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第五章 イッパイモノアルヨに来た意味


渚駅は海沿いにある埋立地の上に建つ。故に、海を展望しながらコーヒーを嗜めるカフェというのがあり、そこは一つの観光所として機能しているようだった。

今日も勿論お客は多い。レジ隣接の受付から見るだに、空いている席が無いのは明白だった。

それに加え、本日二度目のカフェという事もあり、気分もそんなに上がり切っていない事実……。こんなコンスタントに行くとこじゃないだろ……。

店員を待つ間、そんな俺を他所に呑気に鼻歌を奏でる宇都宮先生の横顔に話しかける。

「……入れるんですか?」

「んん、あぁ。任せろ」

その質問に、やはり笑みを湛えたままの宇都宮先生は遠くを見て幸せそうに返す。

……なんだ、この人。様子がおかしいぞ……。何を考えているんだ……?

職員室での態度や猛暑に対する態度とは乖離し、現在着用の作業着も雑に纏められた黒い髪も、それらを無視すれば、歳以前の若者に見えてもおかしくはない。と、言うか……普通に胸がざわめく。それら心境も加わってより怪しく、つい色々と勘ぐってしまう。ただ単純な善意だと、受け止め切れない。だって、ねぇ……『鏡の一日』とか取る人ですよ? 怖いよねぇ。

そうして、そんな宇都宮先生にジト目を向けていると、遠くからカツカツという高い音が聞こえてきた。

前を向くと、目を剥くようなブロンド美女が、更にカフェの制服(エプロン)を纏うという、異世界紛う姿で召喚召した。

目前で立ち止まったエレガントガールだか淑女だかは、先ず俺の方に笑顔を向け微笑むと、「こんにちは」と小さく囁いてくれた。

しかも、小さく手を振りながら、だ。

それを受け、真っ先にサングラスが下にずり落ちる。

ちぃ……この人、純朴そうな見た目で、完全にオタク心を分かっていやがる……。小声の特別感というのは素晴らしいものだ。更に隣に知人が居ればそれは増長する。俺を認識してくれている、好かれている、てかワンチャンあるんじゃね、と勘違いするには十分過ぎるのだ……。しかもご丁寧に手まで振ってやがって……。

俺は目も合わせれず、「うっす」と返事かどうかも分からない吐息を溢すのが精一杯で――

「……お前、どこまでも童貞なんだな」

そんな無神経な独り言が聞こえた頃には、心臓がくるみサイズまで縮小していた。なんなら体まで縮小してる気がするんだけど、これっておねショタですか? やったぁ!

そして残酷な事に、そんな俺を他所にストーリーは進み続ける。

「よう。名月」

「お久しぶりです、宇都宮先生。お二人ですか?」

「あぁ……いや、三人だ……。というか――お前にも、付き合ってもらうぞ」

指を鳴らすついでに顔を差し、明らかに無理のある要望を告げる。

仕事中だろうに無理言うなよ……。満席っぽいし相当忙しいだろうに……宇都宮先生、俺、恥ずかしいよ。

と、社会にも出たことないただの男子高校生、略してTDDKが一人勝手に恥じていると、名月さんは一度、店内のバックヤードの方に首を向けていた。

ひょっとして行けるのか? と、バイトもした事の無い男子高校生、略してBSNDKがこの店の労働提供体制に憂いを抱いていると、ふと、名月さんの視線の先にいる人物の下半身が目に入った。男性用の制服か、黒いスラックスの腰回りが銀金具のベルトに締め付けられ、白シャツの上に黒いベストが羽織られたとてもクールな印象だった。

その人物の全身がどうしても見たくなるという、不意に大事な何かを傷つけたくなる(暗闇のフリーダム)に駆られ、膝に手を付いて中腰になり、サングラスの上から覗き込む。

すると、カウンターの枠に入り切らない程の高身長が俺と同じく少し腰を屈めてこちらを見ているのが見えた。その視線の先は名月さんだろう。

初見の俺の感想としては、白髪のテラテラオールバックで角ばった骨格と計算し尽くされた髭に目鼻立ちのくっきりとした顔立ちとキッとした口角は不敵でカッコよかった。

ただ、そんな顔が一瞬にして崩れ、焦ったように身振り手振りで口をパクパクさせるもんだから、厳かな雰囲気の中で吹き出しそうになる。

さらにそれを加速させたのは、その間にもキッチンへ流れ込む注文の数々、残酷にも食べ終わり飲み終わりの食器たちがカウンターへと置かれていく姿で、あまりにもその光景がシュールで、更に笑いを誘ってきていた。

「クッ……ククッ」……やるじゃねぇか。やっぱり最近の人間の笑いのツボはシュールなのか?

そうしてニヒルな笑いを口の奥で噛み殺し、肩の震えに変えるという変電方法を採用しつつ、なんとか堪えていると、不意に煙草の臭いが強くなっていく。

「――なぁ、」

その声に合わせて視線だけを左に向けると、宇都宮先生が興味津々な様子で顔を寄せて来ていた。何か言おうとしていたようだが、視線の先にいる何かに興味を引かれたのか押し黙った。

が、一方の俺はそんな場合では無く……その横顔の綺麗な事。雨明けの蜘蛛の巣かと思ったわ……珍しくて、ドキッとしたってことで、マジで心臓に悪いから離れて欲しい。しかしどうして、喫煙者のクセして肌がここまで綺麗とは……まっこと羨まし限りでありますなぁ。龍馬はん、白木綿もうてきて!

