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第七章 イッパイモノアルヨと棲みつく敵

 

 なんてやり取りがありつつ、気が付くと俺は映画館内シアター出口にある廊下にて、ポップコーン類のゴミを捨てる冱雪の背中をボーっと眺めていた。

 ……実に不思議な事に、あの後だいたい三時間分の記憶がメチャクチャに薄い。三時間が過ぎるのがあっという間過ぎて、ほぼ浦島太郎状態だ。

 勿論、あの後直ぐに行った映画館特有のクソ広いトイレの風景と、現在の股下の状況を鑑みるに、漏らして無いという事実は確かで、全部が全部忘れているという訳では無い筈だと思いたい。

 俺は腕を組み、思考を巡らせる。

 トイレを出た後、カフェのお礼と奢ってもらったポップコーンの塩気の匂いと油の味は今でも舌の上でのたうち回っているし、チケット買ってないなぁとキョロキョロしてる間にも冱雪に腕を引かれ、次に覚えているのは広告の流れるスクリーンだった。

 ……多分、突然腕を引かれた衝撃で記憶が吹き飛んだんだろうが……にしても、その先の記憶に至っても、部分部分で奇妙かつ珍妙だった。だって、いつも映画館と比べてやけにスクリーンのど真ん中で高さも目線に合い過ぎていたし、それでなくても他の客が手の届く距離に居なかったり、冱雪の席とを隔てる肘置きもなく、そもそも席というよりはふっかふかのソファだったりしたんだもん。あれ、何かおかしいぞ……? と違和感を抱いた時には既に遅く、俺は逃げ場を失っていた。……というかあれ、カップルシートだろ……。どんだけ金持ちならあんな席で見れるんだ……? てか俺たち、カップルだったの?

あと俺、カフェで奢ったっつっても数百円なんだよなぁ……。後で請求とかされても困るよ? 絶対に払えないし、そんな無理やりな貸し付けなら真っ向から戦ってやるんだから! とかなんとか言ってたらバックに潜むケツモチ滑川さんまごう裏社会の重鎮来て殺されるんかなぁ……怖いなぁ、怖いなぁ。 

 なんて、稲川ばりに一人うんうんと唸っていると、遠く彼方からパタパタと聞きなれた足音が近づいて来て、俺の目前でキキィッと鋭い音を立てて止まる。

「――ごめん、待った?」

 そんな急がんでも……と思いつつ、俺はその声に対して反射的に「うぃ」と溢す。……我が癖ながら、うぃ、って何なんだよ……。無意識に出るってことは、実は俺、フランス人なのかな……。それか超能力者五歳児だが、そっちの線は薄いから消去法でフランス人ってことになるが、それにしてはあまりにも陰気過ぎる。ネイティブにJe t'aimeとか言ってみようかな……キモいなぁ、キモいなぁ……。

「――そ、それ、で……映画、ど、どう、だ、った?」

 ぜぇ、はぁ。と息を切らしながらの質問に、ついつい戸惑いを隠せなかった俺の脳みそ君は「あぁ、うん……」とあまりにも情けなく返事にもなってないようなたわごとを、折角の運動ニューロンを伝って指令する……。心配ぐらいしてやれよ。俺のブローカ野、腐ってないか?

 なんて、他人事のように後悔した時には遅く。冱雪さんは不機嫌そうにそっぽを向いて唇を尖らせるも、なお息を切らしていた。可愛いなぁ、可愛いなぁ……。

「……僕は、普通に、泣いちゃったんだけどな」

 急いだようなその声は、残り少ない一息で終わらせたかったからなのだろうか……ただ、受け取り側としては共感できなかった苦さを吐き出したようにも聞こえてしまい、こちらも息苦しくなってしまう。……喘息出ちゃうよ、これ。

 また、そんな横顔にどうこう返せばよいのか分からず、そしてそれが大変こそばゆく……頬をぽりぽりしつつ、口に出した言葉を紡いでいこう、そうしよう。じゃなきゃ気まずくてやってられないからね……。次からはしっかり頼むよ、脳みそ君……と、パワハラ気味に発破をかけるとまず「俺も、まぁ、思うところはあったってか……」と最悪のフレーズから話始める。だが、どうしてか。映画の内容を思い出そうとこめかみが痛む程の思考を巡らすと、オタク男子特有の舌と喉が熱くなるような感覚と共に、目の奥が開かれるような解放感が口を動かす。

「そうだな……まぁ、序盤で別れを告げるというストーリー構成が、六か月後の別れを想起させて、そのおかげでその間のイベントに感動的な演出を添えることが出来ていたのはよかったし、いざ訪れた別れのシーンは序盤にも訪れた星空の下、二人が背負っていたものを吐き出すような激しい喧嘩別れと思わせつつ、互いにどうしようもない別れと取り戻せない時間を後悔しているのが伝わって来たし、ヒロインが消える最後の瞬間に苦しむ主人公を笑顔で見ていたのは本当に良かったな……最近の映画にありがちなヒロインが蘇ってとか、病気が治ってとかで結局ハッピーエンドになるようなこともなかったし……なんてんだろうな――」

 やべぇ……思い出したら泣きそう……。ぺらぺら長文で語った恥ずかしさもあるが、そんな事より涙腺がゆるゆる。なんで今の今まで、口に出すまで忘れてたんだろうな、俺……。いいシナリオって、ああいうものを言うんだろうな……どっかの誰かが書いてるライトな小説とはまるで違げぇや……久しぶりに邦画を見たが、日本人だからだろうか、洋画より感じる事が多かった気がする。感情移入がしやすいというかなんというか……感動の押し売りというか、右フックを当てられた後みたいな感じ。……まぁ最近見た洋画、エリアンとプレデターとターミネータ―だからな……何とも言えん。

「うん、うん。だよねぇ……何でもない会話とか出来事なのに、終始ずっと涙腺がうるうるしちゃってたし」

 そんな俺をバカにする様子もなく、小さい冱雪は腕を組んだまま「それに――」と続ける。

「別れの瞬間は、僕達視聴者を含めてその場に居た全員が涙で満ちていた筈なのに、最後に映された次の日の主人公が、僕たちを置いて未練も悔恨も後悔も捨て去った様な顔をしていたのは、僕らただの視聴者には分からない、当事者にしか分からない本心があるんだろうなって思っちゃって……邪推したり、勘ぐったり考察でもすれば、あの日一人になった主人公が何を経験したのか曖昧な回答は出来るけれど、それは真の意味で答えじゃないから……。最後の海原で立ち尽くす主人公は、僕らにそんな想像の余地を与えてくれて……あの演出は本当に神がかってたね……」

「……語り尽くさない演出ってのは、心に来るからな……」や、マジで。

「最近の映画とかドラマって全部言っちゃうからね……若い人にはその方が見やすいんだろうけど、僕はやっぱり………。だって、他人の気持ちって理解できるものじゃ無いからさ」

「ま、でも……売れてるってことは、最近の若者もそういう恋愛をしてきてるんじゃないか? 高校卒業してまで付き合ってる奴とか今の時代ほとんどいないだろうし、大抵の人間が別れを経験してるんだろ」

「……それは、どうだろ。鏡くんの偏見だと思うんだけど……」

「いやぁ……」

 うん。間違いないね。最近の若い奴がそんな純情な恋愛してるかよ。カーストとか青春とかを気にして、文字列だけの軽い関係を築いているだけだ。将来を考えてるっつったって高が知れてんだよ。容姿も性格も、もっとも気が合う奴なんて世の中山ほど居る。一番がそんな身近に存在して堪るかよ。そんな世界、面白くなさすぎる。

 まぁ、あと。何といっても問題なのは俺もその若者の一部って事だ……おかしいな、同じ時代で青春送ってるはずなんだけどなぁ……要はそんな渦中の俺が言うんだから間違いない。

同じクラスの奴のやり取りとか小耳に挟んでいると、そういうヤツしかいねぇし。サッカー部の部長が、野球部の部長が、弓道部の可愛いあの子が、生徒会長が、書記の子が……etc. 黙れよ性欲お化け共。なんて、醜い陰キャが罵りたくなるのも仕方なくないか? その為に無駄に大きい声で騒いでんだろうし……というか、ごっこ遊びに付き合わされる現在進行形で受験生の気持ちになってみろよ……もっとも、そういう奴等って地頭がいいか、スポーツ推薦で行くんだろうから気にしもしてないのかな……あれってズルだろ。遺伝子の暴力やめろよ。

 ……あ、これが偏見ってやつか……腐ってんな、性根が。

「やっぱ俺、ダメだわ」

「えぇ⁉」


 とまぁ、そんなこんな。映画の感想を語り合いつつ移動していると、必然、次にやってくる話題ってのは限られてくる。

 大抵の人間は友達とかと映画に行ったことはあるから分かると思うんだが――

「この後、どうする?」

 と、こうなる訳だ。

 未だ止む気配の無い元気な雨雲の中へと姿を溶かして行く人々の背を眺めながら、優しいバニラの匂いを横にこれからの事を考えてみる。……今日、頭使い過ぎだろ……チョコ食べたい。

 とりあえず、俺が気にしておかなければならないのは、冱雪を誘拐しに来るとか言う野蛮極まりない冱雪の姉さんなんだろうが……ホントに来るのかねぇ、気配すら無いんだけど。

 というか、俺を巻き込んだクソ戦犯はこの二時間ちょいの時間を使って何か策を施したのだろうか……。や、待てよ……?

「あの人、『醤油差し』見てんじゃん……」

 頭痛が痛むような最悪の現実を直視し、猛烈に激しい違和感を感じつつマジで頭が重くなって何もかも嫌になる。

「……ん? 誰が?」

「あぁ、いや」

 冱雪の訝しむような視線を避けるように、「そうだ――」と話題を逸らす。……まぁ、宇都宮先生の存在はバレてるんだけど……なんでそうしたのか、今になっても分からん。

「買い物、しに行くんじゃないっけか」

「あぁ、うん。……ちょっと、プレゼントをね」

 キュッと押し黙った冱雪の方をチラと見やると、何やら嬉しい出来事でも思い返しているのか、小さな微笑みを湛えて、どこか楽しそうに見えた。

そんな冱雪の横顔に、「プレゼント?」と空気の読めない俺の脳みそちゃんは、悪びれる様子もなく聞き返す。

 そんな質問に嫌な顔一つせず、冱雪は「うん!」と今までに見た事の無い笑みを持ち上げ、わざわざ俺と目を合わせた後に続ける。

「妹にね。普段、迷惑ばっかりかけてるから」

「ほぉ~……そうか」

 ……うん。そうか、なるほどね……うん。

「……妹、いたのか」

「え、……うん。…………え、なんでいないと思ったの?」

「あぁ、いや――」

 聞いてねぇ……聞いてねぇぞ宇都宮っ……。冬萌家の事情と冱雪の態度から勝手に末っ子だと思い込んでた……。てことは、あの人の話から考えると、冱雪はその妹と二人で逃げ出してきたって事になる訳だ……それなのに、冱雪の姉さんは手紙にも書いていた通りなら冱雪だけを狙いに来る訳で。冬萌家の歴史的に男を求めているのは分かるが、冱雪の妹だって冬萌家の筈だろ……事実、当主は女だし、その後釜も女だ。

てことは、つまり……どういう事だってばよ……?

