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第六章 イッパイモノアルヨ


「……すげぇな」

首を六十度に傾けながら、一言目にはそう呟いていた。

 あまりのデカさに、俺を通り過ぎる人混みとの遠近感がバグっていく。遠くにあるのか、近くにあるのか、全く距離感が掴めない。

ただ、こうして立ち尽くしているのが人々の邪魔になっているという事実だけは間違いなかったし、冱雪を待たせているかもしれない。とまぁ、そんな存在するのかどうかも分からない罪悪感もありつつ、俺は一歩、前に足を踏み出した。

 テーマパークの様に広々とした歩行者用道路は舗装されたばかりのヒビ一つない黒色で、よく見れば小さな石の粒を見ることが出来た。その左右、道の端を告げる通りには百日紅と呼ばれる木々が並び、道中バスガイドの話によると季節に沿った花々を植え替えているということだった。更にその奥には車の流れが見え、規律よく流れるそれを見ていると、日本人ってすげぇって思わされた。

どうでも良いけど、アスファルトの道の方が好きなんだよね~。ほんと、何となくなんだけど。絢漣町の道路もそうだからなのかもしれない。左右の花が入れ替わる分、年中楽しめて万人受けもあるだろう。

ただあそこと明確に違うのは、歩みを進める度にバランスよく体重が乗り過ぎるが故に進むにつれて自分が真っすぐ歩けているかが不安になるし、周りの歩行速度が速すぎて俺もそれに合わせなければならないということだった。小学生の時のプールの洗濯機とか思い出して嫌になる。

 何をそんなに急いでるの? とも思ったが……天気を見れば、早めに施設内に入りたいというのも納得だった。

 俺は雨に打たれるのも嫌いじゃないが、女性とか若者とかは色々な都合でそうもいかないのだろう。なんなら、汗かくのとかも嫌いそうだし。

 そう自分を落とし込み、仕方がないと更に速度を上げる。

 すると、割と直ぐに別のイベントが始まった。

 まぁ、ただT字路に突き当たっただけなんだけど。俺にとっちゃ死活問題だった。

 なんでかって、オサれな電子標識にはブランド名っぽい変な英単語だの記号だので満たされており、数えきれない程の分岐路に分かれていたからだ。一応、T字路のど真ん中には大々的な全体マップ的なものもあったが、長時間立ち止まって映画館を探す程の余裕はなく、スマホで後から見れるようにQRコードがあったが、生憎スマホを持ち合わせてない。この施設内でスマホ持ってないの、俺だけなんじゃないの? と思うくらい、人々はそれを読み込んでは立ち去ってを繰り返していた。

 頼むから服とか食べ物とか一般名詞で案内してくれよ……ブランドを知っているのが当然の知識だと思わないで欲しい。

 と、そんな十六進数ばりに頭の痛くなる景色を横流しに人の波を避けつつ、右方向にカニ歩きで映画館を探す。これ、仮に左側にあったら絶望だよな。クラピカ理論に従うべきだったか……あれ、クラピカは右を選んだんだっけかね。どうでもいいか。

 とかなんとか、一抹の不安に駆られつつも、レオリオばりに自分を奮い立たせつつ自我を保つ。

 そうして、一枚……二枚……と全く関係ない標識をお菊が如く捌きつつ――

「――しまむら⁉」

 ようやく心の拠り所となる固有名詞を見つけ、改めてそのお洒落さに感涙した。映像として流れて行く衣服は他に負けないくらいのふわふわないい感じで、着心地とかなんかめっちゃ良さそうなのばっかりだった。

いや~、やっぱ違うね。しまむら将軍なら天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なりって言ってくれそうだもん。……や、誰だよ、しまむら将軍……。

 と変な事を考えていると、その時。

 一際大きい、俺の身長の倍はありそうな電光掲示板が目に付いた。

 それは視界の右端に映ったもので……というか、そもそもそれ専用の道が設けられていて、何なら分岐とか関係なくT字路から右に真っすぐの位置に存在していた。更に、それに沿って首を動かすと、アパレルが立ち並ぶ巨大な施設とは別にドーム状の巨大な建造物が見えてきた。

 ……あれに気づかないって、俺、視野狭すぎない? それかあの建造物が霧隠れ出身かだがそんな訳がない。やっぱ身長高くても意味ねぇやな……てか、疲れてんのかな。

優しくて巨乳なお姉さんキャラに抱かれたいなぁとか考えつつ、トボトボとそれに近づく。

そこには、映画のポスターであろう一枚絵が次々と捲られており、ある所でその動きを止め、主演の醤油顔の俳優がこちらを睨みつけてきていた。デカデカと主張するタイトルには『醤油差し』と書いてある。

「……醤油、差し?」

 完全にタイトルミスってんなぁ……。なんて、他にも流れてくる映画にグチグチ文句を言っても構わないのだが、とてもそんな元気はなく。

というか、これからのイベントに備えておかないと、死ぬ気がするんだよね……。だってね、ヤバ目の一族の中でも特に危険そうな黒羽快斗まごう冱雪の姉と対峙するかも知れないんですよ。あの宇都宮先生ですら手を焼いていたみたいだし、俺なんかハムスターみてぇに手のひらでくるくる回されるんじゃないの? ……少なくとも、スタミナ赤ゲージは必至でしょうねぇ。

「……はぁ」

これからを考えると、自然と背は曲がって肩が落ちる。思考に靄がかかって視界が狭まる。

……とにかく、冱雪には会わないと。最悪、冱雪の姉は宇都宮先生が何とかしてくれるだろ。

「よし」と誰に向けたでもない言葉をアスファルトに吐きかけ、無理やり自分に発破をかける。

それで気持ちが晴れた訳でも無いが、歩く元気だけは手に入った。


映画館への道のりはそれ以前と比べると人通りは少なく、初めこそとても快適で、暇つぶしに人間観察をする余裕すらあった。

……やっぱ、肌の露出多すぎる気がするんだよねぇ。んな格好して、エロい目で見るなって無理あるよ……。おじさん、心配になっちゃうんだよねぇ。あと、ニードルピアスだのヘソピだのラブレットピアスだの、両親に貰った体に穴開けまくるってどういう神経してんの? スタンド使いなの? と他人の自由に口出しする厄介ジジイ(少年期)ムーブをかまして遊んでいると、突然――

 ポツっ、ポツっ。

「ん……」

 空を見上げると、冷たい雨滴が頬を打ち付け、弾けていく。

 それに気が付いた時には、もう、手遅れだった。

 

 ――――ザァァァァ。

 

 映画館の軒下に着いた時にはびしょ濡れですよ。えぇ。道半ばどころか、三分の一くらいで本降りになるとは……雨男の本領発揮ですか。

まぁ別にそれはいいんですけども、このままの格好で映画館内に入るのは流石に気が引ける。あと、どことは言わないが、透けてないかどうかが気になって、気が気でない。色味的には大丈夫だと思うんだけど、さっきっから映画館を出入りするカップルだのの視線が痛い。

男一人屋根の下、孤独にシャツをパタパタする姿の何が物珍しいのだろうか。ちょっとばかし寂しそうで悲しそうで辛そうなだけだろ。まぁ、どうせ俺の人生に関与しないモブどもだし、無視されている内はいいか……ただ警察でも呼ばれる前にどうにかしなければ。とか気にしている時点で周りを気にしていて、羞恥心で燃え滾っています。

とにかく、中に入らないまでも冱雪の姿を見つけておかなければ。

そんな三大義務程の強い使命感に駆られ、「こーゆきちゃん、こゆきくん♪」と不気味なメロディを口ずさみながら、ガラス越しに館内に視線を巡らせる。途中、曇ったガラスに反射して変な変態が映ったが、多分俺じゃなくて妖精さんだから気にしない。……変じゃない変態っているのか?

