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第四章 イッパイモノアルヨへの長い道のり


 『路頭に迷う』とはよく聞く言葉だが、どこか他人事の視点で使う事が多い気がする。

 誰しも、自分自身がそうなるなんて思ってないだろうし、気がついた時には分岐した道を逸れているものだろう。そこに何があるのか、先には何が待ち受けているのかを考える間もなく、気が付けばそこに居て、背後を見つめ返した時には、何も見えなくなっている。待ち受けるのは常に真っ暗闇の未来だ。

 実際、俺だってこんな事になるなんて考えてもみなかったし、その立場になってようやくその恐ろしさに気がついた。

「――改めて、目的地のお名前を伺っていいかの?」

「あ、はい……」

そしてまた、気まずい空気が二人の間を流れる。

どうしてこんな状況になっているのか、それは単に俺の方に問題がある。というか単純に、イッパイモノアルヨって名前を口に出して言うの、滅茶苦茶に恥ずかしいってだけなんだけど……なら下ネタ叫んだほうがマシまである。その場合、別の問題が発生するんだけど……。

現在俺は、人混みと音とが行き交う絢漣駅の、改札手前にある駅員室のガラス越しに、少々ご高齢の駅員さんと一枚の紙を睨みあっている。

しかし、再三のジリジリとした視線を背中に感じてしまい、何度もそんな訳がないと考え直し、また自意識過剰に陥っている自分が嫌になってしまう。

人混みに行くとこの現象は良く起こるため、むしろ意識的に気にしないようにしている。

そして、背中の痒みを無視しつつ、紙に視線を戻す。

その紙には、絢漣駅からイッパイモノアルヨまでの道のりが書いてある筈なのだが――

「え~っと……絢漣駅から始まって、え~……これ、は、ん~、井刈駅かな?」

「……はい、多分」

「ん~、なるほど…………ねぇ、どうして鳥瞰図で描いてあるのかな?」

「分かんないです」

鳥瞰図。要するに、高所から町を見下ろした絵が描いてあり、赤い線や緑色の線で電車とバスのルートが示唆されているのだが、何かを見てトレースしたのか、立体の絵になっていたり、そもそも小さかったりと線が見え隠れしているため、正式なルートも伝わらない。年増の優しさだろうが、色々と空回りしていて、ちょっと可愛い。

宇都宮先生の優しさがこうも不器用とは……怖さの裏面には可愛げもあると、そう言いたいのでしょうか。ギャップ萌えを狙っているのであれば、現実世界でやるべきじゃないな。二次元女教師の優しさとか萌え要素しか無いのに、難しいなぁ。

また、そこで皆は考えるだろう。スマホ、使えばよくね? って。そんなの、誰だってそうするし、俺だってそうしたかった。

しかしこれには深い深い事情があって――。


それは、一と半日前の出来事。

というか、朝星ちゃんと一緒に帰るという奇跡的なイベントがあった日のこと。

それを経てウッキウキな気分のままに一日が終わると、誰しもが思っていた事だろう。

俺自身、お風呂に入り、着替え、ご飯を食べ、勉強し、ベッドで横になるまではそうだった。

「――んー。むにゃむにゃ」

と、そううたた寝を打っていると、まさか――

「ッゥアァン!」

「⁉」

特徴的な喘ぎ声を使用するで有名な、よくよく聞き馴染みのある俺の大好きなエロゲサークルの、更にそのゲームにおいて贔屓目で好感度を上げていたキャラのとんでもない喘ぎ声が、壁越しに聞こえてくるとは思いもしなかった。

驚きが理性を押し殺し、背中がベッドに引っ付いて動き出せない。目はギンギンで暗闇の中でもカーテンの模様が見えているのに、金縛りにあったみたいだ。ラジオ代わりに流しているスマホの音源もしっかりと聞き取れている。

こういう時、主人公格のキャラであればいつも以上の身体能力を開花させ、音の発生源を即刻破壊するのだろうが、俺にその判断能力も反射神経も無かった。

「っあぁ! らめぇ……お、お兄ちゃん――そこ、わぁっ……」

「…………。」

しかも、よりにもよってそのキャラ、主人公の妹なんですよねぇ……全く持って不純だが、エロゲやってるときはこんな事になるなんて思ってもみなかったし、全キャラエンディングみたいなんて当然の考えであって……別に実際の妹の姿を重ねることなんてする訳も無くて、別に俺はそういうシーンでどうこうした事なんて無いし、そもそも始めた理由は感動系のストーリーが良いという話を聞いたからだし、この兄妹の両親が蒸発したっていう熱いバックがある訳で、そういうものだという固定観念をもってエロゲに接する日本人類史が大嫌いで、かといって朝星ちゃんに嫌われるなんて嫌だし、とかなんとか言っても俺の唯一の趣味だし、周りに何と言われようとやめる気なんてさらさら無いし、でもそんなものを見てしまって兄の物という状況も鑑みると朝星ちゃんにとっては海馬に深く深く刻み込まれる一生モノのトラウマになるだろうし、そんな業を背負って生きていくことを加えて出来上がる人生は……うん、俺は悪くない。

よし、忘れて寝よう! 賢い朝星ちゃんの事だ、流石にスペースもクリック押さない筈……シーンが進まなければ何事も無い。

よし……大丈夫、大丈夫……。

俺は目を瞑り、精神統一を試みる――

「ひゃぁん……お、お兄ちゃん……うぅッ――」

「おぃぃぃぃいいいいいい‼‼‼」

気が付くと俺は、朝星ちゃんの部屋の中でノートパソコンを両腕で抱えていた。

お守りとして持ってきたスマホは床の上でのたうち回り、0:00を示していた。

よりにもよって主人公上位の屈服ものかよ! 最低だ、俺……。

「お、おぉぉお前……想像以上のモノやってんだな……」

「えぇ⁉ 何が⁉」

俺の剣幕に驚いてか、朝星ちゃんの体がビクッと震える。

心なしか、俺を見上げる瞳は潤んでいて、それでいてグルグル回っている……。おれなんか生きてて罪悪感。新聞読まずに罪悪感。なんて言ってる場合じゃない。

自然とノートパソコンを抱く腕に力が入る。

朝星ちゃんも同じく、ギュッとカーペットを握りしめている。その音までもが鮮明に聞こえてきた。

よくよく見てみると、顔は耳の先まで真っ赤で、薄い部屋着の間から覗く色気のある鎖骨、肌も沸騰しているみたいに赤かった。

「…………わ、悪い。わ、私、きょ、興味本位で、開いちゃって、まさか……」

「それ以上は、ちょっと」俺の心が持たない。逆に冷静まであるけどね。

「うぅ……」

本当に反省しているみたいに落ち込んでいる朝星ちゃんを見ていると、すっごく心が痛い。

それと同時に別の感情が――。

そうだ、朝星ちゃんが受けたダメージに比べれば、俺のなんて大したことは無い。実の兄が妹キャラの出るそういうゲームやってたって、普通にキモすぎてヤバいだろう。ドンピシャでそんなシーンだし。

そう考えると、また脳みそフル回転のショート寸前まで逝く。

こういう時はどうしたらいい……俺は、兄貴としては、どう対処すれば実の妹に嫌われずに済むんだ……。エロゲの主人公なら、一体……⁉

そう落とし込もうとすると、自然と激キモな未来が見えて頭を思い切り横に振った。

キメェよ俺! いつからこうなってしまったんだぁ⁉ そもそもの根源はアイツだ、全部! 妹に手を出そうとか考える、悪癖ヤリチンデカマラ兵藤の野郎!

恨みつらみに呪いを少々、エロゲの主人公を罵倒して頭を抱えると、体が自然と膝から床に落ちていく。

俺は、兵藤にはなれない……。

「ごめん…………朝星ちゃん」

頭と手を付き、心からの謝罪をした。久々の謝罪は、とても心が痛い。完全に俺に非がある。最低の土下座で、許してもらえるとは思ってない。

それを見てか、朝星ちゃんの息を呑む音が聞こえてきた、気がする。自分の心臓の音かもしれないし、遠鳴りかもしれない。とにかく、伝わっていて欲しかった。嫌われても致し方ない。ただ、朝星ちゃんのトラウマになるのだけは避けたかった。

「何でも言ってくれ……何でもするから」

ほとんど無意識にそう言って顔を上げると、視界は暗闇に覆われ鼻頭に鈍い痛みが走った。

衝撃で尻もちを付き、右手で鼻を押さえて目を開く。

するとその先には、目を細めた朝星ちゃんが足を伸ばしている姿があった。

「最ッ低。早く出てけよ、ゴミ」

そう言われてようやく、自分が何を言い出したのかを反省した。

そりゃ当然の反応だ。ものの言い返しようも無い、最低の発言だった。

何でもするから許してくれなんて、謝罪でも何でもない、いつも通り俺の嫌う俺自身の最低な部分だ。

「ごめん。そうする」

俺はなるべく静かに立ち上がり、早々に部屋を出た。

最後、スマホが振動する音が聞こえたが、聞こえないふりをした。


あの日を思い出すだけで胸が痛い。

あれ以来、朝星ちゃんとはろくすっぽ顔も合わせていない。遭遇率で言うと、メタルキングくらい会う事がない。同じ家にいるからこそ、お互い生活リズムを把握している。合わせる顔も無いし、仕方ない事だとは分かっていても辛い。……まだ、二日目なのもキツイ……。

あの日失ったのは、俺のスマホと何より朝星ちゃんの信頼だ。得たものはノートパソコンとCDROMだけ。あの日以来ベッドの下で眠らせて開いてすらないし、思い出すだけでも涙が浮かぶゼ!