 ただ残念ながら今はそんな事を考えている時間は無く。とにかく、この変な空気感をどうにかしなければならない……。俺が冬萌家の事情に片足突っ込んでいるのがバレる訳にも、宇都宮先生の変な計画に加担しているのも、勝手にやろうとしている事も、勘付かれる訳にはいかない。

 まぁ、何とも皮肉な事に、我が脳は話を逸らすことに長けている。任せなさいよ、かがみん。

「実を言うと俺にも妹がいてだな……日頃の感謝を込めてプレゼントを贈りたいんだが、丁度時を得たかのように、冱雪殿と同じく悩んでいてだな……邪魔で無ければ俺も一緒に見に行って構わないか?」

「あぁ、うん……なるほど――そうなんだ。鏡くんにも、妹が……」

「……え? うん。……え?」

 なに、この気持ち……。なんか、ちょっとピキっちゃったよ……。

 これが、なんか知らんけど勝手に疑われる側の気持ちか……。俺も傍から見たら妹がいるなんて到底思えない人間って事ですね、分かります。なんなら世間にはそれを求められているまであるんだよなぁ。一生一人で孤独に経過していき、社会には何の影響も及ぼさないことが求められている立ち回りだろうし、てか、現在進行形で天涯孤独の無煙孤立まである。

 こんな事、育ての親も居てある程度の趣味を持っている俺が言うと、怒られるんだろうけどな。世間は身勝手だから、見ようによって俺は幸せ者だし、不幸せものでもある。だからこそ、ネットの海に自分の気持ちを泳がしてはならない。捕鯨よりややこしい状況になる事請け合いだもんで、そういった奴等には相談できる親友でもいれば、そんな悩みも無いんだろうなぁ…………いいなぁ。

 そうしてまた一人でボーっと涙ぐんでいると、潤む視界の中でキラキラな目を湛えた冱雪が漂っていた。

 深い瞬きをして水気を呑み込んだ頃、冱雪は何度か口をパクパクさせた後にそれを飲み込み、深く息を吸ってから遂に話始める。

「――鏡くんの妹さんは、どんな人?」

 

 それからは互いに、妹の自慢話で満たされていく。

 シスコンとは怖いもので、気持ち悪いくらいに話が止めどなく出てくるし、口が全く閉じなかった。

 そうして俺たちは映画館内のエレベーターを使って二階に、隣にあったバリアフリー対応のスロープを登り、渡り廊下のようなものを使って進む。

 雨を避けるように、人の糸を掻い潜るように、会話をしながらも慎重に、陰の者特有である霞の動きで辿り着いたのは、目が痛くなるような光源が延々と続く長いショッピングモールと渡り廊下との境に設置されたトイレだ。

 どうやらここはアパレルが立ち並ぶ施設とは別に孤立しているらしく、館内地図は大変見やすく、展開されているお店もバラバラで、同じ階に本屋があったと思えばセリアがあったり、保険会社や旅行ツアーの会社があったりする。

 そしてこれを見ている人は、またトイレかよ、コイツらトイレ好きだなぁと思うかもしれないが、先程と打って変わって更に全く持って状況が芳しくない。その中で最も俺の心臓を締め付けてくるのは、背後僅か数メートルで女性用下着が大量に立ち並んでいるという事に起因する。ので、トイレ側に立つ冱雪の瞳を見つめる他、選択肢がない。

 世間的にはランジェリーとか言うんだか……。まぁんなことはどうでもいいんだけど、傍通るだけなのに気まず過ぎない? 俺が気にしぃなとこもあるが、男二人で来ていい場所じゃない事だけが確かだ。

 そんな俺の横顔を、冷たい風が妙に甘い花の匂いや気まずさ、チクチクとした視線を送ってくるので、それらが伝播して全身の寒気が止まらない。

 と、いっても……ようやく面と向かって会話できる場面だ……決着を着けたい話がある。

それこそ現在この駄文を読んでいただけている皆さんは知らない、冱雪の妹の話な訳で……冱雪の妹の自慢話を聞き入るうちに、その妹像が完全に瓦解し、新たな形として形成していったので……事実、尿意も忘れて脳内に棲み付いた冱雪の妹の姿をどうにか否定したくて、俺は冱雪の話を遮ってまで質問をする。

「……え、妹ってランボーかT800なの?」

「えぇ⁉ 違うよ! 今までの話で、どうしてそうなるのさ……しかもよりによってその二人、どっちも男の中の男みたいなキャラだし、そんな凶暴な子じゃないよ……」

 俺の質問に、冱雪は心底落ち込んだように俯く。

「や、そうか……いや、でもだな」納得いかない、が――

「僕の妹は、誰よりも可愛いんだもん!」

 おぉ、凄い勢いだ……。俺の追撃を反動に、今までで一番の元気を見せつけられてしまった。

 ……こうなれば、一度でいいから冱雪の妹を目にしてみたい欲が止まらない――クマを眼光のみで追い払い、不審者を力でなぎ倒し、百メートル十秒で走り抜ける妹を……。

 もはや、妹ってか生ける伝説なんだもんな。全盛期の室伏広治かよ…………見てぇ。

 そうして行ける伝説の御身を想像していると、グイッと瞳が近づきバニラの匂いが強くなる。

「どう、分かったかい!」

「…………あぁ、はい」

 胸を張り鼻息も荒く兄ながら自慢気な姿はとてもキュートだが、片田舎のお家から逃亡してきたという事情を知っている以上、どうしても興味が勝ってしまって曖昧な返事しか出来ない。

 強いんだろうなぁ……カッコいいんだろうなぁ……ゲッターロボみたいな感じかなぁ……。

「んじゃ、トイレ行ってくるから」

 冱雪のその声に遅れて現実に引き戻された俺は、満足気に右折していく横顔に対して「あい、待ってます」と小さく零すことしか出来なかった。

 

 モールにあるトイレというのは大変便利なもので、多くの場合、待機場所としてベンチか椅子が設置されている。基本その居場所はモール内の隅だったりするし、トイレとは壁が設けられていて、こういった隔絶された場所は何とも居心地がいい。

 スマホもねぇ、ラジオもねぇ俺にとって、そこに腰掛けて腕と足を組み、目を瞑ることが唯一の娯楽だった。

 ん~……場所が場所だけに、心細いんだけど……さっきまでは完璧美少女な冱雪ちゃんが目の前に居たからこそ、ここまで苦しくは無かった。わんちゃん冱雪の彼氏かなんかと見間違われてねぇかなぁ、それならずっとここに居てもいいなぁと思ったけど、冱雪の格好が男っぽいのと俺はあまりにもダサすぎだし、何より周囲の赤い他の人間共はあんなに可愛い冱雪の事ですら我関せずだろうから、今俺がこんな事で悩んでいること自体無駄な時間なんだよね。

 今陥っている状況だって教室内での寝たふりと何ら変わりないから、どうせ時間の流れも速いが、早く戻って来てくんねぇかなぁって思っちゃうよね……貧乏ゆすり、止まんないよね。

「――今、誰を待っているのかしら」

 そんな中、耳触りの良い落ち着いた声が左から聞こえてくる。消え入るような透き通った声は、近くもなく遠くもない距離で発せられ、それなのに確かに耳に届く。……とはいえ、俺に話しかけてくるような女性がこの世に居るとは思えない。

 いいなぁと、対象の相手を妬みつつ、貧乏ゆすりが激しくなっていくのが分かった。

どうしてか、自律してしまった動きは止めようと思っても止められない。勝手に上がっていく体温と動きを速める心拍が……遠く暗い場所へ離れていく意識が、その声を反芻する。

俺が待っているのは、冱雪だ。頼むから、早く戻って来てくんねぇかな。

素知らぬフリをして。でもどうして、癖というのは、憎らしくも続いてしまう。

「――それは奇遇にも、同じ人物かも知れないわ……。実は私、弟に待たされているのよ」

 弟……姉……。冱雪の、姉は今、どこに……。

 そもそも俺は、何を焦っているんだ……? 何に迫られている訳でも、遅れている訳でも、失敗した訳でも無い……。

 それなら、残されている可能性は一つしかない。

 信じたくはないが、

「――でもね、今は少しだけ違うわ」

 遂に、来たんだ……俺の危惧していた、まだ見えぬ将来が……未来が……果てが、遂に。

 そんなことは理解していた筈なのに、いずれ訪れると、避けられないと知っていた筈なのに……姿無き冱雪に寄り縋る気持ちが、未だ切り替わらない。

 あまりにも急すぎる展開に脳の処理が追いつかないからと、言い訳してしまう。

 乾ききった口内では、潤いを求めて唾液腺が震えている。

 そんな逃げ場を求めたメダカを、優位に立っていると知る腹黒いカラスは眺めている。

「――貴方に、興味があるのよ」

 スゥッとわざとらしく静かになった声の方から、何かが近づいて来るのが分かった。

 何とも知らない、ただ、いい匂いが鼻をくすぐり、無理やり意識を引き戻される感覚。

 左の肩と頬の体温が奪われ、耳たぶに柔らかく糸のような細い束が寄りかかる。

 か細い呼吸が、柔らかいリップ音が、俺の心臓を大きく飛びあがらせた。

「――門叶、鏡くん」

「なんッ――!」

 名前が、バレている……⁉ 驚きのあまり、反射的に横に飛び退く。

「――化け物のような扱いを受けると、流石に心に来るものね」

 周りの視線なんて気にならない。嘲笑だってスマホの起動音だってどうでもいい。

 お尻を引きずりながら後退り、壁にぶつかった所で、恐る恐る顔を上げる。

 服装は白と水色が基調の清楚そのものといった感じだ。唯一、肩掛けのカーディガンだけがかけ離れた赤色で、それが目に入った頃には背筋が伸び、逃げ場がない事を再度理解する。

 壁にピッタリくっついた背中が棘突起を押し、自然と顎が上がり、瞬間、息を呑んだ。

 星河のような印象の流れる白銀の長髪。センターパーツに分けられた前髪は左右に流しつつ、それはやはり、想像していた通りの利発的なイメージにドンピシャだった。

 厳しく、凛とした印象の目に佇む紺碧の瞳。寡黙そうな薄い唇、不気味に持ち上がった口角。白露のように繊細な肌。

それら全てが俺を子馬鹿にするように見下ろしてきている。

 冱雪のような優しく丸い印象を全く受けなかったのに、でも、どうしてか、真逆のその人にも似た空気を感じてしまい……………かかったなアホめぇ!

 不思議な事に、全く緊張しなかった。

 というかなんなら、元々知り合いだったんじゃねぇかって思うレベルでむしろ高揚しているまである。

 俺は勢いよく立ち上がり、手を差し出す。

 スマホを閉じる音を聞き、視線が離れていくのを肌で感じつつ、ザマァねぇなぁ! と勝手に舞い上がると、伸びる腕が勢い付いた。

 こんな綺麗な女性と言葉を交わすこともなければ、鏡にも映らねぇもんなぁ!