と、美容系土佐藩藩主かがみんどんを演じつつ、そんな綺麗な横顔を見つめていると、不意に長いまつ毛が震えるのに気が付き、視線を前に戻し……そしてそこでようやく気付いた驚愕の光景に、それら全ての感情が吹き飛んでいった。

 ついさっきまで出る筈もなかった声が、不思議と飛び出して来る。

「…………一体。なににあそこまで怯えてるんですかね」

「さぁ」

「さぁ、って」

いやぁ……どっからどう見ても、あんたに釘付けなんすよねぇ。

体を抱き、小刻みに震える店長さんは目を回しているが、草食動物の様に宇都宮先生を警戒して目を離そうとはしない。その姿は店長というか小さく纏まったテンチョだ。

あらら……。カウンターパンパンだよ……頑張れ、テンチョさん!

と、心の中で手を前にゾイッと応援すると、小動物の様に小さくなっていくテンチョはいよいよカウンターの下へと消えて行ってしまった。

そんなテンチョさんを華麗に無視しつつ、女性陣二人は目を合わせた後、パッと笑顔の花を咲かせて続ける。

「――ま、いんじゃないですかね。多分」

「あぁ、だな。じゃ、席が空けてくれるか?」

片や無責任で絶対によくないし、片や身勝手の極意で絶対無理だし……女の人ってホント怖いわぁ。

テンチョさん、大丈夫かなぁ。


とまぁそんなこんなの紆余曲折を経た後に俺たちが案内されたのはまさかのテラス席だった。

このクソ暑い日にマジかよ、とも思ったが、住めば都。

シックなベージュ基調のオーニングが特設されたテラス席は海から陸へと続く風道がしっかり確保されており、最初こそガチ凹みの肩落とし手扇ぎ無心座眉寄せ観音菩薩と化していたのだが、次第に潮の匂いが強くなり始めた頃。その風の冷たさを肌で感じ始めた際には筋肉は弛緩し尽くしてタコみたくウネウネってなっていた。

なんなら汗ばんだシャツとズボンが形を持った冷水みたいで、まるで締められたかのようにピチピチしている。あ、これ貧乏ゆすりか。ハハッ!

と、そんな多動を抑制することに神経を削いでいると、不意にテーブルをさらに深い影が覆ったので顔を上げると、お盆を持った名月さんが同じタイミングで椅子に座るところだった。

「お待たせしました――こちらがダージリンで、こっちが麦茶ですね」

「お、ありがとなー」

「っす」

宇都宮先生の前にコップ一杯に氷の入った麦茶が置かれてそれは水滴をしたためており、一方の俺の目の前に置かれたダージリンは立派に湯気を立てておりそれを見て、直ぐに後悔した。

え、カフェってお洒落系以外頼んでもいいもんなの? 麦茶て、田舎の古民家フロム縁側で飲むやつですやん! ……流石に言い過ぎか。

そしてそんな絶望の傍らで、名月さんが自分用の水を寄せた後、裸になったお盆を店内へと続く扉にぶん投げる後頭部は狂気じみていて大変怖かったのだが、その行く先を目で追っていくと、ワンちゃんみたくお盆を咥えたテンチョさんが居て、直ぐに目を背けた。

……どっこもクールじゃねぇや、あのオッサン……。

「あれ、ヤバい奴だよな? 実を言うとな……あんなのでも、私の恩師なんだ」

「……はぁ?」

衝撃のカミングアウトにチビりそうだし、そういうのってもう少し焦らしてから、本編の後々に本人の口から聞いたりするもんじゃないの? だから作品が味気ないとか言われんだよ……馬鹿だなぁ……。

サングラスを外して胸ポケットに、上体を前に倒しつつ、頬を染める恩師とやらを観察する。

……てかあれ、元公務員なの? いや、別にいいんだけども、なんかなぁ。氷河期世代はあんな化け物も産んでしまったのか……? もはや、人ってか犬だぞ……しかもボルゾイとかじゃなくて柴犬。

ほんで、「グッジョブ店長!」と言った後にシッシ! と囁きながら手を払う名月さんはさながらブリーダーの様で、それを見てつい舌を出してへっへっと口呼吸したくなる。……あ、俺も柴犬の才覚あるんかもしらん。

というか、高校生活始まって以来、出会う人間が度々トチ狂ってるんだが……。今までの常識が全く通用しねぇ……。更に世間に怯えを感じてしまう。……やっぱ世界ってひれぇな、俺よりヤバい奴がうじゃうじゃ居やがるっ。オラ、わくわくすっぞ! ……と、こちらも負けじと、どこぞの悟空さみたく興奮と期待を胸にしていると、名月さんはテーブルを向き直して続けた。

「それで、今日は何の用ですか?」

マジかよ……切り替えがすげぇや……この人、俺に無い部分で構成された完璧人間かもしれない。……て、誰が杜撰人間じゃい!

とかなんとか自己嫌悪かも分からない嘆きを一口。てか、この人もヤベェから俺も完璧人間ってことでこの話は終わり。

その間、その質問を受けた宇都宮先生はニヤリと笑みを浮かべ、そして――

「コイツに、話してやってくれ」

俺の背中を力一杯に叩き、傍らで咽る俺を無視しながら話し始めたる。

その最中、「……話す?」と、不思議そうな名月さんに見つめられると無性に恥ずかしくなったので、息を止めつつ口の中でせき込むという職人芸を為し、背筋を伸ばして聞き入るフリをする。が、正直言って喉が痛すぎてそれ所じゃ無く、右から左どころか環境音ごと消し飛ぶ。

こんな芸当、教室で咳をするのが恥ずかしかった時にしかしたこと無いので、ボッチ特性最強理論を提唱しても問題ないのでは? と一人勝手に卒論案を浮かべています!

そうだ! と思い付き、舌を燃やしながらダージリンを流し込む力技で無理やり取り戻した聴力が聞き取ったっていうシーンから再開します! 異論は無し! はい、カッ!