なんて考えつつ、自然な流れで違和感を覚えるずっと前に額をガラスに押し付ける。眉間に皴を寄せると、妖精さんは姿を消し、中の景色が鮮明になっていった。

「んー。」と、目ん玉を動かして様子を伺う。

広大な館内ロビーに対して人の数が少なく閑散としていた。今が何時か知らないが、さっき見たスケジュール的に、間欠的な上映を数多くのシアターで行っている様だったので、丁度それらの時間が被ったのかもしれない。

それが近年の映画文化の衰退を示唆していないことを祈っています……。まぁ、歴代興行収更新とかよく聞くし、そんなことは無いんだと思うんだけど。そういう系以外が直ぐ上映範囲縮小する様な気がして、どうもねぇ。

と、そんな事はどうでもよくて。

入口入って直ぐ左、歴代名画ポスターギャラリーのようなレトロっぽい掲示がズラッと並んだ長い廊下のようなものが見えるが、待機できそうな椅子等は確認できない。視界の端ギリギリにエレベーターの案内もあるが……仮に二階まであるとして、マジで行ってる? 俺、ろくろ首じゃねぇから、外から見れねぇじゃん。

……気を取り直し、正面には、トイレ案内看板と上映中のパネル、ポスター掲示、時刻案内のモニターがあり、一番目に付いたのはその先、暗闇へと腕を伸ばすような長い廊下で、他の景色が霞む程の魅力があった。

視線が吸い込まれそうになるのを堪えつつ、右を見る。そこには、グッズやポップコーンを売るカウンター、コンセッションがあり、手前にチケット販売機と受付窓口がある。が、やはり待機できるような場所はなく。

俺の視界下端に見える必要最低限のこじんまりとした丸テーブルの上には、一杯のポップコーンと飲み物が同じ容器に収まって置き放しにされていた。……コイツ、食い過ぎだろ、それ上映中に食べきれるの? と、そう思うくらいにはデカく、金持ちだなぁって羨望を抱く。

しかし、冱雪がこんな百貫デブ程食うとも思えないんだよなぁ。なんなら「映画に集中したいんだよ、たくさん食べる人嫌い!」とか言って俺なんか嫌われそうだし、映画館とかしょっちゅう来るくらいお金ありそうだから、毎度毎度こんな無邪気に楽しまないだろうし……。

んー。

結局、何処を見てもほろほろと人の群れはあるが冱雪の姿は見えなかった。

「ダメか……」

こうなると、選択肢は二階かシアター内かあるいは帰ったかだが……どれにしろ、いったん服が乾くのを待つしか――

「そこで何してるの?」

「ひゃぁああ!」

 親方! 横から美少女が! と、心臓と息が脊椎反射的に止まりつつひと息に肺の中が空っぽになる。これ、俺がおじいちゃんとかだったらぽっくり逝ってるからね⁉ 若さ一本で堪えたようなもんだよ! 

あぁ、あと二年遅かったら……なんて恐れおののいていると、傍らの冱雪はシラっと薄ら冷たい声で続けた。

「絶叫しながら立ち竦む人、初めて見た」

「…………」

 驚きのあまり硬直するリスの様に反応出来ずにいると、包み紙のようなガサガサという音の後に、はむっと咥えるような音が聞こえてくる。コイツ……なんか食ってんなぁ。

 チラッと首を傾げてみると、なんか見た事ない茶色い棒をむしゃむしゃしていた。何あれ、木の枝? 最近は食べれる枝とかあんの? 遺伝子操作ってすげぇとか適当に思いつつ、普通に聞いてみようと思い口を開く。

「なに、それ」

「ん、チュロス」

 あーね、あれね。一マナ二コスのGストライク持ちのやつね。あ、それはデュエマのブラッディツヴァイクロスだった! ……だれが分かるんだ、このネタ。あと全く遺伝子関係なかったね。シナモンだかココアだかの匂いが強いところを感じるに、ただのおやつっぽいし。木の枝じゃなくてパンみたいなやつだろ、どうせ。

 ……正直、そんな冱雪を見ていると拍子抜けしてしまった。無事に見つけることが出来た安心感が、カフェでの一件をそこまで気にされてないという勝手な見解に拍車をかけていた。

 ただ勿論。その時の情景は心残りで、謝罪が必要無くなった訳じゃない。何を言えばいいかも理解している。どうすればいいかも、分かっているつもりだ。

 ただ、一言――

「ごめん」

 それだけでよかった。

 目は背け、不格好で不躾。それでも、ようやく言えた。

たったそれだけのことで、累を及ぼした数々の出来事が清算出来た訳でも無いだろうし、当人に許されるとも思っていない。それでも、心の癌がほんの一部欠けただけでも、幾分か楽になった。ただ、そんな我田引水で傍若無人な自分という人間に対する嫌悪感も増してきて……俺ってばマジめんどくさい。

しかし、それを受けてどう思ったのか、冱雪はむぅっと小さく唸っていた。

どういう感情なんだろうか、謝罪の後はどうしても気になるもので、体ごと冱雪の方に向けた時、リスみたいな顔が俺を見上げていた。

「鏡くん、君がすべきは『ごめん』じゃないのだよ」

 説教めいたその声色とモノマネの似てなさに、「えぇ」と情けない声しか出てこない。

 俺ってば滅茶苦茶勇気振り絞ったのに、もうNGワード扱いですか?

 だが、納得されてないというのであれば、その答えを探すのが俺の義務だろう。というか、しっとり黙った冱雪の目が、そうしろと言っていた。

 ただなぁ……人生懸けてようやく謝れた語彙力の先に、その派生形の選択肢が思い浮かばない。数学とか英語の文法とか、直ぐに応用しろって言われて出来ないでしょ。まぁそれは俺の勉強不足に外ならないんですけど……。

「んー。………………こんばんわ、久しぶり、髪切った?」

「見事なまでの空振り三振だよ」

「んなこと言われても……謝罪の代わりだし」

「鏡くんの中では謝罪か挨拶の二択しかないの⁉ 序盤の綾波レイじゃないんだから……」

「……、そうでもないだろ。」あの子、登場から数話でかなり感情豊かじゃなかった? 俺なんて人生十六年目にしてようやく謝罪覚えたんだけど。拗らせ方といいどちらかと言うと長門有希だが、あの子ほど心が強くないから下位互換どころか上位下位互換。逆に聞きたいんだけど一万五千五百三十二回も繰り返せる人いる? 懲役三十日じゃねぇんだから。

 とかなんとかまたクソどうでも良いことを考えていると、クシャっという紙の音で我に返る。

「ま、いずれ聞けるだろうし」

 そう呟いてそっぽを向く冱雪の手にはチュロスだか何だかの紙が握られ、逆の手には俺の腕があった。それが視界に入り、脳と心臓が温度を上げるとようやく、小さくてか弱い手の感触とそこから上ってくる体温に気が付いた。

 服が濡れ、気化する雨に体温を奪われていたからか、強く神経に纏わり付いて来る。

 またそれと対照に、未だに慣れないスキンシップに体が硬直していた。あと、どことは明確に言えないが、理性を抑えるのに意識が逸れてマジのガチで身じろぎ一つ出来ない。

 ……いやいや、落ち着け鏡。外野からどう見えているかとかは知らないけど、俺たち男同士なんだし、腕を組んでる訳でも無くて掴まれているだけなんだし、身長差から兄弟にも見えなくもないだろ。法とかにも触れて無いし訳だし、全然問題ない。うん、大丈夫、大丈夫……。

 そう自分に言い聞かせるものの、引いてるかどうか分からない程度の些細な力でクイクイされると、奇々怪々な罪悪感というかなんというか……やっぱこれ、ギリ犯罪じゃないの?

「ねぇ、鏡くん。風邪ひく前に早く入ろうよ」

「……や、館内の方が寒いんじゃないか?」

 今冷たい風に当たりなんかしたら一人で冷凍本マグロになっちゃうよ。んな事になったらブンブン振り回されて切れ味赤必至だろ。

 それに、気になる事はもう一つあるから厳しくて……というかむしろそっちの方がヤバくて。

「あと、一つ聞いても言いでござんしょうか?」

「ん、なに?」

「そっちから見て、俺、透けてないよね」

「? 透けるって――」

 何をまた馬鹿な事を言い出しやがってという冱雪の視線が、俺の目から首へ、そのまま下に流れ、体へと落ちていく。

 そしてすぐ、バツが悪そうに「あぁ……」ともらしてそっぽを向いた。

 え、この反応、マジ?