「改めて俺、門叶鏡って言います。弟さんには、いつもお世話になっております」

 普段使う事もない丁寧な言葉は、正面に立つ冱雪姉の風に当てられたからか、自然と飛び出してきた。まぁ、社交の場において文法的に合っているのかなんて分かりようないけど。

 そんな俺の態度を不気味悪がるでもなく、冱雪姉は冷たい声色で、謎めいた笑みを湛えて返してくる。

「では、行きましょうか」

「————へ?」

 ふわりと、動揺する俺の手が包まれる。やはりそれは体温が奪われるほど冷たく、また冱雪の時とは違ってそれらが馴染むことはなさそうだった。

 振りほどこうと思えば振りほどける……そもそも握るというよりは乗せられているだけだし。

……それなのに、本能がそうさせてくれない。かといって、華奢な指を掴むことも憚られる。

 そして、こんな事を悩んでしまった時点で、俺の負けだった。

「鏡くん。観覧車は動き出しているのよ」

「??????」

 脳内も口内も疑問符で満たされたが、動揺している俺を他所に、そう言い切った冱雪の姉は踵を返して俺の腕を引く。

 従わなければ、むしろ冱雪の姉の肩関節を外してしまいそうで……というか、逆らうなんて選択肢が思い浮かぶはずもなく。

か弱いニュートンを感じつつも俺は、それに追いつけるよう進んだ。

 

 先程までのゾクゾクも、先バレ確変フィーバー大ハッスルすらも忘れ去り、冱雪の姉の後ろを、三歩ほど離れてついて行く。

 勿論というか、当たり前というか、犬が西向きゃ尾は東というか……。

あの後直ぐ、繋がれた手は離れていったし、なんなら目と鼻の先で手をハンカチで拭っているのが見えてマジで辛い。心が痛い。心臓が締め付けられて息もし難い……助けて……。

 それと、離された瞬間はすっごい寂しくて、子供じみた惨めさを感じていたんだけど、冷静に考えたら俺、男子高校生だったんだよね。

 その思考に辿り着いた末、気分が落ち込んでよりスンッとなり、あの時の思考を大変後悔しています。

 ルッキズムと美男美女は全員地獄に落ちればいい。常の世でBSがこれだけ苦しんでいるんだから、逝った後くらいは譲歩してくれ。これこそ公平ってやつで、凄く不平等な考え方だ。

今のところこういった考えに自然と向かっちゃうんだけど、大人になったら治るもんなのかね……? 先天的ソシオパスなんじゃないかと、ゾクゾクしちゃう…………無いかぁ。コイツ、蚊もろくに殺せないんだよなぁ。

 因みにだが、今どこに向かっているか、それは俺にも全く持って分からない。ただ、女性用ラグジュアリー的な雰囲気の場所は抜けたので気分は大変楽になった。

 気持ちの面に関しても、服装がダサいという事実を除けば、むしろサウナ的な状況に置かれたおかげで大変クール。

 通りがかる店々の什器を眺める余裕すらありつつ、馥郁たる香りを楽しみながら、筒抜けになった一階を覗き込む。

 そこでは、買い物客が群がっている姿を見下ろすことが出来た。グハハ愚民共めぇ! と、憎き人混みに心の中で喚き散らかす。

しかし、何だろうなぁ……。さっきっから、心の隅で妙な引っかかりを覚えている…………なんだっけなぁ。なんか、忘れてるんだよなぁ。

 そんな忘れ物の正体を考えながら、うんうんと唸りつつ黙々とストーカーしていると、よりよい匂いが鼻先をくすぐり、ほぼ無自覚に顔を上げる。

「――この世界は不平等だと、門叶君は感じた事ないかしら」

 一つ目の登りエスカレーターに到着後、俺は二段開けて足を乗せる。振り返り、そんな俺を見下ろしながら冱雪の姉はそう問うてくる。

 ないかしら、とかドヤ顔で言われてもなぁ……。急にどんな態勢で聞いて来てんの?

 あと、そろそろこの構図どうにかなんねぇの……? 俺のが身長は高い筈なのに、見上げてばっかりなんですけども……。首が痛くなるから勘弁してほしい。……あとどうでもいいんだけど、二人分の足場できっちり左側による辺り、この人も他人の気とか使えるんだ……。常識はあるんだろうな。俺、初対面で市中引き回しの刑に処されてるんだけどね。

 そんでもって流れ落ちる店内風景と、反対側で下っていくお洒落な人間たち。構図と角度も相まって、冱雪の姉の神格化と俺の地底人化と罪人化が底知れない。

 誰かそこのホムセンで墜落制止用器具買こうてきてぇ!

 ……なんて、関サイヤ人に殺されそうな勢いで茶化し、再び目を逸らしてみても、一度鳴り出した心の警鐘は、なかなか収まってくれない。さっきまで自分でも不平等だなんだと考えていたから、それを改めて問われ、当惑してしまっているのか……?

 冱雪の姉に追いつけず、また、変わらない距離から見下ろされ続けた事が原因なのかは知らないが、不安感や絶望感が強くなり、目の焦点が合わなくなっていく。

 俺は一つため息を吐き捨て、目を瞑り、顎に手を掛ける。

 というかそもそも、その問いの答えなんてものは俺の中で確たるものとしてあるんだ……動揺するような理由がない筈だ。

 さっきも言った通り。平等も公平も、目指した先にあるのは不公平や不平等で……誰かが我慢してバランスを保つなんてことは往々にしてある。その結果生まれる不満はそんな仮初の平等や公平に亀裂を生み、一生涯残る溝を作り出す。その後仲直りをした振りをして、どれだけ取り繕ってみても、それを埋め立てることなんて出来ない。結局どこかで無自覚に気を遣い、キャパを越えた無理をして壊れていく。この世界は、そうした事柄の積み重ねで出来ている。

 俺はそれを自覚してしまったせいで、人間関係を踏み出せないでいる。というか、正直な話、したくない。個々の能力なんて異なるし、大体、俺が劣っている場合が多いのに、相手に気を遣わせるなんて御免だ。遅れを取るなら俺だけでいい……その方が楽だし。

 というか、よく人に頼れるなぁって思うんだが……任す側は失敗されることを、任された側も失敗することに怯える羽目になるし、互いに良いことないだろ。逆winwinってどこの世代でも流行んねぇよ。

……とまぁ、結局。ここまでツラツラと言い放ったところで、世に言い放てば所詮いい訳と言われて終わりで、それは至極真っ当な意見でしかない。人間関係なんて上辺のものを気にしないで、ビジネスライクとワークライフバランスを保っている奴なんて多い筈で、そうやって割り切れている人間を俺は本当に尊敬している。そんな事は、分かっている。正と負の感情を行ったり来たりして揺れるのもいつも通りの事だ。事実を認め、自己完結に至っている。

それなのに、どうして息が詰まる……。どうして、数学で問いの答えを導いている最中に当てられたみたいな苦しさがある……。あれ、今当てんなよって、思うよね……あれでどもって笑われるの、意味分かんないからね、マジで。授業の本質って公開処刑からの祀り上げとその後にあるお笑いじゃ無いだろ……お笑いっていじめの中にあるって聞いたことあるが今のテレビでそういうのはめっきり見なくなったよなぁ。それなのに授業とかいう身近にほぼ昭和のお笑いがあるとかリアル体験型21世紀少年なの? 時代に追いつけない大御所一流がよぉ……。

そして、原因が分からず理解し得ない、また、要因が分からないだけで、こうも切羽が詰まって余裕も無くなってしまうのか……? 俺、デビルハンターの東山さんなの? 普通にパニ障なの? せめて、乗り物酔いとか、寝不足とか……ファクトがハッキリしてさえくれれば、諦めもつくんだが。

あと、冱雪の姉の質問の意図も分からん……。初の出会いとかいう見た目とキャライメージをユーザーの脳内にこびり付かす重要イベの後にそんな質問飛んで来たら、ワクワクドキドキのユーザーが肩を落としちゃうよ……? そんな真っすぐに現実を突き付けてくるギャルゲとか、俺ならその時点で投げてる。そもそも現実逃避したくてやってるとこあるしね。

そも、俺はどうして従順に着いて行っているんだ……? 逃げる場面なら山のようにあったし、ひょっとしてこの人、デビルハンターのマキマなの……? というか、俺が童貞過ぎて恋心デンジ過ぎるだけかもしれない……。正直、手を引かれた時点から従う以外の考えが浮かんでこなかった訳で……。メチャクチャ弄ばれている気がしてならんが、不思議な事に、逃げる気にもならないんだよなぁ……なんでだろうねぇ。……自然って、不思議がいっぱいだぁ。

「――時間切れね」

 そんなこんなのそうこう思考珍道中を旅していると、よりよい匂いと共にそんな言葉が降り注がれる。

 ゾクッと背筋が震える感覚に気を取られていると、つま先が何かに引っかかって悲鳴を上げ、エスカレーターの終わりを告げていた。

 危うく倒れそうになりつつ、「ッベェー」と一人で焦ってみたところで、冱雪の姉の背中は容赦なく離れていく。

 いや、もう着いて行かなくなっちゃうよ⁉ と、メンヘラムーブを心の中で速攻解決しつつ、不自由な足を引きずりながら、必死こいて追いかけた。

 この階は、アンバー的な匂いが強く漂い、周りを見ても変な形の掛け時計に、値札の桁が読めない程高価な腕時計、広告塔大谷翔平、時代遅れアンティーク柱時計の応酬に次ぐ応酬で、金持ちしか入っちゃいけない雰囲気を鼻が痛く成程漂わせている。

 ……さっきまでのギャップで妙な緊張が強く、勝手に焦って知らず知らず早足になっていた。

 どうしてこうもショッピングモールというのは歩かせる構造になってるんすかね……。次の階への登りエスカレータが回り込む位置関係にあるし、腕時計コーナーが文字通りコーナーになっていて遠回りさせられるし道は細いしで、余計に気を遣うくせに息を切らさないといけないという苦行を与えてくる空間ってほぼ地獄だろ。日本人が一番苦しめられる地獄見つけたわ。

 てか、過去最高潮に恥ずかしいんですよね……。さっきまで大衆品で囲まれていたから良かったんだが、ここは特に終わっている。客、ほとんど見えねぇし、目立つじゃねぇか。

 ……あと俺、ここに居ていい身なりじゃねぇんだよなぁ。なんだよ『I♡SOIGUN』って、死ねよ。俺って意外と空気とか気にしちゃう思いありのある人だから、前で手組んだ店員さんの視線とか気になっちゃう。どうせ何とも思われてないんだろうけど、気が気じゃない。

 そうこう周囲の気高な人間にどう見られているかなんて変な妄想が捗りつつ足早に辿り着いた冱雪の姉の背中にさりげなーくピッタリとくっつく。

「――何をしているの?」

 次のエレベーターに運ばれ始めた頃、呆れたような声が俺のつむじを刺してくる。

 ようやく気が付きましたか、この影の動きに。と、ある実力者を思い出してに二ヤつきつつ俺が見上げると、尋問中のリヴァイみたいな嘲るような視線が向けられていた。……いやぁ、怖いんだけど、なんかなぁ。

 恥ずかしながら背筋がピリッと痺れつつ、美人という属性に絆され騙され傷つけられぬよう、平然を装いつつ「あ、気にしないでください」と返す。

 しっかりと二段開ける距離感を忘れず、かつ、左寄せで背中に隠れるこの超技術……特許、申請しようかな。名付けて『影縫い』、カッコよすぎる。

 ……そう自分の理性を保ちつつ、本心を悟られないように目を逸らす。

「そうね……そういえば門叶君は、こういうのが好きなのよね――」

 そんな俺を足元に冱雪の姉は突然振り返り、コツコツと優雅に足音を鳴らしながらエスカレーターを逆走してくる。

 急になんだこの人、危ねぇだろ。なに、実は劇場版クレヨンしんちゃんの世界から飛び出してきた人なの? なんて怒りもツッコミも湧いてこない程動揺したままの俺に、冱雪の姉は空いていた俺の右側へと立ち、不気味な笑いを向けてきていた。

「…………あの、急に何を――」

 そうゆっくりと言葉を選びながら口を開いた紳士的な俺の右腕を、長い指を這わせながら手繰り寄せ、冱雪の姉はなんと、胸の前で抱えてきやがって――。

 え? ナニコレ……あったかぁい。

「門叶君のするゲームとやらでは、こういう場面もあるのかしら?」

 挑戦的な、勝ち誇ったような語気と瞳は、俺の思考と目を射止めたまま、離れてくれない。

 思考ロックの脳細胞てんやわんやで泡吹き状態の真骨頂童貞である俺が、その場で絞り出せることなんて「あ…………」しか無い訳で、首元から上がって来た熱が耳の先へと巡っていくのが分かるが、他に考えうる事なんて何も無かった。

 胸がくすぐったくなる様な、未だに何とも分からぬいい匂いが、鼻腔をくすぐり。

そして、何といっても腕から伝わってくる感覚……これが非常に厄介だ。

 互いに着ている服が薄いとはいえ、冱雪の姉は加えてカーディガンを羽織っている……それなのに、その体躯の繊細さと冷たさが分かってしまう……心拍が奏でる純音が胸の奥から響き、敏感になった俺の腕の細胞を震わせる……胸の膨らみが、俺の腕を使ってパイスラしやがっている……おいおいおいおいおいおいおいおい。

 助けてぇぇぇぇぇえ! 冱雪さあぁぁぁぁん!