「――なるほどなるほど……この子が、ねぇ」

妄想から帰還して直ぐ、「ふ~ん」と言いながら、テーブルに体を乗せつつ前のめりに顔を近づけてくる名月さんのお顔が近くにあって、急いで椅子を引いて距離を取る。

ギッという椅子の悲鳴が不快で、つんのめって倒れそうになるのを足裏に力を入れて耐えた瞬間にこむらが還りそうになる。古村、任務は終わってないぞ帰還は見送りだ! とブラッククソ上司的指令を送りつつ、様々な出来事を堪えて顔を上げると、ニヤニヤ笑いがこちらを見ていた。

「ウブだろ?」

「……まぁ」

んだコイツら! 成人女性が寄ってたかって純情な男子高校生を弄びやがって! というかほぼ嬲りだろ! 好きの種の周りを焦らすように水を撒かれるから本当にキツイ。危うくコロッとデカめの恋心が芽生える所だったぞ! 

俺の心が体を抱いて、ちゃんと責任取ってよね! とか叫ぶのを無視し、何とか平静を装ってコホンと息を吐く。

あ~、ダージリンが染みるねぇ。

体温が上昇して周りに溶け込んでいくと、涼し気な風の音と匂いを強く感じるようになる。

そんな風に、ん~。とわざとらしく舌鼓を打っていると、名月さんは引きつり笑いを作って身を引き、水を飲み始めた。

もはやそんな様子を見るのすら憚られたので目を逸らし、またコホンと息を吐いておく。

そして直ぐ手持無沙汰になり、ダージリンティーを最後の一口まで飲み切ってしまう。……こうなると、気まずさを誤魔化す道具が無くなってしまう。今までの経験上、こういう時は景色を眺めて現実逃避か太もも叩きリズム天国か胸元のサングラスを取り出してパカパカする事が最適解だが…………ところで何でこの人たちは喋らないの? と若干ムカつきつつ、俺が生み出した空気という責任感を感じてしまい、仕方なく口を開いてみる。

「いやぁ、美味しいですね~、ここの紅茶は……ヒマラヤの味を感じますよぉ。尾根から覗く太陽のような輝きが口の中で日暈を作って調和し、さらさらと流れる沢のような爽やかさが鼻を抜けていくようだぁ。……こちら、やっぱり茶葉から?」

「ティーバッグだけど」

「……ほぅ」

そう来ましたか、なるほど…………お洒落詐欺だ!

「ま、門叶の白河夜船が沈没したところで、だ――」

宇都宮先生はそう言いつつ、本題だ、と言わなくても分かるくらい大仰に姿勢を整え、碇ゲンドウばりに手を組んで、エヴァに乗れとでも言わんばりに話始める。

「門叶。お前には今日、ある人物について認識してもらう」

「……認識?」

これまた妙な言い方をしよる。別に知る必要も把握する必要も無いってことなんだろうが、

「誰について?」

滅茶苦茶に気になってしまい、つい深入りするような反応を示してしまう。

それを受けて口角を上げる宇都宮先生を見ると、すっげぇ悔しいよ、俺……!

そして更にそれが助長されたのは、まぁまぁと手で制し、宥められてしまったことで、それは涙すら流すレベルで心を叩き、鼻水がわなわなと湧き出てきた。

「まぁ、待て。そう焦る必要はないからな……先ずは起承転結の起からだ」

「起?」と聞き返しながら、テーブル備え付けの紙ナプキンでぶーッと鼻をかんでいると、その一部始終を女性二人組に眺められ、無意識に身を捩ってしまう。

そして、それをポケットに突っ込もうとした時、白く美しくスラっと長い腕が目の前に現れた。そしてその手はパックリと広がり、ひょいひょいと煽ってくる。

椅子を元の位置に戻しつつ、何事かとそれを眺めていると、分かり易い「はぁ~」というため息が、まさかの宇都宮先生の方から聞こえてきた。

ムッと思いつつ、ハムスター張りに頬に力を入れて顔を挙げようとした瞬間、名月さんが話しかけてきたので頬の力が一気に緩む。

「それ、捨ててきたげる。あと、またダージリンでいい?」

「……あ、え~」と、一瞬何を言われたのか分からず、いつも通り言い淀みつつ。……今のが、人の優しさなのか? と孤独系脳筋怪物ぶり思考に陥っていると、「ほら」と催促してきたので、恐る恐る手の上に丸めたナプキンを設置。

それを確認すると、「うん」と言いながら大天使が如く笑顔の影を残し、ティーカップを手に立ち上がって去っていく。

「……お前、可愛けりゃ誰でもいいんだな」

「や、そんなことも無いんすけど」

と、言いつつもあるのかもしれない。と、いうか、超絶モテ男だか恋人います系男子でもない限り好きになっちゃうと思うんですがそれは。

それよりも何よりも、麦茶片手にジト目を向けてくる宇都宮先生が大変鬱陶しく、それがまた何よりも可愛くもあり……感情がグチャグチャになって、且つ、何の話をしていたか忘れそうになるので、頭を振った勢いままにそっぽを向く。……見ただけで記憶無くなるって、目に毒どころか雀蜂雷公鞭だにぇ~。

因みに視線のその先では、お店の中へと戻っていく名月さんの背中が見えていた。

そんな会話もクソも無い空気が流れる中で、パンッと手を打ち無理やりに話を続けようとする宇都宮先生に意識だけが引っ張られる。

「さ、あいつが戻ってくる前に前談だけでもサクッと話してしまおう」

「……続けるんですか」なんて愚痴も言えず、ポケ―ッと店内のカウンターに入って行く名月さんを見つめつつ、頷く。

一転、寒声な言の葉はノスタルジックを乗せて、その頃の景色が心象風景として思い浮かぶ。

それに合わせて自然と目を閉じてしまった。生唾を飲み込む痛みの後直ぐ、感覚は映像に切り替わる。そんなお話の内容がこちら――

「そこは街から外れた村……森という名の壁に囲まれ、人の出入りも少ない、隔絶された独自の文化と世界が蔓延している土地だ――」

想像もつかない程の田舎。そして、非現実的な世界観は、想像するだけで戦慄する。

その一方で、宇都宮先生の方から、乾いたカランという氷の震える音が聞こえた。それを飲む音、置く音、そして、ふっという嘲笑が続き、ここが安全な場所なんだと当たり前のことを再認識し、落ち着く。