「うぅっ――」

「……大丈夫かい?」

「いえ、……はい」危ない危ない。よくネットで見かけるヒス女みたくなるところだった……。駅員おじいさん単推し地雷系男子高校生とか痛すぎて一瞬でバズりそう。

「まぁ、ねぇ。目的地が分からないと不安だよねぇ。私も昔はよく迷ったものだ」

「はぁ……」

「うんうん。若い子はいいねぇ」と感慨深そうに駅員さんは俺を見ている。が、会話になってない気がする。

……そんなもんなのか。この人は色々迷った末に、何を掴んだのだろうか。俺の知る由も無いが、先日の俺以上の絶望を味わった経験はあるのだろうか。ともすれば、俺の将来、未来、人生経験も……? こえぇよ……前、進みたくないよ……戻るマスとか無いのかな。あ、戻っても地獄だったわ! 最高の人生ゲームだね!

「……はぁ」……自分が嫌になって気分が落ち込むねぇ。と、勝手にテンションを落としてみると、何を恥ずかしがっていたのかも分からなくなる。

俺は気を落としつつ、呟くように質問する。

「……駅員さん。イッパイモノアルヨってご存じですか?」

「イッパイモノアルヨ……あぁ、うん。あのナウくてヤングでサイケなノリ場だよね? 最近若者に流行りの。あの」

「……あぁ、はい。そうです」

なに、おじおば界隈だとそういう通り名で来ているのでしょうか? ナウもヤングもサイケもノリ場も古いし使い方合ってない気がするんですけど。まぁ、その辺もノリなんですかね。

「それだったら、乗り継ぎになるねぇ」

「乗り継ぎ?」

「うん。そうそう」

マジか……乗り継ぎって、あの? 俺、今まで電車一本バス一本か自転車でしか移動したこと無いから、迷う自信しかないんだけど。反対車線に乗っちゃったらどうするの? 両さんなら飛び降りて反対車線に飛び移れそうだけど……ひょっとして俺にも出来たり?

なんてアホなシーンを想像していると、駅員さんは机の下から路線図を引っ張り出して広げていた。改めて見ると、蜘蛛の巣より蜘蛛の巣しててマジで分からん。頭痛い。

「――ここが今いる絢漣駅ね。ここから走流線に乗って隣の井刈駅で降りた後阿賀海線に乗り換えて渚駅で降りると葛城町に到着。そこから路線Cのバスに乗って十数分ってところかの」

 ……え、何、今の詠唱。黒棺でも出すの?

「……なんか、書くものあります?」

「おぉ、そうじゃ。口頭だけじゃ移動中に抜けてしまうもんのぉ!」

がはは! と笑ろてる所悪いんですが、もう覚えて無いんですねぇ。乗る電車と時間だけ教えて貰わないと、横文字と本字が一つも脳内に定着しないお年頃なんです。故に、創作物系の登場人物の名前を覚えるのにマジで苦労する。特に最近は異世界系とか多いし。世間的にキャラの名前も分かってないとにわかとされる今日、俺ってばにわか者過ぎて頭が上がらない。

俺がボーっとあのキャラって何の名前だっけと考えていると、駅員さんが宇都宮先生のメモの上に新たなメモを乗せて手渡してきた。

「ありがとうございます」と言いながらそれを受け取る。

そんな俺を見ながら、駅員さんはにこやかに続けた。

「発券なんじゃが、少々時間を頂ければこちらで往復分作る事も出来るが……どうされるか?」

「あー――」

物凄く有難い提案で、甘えたいところではあるのですが。

「大丈夫です」

考えるよりも先に、そう答えていた。

急がば回れって言うしね! 別にこれ以上話すのが気まずかった訳じゃない。ただその代わり、妙な視線を感じて凄く背中がかゆいから、この場を離れたかった。

それに、別に俺にだって発券機くらい扱える。あんなもん、ドラクエとかFFのがコマンド多いんだし、楽勝――


だと思っていた。

「……おいおい、鏡くん。」

よくよく考えたらそんな訳が無かった。

見下ろす画面には、指定席だの自由席だの予約切符のお受け取りだのがデカデカと表示され、隣に時刻検索や切符の変更、QRコード、定期券、払い戻し……etc.

え、予約前提なの? マジで? 俺の記憶にある券売機と違い過ぎるんだけど。ほんの数年でこんな面倒な社会になったの?

などと項垂れた先、右下の方に小さく乗車券と書かれたボタンを発見し、慎重にそこを押す。すると、190、210などと書かれた無数の数列ボタンが襲い掛かって来て、左に描かれた人型マークのボタンが光り輝く。

そうか、なるほど……思い出したぞ! 区間ごとの金額分を買って改札へゴーだ! 大昔に料金表を見た覚えがある。

一歩後ろに下がって見上げ……井刈駅までは190円。

「……ふっ。この俺を侮るなよJR!」

俺は勝ちを確信し、190円のボタンを押してお金を投入した。少しして、10円のお釣りとオレンジ色の券が吐き出される。俺は人生でも有数の興奮に陥っていた。往復券の存在も知らずに、だ。

「ふっふ」

鼻息荒く踵を返す。

そんな俺を横殴りに、記憶にこびり付いて離れない、優しいバニラの匂いが走って行った。

そんな偶然がある訳が無いとは思いつつ、足を止め、目線を下に降ろす。

「………………げっ。バレた?」

……、何故だ……なぜこんな所に冬萌冱雪、だ。揺れる瞳がチラチラと俺を見上げている。

一気に心臓が動きを速め、気道が幅を縮めた。揺れる視界を、眉に力を込めて矯正する。

冱雪は、変わらぬペールベージュの髪に、白インナーにグレーパーカー、スキニーパンツに足元はブラウンのスニーカー。一見地味目なファッションだが、俺からしてみれば芝生に佇むホワイトタイガーくらい華があった。

俺が同じものを身に纏ったら枯れ葉の中のドングリだ。それも多少言い過ぎかもしれないが、そもそもイケおじ以外が着ているのが想像できないし、俺をマネキンにして似合わないのは当たり前だ。故に冱雪が着こなしているのが不思議でならない。

あと、思考が追いついてきたんだけど「げっ」ってなに? 俺って妖怪か何かなの?

と、そんな考えが表情に出ていたのか、冱雪はそっぽを向いて唇を尖らせる。

「だって、券売機前でガッツポーズしてるような奴と知り合いって思われたくなくて……」

う~ん。「ごもっともで」……てか俺、ガッツポーズしてたの?

「まぁ、いいや。僕も買いたいから、そこ退いて貰える?」

「あ、はい」

俺が横にズレると、冱雪は発券機へと向かい合ってパネル操作を始めた。これ、俺って待ってていのかな……。どっか行けって暗に揶揄してたらどうしよう。なんて思いつつも、そこで立ち尽くして見守る。

どうしても身長が高くて見えちゃったんだけど、なんかカードを入れて現金チャージしてたあれは何? 近代のテクノロジーはそんな進化を遂げてるの? 気付かぬうちにすっごい進化を遂げていたんだね! 偉い! そんな技術者には頑張って貰って、生きてる内にフルダイブ来て欲しいなって思ってる今日この頃。でも歳取ると流石にキツいのかね。知らんけど。

「――おーい。大丈夫?」

「あぁ、うん」

気が付くとチャージとやらは終わっていたようで、冱雪は俺を見上げながら服の裾をツンツン引っ張って来ていた。

「鏡くん、だっけ……今日はどこ行くの?」

「わぁ」名前、憶えててくれたんだね! とディズニーキャラよろしく指を組んで萌えそれを全身で表現していると、冱雪は怪訝な表情になって心なしか頬も膨らんでいた。……フグみたいで可愛い!

「まぁ、俺の事は置いておいて――逆にどこ行く予定なんでぃ?」

「……置いとかれる意味分かんないし、なんで江戸っ子なの……。まぁ、いいんだけど。一旦ここから動こうか。邪魔になってるし」

「はい。仰せの通りに」

ういういしく礼をすると、冱雪はそれを無視して歩き出した。裾を引っ張るのはいいんだけど、合図とかくれませんかね。毎回結構頸椎とか痛めそうな動きするんだよね。


「――鏡くんは、この後時間あるの?」

少し進んだ先、柱型の電光掲示板を背に立ち止まって冱雪が再び俺を見上げた。

……ほんの数回目が合ったくらいで言うのはあれなんだけど、冱雪に見つめられると、断れる訳が無い。それに、時間なんてほぼ無限にあるし……夜の街に駆けだしたっていい。今、朝方だけど。

「時間なら」

「……なんか、曖昧だね」

「あぁ、いや。あんまりお金なくて」と本心を言える訳も無く、「あはは」と曖昧に話を逸らす。

ちなみに妙な言い回しになったのは、おつかい分の料金も後で請求しろって言われたからポケットマネーを出さざるを得ず、それを考えるとあまり寄り道をする余裕も無いからだ。

するとまた、冱雪は顔を歪めて睨みつけてくる。何かを探るような瞳から逃れようと、目を逸らすと。背中に感じる視線と圧が強くなった。

おい、流石におかしいだろ。そう思い、背後を振り返るが何も居ない。勿論人混みはあったしその中で新聞を大々的に広げている変人も居たが、それ以上じゃ無かった。……俺が美少女と一緒に居るからって嫉妬しちゃってるな? みんな目を疑うだろうけど、この人男です! キャァァ! カワイイ!