 

 ――白飛びする思考。

 ガタンッ! という足先の衝撃で我に返ると、幸せは俺の腕を離れていた。

 そうこう一連の脅迫に息を切らした俺が、その場で膝を付いて股下から後続が居ないことを確認していると、「君」と冷たく話しかけられ、顔を上げる。

「――浮気性なのね」

「……えぇ」

返せ! 純粋無垢な男の理性! 暴れるぞ! 思春期舐めんなよ!

そんな俺の叫びは、雨を纏った生温い風に攫われて消えて行く。

凛とした立ち姿。体半分で俺に手を伸ばす冱雪の姉の背後では、鉛のような曇天をぼんやりとした色鮮やかで淡い光を持って制す観覧車が、ゆっくりと、そして優雅に回っていた。

って、動き出した観覧車ってこれの事かよ……なんかの比喩かと思ってたんだけど、無駄な考察だった……。けど、何故か解決しない心のモヤモヤは、外の雨雲の様に分厚くなっていく。

……少し運動したのもあって、マジでスタミナ赤ゲージだよこれ……誰か強走薬くれよ……。

と、そんな愚痴を振り切ってひと息つき、隣に並んだ俺に――

「さぁ、行きましょう。誰とも交わる事の無い最低の現実は、自分で切り拓かないとね」

「???????」

 なんて、また意味の分からない事を言い出した。

 この人の質問は、一つ一つが一生解けないメビウスの輪の様で、それを植え付けられた思考はまるで機能してくれない。先と同じように、確とした答えが出るまでは一生そのままだ。

そんな状態で正常な質問も織り交ぜて来るから考えれば考えるほど沼に浸かる、ほぼ呪いだ。

宇都宮先生に貰ったアドバイスの共感も肯定も質問も息をしてないし、なんなら名月さんから聞いてた人物像とだいぶかけ離れてるんだけど、ナニコレ全くの別人なの? ドッペルゲンガーなの? ……明るくて、活発で、誰にでも分け隔てなく接する美人なお姉さん、どこいるの……? まぁ、こんな俺と一緒に歩いてくれる訳だから、分け隔てなくはあるのか……。

兎にも角にも、もう、何もツッコむまい。とにかく今は、下げられた手が勿体ないなぁとそれだけ考えていよう。……俺がモテ雄だったら握ってんだろうなぁ。

 ……ま、今日中に解決しなかったら、汎用人工知能にでも聞いてみよう……それでも理解は出来ないだろうが、楽にはなるだろうから。てかこの時代、AIなんて全てを知る者なんだからシャナクくらい使えんだろ。あれ、アイツ、FFだけっけ……ま、んなことどうでも良いか。

 

 それから俺たちは安全圏を飛び出し、若干肩を雨に濡らしながら、ゴンドラに乗り込んだ。

 まっこと不思議なことに。キラッキラなどエロいネオンライトで満ちたゴンドラと、それに囲まれる物理的にも冷たい真っ白な座席に向かい合って座り合った頃には、この状況に悲観的な気持ちを抱くことも無くなっていた。……というか、諦めざるを得ないというか、小説家は不幸な状況をも取材するって偉い人も言ってたし、つまりそういう事だ。

 この時間で俺は、どうにかこうにかこの人に冱雪を諦めてもらわなければならない。それが、宇都宮先生に与えられたミッションで、これが出来なきゃどやされるのは間違いなし。そして俺は、高校生活の中での生きる意味を見失う気がする。

 だから俺は、生み出さなきゃいけない。さながら小説家の様に、自分の思想を突飛な発想として、そう思ってない人間をその世界に巻き込んで————。

「「…………」」

 ただ、初手無言だけはやめて欲しい。さっきも触れたが、俺って意外と気にしぃなんだよ……かといって俺から話を切り出せる程脳みそ纏まってないし、そもそもそんな勇気はない。そら、前述したように冱雪を諦めてはもらいたいのはやまやまなんですけども……。厄介なことに俺は、流れが無いと人と会話することが困難だ。その後、死滅回遊魚になるか回遊魚になるかは運ゲーで、基本的には本音を隠して相手を探りながら立ち回るが、つい本音が出ることなんてままあるから、この立ち回りは俺には向いていない。性格の悪さが露呈してしまうからだ。それなのに、それしか選択が取れない。変われない俺の、数多ある弱点の内の一つだ。それと、一回切れた会話の内容を考え出した頃には、口のチャックが固着しちゃうのって俺だけなの?

そうして暫くの間、窓を打つ重い雨と風の音だけがゴンドラの中を反響する。……あれ、ゴンドラの中って音楽流れて無かったっけ……? あれが恋しくなるって、あるんすねぇ……。自分の呼吸音が気になり過ぎて、かなり息苦しい……。

 ほんの少し突き出た窓際に頬杖を付いたまま、冱雪の姉の方をチラッと見てみると、膝の上に手を畳み、背筋を伸ばした綺麗な格好で遠く外を眺めていた。

 それに釣られて、俺も無意識に下界へ視界を落とす。

 観覧車は未だ四時くらいの位置だが、建物の屋上に設置されているからかかなり高い筈だ。それなのに、奥に座って居る俺達から見えるのは、天霧の中を乱反射する赤と白の点滅だけ。伝う雨粒の中では、ギラギラと光り輝く観覧車に当てられて無理矢理七色に、窓に薄っすらと映った変人を捕らえて彩っている。絶好の観覧車日和だな、おい。

「――観覧車、好きなのよ」

 そうしてなるべく思考しないよう時間の流れを待っていると、冱雪の姉はそう口を開いた。

「小さい頃からね」

「…………雨ですけど」

 なんも見えねぇよと思っていると、ふとそう口走っていた。直後、しまったと反省してチラと冱雪の姉の方を向くと、あちらも俺の顔を見据えており、同時に続けた。

「これに乗っている内は、私が何をしていようとも、誰とも交わらない現実が未来に向かって堅実に進んでいるから、気が楽なのよね。————果てからも目を逸らせるから。だから、全ての責務を蔑ろにしても、誰にも何も言われない。何にも影響されない、孤立した世界」

「…………はぁ」

 さっきから言っているその交わらない現実ってなんだよ……。この人との会話、マジでムズイ。ラスボスかと見間違うくらい、俺との話が嚙み合うとは思えない。考え方もだ。

「でも、今は違う。この場には————君も居るから」言われながら、大きな瞳と目が合う。「目を逸らすわけにはいかないものね」

「…………あの、ひょっとして俺、邪魔だったりします?」

 いいの? 出しちゃうよ? 必殺の『影縫い』。と、そんな男子高生特有の妄想も――

「いえ。この時、この場に於いて、君は————私にとって最も大切な人よ。交わるべき、合縁奇縁。とでも言うのかしらね」

 なんて、若干脅迫まがいなセリフでかき消される。

「…………はぁ」

 要は、観覧車を出てしまえば、俺は邪魔という事だろうか……。

 この人の目的が冱雪の誘拐というのであれば、その通りだろうし、俺の目的はそこにある。

 俺達は間違いなく敵であり、いわばこのゴンドラの中は、殺し合いの為のコロシアムだ。

……わぁ、何言ってんの、俺。完全に空気に飲まれてんだよなぁ……。

「「…………」」

 そして再び、二人の間に流れる重たい沈黙は、先程のセリフの反芻と邪推を加速させていく。

 俺の悪癖を理解しているかのようなわざとらしい動きに、無意識に、苛立ちが募ってしまう。意味の分からない、俺の理解の枠を越えた単語の羅列を並べ、考えさせ、最後に出たセリフが最も大切だってよ。んだコイツ。哲学的痴女とかどこの層に刺さんだよ。魅惑的なのに魅力を感じねぇから、東京ドーム十個分の性欲を抱え込んだオタクに同人誌書かれて終わりだよ。あと分り辛いんだよ東京ドーム基準のデカさ表記。有識者なら、どこぞの冱雪みてぇに黒部峡谷くらいパッと分かり易いとこで例えろよ。オタク相手ならエヴァとかガンダムとかウルトラマンとかゴジラとか、ラミエルとかソーラレイとかヒッポリト星人とかキングギドラとか、いっぱいあんだろ。でも、シリーズによってサイズもバラけてたりするから、そこも明記しておかないとツッコミの嵐で掲示板荒らされまくるから気を付けないといかんゼ……。最近はショートとかでも掲示板読み上げ動画が流れて来るから、見かける度に不快になったりもする。

……あれ、これ、何の話してたんだっけ……。新しいアンガーマネジメントの形かもしらん。

 いつの間にか怒りは呆れに、視界一杯の窓ガラスを曇らせる。普段の純粋無垢な男子高校生、略してJMDKなら、ここにニコちゃんでも落書きしたろうが、それをする気にもなれない。

 かといって、この無言の気まずい空間で、僅かな雨の打撃音と風の流れを感じながら残りの数十分を過ごすってのもなんか癪で。どうにかこうにか話しかけてもみたいんだが……。

「っ――」

 無理だよねぇ……無理に決まってる。絞り出した声が突っかかって窒息するかと思ったわ。

まぁ俺、陰キャ童貞のエロゲオタクだし。むしろ今の状況を持ってして、上にある換気用の窓から飛び降りて無いのが奇跡まである。

 ……だが、本当に困った……。この状況から、どう冱雪を救える可能性のある会話に持っていけるんだ……。もう割と、引き返せない空気感が作られつつある気がしないでも無いが……。

 そうしてようやく考え始め、温まって来た俺の脳へ、それを変えない声が届く。

「――門叶君。君、妹さんがいらっしゃるわね」

「……あぁ、はい――いますよ」

 言いながら、今度は言葉を切らさないよう正面を捉える。

「それが、どうかしたんですか?」

 俺の問いに、どこか思い出し笑いのような小さい笑みを湛えつつ、冱雪の姉は、俺の焦燥を煽る様に、ゆっくりと口を開き、続けた。

「やはり、可愛いものよね。妹というものは……。いくら歳を取っても、変わらない」

「……まぁ。はい」

「……私にもね————居るのよ、二人。まぁ、一人は男の子なのだけれど」

 消え入るように発しながら、緩慢に窓の外を見やる。

 同じように俺もそこを覗き込むが、やはり見えるのは濃度を増していく天霧だけ。雨粒と遜色ない程になってしまった赤と白の灯は、頼りなく点滅を続けている。観覧車は一時半の位置と言ったところか。気分の悪くなるようなネオンライトは、力強くゴンドラを照し続ける。