「と、言っても。完全に関りを絶てばすぐに滅ぶような脆弱な内政だからな……その村は絢漣町と同じく県の管轄に置かれ、あるものを貢ぐことで長年の異質な文化を保ち続けていた」

詳しいようでその実、答えに程遠い文言は、聞いているだけで不安になり、変な妄想を掻き立てるには十分すぎた。

突然現れた変な村と、それに関連付けて出てきた俺の住む町と県とが、貢いでいたという現代日本において非現実的すぎる異質すぎる文化との繋がりがあることが決めつけられ……俺の人生そのものが否定されている気すらしていた。

今まで知らなかった滅相も無い裏の世界が、俺の知る表の世界と融合し、歩むべきだった道のりを歪めるのではないかと、一抹の不安に駆り立てられる。それそのものを正したいと、矯正したいと、考えない内に思わされた。

あくまで落ち着きを装うことで、不自然にゆっくりになった挙動に自分でも違和感を持ちつつ、じっくりと目を開き、口を開くことで、色々な最悪を考え至ることが出来た。

「……なにを、貢いでいるんですか?」

「や、それは一旦置いておこう。あくまでも〟た〝の話で、今はそんな文化は無いからな」

なるほど、と相槌を返しつつ、胸を撫で下ろす。

いやぁ~、だいぶ安心しましたよね。正直ガンニバル始まったかと思ったもん。それって小説の本題からかなり外れてると思うんですよね。正面切って頭ブチ抜いちゃらぁとか言われたら漏らす自信あるわ。

と、安心のその先で自分の世界を展開し始めていると、宇都宮先生は再び呆れたようなため息を吐き捨て「ただ、」と続けていた。

「問題はその村の村長でだな――コイツがまたとんでもなく厄介なんだ」

何度目かのため息を漏らしてこめかみを押さえる様子は、呆れを通り越している様にも見える。……宇都宮先生にここまでさせるって、どうなってんだその村の村長しっかりしろよ。

とはいえ、どんな無能が村長だろうが、長年続いた家柄だったり閉鎖的なグループの村だったりすると、何の疑問も持たないんだろうか。まぁ俺、絢漣町の偉いさんの名前知らないんだけど。それって平和の証だね!

とかなんとか妄想で遊んでいる間もなく、宇都宮先生は口早に続ける。

「ソイツはお家始まって初の女当主なんだがな……考え方が硬いというか古臭いというかなんというか……歴代で最も石部金吉と言っても過言ではない、本物の石頭で頑固な、とにかくヤベェ奴なんだ」

どんだけ硬いんだよ。キラキラの実でも食べたのかしらね、ミホークと互角とか嘘だろ。

というか、当主とかなんとか、現実で耳にするなんて思ってもみなかったな……何代にも渡って名前を継ぐって、もん凄い堅物のイメージなんだけど、一体誰なんだろう。

というか、今、何の話されてるの?

諦観半ばに目を開くと、カウンターに肘をついて楽しそうに会話を交わす名月さんの横顔が見えた。瞬間、想像していた景色も何もかんも吹きとんでしまう。今が笑顔なら、なんでもいいよね!

そんな感じで名月さんに見惚れていると、横のオバサンが再び息を吸う音が聞こえてくる。

「ほんでもって、その家の名が、『冬萌』ってんだが――」

「冱雪⁉」マジか!

「…………流石、気色悪いな」

落ち着けもちつけ、とブツブツ、立ち上がった俺の肩を下へ下へと押しやってくる。

だからふりぃんだよ。と脳内ツッコミを繰り広げると、おかげでやけに冷静になれた。

座り、椅子を引いてテーブルにお腹を付けると、当然お腹が締め付けられて苦しかったが、そのおかげで目が覚める。

制約と誓約ってこういう事だったんだな。ただ肉体より心根にヒビいってんだよね、誰か新品に交換して! バタコさん、俺、楽になりたいよ!

「だが、冱雪の名前が出たのもいい線踏んでいてだな――」

「冱雪⁉」嘘だろ!

「黙れ蛙蝉!」

「……えぇ?」

蛙蝉ってなんなの⁉ どうせ罵詈雑言の一派なんだろうが、どういう悪口なんだよ。テクニカルポイント入ります!

そんな傷心の俺が再び自身のお腹を痛めつけ始めた頃、追撃を掛けるように宇都宮先生の方から嘲り笑う吐息が聞こえてきた。コイツ、ゾロよりしつけぇ!

また誹謗されんだろうなぁ、と直ぐに覚悟を固めたところで――

「それにしても改めて、カフェで一方的に喧嘩別れした奴の振る舞いとは思えんな」

「んん……はぁ⁉ 何で知って……あ」あの新聞、コイツだろ!

「ふんっ。だって、家からずっとお前の事を尾行してたんだもんっ!」

もんっ! じゃ、ねぇよ! 今回ばっかりは流石に全く可愛くねぇからね⁉ 一瞬何言われたか分かんなかったわ!

「にしても、門叶ぁ、ほんっっっとうに移動が下手なんだな。全く持って燃費効率が悪い。わざわざ地図まで書いてやったのに」

「そいつが一番の戦犯なんだよなぁ」って言いかかって飲み込む。

……ったく。と冷笑系オタクよろしくニヤツく宇都宮先生は俺のジト目なんてもろともせず。

「只の乗り換え如きで迷うわ、切符はまともに買えないわ、人混みで大声出すどころか動作まで大袈裟で迷惑だし、折角カフェで向き合って仲良くなれるチャンスだったのに一人で勝手に落ち込んで言いっ放しで帰るし、海岸線見つけれずに駅とビルの間行ったり来たりするし、無視するし、サングラスだけが浮いて似合ってなかったし、この猛暑の中駅外で黄昏て格好つけてるし、今日マジで蒸し暑いし、人多いし」

あ、不躾で礼儀も倫理観も常識も無い知り合い居たわ! あれ、空耳じゃなかったんかい!  あと、最後のやつに関しては俺が原因じゃ無いだろ。エアコンつけまくってるデスカーの社畜に文句言えよ。お疲れ様です!