 ほとんど無意識に、シャツの鎖骨の下側辺りを抓んで浮かす。

 また、それと時を同じくして、冱雪の手は糸が解けるようにしなやかに離れていった。

「まぁ、ちょっと……ゴミ、捨ててくるよ」

 なんだこの距離感は……。いや、俺たちの関係性だとこれが妥当なのか……? 大体、顔合わせたのなんてこれで三回目だし、そもそも男同士でくっつき過ぎだしなぁ……。なんて、ボーっと考えている内に、冱雪の姿は館内へと消えていた。

 これ、外で待ってろって事だよな……。そもそも、ゴミ捨てて来るって、あの紙の事で合ってるよね……お花摘んでくる的な、暗に何かを揶揄してるとして、仮に俺を置き去りにする事を指しているのなら大号泣不可避なのかもしれない。まぁ、忠犬みたくここで舌出して待ってるんですけどね。

 にしても。

「透けてたのかぁ」

 もうこれ恥ずかしいとかの次元じゃないんですよね。むしろ悔しいっ! だが、それでいい!

 てことで、忘れよう。うん、そうしよう。カイジも毎回学んでないし、そうすると物語終わっちゃうしね! 俺ちゃんまだ死にたくないので、絶対に失敗から学んだりしない。俺は変わらないんだからね! いつまでもここで待ってるから!

 と、捻くれ田舎出立見送り系幼馴染ヒロインを演じつつ。

「暇だなぁ…………あめ、つよいなぁ……そら、くらいなぁ」

 なんてブツブツ呟きながら遠く地面を見つめる。

 すると次第に、口も閉じて思考が冴え渡って行き、一枚の絵を見えているような視界から何とか情報を得ようと腐りかけの脳みそがフル回転し始めた。

 結果、意思の無い数多の雨粒に注力していた。それらは力なく地面へと落ちていく。打ちのめされ、砕かれ、散り散りになって辺りに溶け込む。それらは周りの意思に逆うことさえせず、縁石のグレーチングへと吸い込まれていく。それが当然かの様に、誰も目に留めない。

 見上げれば。屋根上からくる雨水が、不規則かつ規律よい流れを作りだし、力強く地面を穿っている。だがそれも直ぐ、全体の一部と馴染んで消えていく。先程までの主張は全くなく、流れる勢いも作り出される波紋も、何もかもが受け身の他人任せだ。

 結局、自分の意思なんてこの世には一つも存在しないのかもしれない。これは悲観でも何でもなくて……時間や仲間が、自然な流れを作り出すんだから、知らず知らずの潜在意識に従ってそれらに倣えば、あとはどうだっていい。そんな中で俺のようにその結果も過程も、全て自分の責任だと受け入れることだけが自分を認める術となり、周りに優しい奴と勝手に認識され、自分の無責任さからは逃れた気になる奴は多い筈だ。後は崖、何もない。

 あのグレーチングに潜む闇が洪水を手招きしている。全てを諦めてその中に呑み込まれる事で、関与する全ての物事に対して諦観出来ていると勘違いしてしまう。

 俺は、そんな雨粒たちとなんら変わりない、只の一般の一部だ。これから先は自分の意思に反し、人の流れの中で生き続け、世間の一部として死んでいく。これは仕方のない事だ。自我を出せば、秀でて認められ群れの主導者となるか、それ以外しかない。見放されれば終わり、認められれば流行りとして生き残る。だがどっちにしても、いずれは名前も残らず、あの時代の人として一括りにされる事だろう。だから、長い目で見れば変化なんて必要ないし、求められてすらいない。一部なら一部らしく、大衆の役目を果たせばいい。自我を出さず、あくまでも世間の中での俺として、ルールに則って大人しく死んでいく。それでいい筈で。

 それなのに俺は、何を考えているのだろうか。

 異常の事は人生を通して理解している筈なのに、何故考えてしまっているのだろうか。また、そんな変な考えを押し殺し、奥に押しやる。

 俺は、冱雪という人間を言い訳に、心が波打つのを制御していない。というよりは、本音が御しがたいと言っている。それは、変われる機会を求めていたかのように、小さな器の中で渦を巻いていた。宇都宮先生がそうしろと言っても、やはり、葛藤は大きい。

 その渦はその時が来たとでも言いたげで、高鳴る鼓動が背後に見え隠れする傷を見ないふりで、俺に教えてくれている。コイツに過去なんて関係ないし、未来なんて知りもしない。これからどんなに傷つこうとも、堕ちてしまおうとも知らんぷりで、俺自身を乗っ取ろうとする。

 最終防衛ラインの筈の脳が麻痺して、そんな心に従おうとする。

 俺自身の事情なのに、そこに俺の選択の余地はなく、関与する隙も無い。

 誰にも相談できず、心も脳も、思いなんて曖昧なものも当てにならない。

 そして俺はまた、複雑になって来た思考を払いのけ、頭を振って突き放す。この繰り返し。

 てか、今考えたって意味ねぇし。

 いずれ分かるだろうし。その時が来さえすれば、また後悔して、学ぶだろう。

 受け身で良い。苦しくたって構わない。その方が楽だと気付いた。それが癖付いた俺の人生は、忍耐を諦めてそこに依存する。

 それら全てを忘却の箱へと押し込んで、寝る時にでも思い返せばいい。それらが呪いとなって、足枷と成って、俺の足を引っ張る事だろう。

 それよりなによりも、変わる事がいかに怖いことか。

「……変わるって、ムズイよなぁ」

 見上げた暗雲の隙間から、白く細い太陽が顔を覗かせる。

 雨を止ませることも、地上を照らすこともない小さな微笑みは、光の刃となって俺の目玉を焼いている。脳まで届いたそれは、只の電気信号となり、それが見えなくなるとすぐに忘れてしまった。

 あれは四十六億年前も、今と同じように光り輝いていたのだろうか。

 全くもって目障りで、鬱陶しい事この上ない。

 人の体がそうなって居ようとも、お前を見て幸せなんて感じた事ねぇんだよなぁ。セロトニンやらメラトニンやら、ニンニンニンニンうるせぇよ。ハットリ君かてめぇ、鉄アレイ投げつけんぞ。

 ……これも、誰に向けての愚痴なのか、鏡くん。独り言ならぬ独り思考が止まらねぇ! 誰か俺を殺してくれぇ! サードインパクトが始まっちまう!

「…………はぁ」

 生きてる限り、この独り芝居は続くんかねぇ。わしゃ、おまんの将来が心配じゃよかがみん。

 それに周りからしてみれば、シャツ引っ張り小僧が映画館前で突っ伏しているなんて光景、普通にホラーだよね。他視点から見えないけど、表情筋完全に機能してなかったし。

 んでこれ、今何分経ったよ。ずっと一人で意味もなく考え事してたの、最早才能だろ。これで飯食って行こうかな。ラジオとかやってみたら才能開花したり? んな訳ねぇか! やべぇ止まらねぇ!

 暗転しかけの視界の先で暗雲は太陽を飲み、描画された陰鬱な雨霧の世界を寄り添って歩く人々はどこか楽しそうだ。誰か……それも、大切な契人といるのならば、そこはどんな地獄でも楽園の様に思えるのだろうか。契人は、恋人や愛人よりも、尊いものだ。

 嗚呼青春、雨燦燦と、流るように。門叶爺、心の一句。

 失った青春って戻ってこないんだよねぇという挫折を苦に込めました。

 特に中学時代なんて始まってすらなかったし、高校時代も同様の一途を辿りそうです。

ただ、面倒事は多くて暇はしなそうですけどね。今日なんて特に、何でもない日だった筈なんですよ。

それが何ですか。やれ電車で迷子だのカフェで暴走だの人混みで酔うだの、散々ですよ。本来なら暗い部屋でエロゲですよ? ……あ、朝星ちゃん思い出すからできねぇのか。

「……はぁ」

 四面楚歌とか八方塞がりとか、この辺の言葉を思いついた人って当時、相当追い込まれてたと思うんだよね。ほんで、そういう状況に陥る人が多いからその言葉が衰退せずに残ったっていうか……まぁ、そういう事だ。時代という荘厳な流れの中では結局、俺の悩みなんてちっぽけなものなのだろう。自分が何者にもなれず変われないなんてことは正直、一部の才能人以外は思い詰める事だろうし、世の中にありふれている。だから、継承されていく。

それに、その中で努力して掴む人間も少なからずいるし。とはいえ、だ。ただ諦めるのだって悪い事じゃない。反面、自分を守る手段でもあるからだ。無理は良くない。時代に呑まれて死ぬのはもっと恐ろしい事だが、それに抗う先に待っているのは最大級の苦だ。