 それを確認すると、どうしても焦りが込み上げてくる。もう、あまり時間はない。震えそうになる足を左手で掴み、右手の指先たちを無機質な窓枠へと不規則にぶつけてしまう。

 そうして正面を向き直し、冱雪の姉の横顔を見つめると、話は続いて行く。

「彼は冱雪、彼女は桜來。……彼らはね、被害者なのよ」

「……被害者?」

「えぇ。被害者よ……。時代のね――」

 顔を戻した冱雪の姉は、そういうなり目を伏せてしまった。

「彼らには、自由があまり、与えられないから」

「……自由が、与えられない?」

 時代の被害者って……その原因が、自由が与えられないからって……この人は、何の話をしているんだ……? 意味が分からず、疑問も湧いてこない。急く気は加速し、イライラだけが募っていく。オウム返ししか出来ない自分が情けなく、動悸が強くなっていくのが分かった。

 それを隠すように俺はまた、窓枠に肘を、米神に手を当てて外を見る。

 すると遠くの方に、月影を受けながら波を立てる悠然とした地平線が見えた。その代わり、視界の下端に見えていた筈の赤と白の点滅は、消えて無くなっていた。

「――それは、朝星さんにも言える事では無いかしら」

「……⁉」

 藪から棒な宣言に、気が動転しそうになる。青天の霹靂といっても過言じゃない。

この人はどうして妹の名前を知ってるんだ……? と、そんな動揺は俺の無意識に震えた肩口から伝わったのか、冱雪の姉は静かに続ける。

「詳しい事は言えないのだけれど、朝星さんとの出会いは図書館だったわ。彼女が毎日毎日、死ぬ気で勉強していた様子を横目に見ていたから。つい二日前、話しかけられた時には驚いたわ」

「……そう、なんですか」

 全く、知らなかった。俺ごときに進路の話をしてきたのは、そういう事だったのか……。それなのに、俺は――。

「そこで、昔の話を聞かせてもらったわ」

 手を丸め、髪を掴む俺を他所に、冱雪の姉は口を閉じない。

「この暑い時期にジャージを着ていたから、その質問を発端にね……。彼女、過去に負った右の太ももの傷が原因で勉強、それ以外の道を閉ざしてしまったのね……勿体ないとは思うのだけれど、それが、彼女の確固たる意志のようだったわ。そんな意志は彼女自身のもので、私が手を出せるものでは無いから————私には、微力ながらに勉強を手助けする事しか出来なかったのよ……。それを見て、私は思ったの。鏡君の妹さん————朝星さんの、そんな死ぬ気の努力を経たその果てには、本当の幸せがあるのかしら、と。そしてそんな彼女もまた、時代に選択肢を奪われた被害者なのだと――鏡君。君も、そうは思わないかしら」

「それは――」

 目を逸らした先。ガラス越しに潜む冱雪の姉は、弱った俺を逃がすまいと真に見つる慧眼を向けて来ていた。

 俺はまた、それから逃げるように俯いて、言いどもってしまった。違うと、俺そのものが原因だと、ほんの少し前まではそうやって自分を納得させていた筈なのに……。別の選択肢が提供されると、自分から距離を置いた可能性があると、どうしてもそれに縋りたくなってしまう。人生という長い道すがら————過去は不変で、未来は千差万別だ。だから、そんな確定した要因と不確定で形の無い果て――今回の場合、受けた事実の確定しているトラウマを持つ過去と、無差別に続けさせられる努力とその果てにある曖昧な本当の幸せ――が悪者だと思い込めば、きっと、一気に楽になってしまう。それら概念の被害者だと……そうして罪を擦り付け、否定してしまえば、この場に於いては俺までもが悪者では無く、神格化された冱雪の姉が間違いのない正義だと、そう認めることになってしまうから。そんな箱の中身を確認しない単語だけの存在には、罪も罰も、悪人も善人すらも存在しないから……諦められる気がするから————。

 知らず知らず握りしめていた手。その指先が遂に傷つけた手のひらの痛みが、じわじわと感覚を蝕み、僅かに滲んだ血の匂いは鼻腔から脳に雪崩込んで焦燥感に燃料を焼べる。

 それを受け、いつも通りの自己嫌悪が堂々と巡ってくる。だがそれは、今回、好機となる。

 いつもなら見て見ぬふりをしてしまうそれを掴み、引き寄せ、なんとか言葉に変える。

 ……そうだ。物事の解決先はいつだって、俺が恥をかくか、悪者になるか、それで終わる。それに、きっと。物事の本質は過去や未来とかいった単語で済む上辺の紛い物だったり、はたまた、果てなんていう言い知れない物なんかじゃない筈だ……。その中身から目を逸らすのは簡単で、そしてそれは逃げ道として最良になり得るが、最悪でもある。朝星ちゃんを傷つけた加害者は、俺であるべきだ。目を逸らしてはいけない。

 俺は向き直り、冱雪の姉の瞳を見据え、重い口を開く。

「――朝星ちゃんの場合。……過去とか未来とか果てにある本当の幸せとか、形として存在できていない曖昧で概念的なモノよりも、もっと、具体的で分かり易い……それこそ、トラウマっていう映像にいる、記憶に残った、只の物体としての人間が風景より前に浮かび上がって、足枷になっているんじゃないかと、俺は、そう思います」

「……映像では無く、物体としての人間?」そう問い返しながら、冱雪姉の目は細み、顔は僅かに傾く。

「はい。まぁ。俺なんですけど」

「そう…………いえ。しかしそれは、鏡くんの自意識過剰なんじゃないかしら? 朝星さんは、君や他の誰かが原因で……もしくはその為に、果ての可能性を閉ざしたのではなくて――」

「いえ、俺が原因です。時代でも何でもない」言いながら、分かった。これは、事実だ。

 俺が遮ると、少しだけ不機嫌そうに口元を歪め、目つきが更に鋭くなる。気にしつつも、俺の口は止まらない。止まるわけにはいかない。

「朝星ちゃんは、多分。過去に起きた出来事を一枚の景色としてじゃなくて、それを取り巻いた人間の、その表情とか動きを肖像として覚えてしまっているんだと思います……それで、距離が一番近くて、似たような感情に陥った俺のそれらがトラウマで、同じような経験を避けるために、別の道を模索しているんだと……。朝星ちゃんは誰よりも気を配る子だったから……。だから、他でもない。当事者である俺が、トラウマの本質であり、原因なんです」

 そして、理解した。これは俺の、完全なる妄想でもある。朝星ちゃんの真意になり得ない。そもそも、俺の為に朝星ちゃんが陸上の道を諦めたなんて、本当にそんな事があるかと、間違いないかと言われれば、俺にそれは分からない————理解できるわけがない。他人の絵空事もいいとこだ。

というかそもそも俺は、今、何の話をしているのだろうか……。冱雪の事情とかけ離れた人間の、その、事実かも知らない考察なんてして……。冱雪の姉の言葉をただただ否定したい、対立仮説を打ち立てて……。

 そんな心の揺らぎが伝搬したかのように、冱雪の姉は頭痛を鎮めるように米神を押さえる。

「……私には分からないわ」

 そして、呆れたようにため息を吐き、続ける。

「どうして、鏡くんはそうやって自分を責めるのかしら……。そもそも、記憶なんてものは只の帳みたいなものなのよ。しかも、それは一枚画では無くて、それら関連する記憶を飛ばし飛ばしに張り付けて、継ぎ接ぎに、無理やりに映像へ————映画フィルムのように————海馬に留めておいてしまうものなの。鏡君の言った肖像はそれに含まれていて、そこに存在する鏡君という稀有な存在は、微力な存在でしかない。そうしてそれら一連の記憶は血肉となり、それを巡る身肉からからは離れない、それこそトラウマになるし、起因した要因をこれから先も取り除こうと、無意識に躍起になってしまう。私はそれを時代と呼び、故に生まれた被害者なの。……もしかしたら朝星さんも、鏡くんの大切なものを奪っていくような、そんな行動に覚えがあるのではないかしら? 朝星さん、古いオルゴールを大切にしているようだったけれど」

「……オルゴール」

 八歳の時に無くした筈の、あれか……? 小さくて、動きも鈍い、当時にはもう錆び付いていたオルゴール……。耳にこびり付いて離れない、名前も知らない曲が流れる、あの、オルゴール。

「……確かに、そのくらいの時期でしたけど――」

 ふいに思い返し、口籠る。暗い過去は脳髄を叩き、瞼裏の涙腺を激しく揺さぶる。当の俺に出来るのは、コントロールできないそれが収まるのをじっと待つことだけ。

 だが、そんな隙を逃さないかのように、冱雪の姉は深く息を吸っていた。

「私の弟もね、そんな節があったのよ……。だから彼はあの町に行くことを決意したし、断固として自らを変える意思を曲げなかった。それでも、時代に閉ざされてしまった、果てにある目的地は一緒なのだけれどね。経験という面で、私はそれを尊重したのよ」

 冱雪という、たったそれだけの単語が出ただけで、俺の脳は切り替わる。視界一杯、見えるのは冱雪の笑顔だけ。……妹の事を話すときの冱雪は凄く幸せそうだった。だがどうだ? 過去の事は話題に出ず、変わろうと心に決めた時の冱雪の表情は何より、辛そうだった。……宇都宮先生の言っていた、冱雪を基に置くという事がどういうことか、理解できた気がする。

 ここで俺が負ければ、あの笑顔を見られなくなるような気がした。

「でもそれは、そもそもの原因はアンタ達じゃねぇのかよ……。時代ってのは、その中に居るアンタ達の事を差していて、だからトラウマってのは景色じゃなく、その中に潜むアンタ達の事だ。だからこそ、そんな人間の居る場から逃げ出したんじゃ――」

「逃げ出した? ……何を言っているの? ————彼らが絢漣町へ住むことを斡旋したのは他でもない、この私よ。母に頭を下げ、私の自由を担保に彼の高校生活を確約したの。————あの間の抜けた自分語りと説教口調が癖づいた化け物教職員から、私の事をどう聞いているのかは知らないけれど、それだけは曲げようの無い事実よ」

「……は?」

「彼は、幼い頃に見たあの町の風景や経験した人間関係を、先程言ったような帳の群れとして映画に、それを確かに覚えていて、その海馬に埋め込まれたものは、今を生きる彼の足を引っ張っていたのよ。女の子の文化を与えた男の子……そんな非人道的な行いを長い年月をかけてトラウマにしてしまっていて……。だから、暴露療法的に彼を絢漣町へ引っ越させたの————まぁ、その発想は彼の出で、私は認めただけなのだけれど————。鏡君……トラウマというものは何も、逃げるだけが選択肢では無いのよ? 克服して、次に訪れるその衝撃に備え、対策する人間もいるの。彼は、そちら側の人間だったというだけの話よ」

 …………そうか。そうだよな……。完全に、盲点だった。俺は違うから、完全にその道を排除して考えてしまっていた。俺や朝星ちゃんの様に、トラウマから逃げるように道を限定する人間もいれば、あえてそれに向かって身を投げて、克服する人間だっている。

 ただ、それなのに――

「それならどうして……。冱雪が時代の被害者だったとして、克服しても尚、果てにある目的地も変わらず、それが本当の幸せでないと言い切れるんですか……? 現に冱雪は、トラウマと向き合ってまで変わろうとしていて、それなら、未来の可能性だって広がる筈ですよね……? 俺や朝星ちゃんとは違って」……いや、違う。勢い余って口にして、少々語弊を生むような文言になってしまった。————未来の可能性が広がらず、変わろうとしていないのは、俺だけだ。

 朝星ちゃんは、自分なりの道を歩いているはずだ。

 それが、生来持ってした才能を投げ打った、本来の道で無かったとしても。

 限られた果てとやらに、真っ直ぐ進んでいる。俺とは、根本から異なっている。

「――それはね、鏡君」

 俺のその質問を待っていたかのように、冱雪の姉は不敵に口角を上げ、続ける。

「時代とは不変の過去の事で、それが不変である限り、そんな時代を背負ってしまった人間は、そこから如何様に努力しようとも変えられるのは自分自身の身なりに過ぎず、決定づけられ、閉ざされてしまった果てに分岐が無いのなら、それもまた、不変のものだからよ。……それに、あの子が変わろうとしているのは、許嫁の男の為に女の子らしくなるという、何よりの肯定に満ちた選択に基づいたものだしね————。先ほど目に入れた際は、そんな事すら忘れているようだったけど……。だから、その必要はないと言ってあったのだけれどね————」と、深いため息を溢し、完結したような雰囲気を勝手に纏う。

「…………はぁ?」

 この人と俺の、物事に対する価値観が違い過ぎるからか、全く話になっていない……。納得できるような文言が飛んでくると身構えていたのもあって、むしろ、頭が混乱していく。

 それに、冱雪が女の子らしくなろうとしているなんて新情報が舞い込んで来て、それは巨大な竜巻となり、他の思考を巻き込んで形を無くしていく。許婚って、男なのかよ……。

 女の子になりたいなんてそんな気配、微塵も感じなかったが……。それが事実として、それは本当に、冱雪自身の意思で、目標で、決意に満ちたものなのか……? なのに、今日見た冱雪がそうしていなかったのは、やはり、あの町の過去のトラウマが因果して、無意識に、拒否しているんじゃないのか。

矛盾じゃ、ないのか……。

 ————いや、この人が言うには、それそのものが、時代を背負わされた状態で————そんなデバフ状態だから、果てにあるのは本当の幸せじゃないってことか……? だから、本能ではそうしたくなくても、冱雪は女の子にならざるを得ず、不変であるということか……? いや、でも……この人はその必要はないと否定していたようだったし……。だったら、何で……?

