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第三章 そうして今日も夜の帳は下りる


 煙草の煙が云々と語り尽くした後に受ける夜風は、格別に冷たく感じた。海へと向かうその風は、町の賑やかな飲食店や眠たげな花々の匂いを乗せて俺の心を拭い去り、清々しさにも似た気持ちへと転換させられた。

 とはいえもう夏間近なので、暑いのに違いない。薄っすらと汗ばむシャツのボタンを外してパタパタと扇ぐ腕が止まらない。このまま鳥になるのは勘弁なので、早く涼しくなって欲しい。

 ズボンの内側も靴の中も蒸れに蒸れて辛い。夏用とはこれいかに、全く機能してない。

 と、言う訳で。現在、街灯がぽつぽつと仄かに照らす例の国道沿いを、夏への不平不満を溢しながら家へと向かってひたすらに歩いている。桜の木は既に緑付き、それもまた情緒的で綺麗に見えた。

そしてそのまたさらに現在、道中にあるコンビニを前に嫌なものを見て立ち尽くしています。

 ここで一つ、皆さんに考えて見て欲しいのですが……自分の妹がコンビニ駐車場前でそこそこやんちゃそうな男二人に囲まれて口論をしていたらどうしますか? 注釈として加えとくと、ほんの少しガタイが良い。俺みたいな中肉中背情けなでっぷりお腹なんかじゃ無く、結構引き締まって見える。アロハシャツに短パンで骨格丸見えだから、筋トレとかしたことない俺でさえわかる。あと、このバチクソ暗闇の中でサングラスをかけている。……なに、五条先生なの? あれ。じゃ、尚更勝てねぇだろ。……てか、我が妹がどうしてこんな時間に外出しているんだ……? 土日にこの時間に帰ってくるのは知ってるが……。まさか、男……⁉ 可愛い子を置いてコンビニの中で買い物を続けるクズ男が居るのか……⁉

 と、それら諸々を統計して俺の判断としては――

「帰ろ」

即踵を返して別の道を行きます。隣の道を行くのは遠回りにはなるが、総合的にみるとイベントも減って早いだろ。またここで重要なのはチラッと目があった気がするけど気にしない事。

なぜこのように非人道的な道を選ぶかと言うととてもシンプル。関わり合いになりたくないし、妙にリアリティのある痛々しい未来が顔を覗かせたからだ。情けないが、痛いのは嫌だ。殴り合いなんかクソくらえってアドラーが言ってた。そもそも人間が進化できたのも対話能力があったからであって、暴力じゃなにも解決しないんだぞ! でも不良漫画は大好きです。あの非現実感が堪らないんだよね。もっとやれ。

そうして、なるべく先程の悪夢のような光景を思い返さないよう影になり切り、モクモクスイスイ歩いていると、まったく進まない内に刺すような視線が背中を急襲した。その疼々とした鋭さよ。背骨が全部抜かれたみたいな悪寒が走り、全身の感覚が無くなった。

ビクッと体が反応し、足が勝手に止まる。いや、あの……動いてもらえますか? 今までの行動全部見られてんだから、ヤバいだろ。

ほんの少しの間、そんな他人行儀で傍若無人の足をシバイていると、誰かが思い切り息を吸う音が、静寂の凪を貫いて鮮明に聞こえてくる。

そうして、俺が耳を塞ぎきる前に――

「変態!」

「「あ⁉」」

妹と男二人の声が手を伸ばして俺の肩を掴んだ。その力強い事よ……肩甲骨外れたかと思った。いっそ外れりゃいいのになって思う程だ。いやあと、変態とかお前で呼び方定着してるのなに? 前者を電車内とかで呼んじゃったら俺、しょっ引かれるじゃん。二人で旅行行けないじゃん……あ、そんな機会無いか。

あの、どうだろう……ここで一つ手打ちでも、と考えたところで心は通じ合わない。背中に受けるジリジリとした視線は強くなり、凍えた背筋が端から割れていく。

俺たち、家族だよね? ……ね?