それを加味して改めて考えてもみると、俺は努力をして、その先で挫折するのが怖いのかもしれない。この歳で何を言っているんだとも思われるだろう。偉大な大人様は幾年を経て色々な経験を積んでいる事だろう。だが、その時の痛みはその時にしか分からないものだ。過去は美化され、どんな辛い出来事もいい経験だったと自らを落とし込むようになってしまう。今の若い俺に、それは出来ない。どんな記憶もが、鮮明に思い出せる。苦い物は特に舌にこびり付いて離れない。後から後から甘い物を飲もうとも、あの時のブレンドの味は忘れられない。

……それに、自分自身を捨てる選択肢があるのもまた、恐ろしい事だと思う。これだけ自己嫌悪癖があってしまうと、直ぐに別の選択を取ってしまいそうだから。

改めて言うが、死ぬのは怖い。

その最たる所以は、面倒な事に自分自身の事ではない。余裕が無いからこそ、その択を忘れてしまうのだろう。人は、目の前の苦しみに抗う事は出来ないから、戦い続けている。

……気が付けばまた、始めてしまった。

「――んん」と腕を上に伸びをする。

やはり、考える時間があると駄目だねぇ。

隙を見つけては何かをしていないと、落ち着かない性分なのかもしらん。

「ふぅ」

口から息を吐き捨て脱力し、鼻から思い切り息を吸う勢いのまま、未だに重いTシャツを掴み上げる。

誰の、とは言わないが、その匂いが薄れた後の雨の匂い……これはこれで良い匂いだ。雨の匂いは土と植物の混ざった様な、言葉にし難い複雑な香りだ。

梅雨以来久しぶりの雨だからか、より一層その匂いは強く感じ取れた。

 嫌いじゃないんだよなぁ、この匂い。まぁ、てことは好きでもないんですが。

 他の人に俺と同じ経験をした人がいるかは知らないが、小中で入会させられていた子供会かなんかでのキャンプにて、全くいい記憶がないからだ。

 あの日は今日よりもひどい雨で、何よりも怖かったことを覚えている。

 今となっては、何にそこまでの畏怖を感じていたか理解は出来ない。ただ当時は……まぁ今もなんだけど、人見知りが特に酷かったから、どれだけ周りが優しい人であろうと安心させようとしてか話しかけられても、むしろそれで恐怖が倍増し、より一層の強い孤独を感じて仕方がなかった。よく仮病を使って帰ったのも、今となってはメチャクチャ恥ずかしいし全く笑えない。だって、怖すぎて同い年くらいの人前で泣いてたからね? 過呼吸にもなってたし……。

「ふっ」

「――なんで一人で笑ってるの?」

「ひゃぁああ!」

 親方! 下から喋るビニール袋が! と、驚きがてら急に軽くなった両手を見上げる。

「うぎゃぁああ!」

「なになに!」

 ひらひらと雨風に揺らされるシャツの破片。その奥、白色のビニール袋の影から可愛い冱雪の顔が覗き、焦点がそちらにズレ、あまりの可愛さに腰が砕けて態勢を崩しそうになる。

 破れたシャツの事なんて、マジでどうでもよくなった。ただ、冱雪はそうでも無い様で。

「シャツ! 破っちゃったの⁉」

「や……ちゃったというか、れたというか……」

 布切れが無性に恥ずかしくてそれをケツの前に回しつつ言葉の行き所を探していると、一方の冱雪は何故か誇らしげに「むふふ」と鼻息を荒くしていた。

 何だろうと様子を見ていると、下ろしたビニール袋の中からゴソゴソと、何かうっすい布団みたいな物を取り出して前に突き出してきた。

「マイナー映画の売れ残りT~!」

 そこには、頭が痛くなるような見覚えの有るフォントで『I♡SOIGUN』と書いてあった。デカ文字過ぎてワンポイントどころか古めのバンドTなんだけど。ッ……何だったか、この文字フォント……ほんのさっき見たと思うんだが……。うぜぇ、思い出してぇ!

 あと、物を取り出すときに某青タヌキロボットの声真似するのは共通なんすねぇ。俺も家でやってだだ滑りしてたわ。あの時の朝星ちゃんの目がゾクッとするのよねぇ。

 なんて一人で鬼哭啾々っていると、ある言葉がサニブラウンが如く超速で脳裏を過って行く。あ、待って! と、文字通り言葉尻を掴んで引き寄せる。

「……『醤油差し』」

「ん? あ、そうそう! その映画のTシャツだよ! ……何で知ってるの?」

「いや……」

 まぁ実際、俺は知らないんだけれども……俺ってばワンちゃん予告とかで見て知ってるかもだし、なんなら好きかもしれなから、マイナー呼ばわりはやめといたほうがいいよ! よかったね俺が激イタオタクじゃなくて。早口で講釈捲し立ててるところだったよ……。確かに初めてタイトル聞いたし、多分きっと好きじゃないけど、実際映画になってる訳だし……。B級だって見る場所によっては、ねぇ。

 そうやって生涯見ないであろう映画を擁護していると、冱雪は俺を見上げながらシャツの裾をクイクイ引っ張ってくる。

「とりあえず、なか入ろ? 流石に寒いでしょ」

「確かに」

 胸元辺りから風が吹き込むもんだから一挙に体温が奪われ始めていた。ただ、思考が停止する前にやらなければならないことが――

「何円だった?」

 グッズ系のシャツって高いんだよなぁ。とか考えつつ、財布を取り出して聞く。

 しかしどうして返事はなく、シャツの裏に忍んだ冱雪覗き込むと、ムスッとした表情まま無言でシャツの裏生地を睨みつけていた。何やら考えている表情だか、そんな様子の人間に質問するのは憚られる。

 なに、汚れでもあった? 返品案件じゃん! と思い、回り込んで同じく裏生地を睨みつけるが何もない。

「鏡くん。善意って知ってる?」

「んあ?」

 突飛な質問と耳元の美声に怯えてノックバックを喰らう。

 距離を取ったそんな俺に、冱雪はTシャツを投げつけてきた。危なげありで何とか受け取り、胸元に抱きかかえる。

 っぶねぇ……冱雪からの初プレゼントを落とすとこだったぜ……そう考えると、着ずに持って帰るのもありか……? ディスプレイにして一生壁に掛けておくのも、やぶさかではない。

「じゃ、先に入ってるから……あと乳首出てるからね、変態」

「えぇ⁉」

 唐突な下ネタに驚く間も、恥も外聞も無くなった俺はTシャツを脱ぎ捨てる。

 早く言えよ! と、去り行く冱雪の背中に吐き捨てたくなったが、上裸はどう考えても乳首出てる云々よりマズい状況なので、急いでTシャツの袋を開ける。まぁ、場合によってはそっちのがエロいんだけれども、俺がその状態でも誰徳状態だもんで……。

「くっ――」

 しかしオタクというのはどうも生きづらいもので……というか、俺が特質してそういうタイプなのかもしれないが、こういう緊急時にでも、正式名称不明のビリビリ剥がして開けるタイプの袋は丁寧に開けたくなっちゃうんです。どうせしないのに、また閉じる可能性があるからね……次入れる時、引っかかると嫌じゃん? 跡が付いてると気になるじゃん? そういうものなんですよね~。共感してくれる人がいるかは知らんけど。

「っと――」

 ようやく開いた袋から丁寧に取り出したTシャツの柄を精査する間も無く、高く上に投げる。これは俺のライフハックなのだが、新品のTシャツはこうするとダイレクト着用できるのだ。という話を母にしたらキモがられたので、これもまた俺の特質した特技なのかもしれない。ただ、少なくともしまむらのワンピコラボはこれで着続けていた、大丈夫なはず。

 そんな一連の流れはこうだ。

 先ずは見上げる――パッと下からの風を受けTシャツが広がる。内側から薄っすらと『I♡SOIGUN』の文字が見える。

 それ程集中できている。ニヤリと勝手に上がる口角を意識して抑え、次に備えた。

 次には腕を上げる――スルリとTシャツの中を通って行くと、ひやりとサラサラな感触が肌を伝って脳に伝播していく。新品ならではの幸せを噛み締めながら、自然の流れに身を任せる。

 いやぁ、アイザック・ニュートンってホントすげぇな。万有引力はこんな所でも生きている。彼の意思は、俺の衣服へと活用される。

 そのまま腕が袖を通れば俺の勝ち。完全体醤油将軍が完成し、この世で一番お洒落な人間がこの世に生まれる。

「俺こそが、醤油差しだ!」

 曇った声がシャツの中を反射して帰ってくる。

……何言ってんだ、コイツ。と、酷い身震いを覚えたせいで狙いが狂ってしまうが、そんな想定外はお手の物。

「俺の場数を舐めんじゃねぇよ!」と薄暗闇の中で叫びたくなりつつ、腕をYの様にして伸ばす。

するとコンマ零秒の後、手が風を受けてひんやりと痛み、勝利を確信した。

 この戦いに、俺は、勝利した……!