 自己矛盾。

 そんな言葉が脳裏をよぎったが、それは、俺の言えた事じゃない。だからって、冱雪が抱えてないとも限らないから…………その理由が、知りたくて知りたくて、堪らなくなってくる。

「「……………………」」

 俺に考える時間を与えるようなわざとらしい無言。

 それを受け、また、外を見る。

 目を瞑っていても始まらないからこそ、どこかに逃げ場を求める様な、無意識的行動だった。

 冷たさで霜付いた、ボケたような白色の窓を通して、朧な月が目線と同じ高さにやって来ていた。

 動揺が伝搬したように揺れるゴンドラも、冷たい視線のような肌を突く風たちも、全てが俺の焦燥を煽って来るので、休む間も逃げ場もない事だけは分かった。

 ……ただ、幸か不幸か。さっきから、時間の進みが遅い。

 ここが正念場だ。大丈夫。この人が時代や果てを念頭にどんな考え方をしているかは分かって来た。そこに、どう俺の考えをねじ込み、諭し、理解や視点を変えられるかだ。

 多分、きっと。というか、確実に……この人のそれらを変えられるなんて傲慢な考えはないが……勝機はある。冱雪を救う方法は、まだある。俺には、とっておきの策があるしな……。

 そうして考えていると、観覧車は半分を過ぎていく。

「――私はね、鏡君」

 冱雪の姉の声を受け、正面を向くと、曇りなき瞳が俺を捉えていた。

「過去のトラウマに囚われて目的地を見失った自分の弟のそれを、見出してあげたのよ。あの子を最後に、あの腐った風習を終わらせる為にもね」

その物言いは、自分が間違いないと、余程の難事を成し遂げたかのようだった……。それは俺の天邪鬼な心に火を付け、その間違いを正したいと舌が勝手に動いていた。

「その腐った風習ってやつを終わらせるために、一人の人間の果てとかいうやつを蔑ろにするのは道理に反しているんじゃないんですか……? 時代や果てなんて言い訳を使って、責任から逃れているだけとしか、どうしても、今の俺にはそう思えないです。……結局、冱雪を縛り付けているのはお姉さんである貴方とその家庭内事情だ。……冱雪が成そうとしている様に、過去のトラウマは乗り越えられるかもしれないし、俺達兄妹のように逃げる選択肢だってまだ残されている。貴方の言う果ては本来————閉ざされたものと仮定しても————いつか形を変えてしまう無差別的な物だと思いますし、未来は本来、そういうものでしょ……? 新しい扉はいつでも、自らの意思で開くことができる。……そもそも、貴方にその力があるのなら、それは、貴方で完結させるべきだ」それに、冱雪がアンタの意思を継ぐとも限らない————なんて、非常に無力な言葉たちを飲み込む。

「それは――無理よ」

 冱雪の姉は言葉を奥歯で噛み締めながら、肩をすくめて直ぐ、俯いてしまった。

「私にだって、鏡くんの言うような無差別的な果ては存在していたのよ? だけれど————世間の連中がそうでも————私たちの果ては現状のように限定されてしまった。きっかけが家庭の事情なのだから、避けようもない、いつかは啖うものなの……。結局私は、有り得た未来を蔑ろにされた一人の人間であり、次の代でそれを終わらせようとしている先導者でもあるの————。もう、出会ったのでしょう? 名月さんには」

「……まぁ。はい」

 ギュゥっと音が聞こえる程、足の上に乗せられた拳が強く握り締められている。それを受け、俺の掌の温度も増して行く。

 そして、また、俺は自分の未熟さに落ち込んでいた。

 つくづく、全く持って、多視点で物事を見ることが出来ていない。俺はある問題を前にすると、その問題を抱えた人間をファーストパーソンに、それと直面してしまう。だから、自分の意見に対して相手も同意すると、それを口にしてしまっている時点では思ってしまうし、そもそも、問題というのは相手が存在して起こる物なのに、その人がそれを受けてどう感じるかなんて、全く考えもしない。後になって気付き、後悔する。それは、掲示やネット、スレ板で世論を語る人間と何ら変わりない。今となっては、それが世間で、俺はやっぱり、一般の大衆と何ら変わりない。自分の事で精一杯なのに、そんな汲む能力が育っている筈もない。

 …………俺には、無傷で冱雪を救うなんて題目は攻略不可能なルートだった。何の被害も出さず、誰も不幸にならない、そんな平成映画的、創作物的ハッピーエンドへ、こんなクソ陰キャが迎える筈もない。当初の想定通り、この人を説き伏せるなんて毛頭可能性のない話だった。

 こんなことになるなんて、半年前の夢見た男子高校生が想像し得ただろうか。この時の俺は、何を思ってあんなことを考えていたのだろうか。

 それもまた、自分を俯瞰で見れていない、最悪の人間性を持ってしまったからなのだろう。手遠い夢想と厚かましくも烏滸がましい野望は、ここに存在してしまっている俺を失望させ、自我を殺しうる動機としては十分だった。いつかに感じた覚悟だの枷だの業だの、何もかもが雲散霧消して身から離れていくようだった。そしてそれが伝えるのは、半年間を通して繋がった人間関係を手放す絶望だ。揺れ動く決意だ。自分で首を絞め、半死半生に陥っている。

「「………………」」

 そしてまた、この時間。

 更に、今度感じるこの揺れは、動揺して崖際に立たされた俺を突き放すようで、雨滴の打撃音は銃撃音にも似ていたし、張り詰めた肌を通して緊張が全身に走っていく。

 そんな情景に打ち震え、日に焼かれる軟体動物のように無意識に身が縮こまって行くのが分かった。それらが五臓六腑に染みわたり、末梢血管から心臓へ、何もかもが熱を一つに寄せ集めているようだった。

 その熱の正体は、何なのだろうか。

「――鏡君」

 そんなくだらない事に僅かな残量の思考力を割いていると、ふわっと名前の知らない良い匂いが香り、左腕の温度が奪われ、ほんの少しだけ、楽になってしまった。若干の体重という重みを感じている事以外は。

「私と君。何処か似通った部分が多い様に思うのだけれど、それについてはどう思う?」

「…………似ている?」

「えぇ、そうよ」

 左に顔を向けると、肩を寄せ、優しい目を向けている冱雪の姉がいた。さっきまでの剣幕が嘘みたいだ。

 ……いや。いやいや。……似てないからこそ、こうやってお互いに納得いかないまま、無意味な時間だけが流れているわけで……。肌を寄せ合い、動揺させれば、揺らいだ童貞力の思考船が傾くとでも思われたのだろうか。残念ながらこんな俺にだって、多少なり矜持はある。————プライドがあるから、苦しんでいる。

「————それに君も、彼女とかは居ないのでしょう? それなら。もし、そんな今の君であれば……お家に決められた人と必ず結婚できるとなれば————それがもし、私だったら……どう?」

「————どう、と……、」

 言われましても……。飛魚のように泳ぐ視線が、銀燭な地平線上を泳いでいく。

「もし、片隅にでも肯定的な意見が浮かんでしまったのなら……それならば、こんなに楽な制度、設けない理由なんて無いと、そう思ってしまうのも、仕方ないのかしら————ね?」

 冱雪の姉の口調はどこか挑発的で……。というか、行動諸々がそれそのものなんだけど、なんか、どこか、少しだけ……否定して欲しそうな空気感を纏っている。

 というか、この人が言うには、その心の目指すにあたっては、冱雪の代で風習を終わらせると、そういうつもりらしいんだから、そもそも、言っている事に矛盾がある。

 自己矛盾だ。大きな齟齬だ。噛み違えている。揺れるゴンドラよりバランスが悪く、批判や弾劾を待ち構えるテロリストのように堂々としている。きっと、これを否定すればこの人の思惑通りで、己の本心とまるで同調したかのように思わされてしまうのだろうが……さもしなければ、この状況において俺が許嫁を認めたかのようになってしまう。冱雪を失ってしまう。やり口が巧妙で、逃げ場がないように思われる。また、厄介なのは、無言ですら自らの首を絞めるとう事実だ。

 それに、想像してみなくとも明らかだが、俺側としては一方的に、こんな美貌の持ち主が許嫁として紹介なんてされれば、そりゃ————いい制度だと、言う筈だ。この人の言う事に偽りはない。正直な話な。だが、それだけではコンセンサスは得られようも無い。

「————楽かどうかは置いておいて、設けるべきでない理由は、今、あなたの気持ちを鑑みてもらえれば、明らかになるんじゃないですかね……」

「ん……?」

 一体、何が言いたいの? とでも言いたげに小首を傾げる様子は、冱雪にも似ていて……。

 と、いうより、この人は本当の無自覚に俺を性的に煽ってきているのかもしれない。と、そう思わされた時点で俺の負けがチラついている訳で……。この人実は、哲学的痴女なんかではなく、ただの痴女なのかもしれないと思うと何を自戒していたのか、まったくバカらしくなる。

 きっとそれも、俺の誇大妄想だ。全て、計算し尽くして行動するタイプだろう。この人は。

 ほんと、非モテを拗らせるとこうまで妄想癖が悪化するように進化するとは……。こんなあまりある拗れをみせた染色体が受け継がれるとか、ある意味不仁な生まれついての劣等種で、むしろ、どうにかして後世へ語り継がないと、とも思う……。あ、非モテだから無理なのか。

 ストン————と、妙に腑に落ちた俺は、冱雪の姉の肩を優しく押して身を捩らせながら、少し距離を取る。その際、距離感覚をミスって右手が窓枠へ乗っかったままだが、言い出せる感じでもなさそうだ。矢継ぎ早に告げる。

「大切なのは、大切な人との共感だと思います。一方的な、その……よくある愛や恋、性や精、快や悦でもなんでも……相手もそう思っていないと、成立しないものじゃないですか? でなければ、簡単に問題でも起きて全部お釈迦になる……。文調は武器で、それを向け合い、時に探り合いながら、距離を徐々に近づけていく。それが人間関係なんじゃないですか? ……まぁ、俺にその経験は無いんですけど————」