と、一人で大はしゃぎしていると、首元がキュッと痛んだ。視線が引き戻され、遅れて思考が追いついて来る。

「じゃぁさ、いいカフェあるんだけど、どう?」

そんな目でどう、と言われましても……。

「はい。行きます」としか言いようがない。出会って二回目で初デートだ! やったぁ!


てなわけで、わんころみたく首をツンツン引っ張られながら歩くこと数分。

駅前のオシャンなカフェに入って行く冱雪に対して僅かに抵抗しつつも逆らえず、角の席に向かい合ってこぢんまりと座っています。因みに冱雪は鼻歌交じりにスマホを触っている。

周りはオサレな服を着た大人の女性や制服姿の女子高生らしき若い集団も見える。少なくとも、男はあまり確認できない。……肩身せめぇ。

店内はコーヒーの匂いや甘いスイーツの匂い、すれ違う女性陣の薄っすらとした香水の匂いが混ざっていて、ひたすらに新鮮な空間が形成されていた。

あと、入店後にカウンターで注文を済ませて席に座るというのがかなり新鮮で、一人で来ていたらドギマギからのパニックコンボで転倒床キスSAコンボから自滅まであった。だからファミレスとかチェーン店以外のお店かつ初見のお店に一人で行くのって怖いんだよね。

まぁ、ただ。冱雪が小慣れていたおかげでそうはならずに済んだのだが、その後直ぐにほかの問題が殴り込んできた。……俺と同じ属性の人間なら分かってくれると思うんだが、何、あのメニュー表。パッと見た瞬間、星座記号だかアラビア語だかと同じくらい解読を諦めたくなったんだけど。

それとあの飲み物関係のサイズ表記ね。ショートとかトール、グランデだのベンティだのと書いてあって舌先の感覚がゼロになったわ。おいおい、ファストフードじゃそんな猪口才な単語は習わねぇんだよ。やっぱ社会に出ても義務教育なんて意味ねぇな。

俺の中でショートは髪だしトールは神だしグランデはスキー場だしベンティは下着だ。

結局、注文の際は指さしでこれとこれって頼んでおいたし。隣の冱雪が、羨ましそうに俺の会計を眺めて来ていたのも意味が分からなかった。

しかもイラストも無い只のゴシック文体だった上にろくすっぽ読んでないから何が来るかは分からない。ガチャみたいでワクワクが止まらんが、その代償としてとんでもない物が来たらどうしようという一抹の不安が脳裏を過るが、これも自業自得定期、ぼくの一人戦争状態である。ただ一つ、会計がやけに高かったのが不安であるのです。

と、そんな事を考えながら居心地悪く周りをキョロキョロ見渡していると、コトッという音が聞こえ、前を向き直す。

そこでは、スマホを置いて佇まいを正した冱雪が真直ぐに俺を見据えていた。改めて見ると、冱雪の仕草は清風明月というか風光明媚というか……とにかく動作の一つ一つが丁寧で雅で、どこか育ちの良さが垣間見えている気がする。俺に無いから詳しい事は分からないんですけど。

そんな冱雪は、ゆっくりと言葉を咀嚼したように口をもごもご動かし、そして、ゆっくりと口を開く。

「――さっきからごめんね、鏡くん」

目を閉じ、僅かに俯く冱雪に「何が?」とは聞き返せず……間を置いてしまった俺に残された選択肢は次の言葉を待つだけだった。

膝の上で手を組んだり回したり、足裏でリズムもどきを刻んでみたり……落ち着きがないのはいつもの事なんですけど、こんな場なので意識を向けて気が付いた先から止めていく。

そして何工程か先、口内で舌を回すのを止めた頃に、冱雪は再び動き出す。

目線は落ちたまま、虚ろな目を開き、何もないテーブルの上に視線を注いでいた。

「――僕、昔から人との距離感を測るのが下手くそでさ。鏡くんを前にすると、その境界線がもっと曖昧に感じるんだよね。自分でも訳分かんないんだけど、懐かしい感じがして」

「ほぉ……?」

冱雪が舌を噛んだかのように口籠り、俺は顎に手を当てて考える。これは、喜ばしい事なのか? 懐かしい感じって、どんな感じなんだ……? 昔大好きだったゲームの新作が大人今になってやっと出た的な? 俺ってイナイレ的存在なの? スゲェジャン! あ、これは電王か。

「……まぁ、う~ん」

俺が何も言い返せず、歪めた顔面を九十度にそう唸っていると、冱雪はそっぽを向いて――

「おかしいよね。会うの二回目なのに。気持ち悪いよね。こんな中途半端な人間に。引縄批根だよね。僕って理系だし。こんなんだから教室でも一人なんだよ————」

と、暗闇に身を沈めてブツブツと呟き始めた。……理系関係ないと思うんですけど。あとここ、ガラス張りのカフェの中だよね? なんでそんなに濃い影が……? むしろ冱雪が発生源まである。

……ちょっと口籠っただけなんだけどなぁ……思えば、ギャルゲの主人公ってスゲェよな。あんなにも的確な選択肢が瞬時に思い浮かぶんだもの。しかも大概、キャラ個性に合った返事をしないと好感度下がるし、作品によっては毎度毎度命がかかってたりするし。

まぁもっとも、今回の場合はそのどれにも当てはまらないんだけど。別に冱雪の好感度ゲージなんてほぼゼロのままだろうし、特段命がかかっている訳でも無い。

あーあ。ギャルゲならなぁ。選択肢、外さないんだけど……まぁ、毎回セーブしてわざと外れの選択肢選んだりとかするんだけど、みんなはする?

それに、ねぇ……嫌われたくは無いんだよなぁ。損得感情抜きに、仲良くはなりたいし。

ん~そうだ、この状況をギャルゲに落とし込んでみよう。うん、いい考えだね、ワトソン君。

よし、集中しろ鏡。脳内で未だに講釈を垂れるワトソン君を腕挫十字固で黙らせ、想像する。

そう、ここは、オシャンなカフェ、周囲の会話が遠のくような感覚。壁掛け時計が刻む周期的な音は次第に遠ざかり、そんな環境下で、男は落ち込むヒロインの言葉を脳内で反芻した。相談を受けた恋愛経験ゼロの全身しまむら男は目を閉じ、深い思慮の末……そして遂に、重い口を開き、こう返した。

『――悩んでる顔、似合わねぇな……俺はそんなお前を見に来たわけじゃねぇ』

男は椅子を引いて立ち上がり、冷たい言葉を投げかけた。

それを受け、ヒロインは俯いた。彼女は膝の上に置いた手を強く握りしめる。目の端には大粒の涙が浮いているが、そんな冷たい男を非難するようなことは無かった。むしろ、そんな男に相談した自分を非難している様な、落ち込んでいる自分を責めている様な、どうともとれる不思議な挙動だ。

『おい――』

だが男は、そんなヒロインを見捨てなかった。

ドンッと音が立つ。

それは、男が前のめりに倒れ、ヒロインに顔を近づける音だった。

顎に手を当て、軽く押し上げることで、二人の視線は至近距離で交差する。

『――お前には俺がいる。一人で背負うんじゃねぇ……一人称は僕じゃねぇよ……これからは、俺たちで解決しよう』

『………………キュンッ!』

キメェ!

バタン! と、現実世界に引き戻りながらテーブルに額を打ち付けた。

なーにが『キュンッ!』 じゃい! 騙されんな尻軽お化け! それとしまむら童貞男がイキってんじゃねぇよ! 勘違いしてっから同級生女子に変なあだ名で陰口言われるんだゾ!

……だめだ、全く参考にならなかった。そりゃ、リアル非モテダサ男が想像や妄想できる範囲なんて知れている。だってその状況で的確な言葉が思い浮かぶようなら、今こうやって困ってない訳だし。

「……大丈夫?」

頭頂部に投げかけられた声は、犬や猫など愛玩動物に向けられる様なものの真逆にあるものだった。悲哀というかなんというか、普通に引かれている感じ。

あら、元気になったみたいで良かったわぁ! と、友達のお母さん並の作り笑いで顔を上げる。あの笑顔、忘れられないんだよなぁ。絶対、俺にだけあの顔してたんだよな。振り返ったらスッと戻る感じ、あれ、怖いからやめな? 子供ながらに腰が引けたわ。

あ~。なんかイライラしてきた。同時にスッキリした感じも、心が楽になった感じもする。

そうだ、別に冱雪は仲良くしようとしてくれてるんだから、深く考える必要ないじゃんかよ! 俺の思ったことを言えばいいんだよね! 素の自分を好きになって貰おうキャンペーン実施中! 皆さんも街中で見かけたら気軽に話しかけて来てね!

と、適当な事を考えて時間を稼ぎつつ、思ったままの俺の意見をぶつけてみようと思う。

「……別にいいんじゃないか? 自然とそうなってるんだったら、そのままでも」

「でも…………嫌じゃないの?」

「嫌? いやいや」

んな訳ねぇだろ!