「でも、その人混みの中で俺を見失わなかったのは凄いですね」

「まぁな。無駄に背が高くて身振り手振りも声までデカい変な制汗剤の匂いする人間なんて門叶くらいだったからな。私が探偵向きなのもあるが」

「……うぅ」

皮肉を、カウンターだとっ……⁉ 勝ち確で湛えた笑顔が乗り移っていくのが私、悔しいっ!

「――話が逸れてしまったが、今日この場でお前に認識してもらうのは、冱雪の『姉ちゃん』についてだ」

「……姉ちゃん?」

「あぁ。これからの門叶と冱雪の関係において最も大きな障害と成り得る人間だからな。認識だけはしておいた方が良いだろう」

「……冱雪との関係、とか言われても……俺、……」

「安心しろ。思春期の喧嘩なんて、むしろ無い方が不純だろ。……それに、今回の件に関しては門叶が頭を下げれば済む話だ」

……やっぱ俺、謝らんといかんよなぁ。今になって、あの後腐れの残り具合は自分をもってして気持ち悪い。取り残された冱雪の気持ちを思うと、心が痛い。……謝罪かぁ。

「謝るのが苦手なのも分からんでもないがな、門叶」

「……はい」

あまりの真剣な声音に、無意識に顔が持ち上がる。

「人間関係ってのは難しい。だが、というか基より、人間ってもんは人と人との関わり合いでしか生きていけない。門叶の求める孤独はその実、真の意味での孤独ではない。自分の気持ちへの反発は、偽りの自分を形成するだけだ。確かに人間関係の境は曖昧で、今、門叶と冱雪はその狭間であてもなく触れ合っている状態で、それは非常に不安定だが――」

 そこまで来て、何故か宇都宮先生は大きく息を吸い込んだ。

 それにより、俺の無駄に膨らんだ思考が話しかけてくる。

……何が言いたいのか、文体での理解が追いつかない……。人の関わり、それについては納得いく。ただ、俺が孤独を求めているだの、自分への反発だの、人間関係の境だの……宇都宮先生には悪いが、反抗的な態度が脳裏を過ってしまって、正直に受け止め切れない。

そんな考えが行儀に出てしまったのか、宇都宮先生はハッとした表情で、次の瞬間、フッと軽く笑っていた。

「要は、だ。折角だし、勿体ないから謝罪しろ! 冱雪を知るのは難しいが、知る努力を惜しむな、お前ならできる!」

ガッハッハ! とおどろおどろしく笑う様子は明らかに何かを誤魔化している様で、腑に落ちないんですけど……。とはいえ特に何も言う気になれないんだよなぁ……何でだろ。

「因みにソイツは私の元教え子でいて冱雪家の次期当主候補なんだが、一番重要なのが――」

「はい、お待たせ~」

宇都宮先生の話を遮りながら、二人の間に麗しい腕が現れる。コトリと置かれたカップの中では、彩度よく純露色の液体が揺れ動き、ミルクのような白い渦を作っていたが、湯煙は立たず、なのに匂いだけは強く感じ取れた。それだけで味を想像し、舌の奥で転がすと、自然と喉が鳴った。

目が開き、背筋が伸び、お腹の痛みが和らいだ。

「んで、どこまで話し進みました?」

美味しそうで早う飲ませて欲しいのだが、そういえばアイスティーでミルク入れてるの初めて見たな……午後ティー以来な気がする。あれ、薄くなった気がするのって俺だけ? 美味いからいいんですけど。

そんな俺を見て面白おかしかったのか、名月さんが視界の端で微笑むのが見えた。

「うちね、紅茶それ自体にはマジでこだわり無いんだけど、牛乳だけはやけにこだわってるらしいんだよね~――店長曰く、『このミルクは独特の臭みがなくそれでいて濃厚なんだよ。故に、紅茶と反応する事でそれ本来のコクある甘みと独特の風味を後押ししてくれるんだ。北海道の牧場から直接取り寄せてあるんだよ! 秋雨ちゃん、スゲくね⁉』らしいよ。マジでどうでもいいよね~」

「えぇ……」

モノマネして教えてくれる名月さんは明らかな悪意を剥き出しているように見えるが、すっげぇ楽しそうに話してる当たり、そういう訳では無いんだろうな……。だからこそ、最後の一言が痛い。テンチョのこだわり、最近の若者には全く刺さってませんよ。まぁ、俺もそっちサイドなんだけどね。俺はオタクの孤独な痛みを理解できる立派なオタッチなので――

「男って、変なとこ凝っちゃうんですよねぇ」と、支えを少々。

「ね、マジでそういうとこある。私としてはどうでもいいから聞き流してんだけどね~」

(笑)と話す姿は本当に楽しそうで、無理やり同調させられる感じが苦しい……と同時に、全く響いてないのか……と落胆する。あれ、女の人って何かに一生懸命な男の人好きなんじゃないの? あ、顔か。そっかそっか。

「あは、あはは!」と涙目作り笑いで無理やり合わせていると、左から強い咳払いが聞こえてきた。煙草の吸い過ぎで痰でも絡んだのだろうか。なんて考えていると。

「さ、物語も滞って来た所だ、さっさと話しを進めてしまおう。名月、冬萌冱雪の姉との出会いについて、言える限りで話してくれ。なるべく分かり易く、重要な所だけ切り出してくれると助かる」