 世に言う、エンパシーってやつです。と続けると、そんな言葉を丁寧に咀嚼するように、冱雪の姉は顎に手を当てて「ふむ」と唸る。が、そんなのも一瞬のこと。

「————鏡君は一体、彼の事をどうしたいのかしら?」

 彼。きっと、冱雪のことだろうが、俺がどうしたいって……何が。

「家の情事に介入して、命を懸けてまで……。それって、君自身が距離感を間違えてしまっていることになるのではないかしら。それなのに、彼を手懐け導こうとするのは、どうして? 大して深い仲にもなれていないのでしょう? 幼い頃の記憶も共有できていないようだし————」

「……それは————」確かに。どうしてだろうか。自分の信念に反している。

 命を懸けてまで。

 言われるまでは、そんな大事に加担している自覚は無かったし、言われてなお、は? と、どこか他人事のように捉えてしまっている……。奇襲に備えておいた方がいいのだろうか。名実ともに土佐藩藩主になる気はないし、それされたのって坂本龍馬だし……もう無茶苦茶だ。

 それにもう一つ。幼い頃の記憶を共有。とは。

 まるで俺が冱雪と————もしくはこの人も————小さい頃に知り合っていたかのような物言いだ。

 もし仮に、だ。幼時に彼と出会っていたとするのなら、いかに短い時間であろうと、忘れよう筈もない。と、思う。とはいえ、俺は物語のキャラの名前すら覚えるのが困難な人間だ。

 若しくは、それを凌ぐほど、鮮烈な思い出————イジメに遭った時期と被っていたか、あるいは、冱雪の容姿が今とあまりにも乖離していたか、だ。

 どちらにせよ……どうにせよ、この人の物言いには諭すような呼気が混ざっていて、反論せずにはいられない。

「俺は、冱雪の事を————それも自分の為に、手懐けようとか、導こうとか、滅相な考えは持ってないですし、一方的なものを蔑ろにされたって、なんとも思わないんじゃないかと……。第一、俺自身、目的地なんて見失っちゃてるんで……」入学の日の国道沿い。学校までの直線の道。あんな簡素な道とは、程遠い、とてつもなく大きな、それも獣道レベルで足場の悪い迂回路を歩いている。

 そして、口にして。なら俺は一体……。それこそ、命を懸けてまで、冱雪の何になりたいのだろうか。冱雪の為に、何をしているのだろうか。と、そんな考えに至っていた。

 宇都宮先生の、『負にならない為の、冱雪を基に置いた考え』とかいう、冱雪にとってみれば身勝手極まりないこの理論は、実際、俺の為にはなるのかもしれない。が、また、忘れていた。いつものファーストパーソン病。

 冱雪の事を、蔑ろにしていた。

 でも今は、それに縋らざるを得ないのかもしれない。

結局は、誰でもない。自分の為に。張り詰めた矜持に触れられても、耐えるしかない。

「鏡君は、きっと。他の誰よりも今に注力し過ぎているし、何に於いても過去に囚われ過ぎているのよ。だから、自分の果てだけを考えて、身の丈にあった道を歩く方が、いいのではないかしら。人には人の、ってやつがきっと、君にもあるはずよ」

 冱雪の姉が発する啓蒙的な発言は、色味を増していく。

 そんな中で俺は、この人が捨てた過去を……。その、像を、思い出していた。

 図星を突かれたからこその反骨精神————や、ただの負けず嫌いだ。プライドだ。

「————名月さんは、あなたのことを憂いているようでしたよ」

 俺が朝星ちゃんの話をされたように。この人にも、自分の知らない、大切な人の話をする。一種、意趣返し的要素を纏ったそれは、同様に、心に苦ると、そう思っていた。浅はかだ。

「————彼女には、悪いとこをしたわね」

「えぇ、だから————」

「でも、それまでのこと。彼女には元より、私のいない果てが与えられていたのでしょう。故に、今更彼女の前に出ていくような野暮なこともしないわ。それは、私が過去を押し付けられ、あった未来を捨て去ってしまった際に決めた事……果てしか見えなくなった、あの頃の事」

 だから君も————。と、目と鼻の先で、繊細な口が開く。

「いつかそうなるのだから、早い内にそうしておいた方がいいわよ……。彼のために生きるのは、鏡君のためにはならない。君が背負うにはあまりにも重い業なのだからね。身の程に合った生き方を————果てを————見定めて、その蹌踉とした足取りで生きて行きなさい」

「……………………」

 四角四面な人間が申しそうな、一知半解の人間を啓蒙するような言い分だ。

 そう。あくまで啓蒙的に。

 この人は俺のことを、無知で自分を持たない残念な人間だとでも考えている。この人で言うところの果てを見据えず、俺で言う目的地も持たない。他人主軸の畢生架屋は、自分主軸の人間にとってみれば、曖昧で、無益な人生を送っている朽ちかけの流木にも見えていることだろう————もしくは、降り頻る雨の一滴だ。地に落ちてしまえば、その姿すら見当たらない。……まぁ、それを間違っているとは言えないし、というより、事実としてそうだと思う。とはいえ、俺の人生経験でここまでの拗らせをみせた優秀な人間を知らないから、他のそういった人間がそんな人を見下すような考えを持っているとも思えない。とはいえ、完全なる俺の上位互換であるが故に————人類史における対角線上に存在する人間同士であるが故に、分かりあえることはないだろう。

 だから、ラスボスなのだ。いつか見た、自由奔放だった俺の裸の心が現実や時代や果てとかいう経験値とコンタミし、見栄を張り、絢爛豪華に着飾ってみせただけの狐の空威張りだ。つい奇跡的に、そんな側に対して中身が伴ってしまっただけ。

 ということは、こんな人に傑物とした人間と見られること自体、俺にとってはとても不名誉なことなのかもしれない。勇者だって世界の半分は貰わないだろう。魔王は譲らないだろう。俺は俺として、自由であるべきだ。ゴンドラの檻に囚われて死んでいくなんて、煮え切らない。

 ならば俺は、そんな対極に位置する人間を唯一、ギャフンと言わせることのできる人間でもあるのかもしれない。そんな、いっぱい食わせる唯一の俺のデッキ————


「俺はヒロインになる————いえ、『俺がヒロインになる』」


「……は?」

 不安もあったが、完全に決まった。ただしその瞬間、時が止まった。

少し前から考えていたことを、完璧に言語化し、伝えることができた————俺の持つブレブレでバランスも取れていない、捻くれて固執した人生観を……時代と果てに固執する同じく捻くれた人間に、押し付けることができた。

 他人主軸の究極系。独りよがりの身勝手な行動で————自己犠牲の塊でもある。

 冱雪に向けられた圧倒的ナショナリズム。宇都宮先生に言われたことを自己解釈し、その極致の言葉へと変換した————『俺がヒロインになる』。

完璧なまでの、ワンサイドオブセッション。その目的無しで、生きることすら叶わない。

そしてそれは、多大なる危険やリスクを伴っている。男である俺が夢想するにはあまりにも手遠く、口にする事すら烏滸がましく、厚かましい、並大抵の努力を務めた所で叶うとも思えない野望でいて、周囲の人間がそれに勘付いた際は距離を置かれること請け合いの、それら失望という枷を背負った、ただの時限爆弾だ。俺の人生を冬萌家の事情にベットしている。

なんなら大変迷惑な事に、その上に冱雪の人生すらヒットしてしまった状態で、この場に存在すらしない彼にとって、これ以上迷惑なことはないだろう。

と、いうか。威風堂々とそれを宣言した目の前の相手すら、納得させることが出来ていない。この人にとってみれば、暴論もいいところだろうし、意味も分かりかねるだろう。

なにせ、ついさっき言われたんだから。

危険を孕んだ道を行くよりも、今の若い内に————取り返しの効く今にこそ、自分軸に生きるべきだと。

年寄りの説教じみたそれを、聞く人が聞けば、自己を省みて猛反し、変わろうとすることだろう。

変化を求めていた筈の俺は、何故、そうしなかったのだろう。冱雪主軸に生きると開き直ってしまったのだろうか。楽な道を捨てて、隘路を進もうと決めてしまったのか。

まぁ、こんだけ覚悟決まった選択をパッと決められたのなら、それも又、変化なのかもしれない。……成長したかどうかは別にして————いや、十中八九、捻れた別の道へ逸れただけ。拗らせ、ぐちゃぐちゃになってしまった性格が、凸凹に再形成されただけだ。混ざり合って隘路そのものになってしまった可能性すらある。

「……老婆心を越して、ただの変態ね————」

 呆れた、と。口にしていないまでも、分かりやすく身を引かれる。

「ヒロインの意味は分かりかねるけれど……。君のするゲームとは違うのよ? 現状(いま)と何も変わらない。そんな、意味のわからない標語を叫んでもね」

「意味は、分からないべきだと、思います。俺は、可笑しな事をしようとしているので————」誰も、そんな事をしようなんて考えない筈だ。だから効く。理解できないから。

 相手がどれだけ大切で、近づきたい相手であってもしない。道理じゃないからだ。

 でもそれは、俺が行動しない理由になり得ない。むしろ、発破をかける動機だ。

 それを今、目の前にいる人間に————全てを見透かすように目を鋭くしたラスボスに————この人の言う時代に残るくらいに強烈な帳として、今日という日に幕を下ろさせる。

「とにかく俺は。お姉さんが変えられないものに目を向け、果てを見据えているのに反して————」違う。

「同じ様に。変えられるものに目を向けて、変わっていく目的地を模索してみたいと思います」お互い、メビウスの輪が如く捻くれているのだ。なら、考えに変わりはない。

 今日、ここ、観覧車での話し合いの総括は、この文章で済む。

「冱雪のように……。いや、それを凌駕する程に、俺は、変わる」

「……その。ヒロインとやらは、彼にとってのもの、という事なのでしょう……? それとも、彼よりもより、女の子らしく、なるという事……? 自分を捨ててまで……?」

 本当に信じられない、と。

 そんな表情を、ゆっくりと、窓枠ギリギリに寄りかかった俺へ近づけてくる。

「————私が、ここに居ても?」

「…………はい。アナタが、ここに居続けようとも」

鈍い光を回折した瞳が、文字通り目前で俺を見つめる。さらり————と艶やかな髪が滑り、顔が半分だけ見えなくなった。

 優しく、柔らかく乗せられた体重を受けて、俺自身が震えていないことに気がついた。ただ、それと相反する様に、冱雪の姉の肩が小さく上下に揺れている。

「君は、やっぱり————」

 ボソボソっと。か細い吐息のような声は体重が離れていくのと同じ様に感じ取れなかった。

 そうして離れていった冱雪の姉は、右足を座席に乗せて俺の背後にある窓枠に片手を伸ばし、もう片方の手で髪を耳にかけていた。奇妙な格好だが、何かを待っているようでもあった。

 俺はただソフビ人形のように微動だにすることもできず、時間の流れを待とうとした。

 が、次の瞬間。

「————時間切れね」

 そんな言葉と共に、ガタンッ! と、強い衝撃が全身を揺らす。

 若干の焦りと共に窓の外を見やると、霧も月も水平線もなく、眼下に建物の屋上が見えていた。残り、一分といったところだろう。時間の流れは不思議だ。感情に則っている節がある。……誰とも交わらない現実が、未来に向かって、堅実に進む観覧車では、なおさらに。

 その空間は純粋だとも言えた。俺が、俺であれた。そんな気もする。煙の中と一緒だ。

あの職員室の角、パーテーションの中と違うとすれば、自分の感情に正直にあれた事。YESをYESと言えるのがゴンドラで、NOをYESと言えたのが煙の中。どちらも俺で、純一無雑であった。