と、脳内住み込み主人公バリに息巻こうと椅子を引いたところで――

「お待たせいたしました!」

お盆を持った店員さんがテーブルの傍までやって来たので、息を吐く間もなく身を引く。

花咲くような元気いっぱい満点笑顔の店員さんと、降りてきたお盆の上の物とのギャップを見て目を剥いた。

「こちらがブレンドとクロワッサンのお客様……」

「あ、僕です」

小さく手を上げる冱雪の前に、ソーサーに乗ったコーヒーカップとお皿に乗った小さいクロワッサンが置かれる。音はコトッと、柄も相まって些細な所からもお洒落を感じる。

コーヒーカップから立つ湯気より、芳しいコーヒー豆の匂いが鼻を通り、舌の上へと心地よい苦みとなって伝わってくる。次に、天光を受けて光沢を放つクロワッサンよりバターの匂いと塩気を感じ取り、見ているだけでも舌が躍り、相性の良さが伝わってくる。……いいなぁ。

そして次は俺の番――。

「では、こちらが。キャラメルラテと、ふわふわもちもち十段ホットケーキ濃厚バター乗せです、ね……」

店員さんの「よいしょ」という声と、テーブルに着地した際のゴトッという音が、到底カフェに似つかわしくなく、名の通りの見た目をしたホットケーキを見ていると、口角が自然と上がってピクつく。無論、嬉しいからじゃない。

いや、少々誤解を招く文言になったが、別に美味しくなさそう、とかでは決してない。

まず見た目だが、一枚一枚が羽毛布団のように分厚く、気泡まで鮮明に見える程パッフパフなホットケーキは綺麗なきつね色とクリーム色の層にバランスよく分かれ、円盤型の各段差はくっきりとくびれ、妖艶に誘ってくる。それを見ているだけで喉が鳴り、唾液が止まらなくなるが、それだけではとどまらない。

温められた蜂蜜は粘度を増し、透け感のあるシアー服と化しながらも重力に従って艶のある肌の上を流れていく。それに溶かされて角を失ったバターは一見主張している様子は無いが、確かな痕跡を蜂蜜の水面に流しつつ、豊かな匂いを周囲に発散している。

粉砂糖の雪景色は光を受けてハイライトを生み出し、反射光によって艶やかなホットケーキの輝きは何倍にも見えた。

トドメに――

「ごゆっくりお楽しみください!」

「おぉ……」

秋冬の西日にも負けない程眩しい笑顔を受けて、自然と目は瞬かれる。……くぅ、ダメだ。右腕、頼むっ! と腕で視界を覆うレベル。

空腹は最高のスパイスというが、それでも愛には敵わないと分かる。だって、さっきまで悪魔的なカロリー爆弾兼糖質ダイナマイトだったホットケーキも、天使の微笑みや神の祝福かの様に見えるんだもん。ありゃ、今日って日曜日だっけ? って勘違いするレベル。

光を受けて影が濃くなるどころか、三百六十度稲光で完璧にそれを凌駕してきて、愛って凄いんだなぁと驚いています。日頃から受けて無い分、受けるキャパが小さすぎて困るくらいだ。

店員さんの去る背中を見つめながら、キャラメルラテを唇に浸けて我に返る。

……あぁ、びっくりした……。キャラメルラテ熱すぎだろ。舌先の感覚ねぇわ。

にしても、可愛かったなぁ。可愛すぎてあわや憧れを抱くとこだった。

「じゃ、食べよっか」

「……うぃ」

返事は遅れ、適当になったが、それでも微笑んでくれる冱雪を見ていると、さっきまで高鳴っていた心音も落ち着いて行った。

あぁ、どんなに強い光芒だって、冱雪には敵わないんだなぁ。かがを。

と、いうわけで。再三の絶望に襲われながらも俺は、震える腕を反対の手で押さえつけながら一番上の段を削り取り、抵抗する口に向かって手を動かし、一口咥える。

瞬間、口内は幸世界一色。一噛みしただけでジュワッと蜂蜜の甘味とパンケーキの風味が溢れ出し、後に残るバターの脂が纏わって領域展開。その領域は直ぐに脳内を侵食し、滝のように溢れ出るドーパミンで体温が一気に低下した。心拍数は増加して思考は霧がかる。

このままだとマズいという訳で、本能的にキャラメルラテを煽るが、それらに拍車をかけて状況を悪化させただけだった。まるで逃げ場がない、袋小路のぶらこうじぱいぽぱいぽ――。

「甘いもの好きなの?」

「え?」

無言放心虚無寿限無製造機と化した俺の目を覚ましたのは、そんな質問だった。

そして、それに疑問で返してしまったのは、見れば分かるだろと無意識に思ってしまったからで……少なくとも好きなものを食べる時の視界の狭さじゃないんだけど、傍から見たら笑顔なのかな……。自分の表情筋も操れないの? と自己嫌悪に片足突っ込んでいると――

「いや、その……眉間の皴が黒部峡谷より深かったから、あんまり好きじゃないのかなって」

「……黒部峡谷」

ぱっと想像つかないけど、すっげぇ深そう。思えば、よく深さの比喩で使われるマリアナ海溝とかもよく知らないから、それと似たようなもんか。

ちょっと気になって、しれっと眉間を触ってみると、確かにおばあちゃんの懐くらいは深かった。……人によるから適当じゃないな。アハハ。

と、一人芝居で楽しんでいると、冱雪がそんな様子を微笑ましそうに見ているのが目に入り、手を下ろす。

これは、素直に返事をせざるを得ない状況だな……多分。

「――実は、あんまり好きじゃ無かったりするかもしれない」

気まずく、誤魔化すように視線を外して吐き出した言葉に、視界の端で冱雪は微笑みを崩すことなく答える。

「そっか。じゃぁそれ、どうするの?」

「……どうするって」

なんだこれ……冱雪はどうして欲しいのだろうか。……この微笑みを見ていると、会計の時の羨ましそうな顔が過って行く。人の事を考えるのが苦手な俺でも、多少なり分かるような気がする。まさか、と思い一口分を切り分けて持ち上げる。

「…………いります?」

「んーん」

微笑みを崩すことなく即答で否定してくる冱雪。しかし、その視線の先は俺でも無く俺の持つホットケーキでもなく、その本体。

その反応を見るに間違いなく欲しくはあるのだろうが……ただ単に「あげる」というのは拒否される気がする。……あくまでもこちらから、対等な関係を保ちつつ譲らなければならない。

その点を踏まえ、面白そうだから質疑応答型の推理をしていこう。

俺は手に持ったホットケーキをくるくる回しながら――

「甘い物は好きですか」と質問する。

「んーん」

よし、これは好きな時の返事だ。微笑みが崩れていない。

次に俺は、手に持ったホットケーキを下ろし――

「じゃぁ、苦い物は好きですか」としっかり目を見て質問した。

「……んー。」

間違いない。冱雪は甘いものが好きだ。だって、苦い物って聞いた瞬間に顔がクシャっとなって、心なしか全体的に小さく丸くなったし。返事は苦しそうだし。

……え、何でブレンドとクロワッサン頼んだの? とか色々と疑問が残るのだが、とりあえず俺の中で答えは出た。後は、あわよくば――、

「はい」

「……」

あーん。と言うのを我慢して、一口分のホットケーキを前に突き出す。

それを凝視し、唖然としながらも冱雪が喉を鳴らすのが分かった。

ほれほれ~。本能では甘いものを欲しがっているのであろう? と悪代官ばりに焦らすようにして冱雪の顔前で∞を描く。

目は輝くハート型に、しっかりとホットケーキの軌跡を追いかけている。

俺の想像に過ぎない姿だが、息を荒くしている様子はまるで餌を前に待てと言われた犬のようで……もっとイジメたくなってしまう。ので――、

「……なんだ、いらないのか」

と、心にもない事を呟いて手を引こうとすると――

「ん」

予想通り、俺の手首は勢いよく襲い掛かる冱雪の手によって締め付けられる。ピタとその場で停止した反動で、ホットケーキに吸われたままの蜂蜜が弾力良く震えた。

その誘惑は、冱雪の理性を奪うには十分過ぎたようで――、

「あむ」と、口から声が漏れるほどの勢いで飛びついてきた。

直後、「んっ~」と声にならない感嘆を漏らしつつ、落ちる頬を両手で押さえながら背もたれに体を預ける程仰け反っていた。

……そんなに好きなのになんで注文しなかったんだ……。と、あーんが出来たという喜びを忘れるほどに、そんな疑問が、俺の口輪筋を無自覚に震わせた。

仕方ない。俺としては大変不本意でそんな事は一ミリも思ってないし、したくも無いのだが。

「……よければホットケーキとクロワッサン、交換しても――」

「うん、いいよ!」

瞬間、俺の前にはクロワッサンとブレンドコーヒーが置かれていた。

いや、あの……まぁ、いいんですけどね? キャラメルラテは完全に意識外だった。……俺がぬらりひょんなら即死だった。

それに……少しとはいえ飲みかけなんですけど、いいんですかね……。間接キス的な感じなんですけど。男同士だから気にしないとかでしょうか……俺、めっちゃ気にしちゃうんだけど。


それからは、お互いがお互いの時間を楽しんでいた、様に思う。

少なくとも俺は、幸せそうな冱雪を見ながら、余りにも丁度いい甘さのクロワッサンとそれと調和する少し甘めのブレンドコーヒーを楽しむという、大変大人びた至福の時間を過ごせていた。