「おい! バカカス変態!」

と、今度は後頭部に強弓のような手痛い一撃。

いや、その元気あるんならさっさと両隣のやっちゃってくださいよ。あと、逃げるくらいなら出来ない? 俺の胸にダイブしてきてもいいんだよ? その後何もできないけど。

とはいえ、年頃のか弱い女の子には酷な話なのかもしれない……そう思わないと癪に落ちない。

諦めて振り返ろうした途端、体が驚くほど一気に楽になる。

更に、猫背で後頭部に手を当てて申し訳なさそうにしたつもりが、気だるい系の主人公みたくなってしまった。

いるよね~、そういうヤツ。あぁいうの嫌いなんだよ……気だるい系の奴って絶対脳内お花畑だから。俺TUEEEとか強盗が入ってきたらとか常に妄想してる。ソースは俺。

あぁ~、キモいキモイと自己嫌悪に浸りつつ、恐る恐る顔を上げる。

その先では、鋭い視線が三つ、俺を睨みつけていた……おかしいな、計算が合わない。あって二つだと思っていた。というか、思いたかった。

まぁ、無視しようとしたしそれを見て怒っても無理はないって、一度は理解しようとはしても、一つだけ色も眼光も飛び抜けているのはおかしいじゃありませんか。最早殺意を纏っていたし、瞬きもしてないのは違うでしょうよ。

そして、こういう時って何で普段通りの声が出ないのでしょうか。なんとか「やぁ」とカラッカラの上擦った声が肺の空気を絞り切りながら出てくるが、格好が悪すぎる。

ついでに上げた右手が風と視線を受けて冷たい。ので、直ぐにポケットにしまう。

あと、呼び止めた癖に三人して黙るのやめてね。俺が悪いみたいになってんじゃん。

俺、無言とか耐えられないんだよね。って教室の明るい奴が言ってたけど、絶対にカフェとか映画一緒に行けない。そもそもそんな機会ないんだけどね。

俺の学園生活バラ色だね! やったね!

あぁ。高校デビュー、しときゃよかった。あ、そんな度胸ねぇや。「うぅ――。」

「…………一人で何してんだ! 早くこっちに来い!」

天を仰ぎ見、腕で目を隠す俺に、容赦ない声が投げかけられる。

耳疑うんだけど、今のって俺の妹の声だよね? 男二人のどっちかがやけに声高いとかじゃないと納得いかないんだけど。

あと、色々振り返った末にもう何も怖くない。

ういうい。行ってやるよォ! と引け腰で向かっていると、その途中。

「あとお前ら、いつまでそこにいんの?」

と、不機嫌に溢しながら、我が妹が俺に背を向けた。

そこで立ち止まって様子を見守る。内心、あー良かったと思う反面……まだ半分くらいしか近づいて無いので早く終わらせてほしい。

車とか危ないじゃん! 迷惑だよ! って思うかもしれんがね。我が妹ながらフルスモークの黒いミニバンより怖いのよ。一応歩道内だし許せサスケってイタチも言ってた。

すると、俺が想像していたよりもより容易に事は終了した。

要約すると、我が妹が一人ずつの肩を掴んで腹パンかましてた。

我が妹――朝星ちゃんの背中で隠れていたおかげで、俺は痛くなかった。俺ってば人の気持ちが思いっきり伝わっちゃう共感性の鬼だからね。だからリアル暴力は怖いです。

朝星ちゃんってば、それを分かってるんだよね! うんうん優しい子!

「お前は早く来い!」

「はい!」と、兄として情けなくなる程の声量で返事をする。自然と背筋が伸び、目がギンギン。かわいらしい朝星ちゃんのご尊顔に夢中です。

いや~ん。朝星ちゃんてば甘えん坊なんだから~。とか考えながらよちよち近づく。じゃないとやってられないからね!