 だが、次の瞬間……!

 ――きゅっ。

「ん………あれ」

 胸の下で止まって降りてこなくなったんだけど、いやいや……。

 フリッ、フリッと体を振るも、微動だにせず、次第に冷え始めたお腹がギュルルと音を立てる。……これが絶望、なのか……⁉

 大体、服なんてもんは腕が通れば問題なく着れるだろうが!

 飛び出た両翼を折り畳み式よろしく広げようとするが、肘と肩が引っかかってTシャツが伸びるだけ。ビヨンビヨンとゴムみてぇに……何をグッズでストレッチ素材採用してんだよ、ンな金あんのかよ! と、『醤油差し』制作人に当たった所で、全く状況は良くならず。

 今、この雨この空気のおかげで周囲に人が居なくて済んでいるが、現在上映中の映画が終わった時、俺の人生が終了する。

 ここのオブジェとして生きていくしかないのか……? と、両者にとって全く徳の無い取引現場を想像していると、トコトコと足音が聞こえてきた。

「お前、門叶か? 何があったらそうなるんだ……?」

「ハッ……」この声は、宇都宮先生……⁉

 最悪だ、今最も見つかってはならない人間だ……。泣きっ面に蜂とか弱り目に祟り目とかそんなレベルじゃねぇ……二重苦どころか二重n乗苦だ……何言ってんだ、俺。

「まぁ、そんな事はどうでも良いんだが。冬萌冱雪は見つかったのか?」

「え、いや……」

 どうでも良い訳無くない? 今の俺、サイレントヒルに出てきそうな見た目してんだよ? 普通に話しかけてきていい雰囲気じゃないの、大人のアンタなら分かってるじゃん。

「何だまた喧嘩でもしたのか? ん~。まぁなぁ、いち教師として喧嘩を認めるのは些か不純だとは思うのだが、いち大人としては決して悪い面ばかりじゃないと思うんだ、うん。しかしな、門叶。それが成り立つのはその後がスッキリするかどうか。大切なのは過程だ」

「はぁ」

 何だ急に、いい話が始まりそうだが、言わせておけばという気持ちの方がまだ強い。体をくねらせてどうにかこうにかTシャツが降りてくるが、途中で突っかかって一人じゃ絶対無理なんだけど! ナニコレ、バトルスーツかなんかなの?

 しかし、そんなイライラが止まらない俺を無視して、宇都宮先生は続けていた。

「それが一方的な謝罪や話し合いの場合もある。はたまた、殴り合いの喧嘩や取り返しのつかない仲違いの場合もあるだろう。それらは一見、かけ離れた解決法のようにも見えるが、そうじゃない。そもそも、謝罪や話し合いに発展する様な人間関係を続ける事が良好だと思うか? 必ずどちらかが我慢する結果に落ち着いていると思わないか? 殴り合いや仲違いは深い傷を残すこともあるが、複雑な蟠りも気まずさも残らないからケジメという点で見れば悪くはない」

「……はぁ」

 あれ、これ何の時間? てか、何の特殊プレイなの?

 薄っすらと作業服姿の宇都宮先生がうんうん唸っている姿が見えるが、俺の姿に気が付いているのだろうか。クソ邪魔な『I♡SOIGUN』プリントの♡で表情は見えないが、声音は至って真面目で内容も訓戒のようだけど……え、何のプレイなの? ひとっつも話し入って来てないからね?

 首を上に向け、唯一の光の通り道を探る。質素な天井と、そこから煙草の臭いが入って来てTシャツの中で滞留してくる。

 うへぇと肩と膝を落としていると、服の裾が掴まれるような、慣れ浸しんだ感覚が肩を襲う。

 一瞬冱雪を期待したが、前を向いた時に居たのは宇都宮先生で、ドアップの顔が心臓に悪い。この人は俺という純情な人間を舐めている節がある。襲っちゃうぞ♡と、激キモ隣人お姉さん的に誘惑していると、次の瞬間。

「人の話は、目を見て聞け!」

 理不尽な怒号を受けつつ、グイッ! と思い切り下に引っ張られ、一色だった世界が色付く。

 その代償に肌という肌が摩擦によって焼かれてヒリヒリと痛んだが、俺が美容系男子じゃなくてよかったね! 摩擦はお肌の天敵よ! って母さんが朝星ちゃんに言ってたんだけどホントなの? マジなら俺ってば自分に厳しすぎてほぼ爆轟。

 とまぁひとまず。一歩距離を取り――

「来いよガキ共 相手してやるぜ」

「寝言は寝て死ね、バカもん……てかTシャツダサいな、それどこで買ったんだ?」

 おい、ダサいはねぇだろ。醤油の悪口を言っていいのは着ている俺だけだ! 折角ノリいいなぁって思ってたのに……。というか――

「何でここに居るんですか?」いよいよ俺、来た意味ないじゃん。

「あぁ、いや……名月の説得が思ったより早く済んでな、暇つぶしに……」

 スススッと目を逸らす宇都宮先生は明らかに何かを隠している様子だし、説得って何? 又なんか企んでんの? と、俺が口を開くよりも前に宇都宮先生が捲し立てる。

「それよりも、だ。なんか面白そうな映画、やってたか?」

「……映画、見る気なんすか?」

「ったりめぇよ! 休日にまでこんなとこ来て黙ってけぇれるかい!」

「……まぁ」

 じゃぁ、こんな面倒な事を計画しなきゃいいのにとは思いつつ、宇都宮先生の気持ちも分かるから困る。行く前って物凄く憂鬱なのに、行ったら行ったで楽しまないと損だもんね~。分かる~。遠足とか修学旅行とかそうだったもん。あのイベントを経て作り笑顔、上手くなったもんなぁ。

 と、言っても……面白そうな映画かぁ……。今やってる映画、全く知らねぇんだよなぁ。ただ、唯一、ポスターを見た映画がある。しかも、グッズを身に着けていたり⁉

「じゃぁ、『醬油差し』とかどうすか?」

「何だその馬鹿にぺろぺろされそうな名前は、映画の名前を言えと言っただろう」

「一応、映画のタイトルみたいですよ……俺も最初は疑いましたけど」

 あと、気持ち悪いからあの事件掘り返すなよ。俺、寿司好物なのに。

「そうか……門叶のおススメとあらば見ない訳にはいかんな」

「是非。見終わったら感想、聞かせてくださいね」

「うむ、よかろう。私は一部界隈で映画評論家気取りと呼ばれていたからな」

「……なるほど」

 デカい胸を張って誇らしげに……それって誉められてないと思うんだよなぁ。

「例えば、好きな映画のタイトルとかあるんですか?」

「ん? あぁ、そうだな……」

 うむむむ。と、顎に手を当てて考え始める宇都宮先生。

 あれ、大体好きな映画って確固として存在しているものでは……。過去のオタクの知り合いなら、タイトルしか聞いてねぇのにいらん事をぺらぺら語って、挙句の果てに好きって言っておきながら脚本がどうだの声優がどうだのって悪口始まるんだよね。あれなんなの? ツンデレなの? まぁ、大体それするのって男友達のオタクとか何だろうけど、居なくてよかったぁ。

 そうして一人悲しくなっていると、宇都宮先生は手鎚を打ち、「そうだ」と話し始める。

「タイタニックとアルマゲドンは良かったなぁ……あと、プラダを着た悪魔は外せないか。長編ではスターウォーズとインディ・ジョーンズ辺りは見ていて楽しかったなぁ……懐かしい。それらを見ている時は、往々にしてイきかけていた。名シーンを思い出しただけで堪らんな」