「……注文が多いですよ。いつも通りですけど」

ムスッとはぶてたように唇を尖らせる名月さんは、仕方ないなぁと言わんばかりにため息を吐いて、顔を上げた。宇都宮先生の自由気ままなそんな態度も昔からなのか、あまり面倒臭そうでもない、というか、諦めが勝ってる感じ。……分かるよ、名月さん。実は面倒臭いけど、態度に出した途端、バーサーカーソウル並の追撃くるもんね。

ただ、改めて見た名月さんの表情は口角も声調も不自然な程に上がっていた。虚空を見つめる目は懐古で、テーブルの上で組まれた繊細な手は強く握りしめられていた。

そんな哀婉な名月さんを見ているだけなのに、不思議と、海波が浜へ押し寄せる音や紅茶の匂いが、遠く彼方へと離れていくような気がした――

「私の知っているあの子はとっても明るくて、活発で、誰にでも明るく分け隔てなく接するのに、何かを抱えている様な、背負っている様な、不思議な暗さを纏っていて、それを直に見た時の残陽の教室を今でも覚えてる。あんなに綺麗な人間がいるんだって、あの時は不思議と笑っちゃったなぁ」

追憶の声音は楽しそうで、本当に自分が好きな記憶なんだと思わされた。だからこそ、取り戻せなくなった大切なものだからこそ、なのかもしれないが……。

視界に残る宇都宮先生が目を閉じるのに合わせ、俺の視界も暗転した。

話しを聞き、浮かび上がったのは冱雪の姿。明るくて、活発で。だけど、過去に何かを背負わされている様でいて、そんな様子が守りたいと思わされる。でもそれは俺の慢心に外ならず、実際に話を聞いていると、俺よりも強い心で問題と直面し、事実、冱雪は変わろうとしていた。

……というか俺は、人の事を心配する側では無いのだろう。再体験を恐れ、半ば過覚醒で周囲と隔たりを設けてしまう。人類史が進化の過程にいるならば、俺のそれはその一部だ。所詮、自分を護るためのそれでいて人間関係における諸々の面倒事を避けるための言い訳なんですが。

ただ、その過程で人との関わりが大切なのも心のどこかでは分かっていて、そんな自分も嫌になる。どうしたって自己嫌悪は堂々と廻り、途中で何かが関与しようとそれは不変で、変えられないからこその自分自身でそれをたらしめる。

「ただ、ね。その闇は、私が想像していたよりもずっと、ずーっと深くって……当時の私はあの子の気持ちを知ろうとする努力なんてしようとしなくて、気が付いた時には手遅れで……何もかもを後悔したところで、追いかけたところで、あの子の細やかな手も、サラサラと靡く白銀の髪も、清澄な肌も、何より、ずっと穏やかだった心が、私の前から姿を消してた……」

「……姿を消したって、居なくなったってことですか?」そんな嫌われるかね。と思いつつ深く考えずに聞く。

「あ、ううん。同じ学校に居たし、なんなら教室も一緒だったよ」

それっきり言葉を止めた名月さんに見つめられ、俺は何も言い返せず、「あぁ……」と情けない声を漏らすので精一杯だった……そして改めて、自分の口の軽さには辟易とした。

――時折視線がテーブルへ逸れたり、下唇を噛んだり、口角が下がっていたり。名月さんの様子を見れば平気でないことは明白で、さっきのような返答を返してはいけない事なんて自明の理だった。

やっぱり、厳かな空気の中で俺は黙っていた方がいい。会話なんて最低限の最小限で、変に言い回して聞き返すことなんてするべきじゃなかった。肯定だけして、心の中で愚痴っていれば、気持ちが凄く楽で、相手を傷つけることも無かった。

俺もまた、過去の名月さんの様に失敗して、後悔して、それを繰り返している。一緒にしてはいけないかも知れないが、やっぱり、共感できる部分は大いにある。

そして今も、今までと同じ状況に身を置き、気まずさに戸惑う身勝手な考えのまま、何も言い出せないでもじもじしている。その態勢が、傍から見て気持ちが悪いのは分かってるし卑怯なのも理解している。

それでも俺は、今までと同じ俺のまま変われず、そうやって言い訳をし続けている。

四囲に反して、暗く淀んだ一角。その空気に呑まれるように、照り付けていた筈の白陽は分厚い灰色の雲の背に隠れ、波音は潮騒へと姿を変え、心の中までゾッとする。

ただ不思議と、そんな情景が居心地悪いとは言えなかった。むしろ快適とまで言えたし、このまま時が過ぎ、自然と解散する流れになって欲しかった。

しかし、そんな期待を裏切る様に、カランと氷がグラスの中で踊る音と共に、ボリボリとそれを貪る音が聞こえてきた。

空気を読まない小日向刀彦節を見せつけるのは、他の誰でもない宇都宮先生で。顔を向けた時、テーブルに肘をついて退屈そうにしていた。

「――ま、そんな奴が田舎から帰って来ているってこったな」

俺と名月さんの視線を受けてからニヤリと不敵に笑う宇都宮先生は胸ポケットの辺りをさわさわしていたが、一見自分の胸を揉みしだいている様にしか見えない……あれ、ナチュラルセクハラですか? 視線のやり場に困るなぁ。とその様子を直視していると、何かに気が付いたように頬を朱に染める。

「……そういえばこの作業着、静電気帯電と異物混入を防止するために胸ポケットが無いんだった!」

「あぁ、失敬失敬」と心底こそばゆそうに、少し浮かしたお尻のポケットを漁り始める。

どうでもいいなぁ。と思いつつ、心のどこかではそうなんだぁ、と感心してしまう。どっちなんだよ……でも多分、一生着る事ねぇんだよなぁ。というか、文系教員で作業着持ってるのが異質じゃないの? 理系教師が白衣、みたいな感じかな……な訳ないか。

なんてクソどうでも良い事を考えていると、宇都宮先生がテーブルの上に手を押し付ける。

「これを見ろ――」

そう焦らすように勿体ぶって、ジリジリと姿を現したのは、手書きの、それも達筆なデカ文字で堂々と書かれた『予告状』だった。……グッチャグチャに丸められて跡があって、それの皴を伸ばすためにゆっくり見せてきたのだとすぐに分かった。

え~と、何なに?

