に置き、荷物を降ろし始めた。
父の手記を取り出し、再び開く。ページをめくるたびに、微かな紙の音だけが部屋を満たした。
『湯守庵の主人は、とても温かい人だった』
『彼とはしばしば酒を酌み交わし、星のことについて語ったものである』
透はその一文を読んで、少し笑みを浮かべた。父はいつも、このような抽象的な表現を使っていた。具体的でなく、しかし美しかった。その美しさゆえに、透は父との会話に疲弊していたことを思い出す。
「酒を酌み交わし……」
彼は独り言のように呟きながら、手記を閉じた。父の記憶が、この部屋の中に漂っているような気がした。それは実在するものではなく、ただ彼の想像力によって生み出された幻覚に過ぎないことを知っていたが、それでも彼はその存在を信じたかった。
荷物を整理し終えた透は、床に座り込んだ。背もたれになるものもなく、そのままの姿勢でしばらくの間、天井を見上げた。古い梁が、彼の視線を捉えていた。それはまるで、父の骨格のようにも思えた。
「……星が池に沈む」
彼はその言葉を反芻しながら、目を閉じた。父の声が聞こえるかのように、耳を澄ませた。だが、何もなかった。静寂だけが部屋を満たし、彼の心臓の鼓動だけが響いていた。
3 ―― 黒曜石の破片
夕食は座敷で執り行われた。老けた女性――主人というべきか――が、小さな卓を運んできた。その上には、山菜の天ぷらと川魚の塩焼き、そして冷酒が一斗瓶に入っていた。
「遠山さん、どうぞ」
主人が杯を注ぐ。透はそれを引き受けた。盃に注がれた酒は、琥珀色をしており、微かに泡立っている。彼はそれを一口飲んだ。喉を通る瞬間に、暖かさが広がった。それは身体全体を満たし、彼の緊張を解きほぐしていった。
「父上は、どのような方でした?」
主人が突然尋ねた。透は箸を持った手を止めた。彼は答えられなかった。父について語ることは、彼にとって難しいことだった。父はただ、古書を修復し、星を観測し、手記を書いていた男に過ぎなかったのだから。
「……静かな人でした」
透がそう答えると、主人は頷いた。
「私も思います。遠山さんのお父様は、とても静かな方でした。でも、その静けさの中に、深さがあったのですよ」
主人はそう言って、再び酒を注いだ。透はその杯を受け取り、もう一口飲んだ。酒の味が、彼の舌の上に広がる。それは苦さと甘さが混ざり合った味であり、父の記憶そのもののような味だった。
食事を終えた透は、部屋に戻った。荷物を少し整理し、父の手記を再度開いた。今度は、最後の方のページまで読み進めた。
『私はここで、星が池に沈むのを見た』
『それは、人生で最も美しい光景であった』
透はその一文を読んで、立ち上がった。彼は部屋を出て、廊下を進んだ。建物の奥には小さな庭園があり、その中央に泉があった。主人の話では、この泉こそが「池」なのだという。
夜だった。空には無数の星が輝いていた。それらはまるで、黒曜石の破片が夜空という巨大な瓶の中で揺らめいているようだった。透は足元を見ると、水面にその光が映し出されていた。それは、まるで星々が沈んでいくかのような錯覚を与えた。
「……父が見たのは、これだったのか」
透は呟いた。水面に映った星々は、波紋によって揺らめき、そして消えていった。それは儚く、しかし美しかった。彼はしばらくの間、その光景を眺めていた。風が吹き、彼の髪を撫でる。冷たい空気が彼の頬に触れ、彼はその瞬間に父の存在を感じた。
「……ありがとう」
透は水面に向かって呟いた。それは誰への感謝なのか、彼自身にもわからなかった。しかし、その言葉によって、彼の心の中の何か軽くなるものがあった。
4 ―― 次の足音
翌朝、透は宿を後にした。主人が門口まで見送りに来ていた。彼女は相変わらず細い目で微笑み、口元には深い皺が刻まれていた。
「またお越しください」
主人が言った。透は頷き、「ありがとうございます」と答えた。それ以上言葉はなく、ただ二人が互いの存在を確認し合っただけだった。
バス停まで戻る山道に立たされた透は、昨夜の光景を思い返していた。星が池に沈む瞬間を、彼は何度となく頭の中で再生していた。それは父が伝えたかったものだったのだろう。言葉にはできない美しさであり、それがこの旅の意味だったのだ。
「……次の旅は」
彼は独り言のように呟いた。手記の最後には、次の場所について何も書かれていなかった。父はここで終わりを告げようとしていたのか、それともまだ続きがあるのか。透にはわからなかった。しかし、彼はそのことが怖くも思えなかった。なぜなら、旅とはそのようなものだからだ。
バス停に近づくと、すでに数人の人が待っていた。透は彼らの後ろに並び、バスが来るのを待った。風が吹き、彼の服を揺らす。彼は目を閉じ、その風の音に耳を澄ませた。それはまるで、父の声のようだった。
やがて、バスのエンジン音が聞こえてきた。遠くから、しかし確実に近づいてくる。透は開いた目を開き、前方を見据えた。バスが停車し、ドアが開いた。
「お先に失礼します」
彼は運転手に挨拶し、車内へと足を踏み入れた。シートに腰を下ろすと、窓の外には山道が流れていくのを見ることができた。枯れ葉が舞い上がり、そして再び地面に落ちる。それは秋の森が、彼への別れの挨拶を込めて放つ音だった。
バスは動き出し、透の旅は再び始まった。
※「お先に失礼します」✕2回
なぜバスに乗降する際の挨拶がこれwwww
※そして冷酒が一斗瓶に入っていた。
一升瓶と一斗缶が混ざってる混ざってるwww
※開いた目を開き、
いや何回開くねんww閉じた目をやろそこwww