「……ほぉ」

 ドミーハーなんだよなぁ。俺の記憶だと全部古いし有名どころばっかり並んでたし……映画評論家気取りと呼ばれていたのも納得がいく。といっても、宇都宮先生でさえ、世代じゃないどころか生まれて無いものもあるだろうから、ただ本当に好きなだけなのかもしれない。俺も未来少年コナンとかガンダムとか好きだし……人の事は言えないんだよなぁ。

ただ、イきかけるとかいう狂言は聞き捨てならない。せめて泣けよ。映画を見ていて興奮するシーンとか濡れ場くらいだろうが、思い返す限りそんなシーン無かったと思うんだが……そんなに体をくねらせるような場面って、一体……。

「……因みに、どのシーンでそんなイきかけるんですか?」

「ん? あららら……。」

言って、反応を見て、直ぐに後悔した。

ピタリっと動きを止め、宇都宮先生はジリジリと体を寄せてくる。俺の方が背が高いからか、前屈みになられるとマジでヤバイ……。作業着史上一番エロがっているオバサンの姿が目に痛く、勝手に視界が窄んでしまう……。緊急事態を受けて反射的に一歩下げてしまった足を踏み外し、体が沈む。

それを好機と取ったか、真向いまで迫って来た宇都宮先生の長く細い人差し指が下から流れ、そして、俺の顎を上げて止まった。

何度か間近で見た佳い顔が迫り、無意識にまぶたに力が入る。キスでもされると思ったのか、全く馬鹿馬鹿しい勘違いで暗転した思考に魔物が住み着き、それは心拍数と動きを速めた。

小さくか細い呼吸の音が聞こえるまでになり、煙草の臭いは消え、また、名前も知らない花の匂いが鼻腔と口内を占拠した。

あぁ、俺の貞操がぁ……。とかチンプンカンプンな事を考えた直後、右耳一つ、小さな一身でその感触を全て感じ取り、再起動した思考が冴え渡った。

そして、一言一句漏らすことなく――

「私はな。苦しみの限界に立たされた人間が、その先をどう選択して、何を守り、その果てに何が待っているのか、それら結末への過程を見た時に激しい興奮を覚えるんだ」

そんな囁き声が聞こえ、興奮と同時に恐怖を覚える。……この人、完全に俺の上位互換だ……なにがおねショタだ、なにが男の娘だ……この人のは、そんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……。

 顔の自由は疾うの昔に解放されたが、胸に当てられた手が俺の心臓から熱を奪い、凍り付いた血流が流れた後の体は金縛りにあったかのように硬直して動かず、何より宇都宮先生の視線から逃れられそうもない。

 そんな魅力満点の宇都宮先生は、俺の謎の期待に応えることなく、至って真面目に続ける。

「その点、映画や小説なんていう物語には、それらの要素が必要不可欠だから大好きなんだ。主人公の絶望とそれからの鎮痛は、視聴者の悦びだからな。だが、残念な事に。現実はそうもいかず……」

 俺から距離を取り、よれた作業服を伸ばしながら、宇都宮先生は嘲笑を浮かべ、改めて俺を見つめ、口を開いた。

「お前を含め、生徒の成長を見ることに喜びはあるんだがな……全く、この歳になってなお悦びを感じた事が無いんだ……考えてもみろ。この世界に生きる人間における苦しみの限界とは? 選択する余地は? それらが無いのに、解放なんてものがあると思うか?」

「…………」

 一見、それらには答えがある様に思う。苦しみの限界が来れば人は壊れ、自分を守るか、風体を守るかの選択肢もあり、故にそれらからの解放だって存在する、と。

 だが、少し、心に引っかかりを覚える答えだ。一番の問題は、風体を守る以外の選択が出来ないことにあることだ。それに、どちらを選択したところで間違いは生まれ、それは生涯の苦しみに変わり、それらを背負って生きていける人間なんて居るとは思えない。これは極端な話だが、自分や他人を許すにしても、その人たちが互いに一生を許しを請うことに使い切り、業を抱えて暮らすことに、価値を見出す方が難しいからだ。しかも、それをお互いに知り得ない。

 それもこれも全て、人が簡単には変われないという難題にぶつかるからで……選択にぶつかって現れるのはその壁で、それは硬く、分厚く、疲弊した心では乗り越えられないものだ。苦しみという毒沼に足を取られた時点で、他の人間に遅れをとるのは必然なのだ。

 だからこそ、宇都宮先生の言葉に反論は出来なかった。

「しかし、だ。最近になってようやく気が付いたんだが、それは私の古臭い腐り切った考えに基づいたものだったんだ……ま、きっかけはとても些細な事だったんだがな」

「……と、いうと?」

「お前も知る人間に、苦しみの限界も、選択も、味わった人間がいるだろ? そいつを見ていると、あることに気が付いた。」

 ……多分、冱雪の事を言っているのだろうが。何に気が付いたのか、焦らすような様子の宇都宮先生が何故か片目を伏せた目配せで考えさせてくる。

 でも、分かる訳無いんだよなぁ……上辺の冱雪しかしらないし、変態な宇都宮先生を持ってして気が付いたことって……それも、まだ俺が納得し切ってない独自の理論だしなぁ。

 特に、俺は苦しみが顔を覗かせた直後に背を向けて逃げていたような奴だ……冱雪と真逆で、釣り合わない、最低の人間なのだ。冱雪を救うなんて上辺のふわふわな名目を盾に、何かを見出そうとしているクズだ。

 そんな自己嫌悪を見透かすような瞳は真っすぐに俺を捉えたまま……しかし、頬は緩んで微笑みかけて来ていた。親や女神のような優しさに包まれる様で、次の言葉は自分を認めてくれるものなんじゃないかと、勝手に安心できた。

 だが、現実はそう甘くない。

「人間は誰一人として主人公にはなれないんだ。仮に見出すことができても、成ることはできない。故に、人は一人で生きていけない。同じ目的を持った人間を傍に、共に解決に向かう事で背負ったり抱えたりする以外の未来が見えてくる」

 ……そうなのか? でも、きっと。そんな未来は非現実的で、映画と似たような仕合はせ拍子で出来ている。だからこそ現実目で見た時に恐ろしい。

 最悪の未来を想像している内は見えてこないし、裏切られた時の絶望は底知れない。

「……でも、その道中、その傍にいる相手が何を考えてるかなんて分からなくないですか?」

 自分が違っても、相手は諦めたくなったり苦しんでいるかもしれない。それでも自分が前に進みたい時はどうすればいいのだろうか? 人間関係を含む問題は、根本にそれを抱えている事だ。自分は変われるが、相手を変えることは出来なくて……なら結局、自分がそれを背負ったり抱えたりする以外の選択肢なんてないだろ。

「分からなくていいんだ」

 俺の問いに、確固たる声音で宇都宮先生が答える。まるでそれに間違いは無いみたいで、反骨や天邪鬼が手を伸ばし、言葉尻を捕まえようとする。

「それが必要ないくらい、幸せになるからだ」

「そんな事――」

「いや、間違いない。私の言葉を信じる必要はないが、それはこの世の普遍の事実だ」

「……はぁ」

 揺ぎ無い眼差しに捉えられると、そうであると勘違いしてしまいそうで……絆された思考ではほかの選択肢が失われてしまう。

 ……納得できるまで、質問を繰り返してみたい。

「仮に、俺の幸せを冱雪が同じように感じることが出来たとして……冱雪は、それで満足いくと思いますか?」

「や……ん~。それは難しいかもな」

「はぁ?」

 さっきまでの態度が嘘みたいに、半笑いで無責任に、宇都宮先生は続ける。

「それは、お互いが類を見ない大親友や恋人や家族なら可能かもしれんが……今のお前らじゃ無理だろ」

「……なら――」

 宇都宮先生がペラペラと言い放った薄い理論は、それで破綻する。全く持って、納得しかけた自分が馬鹿らしい。

「門叶、お前の住む世界に於いて一人称とは何だ?」

「……俺、ですか」

「あぁ、そうだろうな。だから今回の質問を『冱雪の幸せを俺が同じように感じる事が出来たとして、俺が満足いくか』に変えてみよう」

「……」

「したならば、答えは一つ」

「…………。」

「満足いく! だ」

 ……詭弁もいいとこだ。問題外の、牽強付会が過ぎる屁理屈。

 改めて宇都宮先生の顔を見つめる。

 半笑いは満面の笑みに、無責任さは信頼へと姿を変えていた。きっと、見え方が違うだけで、この人の表情に先程と全く差異はない。

 きっと、気の持ちようでこの世界の見え方は変わってしまう。だからこそ、この世界は人の分だけの姿があり、色があり、流れがある。結局自分がそう考えるしかないのは普通で、当たり前で……だからこそ、自在に幸福感を得ることが出来るのだ。

「今から私は『醤油差し』を見るが、お前たちは『6 month / break up』を見る訳だ。結果として満足いくかは知り得ないが、それを控えた今、どう感情が揺り動かされるか、ワクワクが止まらんだろ?」

「……まぁ。確かに……映画のタイトルも今知りましたし」

 急に英語話始めるから思考停止したわ……何とか鼓膜検問突破したからいいものの、通常時なら聞き取れてないと思う。

 多分、きっと。この真な空気感と妙な納得感で集中できていたからだけど、本当の所は良く分からない。こんな感じで自分のことも良く分かってないのに、冱雪の事なんて理解できるの?