まるで天国のようなひと時は、この後待ち受けている激熱とその中を人混みに紛れて移動する地獄との落差を強調し、一足先にと一人勝手にサウナのようなチルを味わっていた。

……にしても、やっぱりお店で飲むコーヒーは美味いな……。

ブレンドはお店ごとのコーヒー豆の混ぜ合わせなのだが、このお店はベースのコーヒー豆を深煎りしてあるのか酸味が抑えられ滑らか、それでいて他の豆のフルーティーさが混ざり合い、口に含むと様々な味の変化を味わえるので、飲んだ後しばらくは頬が緩んでしまう。

こういうのを、専門用語的にアーシーというとかなんとか……。

その上で食べるクロワッサンのパリッとしたサクサク感、強いバターと塩気の波が心地良い。気が付いた頃にはクロワッサンは最後の一口になっていて、それを口に放り投げた時に心臓がキュッと痛んだ。……糖分の取り過ぎかも知れない。

常に感じる視線もきっとそのせいだ。

そんな俺は現在、ブレンドコーヒーを啜りながら、お腹を太鼓みたいに叩いている冱雪を見ていた。

こともなげにホットケーキを平らげた冱雪の体調が心配になったが、キャラメルラテを呷って、ぷはぁと息つく姿は無邪気な子供の様で、そんなものも無用のようです。

「ふぅ~……鏡くん、ご馳走さまでした」

「……あぁ、いえいえ」

急に手を合わせられてビックリした……何のことかと思ったが、よくよく考えると注文した際の会計の値段が多少なり差額があるから、それで感謝されたのだろうか。

正直、相手が冱雪じゃ無ければ不満もあったろうが……今までの笑顔から得られたものと、これからも味わえるであろう多幸感を考えれば、むしろ確執が起こらないか心配するくらいだ。

「美味しかったでしょうか?」

「うん。大変満足ですた!」

糖質オーバーヒートが因果してか、舌が空回ってしまった冱雪は恥ずかしそうに口元を隠した。パーカーの袖口からひょっこり出た細指は先の方まで赤くなっている。

……あぶねぇ。反射的に「お前デスタムーアなの?」とか訳の分からないツッコミをかますところだった。……そんな事をしでかせば、今の状態の冱雪を見ることは出来なかっただろう。

とはいえ、フリーズしてしまった冱雪をこのままにしておく訳にもいかない。

こういう時は適当ぶっこくのが一番いい。俺が最後に恥をかけば、常に円満に事は収まる。

「なぁ、野球とか見た事あるか?」

「え……? ……っと、うん、勉強したことくらいなら」

キョトン顔で見上げる冱雪の顔には残赤がうすらとあり、潤んだ瞳に見つめられると、つい息を吐くのを忘れてしまう。

それを誤魔化すように視線を外して瞑目し、人差し指を立てる。

そして、これから吐き出すであろう意味も脈略も無い言葉に自分自身で混乱しつつ、何とか口を開いて声にする。

「…………野球、面白いからおススメだゾ」

嘘です。言葉にできませんでした。なんか思い浮かんだ言葉がデスターシャで……その意味について講釈垂れようとか思っていたのだが、無理でした。だって、知らないし。

あーあ。恥ずかしい、恥ずかしい……その点で言えば成功なのだが、思ったのと違う。よく聞く、笑わせたか、笑われたか、みたいな齟齬があって、微妙に違って物凄く恥ずかしい。

さぞかし変な目で見られているのだろう。と、冱雪の方を見れずにいると――

「……へ~。意外だね」

そう声をかけられた。感心したような、意外な事を聞いたかのような、感嘆とした声だった。

「鏡くん、野球とか見るんだ」

「……どういう意味だよ」

つい、むっときたのでジト目で冱雪の方を見る。

目が合うと、冱雪は「あ、」と申し訳なさそうに両手をフリフリ……。

「今の時期って新人戦手前で運動部の人達って忙しそうにしてるから……駅に居たってことはそういうスポーツとか、興味ないんだと思って……」

人差し指をつんつんとぶつけながら萎んだ声で捲し立てる冱雪を見ていると、ジト目を向けていた自分が心咎められてしまい……自然と目の周りの筋肉が緩んでしまう。

まぁ、実際。俺は基本的なスポーツ情勢には疎いし勿論野球だって詳しくない……それに、冱雪の言う通り運動部どころか文芸部からも逃げた様な男で、時期に関係なく忙しくない。

……それにしても、新人戦か。暑くなってきた時期にようやる。

「そういう自分はどうなんだよ」

「え……?」

唐突な質問に驚いたように、冱雪はキョトン顔で俺を見上げた。

意趣返しとはよく言ったものだがそういった意図は全くなく、只の負けず嫌いが出ただけだ。それに……あわよくば冱雪の学校事情を知れればという気持ちが強かった。

だって、同学年であれだけ顔合わさないってあるぅ?

冱雪が俺に質問したからには、俺の質問に答えないわけにはいかない。なんとかこんとかの原理っていうらしいが、詳しい事は知らない……まぁ、プレゼントを返したくなる気持ちとか、仕事を肩代わりしてくれたら自分もそうして上げたくなる、的な事。見返りを求めていたり、損得勘定ありきの狙った行動ならばずる賢く、それに気づかれればペテン師と呼ばれ、偽善と嘆かれる。

今回の俺はそれを利用して冱雪を知ろうとした。純粋に質問することを恐れ、冱雪の善意につけこんで、脅し、それが感づかれれば終わり。善人が真っ先に嫌う行為を行使した俺の罪だ。

ただ、今回に関してはその中身が単純明快、冱雪が運動好きかどうかの可否だけなので、只の質問だと言われればそう見えるし、実際、言った側も言われた側も気が付かないことが多いと思う。

あまりにも考えすぎだと思われるかもしれないが、人間関係はそのくらい考えなければうまく運ばないんじゃないの? まぁ、んなこと言ってる奴が一番上手く行ってないんですけど。

と、順調に自己嫌悪への一途を辿っていると、冱雪の息を吸う音で我に返り、微かに頭を振って聞く準備を整える。

「運動は好きなんだけどね……なんせ運動音痴で」

「……そうか」

唇を尖らせ、いじけたようにボソボソ呟く冱雪に対してどう返せばいいのか分からず、良くは無いと分かっているのに言い淀んでしまう。

そんな俺を見て更に拗ねたのか、冱雪は聞こえるか聞こえないかの狭間の周波数で続ける。

「どうせ鏡くんには分からないけどさ、身長が低くて力も弱くて体も硬くて、序盤はそれでも巧くいって褒められるのに、直ぐに周りに追いつかれて戦力外でベンチウォーマーで一生を終える僕みたいな落ちこぼれの事なんてさ……そもそもなんでそんな体躯で運動してないの? それって僕みたいなやつへの当てつけなの? だいたい――」

と、ブツブツコトコトと続ける冱雪の言の葉は俺の耳に届くよりも前にひらひらと何処かへ飛んで行ってしまう。その横顔は大変麗しく、また違う一面を知れた気がして嬉しいのだが……正直、マジで面倒くせぇ。

俺が発端とはいえ、ここまで落ち込むとは思ってなかった。あれだ、コイツは俺と同じで自分勝手に自己嫌悪に陥って空気を悪くするタイプなのかもしれない。多分。きっと。

とはいえ、明確にルックスの差があって、冱雪の場合は擁護したくなる小動物の唸り声みたいなもんだが、俺のはハイエナの呻き声か黒板を爪で引っ掻いた時のキィーってやつだ。聞く側からしたら不快感で自分の肌を裂くかもしれない。

……中学時代、日直で黒板を消している時に不本意で鳴らした例の音が原因で罵声を飛ばされたりしたなぁ。あれ、理不尽だったなぁ……一番間近で聞いてるのは俺なんですけどねぇ。

なんて、憐憫を自分に向けている場合じゃマジで無く……正気を取り戻した頃には冱雪は頭を抱えて真っ青になっていた。諦めてがてらに耳を傾けると「あぁ、死んだほうがいいんだ」とか突飛な事を言っていたので直ぐにシャットダウン。

……運動が上手く出来ないと死なないといけない世界、怖すぎるだろ……。世界人口六割くらい減るんじゃないの? それ。第一に俺が爆ぜるだろうけどね。

と、……そんな事を考えている暇は無くて。

「――まぁ、」

何も考えずに口を開く。

冱雪はそれを受け、恨めしそうな視線を俺に向け、なんならガルガルと小さく唸っていた。全くもう、可愛いんだから、そんなことしてたら勘違いして惚れちゃうゾっ!