「……夏も本番を控える今日、いかがお過ごしでしょう。惨ったらしく死んでいらっしゃいますでしょうか? このお手紙が邪視から逃れることを願いつつ、一応の礼儀として、以下の事を予告致します」

丁寧なのか適当なのか分かんねぇなこれ。ただ、宇都宮先生が嫌われているのだけは明確だ。

「そこはいいから、続きを読め、続きを」

俺がそこで口を閉じた事にイライラを隠さず、というか多分一文一字そのものに怒りを隠せずに急かしてくる。……効いてて草! と、レスバに終止符を打つ必殺技を心の中で叫んでいると、少し複雑そうな声音で名月さんが続ける。

「十日後の土曜日、世界で一番可愛い男をいただきに参上する……?」

この言い回し、これ書いたのって怪盗キッドじゃねぇの? じゃぁ無理だ……絶対に勝てねぇよ……。度胸も度量も、何より、作画が違いすぎる。

と、いうか――

「冱雪⁉」

「……あぁ、そうだ。全く気持ちの悪い悪寒の走るような反応速度だが、ご名答だ。……名月、アイツはやってくるんだ。お家の習わしを守るために、自らの弟を攫う為に、この町に」

「そんな……」

名月さんは相当なショックを受けたのか、顔を真っ青に、椅子をガタンと鳴らしていた。

「あれだけ優秀な人間だとしても、お家には逆らえないって事だ……アイツは高校卒業後、お前との約束を破って田舎に帰省し、挙句の果てに当主の意思まで継ごうとしている。全く、昔から私の想像を遥かに超えてくる奴だ。いい意味でも、悪い意味でも」

と。その末に押し黙る二人。

……いやいや、問題はそこじゃないだろ。

「攫うって、それ、犯罪じゃ……? それに、冱雪の意思は……?」

「関係ないな。その二つは奴等にとってみれば、問題にも上がらない些細な事だ。故に――」

宇都宮先生はどこか遠くを見つめていた。それと同じ方向を見る。

同時に、唸るようなエンジン音が響き、そのバスの後ろ姿が下端に見えた。

「今日は人通りの多い場所に向かわせた。人の行き交うショッピングモール内や静かな映画館内で派手な行動は起こせないだろうからな」

「それ、当人は」

「……知らない筈だ。ただ、冬萌冱雪は賢い。怪しんではいるのだろうが」

……何だよそれ、と、耳を疑いたくなる単語ばかりが脳を支配し、動けなくなる。

ただ、どうして冱雪にそれを伝えないのかは何となく分かった気がした。というより、それを知った所で変に怯えさせて、目を背けたいものを思い出させるだけだ。

そもそも。そんな気が狂ったような連中に、抵抗する術なんてない。それは、その渦中にあった冱雪が一番知っている筈だからだ。俺もガンニバル見たから知ってるもん。アイツ等マジでしつけぇからな……。

「――宇都宮先生、お先に失礼します……ごめんなさい。」

「…………あぁ、一応、伝えておいた方がいいと思ってな。邪魔して悪かった」

「いえ、失礼します」

トボトボと去っていく背中に先刻のような溌溂とした元気はなく、後悔している云々の話を聞いた後だと、それがどうしてか、見ているこちら側も苦しくなった。まぁ、それは本人のそれには到底及ばない。これもまた、ただの自己陶酔だ。

制服の紐を緩める姿を最後に、名月さんはカウンターの裏へと消えて行く。

その傍で見送るテンチョも、気まずそうに挙動不審に陥っているだけだった。

気が付けば、周囲のテラス客も店内の客もかなり減ってきている。名月さんが帰っても、テンチョ一人で回せそうだな、と勝手な考えが巡っていく。

そんな中――

「悪いな、変な事に付き合わせてしまって」

宇都宮先生からは普段の振る舞いからは不釣り合いな程優しい視線と声が襲い掛かってくる。

……やめてくれ。

「冬萌家の過去も、冱雪の現状も、お前には関係ないのにな……入学式のあの日、二人で来るお前達を見て……一人で学校生活を送るお前を見て、私はそこに付け込んでしまった。せこい人間なんだ、私は」

……今回の件にあの日の事は関係ない……宇都宮先生は悪くない。

だからとにかく、今は黙っていて欲しかった。

「だがな、門叶」

宇都宮先生の声音は説教色を帯び始め、それがどうしても鼻に付いてしまう。

「お前には、何においても冱雪を選んで欲しい。そうする価値がある」

「……価値?」

ムカつきがてら、自分を制御できずに睨み返してしまう。

ただ、宇都宮先生の視線は優しいまま、あくまで、諭すような言い方は変わらず。

「これから先、頭が痛くなる様な事や動悸が止まらなくなる様な出来事が多々ある筈だ、やめたくなる時だって、何度も、何度もある筈だ。……だが、その直中でも、冱雪を見捨てないで欲しい、苦しんでいる肩を、支えてやって欲しい……頼む。」

宇都宮先生はこんな俺に、頭まで下げてしまう。

急な光景に、脳の処理が追いつかず、詰まった様な苦し紛れの声が漏れ出す。

「……どうして」

「……そんな呪いにも似た束縛が、お前の選択に答えを導き出す手助けをしてくれるからだ」

俺の選択に、答えを……? この人は、俺の事を何も知らない。俺は、自分で選択して動き出せない。それをする時はいつも突発的で、それらは往々にして後悔を伴う。自己は孤独で、世界は自己嫌悪で満ちている。そんな中に、冱雪の姿を入れ込めない。余地がない。