「お前ら、映画の話とか一回もしてないのか?」

「いや、多少は……人気ってことくらいなら知ってますし」

 宇都宮先生は俺から一歩距離を取り、今度は、いつも通りの呆れ顔で大袈裟なため息を吐いて続ける。

「映画なんてもんは見る前が一番会話が弾むと思うんだがな……そこを逃して、見終わった後に何を話すつもりだ?」

「え? そりゃ、色々と――」

 むしろ見る前よりあるだろと、覗いた一片の記憶を手に取り、思い返してみる……が。

「ないかも」

「だろうが」

 や、冱雪も同じく男だから、脚本がどうの演出がどうのとかの話をしたり、記憶に残ったシーンの真似をしてみたり、何となしで会話すればいいんだろうけど……こればっかりは冱雪のタイプがどうかによる。

 最後に人と見た時の記憶なんかロクなもんじゃないんだよなぁ。その時の映画の話なんて「おもんなかった」の一点張りだったし、二の句にはご飯なに食うかの話に切り替わったし……実は俺、結構好きだったんだけど、それを言い出せなかった。タクい人間の趣味ほど多様性に溢れた世界は無いから、好き嫌いが分れるのも仕方がない。けど、あまりにもブーメランで戦慄したのを覚えている。

 と、そんなありふれた軋轢を思い返して肩を落としていると、宇都宮先生は小さく「それに、迅速に仲良くなって貰わねば困るからな……」と呟き、疑問に思う俺に構わず語り出す。

「門叶。会話の基本は『共感』『肯定』『質問』だ。とにかく相手の話を聞いて相槌を打つ事!これを守ればお前もヤリチン街道まっしぐらだぞ!」

「……それはアドバイスなんすか……?」

 あと、大の大人が大興奮で叫ぶ言葉じゃないから、映画館のスタッフとか警察の人とか、巨悪を放置してしまっている事に気が付いた方がいい。

 だけど、前者の内容自体は的を得ている様な気がする。まぁ、どれも実行できてないんだけど。出来てたら友達とかもうちょいいるだろうしね、悲しいね。

「ま、それは冗談としても、門叶」

「……はい?」

 幾度目かの唐突な真面目な声色に、勝手に耳が冴えた。染み付いたものは消して拭えない癖となり、ほぼ調教と同義となってこれからの人生を狂わされそう。責任取ってよね! これから二年半くらい、真面目な雰囲気になったら聞き入っちゃうのかな……。

 なんて考えている隙にはもう、真摯な視線に囚われて逃れられなくなっている。切れ長の目に対比して大きい黒い瞳には、変な服を着た俺が動揺した様子で住み着いていた。

「真摯で誠実な対応だけが気心や懇意を生み出すわけじゃないから、それだけは覚えておくといい」

「真摯で、誠実……?」

 俺、そんな対応したか……? 自分で言う事じゃないかも知れないが、むしろ、冱雪に対して無礼しか働いてない気がするんだけど。俺ってばほとんどディアボロ。

「そうだな……。固定観念に囚われてほしくなんだが。真摯な謝罪と、誠実な返答ってところか……どちらも受け身にはなるが、お前はそれらが多いからな」

「多いって……」

 そういえば今日、冱雪と話してる時は大概ストられてたんだっけか……。にしても、した覚え無いんだよなぁ。謝罪なんてさっき初めて出来たし、ろくすっぽ真面目な返答なんてしてないし。それ、別の人と勘違いしてない? まぁ、受け身ばっかりなのは間違いなくて、確かに友達とかはいないけど。その方が生きる上でかなり楽だし、重要視される問題じゃない。今の所は、なんだけど。

友人知人って社会に出たら必要不可欠って聞くし、関係ないかもしれないが、過去見てきたバイト系のアニメやら漫画のキャラ、陰キャぶった設定のクセに女の子と普通に会話出来てるの、リアリティなさ過ぎてマジで憧れるんだよね。別の学校の人と仲良くなれる可能性があるのがバイトの良い所だと思うが、現実世界じゃそうもいかないんだよねぇ。接客とクレーム対応とシフト急変の人間不信祭り確定で二度とバイトなんかしない。

あれ、何の話してたんだっけ……。

……あぁ、そうだ。真面目な人間になるなって諭されてるんだっけ。

「て、ことは。今、俺が先生の肩に手を回して映画館入っても問題ないってことですか……?」

「飛躍し過ぎだ――バカタレ」

 トンッ! と頭頂部に軽い衝撃が走る。弱くて優しい、不思議な一撃だった。

 特段痛くも無かったが、わざとらしく患部を抑えて屈み、そこから睨み上げると、やはり笑顔を湛えたままの横顔が、今度は映画館の方を見つめていた。

「ま、実を言うと、というか当たり前なんだが……私もあの子の事を大して知りはしない。門叶――」

 姿勢を直した時、肩をすくめた宇都宮先生が申し訳に続ける。

「職員室で聞いたな、『冬萌冱雪を知っているな?』と……だが翻して考えてみると、それは自戒の言葉だったのかもしれないな。知らんけど」

「……えぇ、」

 適当に喋ってんのかな、この人……。

 とはいえ、冬萌家の過去とか、冱雪姉の事を知っている時点で、俺よりは認知している筈だ。そう考えるだに、俺の考えはあまりにも甘美で上辺で僭越で、宇都宮先生が望んでいる様な未来に居る俺自身では無いのかもしれない。

というより、冱雪とは表面上で仲良くなれれば、別にそれで構わないんだよなぁ。そもそもその段階にすら辿り着いていないんだし……。自然と友達と呼べるような人間関係になれたのってガキの頃以来だから、距離感がイマイチ分からん。呼び捨てとかあだ名っていつから使っていいの? 何となくだけど、呼び捨ての時でさえ胸が痛いし、呼び方定まんないんだけど。

 とどのつまり、宇都宮先生には悪いが、前提として俺は俺のまま変われないのだ。事人間関係になると悪癖が目立つ。そら知る努力だってするし、冱雪の悩みがあれば解決の手伝いをしたいとも思うが……や、後者に関しては俺の関与する余地なんて無いのか……過去も家柄も気持ちも、俺にどうこうする権利なんて無くて、そもそもそんな力は備わっていないからな。

 現実にスキルツリーでもあれば、真っ先に取るんだけどなぁ。一定の値からレベル上がってないからポイントも貰えなさそうだけど。

 でも、そうか……確か、冱雪の幸せが俺の幸せなんだっけな……。この考え、染み付いてくんのかな……。こんな僅かな時間で忘れるとか、先が思いやられ過ぎて忘れちゃいそう。