俺は怯まないよう、目を合わせたままに少し語気を強めて続ける。

「運動できないもの同士、仲良くしようや」

「……何の慰めにもなってないや」

冱雪は呆れたように、ただ、少し笑みを湛えてそっぽを向いた。

手にはキャラメルラテが握られており、一口飲んでひと息吐いていた。

……今のやり取りがいつも通りの俺って感じだ。慰めの言葉とかかける機会無いから、それが祟ってしまった……こんな時モテ雄なら上手くやり過ごして尚且つ好感度を上げるんだろうが……全く持ってギャルゲの知識活きてねぇなぁ! てか思い返せば、モテ雄の主人公なんて全くいなくない? 何でなの? ……これって差別じゃん⁉ もっとも、そんなヤリチン伝説ゲーなんてものはやりたくないんだけども。

なんて考えていると、冱雪がコトリと音を立ててコーヒーカップを置いてそれを大切そうに包み込み、改まって俺の方を向き直っていた。

どこか面映ゆいのか、頬を口内の空気で押し上げながら、上目遣いに見上げてきている。……こっちまで恥ずかしくなるんだけど……これ、ぶりっ子ぶりぶりしてないよね? 素行からこれなら、おじさん、ちょっと心配だよ……。

「そう言えば、鏡くんはこの後どこ行くの?」

「あぁ――」

言いかけて、口を噤む。なんせ『イッパイモノアルヨ』って言いたくねぇ……! 口は開くが、息が詰まる。面と向かって言うの、まぢでクソ恥ずい――あー眩しっ。

俺が視線を斜め上に持って行ったのを不思議に思ったのか、視界の下端で目を細む冱雪は何か言いたげで――

「『イッパイモノアルヨ』?」

と、耳を塞ぎたくなるような単語を、俺が耳を塞ぐ前に口にしていた。あーあ、間に合わなかった! なんか鳥肌立つんだけど、俺だけ? この拒否反応っぷりは。

「…………ねぇ、何してるの?」

腕を半分上に、目まで瞑って体を反らす俺を不思議に思ってか、冱雪が訝しむような声でそう問うてきた。

「いや、何でも」

「…………そうは見えないんだけど」

恐る恐る目を開くと。で、どうなの? と言いたげな瞳にの中に囚われた、当惑する俺と目が合う。……うわぁ、死霊がコッチ見てるよぉ。と、怯えつつも震える声を絞り出す。

「そ、そうですぅ」

「……なんで泣いてるのさ――」

訳が分からんと首を振り、ついでに大きなため息を吐く冱雪さん。

身振り手振りが眼界から猛襲して体内に侵入、心をぐちゃぐちゃに掻き乱しながら残り続け、普通に心が痛くて落ち込む。泣いたフリがフリじゃ無くなりそう……。

「でも、それならよかった……僕も『イッパイモノアルヨ』に用事があったから」

「うぎゃぴぃ!」

「…………うぎゃぴぃ?」

口から出た小物感たっぷりの悲鳴を復唱されると、鳥肌が全身に走っていくのが分かった。

急いで口に手を突っ込んだ俺を他所に、冱雪は何かを推理するような格好を取っている。事実として、うんうん唸っている冱雪さんは何か考え至ったようで、次第にほくそ笑むような悪い笑みを浮かべて俺を見上げる。

「『イッパイモノアルヨ』」

「チャラポペっ!」

「えぇ、……もうそれって悲鳴の部類なの?」

俺の弱点を発見して尚、楽しそうでもなんでもなく。ふっつうに距離を取ってくる冱雪。最近のコナン君くらい感情を隠す気ない。

「…………名推理のところ悪いんですが、カフェに合わない悲鳴なのでやめてください」

「……悲鳴をやめればいいじゃん」

自分沙汰にされたのが気に食わないのか、冱雪は眉根をひそめて不機嫌になる。

ムリなんだよなぁ。その通りなんだけど、脊髄反射みたいなもんだし。

とにかく、この話題から今すぐにでも抜け出して、挙句の果てに二度とその名前が出ないよう誘導しよう。さもなくばカフェで喘ぐ変態男子高校生としてネットにでも晒上げられて終わりだ。

「で、何しに行く予定なんでっしゃろ? 買い物け? 冱雪のねぇやん」

「もう、ぐっちゃぐちゃだよ……。僕、男だし」

えぇ⁉ 男なの⁉ こんなに可愛いのに! と心中で大仰に驚いていると、冱雪は呆れ顔で続ける。

「買い物もあるんだけど――ほら、これ」

スマホをポチポチ、俺に向けたスマホ画面には――

「なにこれ」

「えぇ⁉ 今やってる映画だよ!」

「…………ほぅ」

と、言われましてもねぇ。映画かぁ……言われてみれば最近見てないなぁ。サブスクでドラマとかアニメとかはみたりするんだけど、どうも映画館は……だって高いし、盛り上がる所では立ち上がって叫びたいし。

と、過去見たアニメを思い返して一人叫びたがっていると、スマホのブルーライトが視界一杯を埋め尽くした。

「これね、最近人気でよく流れて来るんだよ! ちょっと前まで見に行こうか悩んでたんだけど、宇都宮先生に『悩むなら行って来い』って背中を押されてね! だから――」

「宇都宮……?」その名詞が出た直後に五感がシャットダウン。何故、その名が……でもまぁ、あの人俺の専属教師じゃないし、数多の生徒とのかかわりがあるから、その中に冱雪が含まれていたっておかしくはないのだが……。なんか無性に腹が立つ……畑を荒らされた時みたいなモヤモヤが残り続ける。

「聞いてる?」

「ん? あぁ、うん、いいよ。俺、モグラじゃ無いけど」

「全く聞いてないッ⁉」

目の前で繰り広げられるLCDの放物線ががっくりと項垂れ、その裏からガーンとショックを隠せない様子の冱雪に漫画風の影が降りかかっているのが見えた。

お蝶夫人みたいなショックの受け方でいいわね。冬萌冱雪……面白い子……!

しかし次の瞬間には切り替えて、「そういうとこ、なおした方がいいと思うけどな」と湯気を出しながらぷんすか怒りだしたので――

「出来たら機嫌直して」

と、一言と共に合わせた両手を添えて謝罪する。

「そういうところもだけどね!」

だがどうやら言葉選びを誤ったようで、冱雪の怒り状態は治まらない。というか、火に油を注いだみたいにそっぽをむかせただけだった。

俺は、どうすればよかったんだよ。神様、正解を教えてよ!

過去の人生経験からすると、こういう時は黙るに限る。俺は口が上手くないのである。その上で重要なのは、微動だにしてはいけないという事だ。微細な動きが相手の堪忍袋をチクチク刺激する、なんてことは良くある話だ。

と言う訳で、ジーっと冱雪の横顔を見つめる事に専念する。

いやぁ、やっぱりお肌綺麗ね……つやっつやしてて透明感凄いのよね、一見すると磨いた閃緑岩か鍾乳石みたいだ……褒めてねぇな、これ。

あと、Eラインが完璧すぎる。ちょっとだけ絵を描いていた中二病時期があったから分かるが、あまりにもベストラインだ。サロベツ原野くらい真っ平……これは褒めてる。しかも、雄大な自然との繋がりと神にも似た慈愛を感じるという直喩でもあり、俺ってばマジで何言ってんのか分からない。

そして、チラッチラッと様子を伺う視線と時たまぶつかって楽しい。あるよね、好きな人を見ていたら目が合って、その人所属のグループに裏でボコスカキモがられてて、ついその会話が聞こえちゃうこと……あるよね? あるはず。俺だけな訳ない……ない、はず。うん――

「ねぇ?」

「…………」

不安になって出た急な問いに、冱雪は無言で、横流しのジト目を使って答えてくれる。

やっぱり、そんなはずは無かった! 一安心だね、うん。

「……鏡くんって、情緒不安定だよね」

「……どこがよ」

「今みたいに、急に泣いちゃうところとか」

 言われて、手を伸ばし、頬を伝う一縷の涙に気が付いた。

 塩分を豊富に含んだ水気は、指先へと溶けていく。

 皮肉な事に、そんな様子すら、水の中から透かして見たように優雅に揺れて見えていた。

 ……冱雪の言う通り、そうなのかもしれない。過去を思い出そうとする度に、自分でも涙腺を管理できなくなることがままある。ただ、遠い昔に陰口聞いたっていうしょうもない記憶の一端なんだけど。一度決壊したダムは弱り、同じ要因でまた決壊するものだ。情緒不安定は、弱りに弱った感情の崩壊を繰り返した結果だ。基本的に不安定でいて不本意で、決壊も崩壊も自心を護るための防衛本能で、それもまたやむを得ないのだ。

 ただ、それは周囲の人間にも少なからず影響を及ぼす。現在の状況において、距離の近い冱雪がそれによって俺に気を遣うのは明白だ。

 だからこそ、そんな自分が嫌になる。情けなさや後悔の念で、この場にいる事すら憚られた。

 誤魔化すようにブレンドコーヒーを最後の一滴まで呷る。

「……悪い、先行くわ」

 コーヒーカップが音を立てると同時に立ち上がり、そう告げた後、困惑した顔が見上げていた。泳ぐ瞳は俺を捉えておらず、最早何も見えていないようだった。

 手元に抱えられたキャラメルラテは湯気を立てていない筈なのに、波を立てながら静かに波紋を作り出している。本来ベージュ色のそれは、反射光で燦然としていた。

 それに一瞥を————視界の端で冱雪を捉えながら「すまん」と言い残して俺は店を出た。

 その直前、一般客の新聞紙がはらりと立てる音が、やけに大きく聞こえた気がした。

 ドアベルの音がそれを掻き消し、本当の別れを告げているかのようだった。

 

 陽は十一時の傾。

 最高潮の熱に照らしつけられてようやく、勢いでカフェを飛び出したことを後悔した。

 残冷は熱を受け入れ、直ぐに肌を焼き始める。

 UVAだかUVBだかが内と外からジリジリと挟撃熱波を浴びせて来るので、このままだとこんがりとそれでいてジューシーに仕上げられてしまう。

 更に不運な事に、人混みをかき分けそこそこの待ち時間の後、逃げ込むように乗り込んだ電車は人でごった返しており、冷房が必死こいて送る風は俺の元へ届くころにはドッタンバッタン大騒ぎの熱々アライさん状態。それに、メンソールだの汗だの香水だのの匂いが複雑に入り混じり、最悪の蒸し焼きサウナ状態。うまみが抜けにくくてヘルシーだね!