俺が何も言い返せずにいると、宇都宮先生は顔を上げ、改めて優しい視線を向けてくる。

ここで何か言い返せる強い言葉が有ればいいのだろうが……。

しかし、俺にその勇気はなかった。視界は定かではないし、何を考えていればいいのかも分からない。否定する材料がなかったからだ。俺は俺の人生でそれを証明してきた。なのに、この人は俺を知らない。それを言の葉に起こしてそれを伝える自信がない。

俺は何の努力もしてこなかったし、踏み込んでこなかった。それが、不変の俺。

しばらくして、諦めたようなフッというため息と共に、言葉が続く。

「カフェでの出来事を見ていて思ったんだが、お前は自分の思惑に怯えている節がある。言いたいことをそのまま口にしてしまうと相手が傷つくと考えてしまい、喉まで出かかったそれを理性で御して、殺す癖があるように思う」

違う。言葉は生き物じゃない。自分の理性の内なら、それを生かすも殺すも俺次第な筈。それに、思ったことをそのまま口にしたらどうなるか、俺の経験が物語っている。

「……先生は、言いたいことをそのまま口に出来て羨ましいです」

「ふっ、そうだな……というかむしろ、私はガサツが過ぎているせいか、嫌われることも傷つけてしまう事も厭わない。それが、こんな状況を生んでしまっているのが現実で、これについて、一度頭を下げた以上、それ以から先はどうも思わない。……いいか、門叶。これはあくまで持論で、一つの参考案として聞いて欲しいのだが……私が思うに、文調は武器だ。だから人々は鋭いそれを向けられると本能的に恐怖して怯え、その先にある答えはそれを向ける相手方を嫌うという目的地のみだ。だが、それらを形成する言葉は凶器じゃない。よくよく考えて見ると、正当性が認められる場合は多々ある」

……何となくだが、宇都宮先生が言いたいことは分かった。俺がこの人になれないのも理解した……。ただ、俺が生まれ変わるべき答えに辿りついてない。俺は無言で言葉の続きを待つ。

「正当性が認められ、それが武器となれば、お互いを探り合う材料になる。相手を知る努力をすることが出来る。相手の考えは変えられないが、自分の考えは替えがきく」

いじらしく、なかなか答えに辿り着かない。

俺はつい、「つまり?」と答えを急ぐ。

「つまり。お前の選択に間違いはなく、後悔も懺悔も正解だ。ただ、失うのは辛い。故に、負にならない選択をするためには、常に自分の好物の事を考え、基に置くことだ」

「俺にとってのそれが……」

「冬萌冱雪だ。だから、騙されたと思って冱雪を信じてみてくれ。私の事なんて気にする必要すらない。それにお前も入学式のあの日、何か感じるところがあったんじゃないか?」

「…………それは」

確かにそうかもしれない。

気持ち悪い独りよがりだが、冱雪の為なら青春をも捨て去れると考え至ってしまった。それが今の惨状を生んでしまっていると言っても過言ではない。……まぁ、冱雪と出会っていないとして、バラ色の未来があったとも思えないんだが……。

「まぁ、お前の大好きな『あれ』でもそういう主人公は多いだろう? ヒロインを中心に話が回っていくものなんだろうしな」

「……あれ?」

あれと言われて思い浮かぶのがいくつかあるが、答えを消去法で導き出そうとする前に――

「あぁ、エロゲとかいう性具だな。大体のエロゲって、一回セックスしたらそのキャラのルートに入るだろう? そんな感じだ」

「……はぁ」何で知ってんだよ。

あと、アイツら、めちゃめちゃ浮気者なんだよなぁ……直ぐ別ルート入って疎まれるし……。それに、仮にも俺と冱雪の関係を示す言葉にエロゲって単語を使うなよ……あまりにも危険すぎる。

「……まぁ、とにかくだ。行って来い、門叶。冬萌冱雪は待っている」

「待っているって……」

なんかラノベのタイトルみたいでいいが、んなこと有り得んのか……?

「あの映画は人気があるからな、シアター枠も上映時間も多い。今、ショートメールで連絡したところ、あいつ、お前と映画を見るのを楽しみにしているようだったぞ」

「ま⁉」て事は、あの時カフェを飛び出してなかったら誘われてたかもってこと⁉

「うん。ま」

よし、この目はマジだ。嬉しいからそういう事にしよう。そして、そういう事なら急ごう。そうしよう。

「ちょっとまった」

だが、立ち上がり、「失礼します」と言いかけた俺に待ったがかかる。

突き出された手のひらが、ひょいひょいと動く。

「金」

「……はい?」

「お金ないから、千円だけ置いてってください、お願いしまーす」

「えぇ……」

軽々しく頭下げんなよ……。こんなのに絆されて納得しちゃったのか、俺……。

「それに、あの阿保店長と名月にも話があるしな」

なんて言われると、拒絶のしようもない。

名月さんが傷ついたのも、俺と宇都宮先生が来たからだし、何よりあの失言が心残りだった。

俺はクシャった二千円をそっとテーブルの上に置いて、何も言わずにその場を去ってやる。

こういう時の素っ気ない態度って結構効くもんね!

とかなんとか優越感に浸っていると、

「あ、おつかいはマジだから頼むなー」

そんな俺の背中に投げかけられた言葉を掴んでその辺に捨てさり、アイスティー片手にニヤリと笑う宇都宮先生に対し一瞥をくれた後、俺は問題の『イッパイモノアルヨ』へと足を進めた。

曇天の空模様と晴天の心模様が相成ってむしろ足取りは軽く、人混みもバスの車内も苦では無く、何となく周りに馴染めていた気がする。

それに、舗装された道のりを進むのは凄く気が楽だった。これから冱雪に会って何を話せばいいのか、家の事情に首を突っ込んで俺がどうするべきか、なんてことは考えず。

俺はこの道中を経て、何か、どこか、成長できたのだろうか。

それだけをひたすらに思い返してしまっていた。


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