 と、そんなこんな。自分の世界に浸りかけていると、トントンと横腹を突かれる。

「ま、差し迫っての問題は映画を楽しむことだ。ほら――」

 宇都宮先生の首の動きに合わせるように、俺も映画館の方を向く。

 そこには不思議な生き物が……。というより、お察しの通りの可愛い冱雪が、巨大なポップコーンを片手に抱えて、俺たちを見上げていた。

 ありゃりゃ、瓶の中のティンカーベルかな? とか気持ち悪い事を考えていると。

「さ、行って来い」と、背中をポンと叩かれる。

 気が付けば、宇都宮先生は俺の横に立ち、にこやかに笑いかけて来ていた。

 ……マジで元気だなぁ、この人。色々考えていそうで、考えて無さそうな雰囲気を肌に感じると、こっちが悩んでいるのが馬鹿らしくなってくる。

「じゃ……行って来ます」

 正解も不正解もないのだろうが、どう言えばいいのか分からないどぎまぎとした別れの言葉に、宇都宮先生は「おう」と答えてくれた。

 溌溂とした剣幕は大変勇気づけられてよろしいのですが、どうも何かが引っかかって癪に障る。

 結局この人、丸投げなんだよなぁ。頼られ、任せれていると思いこめば自信もついてまだ楽だろうが、絶対にそんな事無いし。

よくよく考えれば、なんで冬萌家諸々のお家事情を押し付けられようとしてるんだ、俺……。宇都宮先生は冱雪の事だけ考えればいい的な事を仰っていたが、その二つって引っ付いて離れない粘着爆弾みたいなもんで、片方が爆発するともう一方も被害を受けると思うんだぁ。それに関わりを持ちだした俺が爆発してもまた、同じことになっちゃう。最悪の輪廻で草も生えない。

つまり、手を差し出した時点でゲンスルーの命の音を取り付けられるってことで、解放なんてされれば即死するから、一生モノの業になってしまう。あれ、強すぎだよね。

でも、それをしていない今ならまだ引き返す選択肢も与えられている。

ここで尻尾を巻いてさっさと帰ってしまえば、高校生活にも花が咲くかもしれない。きっと、残るのは宇都宮先生と冱雪との確執だけで、この数か月を犠牲にする代わりに華々しい春が待っている可能性も――ないなぁ。

無いんだよなぁ。ある訳無い。

それどころか正直、この半年の間だけはここの人間関係で成り立ってた部分があるから、別れが辛い。想像しただけで好きなラノベが最終巻でハッピーエンドになった時みたいな、妙な虚しさを感じる。幸せになるんだろうなぁって想像しながらも、先が気になるあの感じだ。あいつら、マジですげぇよ。自分の周りが、大切な人が、幸せになるためなら何でもすんだもん。

そんな小説の主人公のように、きっぱりと嫌われる勇気が俺にはない。捨てられるならまだしも、自分からその場を後にするとか、マジで考えられない。後がない。

それに、構築された世界を抜け出して冒険に出るとかも俺のキャラじゃないしね。甘んじてその場に居るのがいかに楽か。フルダイブ剣道馬鹿とか波紋筋肉ダルマとか魔法使い年増女みたいな向上心もないし世界開拓とか馬鹿らしくて辟易とする。あーいうのって他人の絵空事だから面白いんだよねぇ……。俺がこの世界の主人公かなんかだったらって想像するだけで恐ろしい。そんな力備わってないし、培う未来も見えない。

要するに俺には変わる勇気も変える力もなく、出来るのは自己嫌悪か現実逃避か……。はたまた黙殺して見て見ぬふりをする傍観者となり果てるかだ。

人一人に出来ることなんて知れている。知識も自身も無いんなら、スマホ片手に群がる人の一部に溶け込むか、空気に化けてネットニュースだの風の噂だので知るしかない。

邪魔になれば取り上げられ、失敗すれば晒されるんだから。変な勇気も真面目な態度も求められてない。大切なのはいかに自分の色を着色して周りに溶け込むかだ。目立たないのが一番! 間違いない! うん。俺なんて数多流れる雨の一粒だ。

つまり、変化という危険行為はそれらを孕み、率先して手を引いて来る悪魔だ。かなりの時間が必要なのに燻り続ける爆弾なんてタイパが悪すぎるだろ。自称ミニマリストだの丁寧な暮らしだのの人間が聞いたらショートスリーパーにまでなって胡散臭人間完全体が出来上がる。

……と、こうして考えすぎる癖も抜けていない訳で、どれだけ願った所で叶わない事もあるのだ。

とりあえず今は、アホ面で立ち尽くす宇都宮先生にシャツを押し付け、この場を後にしよう。俺は所詮、こうやって取捨選択し、前に進むことしか選べない。現在は過去で、未来が今だって偉い人も言ってたし、掴みたい未来の為に、そして失いたくない今の為に、いつの日か俺は、何かを捨てる選択肢を取らなければならない。


映画館内一歩手前。謎に二重になった自動ドアの一枚目を越した瞬間、外とは別種の冷たさに襲われる。ただでさえギッチギチのTシャツが更に肌をキツく締め上げ、血流が悪くなった分だけ頭痛が……。

「マジで帰ろうかな」と、そう悩むレベルでなだれ込んで来る。

 別れとか逃げるとか関係なしに、この先がこれより寒いとか考えるだけで地獄なんですけど。

 ただ、そんな中。くるりと顔だけで振り返ると、怪訝な顔をした宇都宮先生と目が合い、末恐ろしい剣幕に当てられる。それを受け、自然と一歩、館内へ歩みを進めた。

 そうして両腕で体を抱きながら宇都宮先生を凝視していると、目の前のドアが閉まり、一枚幕が張られたことで不思議と安心でき、気温が上昇していく。

 何あれ、雪女なの? とかなんとか考えている内に、背後の扉がウィ~ンと音を立てる。

映画館本館への自動ドアが開いているのだろうが、その途中にも滞りなく、気温を一定に保とうと冷風が流れ込んで来る。それらが先程までと比べ物にならないくらいくらいキンキンなのは言うまでもないが、今度はそれらがキャラメルだのシナモンだのの甘ったるい匂いを乗せ、映画館特有の静けさと趣が一気に肌に染み込んでいくと、そんな空気に当てられた思考力は必然と衰えて気持ちも腐っていく。

……昔はこの空気感だけでもわくわく出来たんですけどねぇ。俺も、大人になれたってことぉ⁉ 大人になったら愉快活発を忘れてしまうというアンチテーゼを一身に感じてしまったってこと⁉

……や、ただ単に今置かれてるう状況が悪いだけかぁ……冷静に。むしろ映画館とか、いざ見るとサブスク系より好きだしな……。ただ、3Dと4Dだけは嫌いなんだよね。酔うし、風とか水が来た時の殺意がエグイ。だって、ねぇ。日本という国が好きで大方信用してはいるけど、なんか不潔そうだし……。というか、傍からビビりまくってる俺を想像するといたたまれない。けど、I―MAXは気になっていたりもする。

なんて考えていると、パタパタと視界の外から何かがやってくる。

「鏡くん、あと五分なんだけど」

「んあ」

急に話しかけられ、反射的に出た鼻抜け声を追いかけるように前を向く。するとそこには、ガラス越しに見たまんま、巨大なポップコーンを抱えた冱雪が立っていた。

 怪訝な、というよりは不思議そうな視線を向けてきているが、それよりも何よりもあと五分ってマジか。

「まぁ、最近の映画ってやけに広告長いから、間に合うとは思うんだけど……」

 パリパリ。とポップコーンを貪りながらも冱雪は急ぎたいという気持ちが前に現れていた。

 初めて見ることのできた行儀の悪い行いに親近感を覚えつつ、ほっこりと心の糸が千切れた事で、先程の腹痛がF1のブラット・ピットが如く走って来て俺のお腹の中で横転した。

 ギュルル――と初期微動する痛みは他人事のようだったが、後のガツンというリアウィングの破片が突き刺さるような主要動は俺の全身をくの字に曲げ、思考が『うんこ』で満たされた。

 しかし俺も男の中の男。可愛い人間の前で「うんこ!」と叫ぶような真似は出来ない。が、そんなモラル的な思考のロックも緩んでしまう。

俺は何とか声を絞り出し「……す、すまん……と、トイレ、だけ……うぅ」と、漏らす。

「ん、――勿論。僕も映画前は行く人だから」

 ポップコーンを飲み込み、冱雪はそう言い放つ。

 そうか、それは良かった……。映画の途中で立ちたくないもんね……。

 安堵の元、腹痛の波が緩やかに過ぎ去ると、邪推とも取れる元太ばりの空気の読めない思考が脳裏を過って行く。

「冱雪……。男の娘……。て、ことは男子トイレに、なるのか……?」

「ったりめぇよ!」

 てやんでい! と続けたそうな剣幕で冱雪が突っ込んで来るが、その熱と衝撃を受けて再び激しい腹痛の波が押し寄せてきた。

「――あ、もう……で、出るっ!」

「えぇ⁉」


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