 と、そんな状態で一駅を越え降りた先で一安心とも行かず、ごった返しの電車を後に、待ち受けていたのはさらなる人混みとありえない程の情報量だった。

 しきりに鳴るポーンという間の抜けた通告音と電車の走り去る音やすれ違う人混みの会話、発車標や乗り換え口や各方角の改札表示と併設デパートの出入り口やバス乗り口への案内にすれ違うオシャンな人達、そこらから漂うお美味しそうな匂いで舌が唸って吐き気を催す。

 ……おいおい、シティの風がここまで肌に合わないとは思いもしなかった……。たった一駅でこんなに差があるもんなのか……?

 さらに終わっているのが、初見のイベントの為様々な選択肢を間違えてしまったという事だ。

 新たなメモ書きによると、俺が降りたのは井刈駅の走流線、ここの改札から本線との乗り換えは出来るのだが、俺の目指す渚駅は海沿いを走る阿賀海線で改札を出たのちにそこに向かは無ければならない。のだが、デパートの中を歩き続けて中央にある三叉路を左に抜けた先は只の都会、見上げる様な建物が生える街。

そこまで来てどうやら方向を間違えたと落ち込む心に発破をかけ、何とか引き返し、今度は真っすぐに道を進んでいった先で待ち受けていたのは地下へ続く階段と綺麗なエレベーター。

 いや、海沿いだしなぁ。とか無駄な考察に一人勝手に浸って更に悦り、駅中央部まで引き返して路線図を確認。だがそこは阿賀海線でないのである筈も無く、勇気を振り絞って駅員に確認すると、どうやら今いる駅中央部はビルで例える所の五階に位置しているようで、先程見た階段かエレベーターを使って下に降り、その先で切符を買って乗れとの事だった。

 それを聞いた時点で既に残り少なかった気力は失われ、一歩ごとにため息は止まらなかったが、そんな事をしていると行き交う人間と肩をぶつけて胸倉を掴まれて持ち上げられて投げ飛ばされるといけないので、最後の集中力をひじり出して隙の糸を縫うようにし、息を切らしながらそこに辿り着いた。

 だが、そこに膝に手を付いて落ち着くスペースなど無く、なんなら乾燥わかめみたくギチギチの構内で電車を待つ羽目になる。

 更に困った事に、周囲は凱旋門見たく体を半分以上露出させるだの肩を出したりだの、鰐に齧られたのか横からがっつり穴の開いたジーンズだの丈短めのスカートだのを履くギャルや若い女性、逆に清楚系のブラウンのワンピースを身に纏って足元の薄い涼し気な女性が多く、手や目のやり場に困るし、髪から香るシャンプーだのの匂いが童貞オタクくんにはキツイ。

 また、その多くは同性の友達や男を連れ立ち、大声で会話したり大仰に笑ったりと耳元で騒がれて俺の殺気ゲージが溜まりまくり、何なら折り返して地面に突き刺さっているまである。ブラジルの人、怒ってますかー? って確認できるレベル。

 更に困った事にスマホも無く、本も無い俺に残された選択肢は只空気と化して影に徹することであり、しきりに思い返してしまう朝星ちゃんとエロゲの事や少し前のカフェでの出来事が原因で卒倒する訳にも行かず、思考をする事すら憚られた。

 だがしかしだ。流石都会と言ったところか。

 電車が来るまでの待機時間はかなり短く、電車を降りる大群を避け、今度はなだれ込む寄せ集めの一部となって電車両内中央部まで入って行く。

 ここでいう中央部は無論、席と席の間の通路の事であり、例の如く席に鎮座する女性陣に「何このキモオタク」という目で見られるのが怖く、目を閉じて瞑想に入り浸る。

瞑想とは言いつつも、人の視線と会話を気にして呼吸を最小限に、ちょっと無理あるけど寝たふりをしているだけ。

ただ、どうしても支えは必要なので席の上部にある取っ手を握り、脇をしっかり閉じて電車の揺れに合わせて重心を移動させている。

 一時期の俺はかなりの拗らせを見せていたので、勿論瞑想をしていた時期もあるのだが、その時も貧乏揺すりが止まらなかったので、それを瞑想というのであれば今回に関してもそうだろう。きっと、誰が見たって今の俺はそうしている。

 だがしかしだ、思った以上に邪念になりうる要素が多くて困る……ジャスミンやホワイトムスクの優しい匂いや女の子同士のちょっとえっち気な会話、チクチクとした視線と舌打ち、etc.

 俺の知り合いにも似たような特徴の人間がいたよなぁ、とか考えつつ、何とか思考を他に反らし、そんな俺に関係なく電車は等速で進み続けた。

 しばらくそうして殻に籠りつつ何駅か経ると、人混みはさらに悪化し、隣に並ぶ人間と肩がぶつかるようになった。無論、避けはするし肩身はギッチギチ。これ以上細分化するためには悪魔の実でも食ってパラミシアの能力を当てるしかないが、残念ながらそういう妄想をしている余裕も無い。

 幾分か背が高いおかげもあって、両腕に重みを感じる程度で済んでいるが、物凄く心臓に悪い。

何が? と思うかもしれないが、女性経験がないどころかトラウマを抱えている人間からすると、そんな些細な事でも心臓に悪いのだ。なんなら、全く関係ない女性の感触や体温を感じるというこの背徳感が物凄くヤバくて何よりそんな俺のキモさが超人級だ。

 一つ、脇含め体臭の匂い対策をしてきてよかったなぁって。ヨチヨチの実の能力者宇都宮殿には感謝するばかりだ。……流石にちょっと怖いんだけど、あの人も不思議ちゃんなのでそれ以上は考えないようにしておいた。

 

 そうして、残喘を宇都宮先生の記憶と共に保ちつつ、何とか目的の渚駅へ到着。

 人の流れに倣いつつ吐き出されると、待ち受けていたのはまさに釜茹で地獄。ぶわっと汗が吹き出し意識が飛びそうになる。

周りの女性陣は小さい手持ちの扇風機を持ち、首になんか変なのを付けていた。……近年の暑さ対策ってすげぇ……。団扇で仰ぎつつOS―1とか塩分タブレットとかで凌ぐんじゃねぇんだな……。まぁ、今の俺はこれしか持ってないんですけど――

と、忘却していたアイテムを思い出し、胸ポケットに突っ込まれたサングラスを取り出す。

フレームが樹脂でできたブルーサングラスで、俺の身に着けているファッションの中で最も高価な物になる。これだけしまむらじゃねぇしな。

装着後、辺りをさりげなく見渡す。

色眼鏡とはよく言ったもので、景色が青みを帯びて世界が落ち着きを取り戻した様な気がした。フラットな世界は皆平等な気がして、俺がここに居るのも不自然じゃないと思えて、気持ちが楽になった気がする。今何が起ころうとも、泰然自若にあしらえると思う。今まさに、背後から「おい、門叶――」と消え入るような声で呼ばれた気がしたけど、普通に無視できたし。てか、この人混みの中で俺の名前呼ぶような不躾で礼儀も倫理観も常識も無い知り合いなんて存在しないから、環境音と会話とが混ざり合ってそう聞こえただけだろう。行き過ぎた幻聴も自意識過剰も、こんな考えに至る自分自身が気持ち悪くて嫌になる。


そんなこんな、自己嫌悪を押し殺しながら駅構外へと飛び出す。

すると目前に広がっていたのは広々としたバスターミナルだった。

キョロキョロと挙動不審に辺りを見回し、路線Cと呼ばれるバス停を見つける。そこにはカラーコーンと共に仕切りが設置され、スタッフの誘導と共に大行列が出来ていた。

先程まで群れを形成していた物が理性的な列を作ると、バジリスクも顔負けの長さと太さで、グリフィンドールの剣があって仮に俺がパーセルマウスだったとしても倒せないと思う。……何言ってんだ、俺。暑さでいたいけなハリポタ厨になっちまった。

さらに、訪れたバスは規格外の大きさで、よく見る市営バスとは比べ物にならないのだが、それを上回る程の乗客によって、薄暗い車内はミチミチになっていた。これも、似たような物をハリポタで見た気がするが、溶けかかった脳ではそんなシーンを思い出すのが精一杯だった。

その中に加わるのもこの猛暑の中並ぶのも億劫で、遠目でそれを薄目に見ながら立ちふさがっているなう。

あまりにも離れているからか、さっきまでが嘘みたいに寂寞とし、自分の心の声と環境音が大きくなった気がする。

「……帰りてぇ……」

……ねぇ、なんで俺みたいなタイプの人間いないの? なんで俺みたいなやつは休日の真昼間に家で引き籠ってゲームばっかりしてんの? なんでアニメのプリントT着てる奴いないの? みんなお洒落過ぎて息詰まるわ。なんでなんで――。

と、四面楚歌な状況にグチグチブツブツ文句を言っていると、同じような声のトーンの恨み言が背後から、ネチネチと粘っこく耳にこびり付いて来る。耳をそばだてて良く聞き入ってみると、聞き覚えのある貫禄を感じる叔母さんボイスだった。