「君の動機が薄いことも、不純なことも、曖昧なことも……。納得はしていないけれど、今は、全部見逃してあげる。ただ、君への洗脳を、立場上諦めるわけにはいかない。私に定められた果ては、千古不易————現状維持になるものだからね」

「……洗脳って」

 ならば、その信者に肩を濡らした人間から言わせてもらうが————この人は全く向いていない。

 が、只それは、俺と千旬さんが全く別種の人間ではなかったからかもしれない。もしかしたら、この人の言葉に、耳を傾け、洗脳される人間はむしろ多いのかもしれない。その要素は十分にある。

 ただ。

「俺は、かなり強敵ですよ」

 何せ俺は、『負にならない為の、冱雪を基に置いた考え』とか言う考えを持った、冱雪教徒の盲信者なんだからな。自分の人生を捧げて、ヒロインとか、自分でもよく分からないものに成ろうとしている。金やらなんやらよりも、より大きな投資とも、言えなくもない。

「えぇ、知っているわよ」

 だから————。と、冱雪の姉は俺の額に指を添わす。身動ぎ一つ取れず、俺は、様子を見守る。

「燃えるのよ。君を倒す為に、全力で動かなければならないからね……。覚悟しなさい、勇者さん」

「えぇ……。いつでも。かかってこいよ、魔王」

 いつか、口にした事があるような気のするそれを聞いた冱雪の姉は、満足そうに口角をあげて立ち上がり————

「まずは、自己紹介からね」

 と、そう口にして、出会った時と同じように、俺を見下ろしてくる。

 そういえば、俺は、いつまでこの人のことを『冱雪の姉』なんて呼んでいたのだろうか。正直、違和感なんてものも無くなっていたが、どんな物語にも、当然魔王には名前があるものだ。竜王然りカオス然り真奥貞夫然り、名は体を表すなんて言うが、この辺の魔王って名を体に表しすぎているんだよな。

 そのまますぎて、覚えやすくて助かる。なんて、俺が覚えているくらいだから、よっぽどだ。

 捻くれ方といい、拗らせ方といい、この人もそうなのかもしれない。

「私の名前は、千旬(ゆきひら)。そうね……。敢えて意味を持たすとするならば————千のように数多く、旬のように十日前に、君に脂が乗った時に、ことあるごとに君の前に現れる。魔王の様に、黒幕が如く、ね」

「……はぁ」

 ちょっと、何言ってるか分かんないすねぇ……。魔王ならそんな最前線に出てこなくない? 知らんけど。と、そんな疑問を埋める様に————

「君も見たのでしょう? あの犯行予告を————あれは、十日前に送ったものなの。それに加え、今日は丁度、君に脂が乗った時期だった。だからこその宣誓だとも思うわ————まぁこれは、偶然なのだけれどね」

「……?」

 犯行予告。

 これは、宇都宮先生が持っていた、グチャグチャに丸められていた、あれだろう。

 だが、俺に脂が乗った時期が故の宣誓だと……? 偶然と言っていたが、とはいえこの人は、それが露呈した時点で、そうなるよう誘導していたのか……? 『俺がヒロインになる』とか言う無茶苦茶過ぎる妄言を……? そんな訳はないが、そんな訳があるのかもしれない。

 傑物とした人間のその冷たさを直に浴び続けた俺の体は、人生初の経験に怯え、どうしていいか分からなくなっているみたいだった————

 思考全体がブレインフォグに支配され、感情鈍麻になりつつあった。

「そういえば今まさに、なのだけれど————とういうか君は今、方向音痴の彼をおいて、何をしているの?」

「……え?」

「冱雪冱雪と曰う割に、君は知らないようね。————彼、かなりの方向音痴なのよ? 今頃、映画館付近でウロウロしている事でしょうね。駐車場の近い、あんなにも危険な場所でね」

「…………」

 方向音痴、か。確か……入学の日、地図を握りしめていたのは、やっぱり、そう言う事だったのか。でも今日、俺と合流するまでは、というか、それ以降も、俺が行く先々に冱雪は居た。

 だからきっと……大丈夫なはずだ。

「私が挙げているのは、彼の内的要因にならず、外的要因の話をしているのよ」

「……外的要因?」

「えぇ。犯行予告に記しておいたはずだけれどね」

「……誘拐、ですか」俺は今、それを阻止する為にここにいる。知らないはずがない。

 それなのに、ようやく、本題に入ったかの様な、絶望的な流れだ。

 俺はずっと、それを止めようとしていたのに————朝星ちゃんと冱雪への偏見と俺の犠牲は、全くもって、そのお題目に影響を及ぼしていなかったと、思い知らさたようで————千旬さんのセーフティに、そして、冱雪を救うヒロインにすら、成れず終い。

「誘拐とは違う。それは、少し危険を孕んだ言葉選びだからね」

「……文字越しだと、そんな語感でしたけど」

「いえ、誘拐なんて剣呑なものではなく、一般的な送迎に過ぎないのよ。彼からしてみれば、帰省ね。誰でも、そういった経験はするものでしょう?」

 これは一本取られた。

 まさかの、一般的だと。

 生来も抱える問題もさることながら、今の状況が、まるで一般的ではないことに、この人は気がついていないのか?

 俺のこれからの人生丸ごと犠牲にするとの宣誓も、この人は全く意に介していないのか……? そんな人間に語られる一般的という言葉に同情する。

 それに、送迎って……帰省って————

「冱雪は、この町を……絢漣星華舞清高校を、離れるってことですか?」

 この地を離れるってことは、そういうことだ。そんな簡単な事を、見過ごしていた。

「それは……彼次第ってとこかしらね」

「……冱雪次第?」

「えぇ。今日の彼を見るに、少なくとも今年度中は、戻らないと思うわ。お母様が、それを許さないと思うから……。だけれど、送れば迎えがあるし、帰省があれば離郷もあるから————」

「だから、冱雪次第、と」きっとそれが、この人のできる限りなのだろう。出来た人の精一杯。

「改めて、この世に平等や公平なんてないのだと、思い知らされるわね。君の言った概念は、本当にクズ同然なのかもしれないわ……。何かを得ても、何かを失っている……私も含め、それに気がつかないふりをしているだけなのよね」

 それは君も————と、続く。

「これから、多くのものを失う。学生時代の私がそうだったように————いつか、気付かない振りも、限界が来るわよ」

 最後に、覚悟を糺す。

 そんな物言いだ。

 疑問文ではない問いは何よりも恐ろしいと、知っているからこその————

本気(マジ)ですよ、俺は……。『ヒロインになる』なんて、頓珍漢な覚悟が、何か、俺の人生を変えるきっかけとなるってくれるって鵜呑みにして、馬鹿みたいに————酔狂に、生きていきます」

「……そう」

「だから————」やっぱり、俺たちは似ている。

 そんな言葉を飲み込んで、立ち上がる。言葉を別のものに、苦し紛れに換骨奪胎する。

 傾いたゴンドラの中で高低差を無くし、正面に捉えた綺麗な顔は、興味を無くしたただの肖像ではなく、何か、別のものを見据えている様だった。

そんな瞳に映らない何かは、言葉を投げ捨てるしかない。

「諦めませんよ」

 冱雪を連れて行かせはしない。そんな見苦しい辞柄の句を締めくくり、今にも開かれんとするドアを見やる。

 ……さっきっから、ずっと苦しんでんな。

 と、捨て鉢自虐していると、そんなドアへの行く手を塞ぎつつ————

「そうね、ただ」と、千旬さんはグッと距離を詰めてくる。

 なんだ、通せんぼか? なんて、『影縫い』も止むを得ないと、適当な覚悟を決めた矢先。

 

 ————ギュッ、と。

 

 予想外の出来事に、

 脳の処理が追いつかない。何回、何十回目の、オーバーヒート。

「無理はしないでね」

 暖かい吐息を近くで感じる、耳元で囁かれた御呪い(おまじない)。

 ————真に受ければ殺されかねない。足を止める(のろ)いであり、千旬という神仏より受ける(のろ)いでもある。

 相反する存在である俺は、その言葉をも相反させねばならない。ただしそれは、二律背反であり、相即不離なものになってしまう。

一体分身である千旬さんと、暗愚魯鈍である俺とが、表裏一体————それが一番の呪縛であり、束縛であり、制縛だ。考えが固執してしまいそうだから、この人の言葉を参考にしつつも、矯めつ眇めつ、他視点で考えなければならない————相反しなければならない。ファーストパーソン病を抑え込まなければならない。でなければ、俺はこの世界の『主人公』になってしまう。俺は————、『ヒロイン』でならなければならない————変わらなければならない。

 それなのに、また、動けない————動ける訳がない。胸に抱かれたまま、どうすればいいか、なんて、わかる訳がない。経験がない————なさすぎる。

 いつも通り、理由は分からない————知る訳がない。列挙したって、どれも違う。

 夏のゴンドラ。そんな蒸された空気を凌ぐ程の、温度に、力に、匂いに、絆された? 違う。

 幽かな呼吸が、早い鼓動が、氷肌玉骨が、艶髪が、触れるそれらに理性を焼かれた? 違う。

 微塵も感じない、存在すらしない筈の愛を、有り余る性欲で生み出したから? 違う。

 違う————これも違う。違くないからだ。否定したいだけ。否定しているだけ。

 変わりたいなら————意識から、変わらなければならないなら————否定するのは、違う。

 クズ同然の概念を、俯瞰して、自分を殺して、でも、本能を敬愛して————ゾンビの様に。

 今は抱こう————変われない自分を。意志薄弱で優柔不断な、保守退嬰を生きる、彼女を。

とはいえ「……千旬さんも」と、それ以上の言葉は出てこず。

 回した両手を伝って————彼女の震えや、筋肉の弛緩を感じ取る。

 それに合わせ、俺も腕を下ろし、解けた千旬さんの手を押し退けて一歩後ろに下がる。後ろは壁————だが、それと同時に。ゴンドラは軌道を正すため傾きを修正し、大きく揺れる。

 支えを失った千旬さんの体を————慣れない仕草で不器用に支えながら————そうしてようやく『影縫い』を使用し、居場所を入れ替わる。

 瞬間、背後のドアが開き、暖気と共になんとも言えない瘴気を一気に招き入れる。

 背を向け、俯く彼女に、何か、声をかけるなんて事は出来ず————いや、時間制限の迫る出入り口を前に、勝手に焦り————深い闇の中へ、ゆっくりと、慎重に、その一歩を投げ打った。

 そんな時のこと。

「————あの娘は任せて」と、俺と入れ替わる様に、誰かがゴンドラへ————。

「きっと、頑張って向き合ったって何も変わらない。だけど、せめて、解決させなきゃだよね……意味なんてなくっても。雨上がりの空は、いつもの空より、綺麗なんだもん。————ま、千旬の中に棲みつく冱雪ちゃんという像は強敵だから、私なんか礫にもならないかもだけど」

 閉まるドアの寸前。————なんとか間に合った。

 すれ違ったのは、名月さん、その人だった。————笑顔はなかったが、多分、苦しみも無さそうだった……。表情からだけでは読み取り切れないけれど、きっと……。

 その奥で、奥歯を噛み締める様に目を瞑った千旬さんの方が、よっぽど苦しそうだった。

 ……俺が降りた後のゴンドラから見る景色は————情景は、どんなものになっただろうか。

 俺はまだガキだから知らないものが、見えているのだろうか。箱を見上げながら考える。

 いずれ知らなきゃいけないことを、見なきゃいけないものを、俺は————。

「『俺がヒロインになる』、か」

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