おかしいな……ここ、乗り場でも何でもないんだがな……背後、柱しかないはずなんだけど。

「アチィ……アッチィ……来るんじゃなかったな……。変な責任感と罪悪感と少しのワクワク感を携えてバカみてぇに……。いい歳こいて、何やっているんだ私は、全く……。この後、書類整理とか出来る訳無いだろ……。ライフワークバランスどこ行ったんだ……。てかあのハゲ、全部私に任せるとはいい度胸だな、私がこの手でぶっ殺してやる……しっかしまぁ、煙草も禁止だし普段着も禁止だし、どんだけ自由が許されないんだ、公務員とか言う奴隷制度。まぁ、時間外つくからいいんだけど……しかし、意地で電子に移行したはいいものの、今日に限って充電するのを忘れるとは……下着も服も厚いものだし……最悪の連続だ……これが厄ってやつか……おい、誰が厄年だって? そんな歳に見えるのか、この私が、ぶっ殺すぞ! ……あぁ、お祓いにでも行くべきだったか……アチィ……この恨み、絶対門叶の野郎にぶつける――」

 なーにを一人で言ってるんだ、あの人は。

 振り返るとそこには、何故か作業着姿の宇都宮先生が柱の陰に隠れているのが見えた。と、言っても、怒髪衝天の怒りを露わに、服の胸元をパタパタ仰ぎながら背中を曲げている半身が飛び出し、とても隠れているとは言えない。……某船医系トナカイのような様に自然と苦笑いが浮かび、なんでそんな所に生息しているのか、なんて疑問も吹き飛んでいた。

 仮に宇都宮先生が妖怪ならウォッチしても良い所だが、ご生憎様俺にだってそんな余裕はない。そもそもそんな摩訶不思議な道具持ってないし、妖怪が見える程純粋じゃない。それにスピリチュアル的な事を信じてない訳ですしお寿司。神様お願い、俺の人生にモテ期をぉ!

 とかなんとか。千思万考の末、俺は宇都宮先生を無視することを決め込んで、手で小槌を打つ。

 大体あーいう大人に関わっちゃダメなんですよ。子供の頃に良く言い聞かされた様に、怪しい大人にだけは警戒しろ、少しでもそういう雰囲気を感じ取れるのなら大概はヤバい奴だっていうのが世間の流れなんですよ。だから子供が泣いていても俺は話しかけられないし、女性が倒れていても触れるのに躊躇するんだ。そんな機会今までないし、全部妄想で実際は焦って考えている暇も無いんでしょうが。

 あと、サングラスをしていてよかったって心から思っています……だって目が合ってもバレないし、近づかれたら恨み殺されそうだし……。

 なんて、そんな事を考えている折、ふと宇都宮先生の気だるげな視線に捉えられる。その視線のジトジトとしている事……大変湿度が高く、俺が悪事を働いたと錯覚するには十分なくらいのジトっぷりだった。直に目を合わせていたら、本当に呪い殺されていたかも知らない。……妖怪ってか幽霊だなこれ……。

ただ、非常に残念なことに、そんな視線も向けられ慣れていた。これは一つの例だが、文化祭の準備で荷物を持って行ったその帰り、廊下を歩いていただけなのにサボっているという印を押され、謝罪させられ、周囲の視線を受けながら、罪悪感に苛まれたのを思い出す。……いや、俺、悪くないんだよなぁ。 

 今回もまた、それにも似た罪悪感に囚われて視線を外せずにいると、遂に宇都宮先生は全身を露呈し、ドスドスと足音を立てながら近づいて来る。

 その音の鳴る度に自然と俺の背筋は曲がっていき、体は汗をかくことすら忘れていた。

 あぁ、里香ちゃん……。と、ある漫画を思い出しつつ、ふと我に返る。

 ……これ、今日というこのイベント、何なんだ……? あまりにも理不尽な出来事が立て続けに起こり過ぎて色々と言いたいことがあるんですが、まずは一つ――

「俺が来た意味無くね?」

つい口から出たその言葉に答えたのは、いつの間にか目前までやって来ていた宇都宮先生だった。頬は紅潮し、じんわりと汗を浮かべて瀕死のようにも見えたが、口元だけは確かな笑みを湛えている。

「いや、ある。それに、それはまだ始まってすらいないな……。というか、よくもまぁ私の変装に気が付けたな、門叶……」

「……はぁ。俺がメタルギアの敵なら見逃してたかもしらないです」……、てか無視したかったんだけどね。

あと、いつも通りと言えばそうなんだが、なんだこの人の言い回し……。ボリューム無いのを隠そうとして変に難しい言い回しの事を喋らされてるRPG序盤のストーリーテラーなの? ちょっとわくわくさせてくるのやめろよ……回収されない伏線ほどモヤモヤするものは無いんだから。

「……ハッ!」

「どうした、作業着姿の私が珍しくて性に目覚めたか?」

ちげぇよ。若干前屈みになって少し胸を寄せるのやめてくれ、心臓に悪いから……。あと、私服禁止がどうとか散々文句言ってたろ……。

だが、しかし。俺も変態という名の紳士の一人。首元から胸元へ、滑り落ちる汗を目で追いかけつつ、無意識に唾が喉を流れて行こうとするのを抑えて、大きく息を吸う。

完全にペースをメーカーされてしまった。このままじゃいかん……主導権を握らなければっ。

こういう場合、質問の意味は最適でなくても構わない。大事なのはスピードと、意趣返し的な雰囲気を纏いつつ、相手に考えさせるものであることだ。

「先生がわざわざこんな所まで来た意味は、始まってるんですか?」だめだ、学がねぇ。

「…………ふっ」

ムッと眉根を寄せて逡巡の後、小さく笑った宇都宮先生は姿勢を戻し、何故か温柔な視線を向けてきた。

……これが、大人の余裕、なのか? と、相手が居るにも拘らず、一人戦争状態に陥った現在の状況に嘆き、肩を落としていると、その上に手がポンっと置かれた。

「話がある、茶でも飲もう」

そう親指で駅構内を指さす姿はとても格好よく見えたが、その後直ぐ、何手も先に速足でそこへ向かう背中は、自分が涼しい場所に移動したいというのを物語っていて、何とも言えない複雑な心境だよ。

大人の人って、弱音吐くのが下手なんだなぁ。なんて見送りつつ、背後を振り返り、今現在の変わらぬ長蛇の列を眺める。

バスは周期的に来てはいるが、多分、他と差異なく電車の到着時間によって定められているのだろう。

俺がここに来てから一度だけ人の群れが構内から吐き出てくるのを見たが、その際もバスは居た。勿論、その殆どが乗れてなかった訳なんですけども。

後から来た人間はそれに気が付いているのかどうなのか、何の疑問も持たずに列に並ぶ姿は滑稽で、それを傍からふへっと笑って見ている俺はもっと下品で滑稽な事だろう。

正直、宇都宮先生が来てくれてよかった気がする。

行き当たりばったりの道すがらに、それを見守っていた案内人が我慢ならなくなって登場し、導いてくれるような安心感がある。

ここまでの道のりで分かった。

俺は、社会的な集団行動規則というのが、根本的に向いていない。

多くの人が当たり前にすることを、俺は当たり前に行動に移せない。

人混みの中は、そんな訳が無いのに敵に囲まれている様な気分になるし、何もせず、ボーっとしている自分が苦しくて、存在していいのかすら疑うレベルだった。

長い道のりを経験すると、自分を見つめ直せる。

それは、多くの物語に言える事だろう。

ただ、俺の物語にそれは必要ない。もっと劇的で短略的な変化を求めている。

本心の表面上では、きっと————平穏に暮らしたいのだと、俺自身がそれを求めているのだと————そんな上塗り駅でひた隠し、完全に納得し切っていた。

それを、慣れない環境と道すがらを経て、ようやく気付くことが出来た。ただそれは、上塗りの部分に過ぎず、本心の正体は全く掴めない。

この世に生まれ十六年が経過した俺の心は、その頃からなんら変わらぬ姿のまま、小さな町の一軒家から、全く外に出ていなかったのだ。————だが、今なら分かる。

そんな外にある未開の環境こそ、自分自身の心身に変化をもたらす大きな要因になり得るということを。

そしてそれらはその良し悪しに限らず記憶として残り続け、反省と成長という形に変わり、目指すべき未来へとコマを進める一手となる。

そしてそれを、この時の俺ですら待っていた筈だった。長年変化を成さず、成長してこなかった自分を変える、外的な要因を。

絶えず進み続けるタイマーに気が付いていて尚、その一手を打てず、手をこまねき、その事実に焦りすら覚えていても行動を起こしてこなかった俺の尻を叩く何かを。

しかしまぁ、なんというか。故に、気が付いたのは一年後の俺自身の話な訳で……。

結局のところ、人なんてものはその経験を経ていつ成長するかなんて分からない。だからこその記憶だし、俺でいうところの帳と映像な訳だ。

遅効性の経験値とか、ロールプレイの世界だと許されないが、現実だと往々にしてある。

自分が何歳で、そろそろ誕生日で、大晦日で、年度末で……。

この世は複雑化し、節目なんて探せばキリがない。

なんなら、時計や時間の概念がない世界で、自分の目標に関係のある事柄だけ……そのタスクだけこなせる場所があるのなら……。自分から行動できるのなら、それがベストで最も最短のルートだろう。

だが厄介な事に、事俺になるとそうもいかない。

一時期流行った共依存なんて言葉があるが、その通り。今の俺は、それまでを一人で過ごしてきた人生の反動で、それを基にしなければ成長しなくなってしまっている。

つまるところ、この話を経た後の俺だって、まだまだ未熟な人間の一人だ。

それでもいつか。冱雪に憧れられるような唯一の人間に成れれば、その時は————。


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