そんな俺とすれ違うようにして、お腹を抱えた男二人は何故か足を引きずりながらコンビニ前駐車場を去って行った。なんかマップのエリア名みたいでいいね、コンビニ前駐車場。あと、去り際にすっごい睨んで来たけど、俺、何にもしてないからね? そういうの結構尾を引くからやめてください。寝る前とかすごい思い出しちゃうんだよ。不眠症になったら医療費請求するよ? 開示しろ! 開示!

「ふぅ……男風情が二度と近寄ってくんなよ~!」

目の前まで来た頃、朝星ちゃんが手でメガホンを作って俺の向こう側にそう叫んだ。相変わらずの男嫌いだが今の時代、そういう発言は良くないぞっ! 声に出して言えないけど。

朝星ちゃんはパンパンと手を打ち払い、俺を見上げる。

その瞳に釘付けになり、目が離せなくなる。さっきまでは街灯とコンビニという無個性なオブジェクトが放つ淡い光のみが存在した夜の幕が破られ、その世界に俺がいることを自覚できた。呼吸が気になり、顔がムズムズした。

あと、誤解を招かないように言っておくと、別に好きとかじゃない。あ~いや、好きなんだけど……ラブじゃなくてライクの方ね! って小中学校で女子に言われ尽くされました! 俺って恋多き人生よね。つまりはそういう事だ。

端的に言うと、朝星ちゃんは怖いけどそれを上回る程とっても可愛いのです。

まず何と言っても見た目だろう。ブラックブルーに輝く長い髪がくっきりとした首筋を通って緩やかな肩を流れる。スッキリとした輪郭と横に大きな口は美人と可愛さを両立させ、ギャップで萌え死にそうになる。長く筋の通った鼻から目線を上に上げると、わざと細めた目がこちらを見つめている。目の下の深いクマは不健康さを助長していた。小さな体躯から伸びる長くスラっとした脚がスカートから飛び出し、目のやり場に困る。要するに、強さと隠れた弱さと可愛さと綺麗さを兼ね備えた、超絶怒涛究極完全体キングオージャーである。

目が合ったのが気まずくて、自然と視線を下に降ろしていく。

そしてすぐにそれを後悔した。ダル着の制服から小さな膨らみが見えそうになってしまったからだ。……最低だ、俺。とどこぞのシンジくんばりに懺悔する。

ちょっとドキマギしたのが自分でも気持ち悪く、半ば諦めてしっかりと目を見つめ返すことにした。が、その先にあったのは俺を侮蔑するような視線……。

朝星ちゃんは胸元の襟をキュッと握りつつ、更に目を細めて口を開く。

「……キモッ」

「わ~お」

え~。一番効く単語堂々たる第一位です。極々心が痛む痛烈な会心の一撃は俺の脳髄までしっかりと届いた。心がキュッとなって言い返す気力も無い。

自分に呆れた呼吸をするために深く息を吸うと、ジャスミンやホワイトムスクの匂いが流れ込んできて吐くのが憚られる。毎日お風呂で嗅ぐ匂いと全く一緒で、ドキッとしてしまう。

「ところでさ――」

そんな俺に、悪魔は容赦なく囁いてくる。悪魔の囁きは誘惑的で断れないよね! 決して俺が朝星ちゃんに負い目と怯えを感じて逆らえないとかではない。

「何か奢ってよ」

その言葉に対して「うい」というのが、俺の精一杯の強がりだった。じゃあ、負い目も怯えもあるわ。


どうして俺が朝星ちゃんに敵わないのか。一足先にコンビニを後にした俺は、Wコーヒーとかいう名前の、只の超甘いカフェオレを仰ぎながら考えてみる。あまりのタイトル詐欺に顔を歪めながら裏の成分表を見ると、Wの正体はホワイトチョコレートらしく……飲む度に顔が干し梅みたいにクシャっとなる。……チョコとミルクって混ぜると直ぐ固形化するから、本当にチョコしか入ってねぇんだろうな……。カフェイン過剰摂取で死亡者でんで、コレ……。

まぁ、ただその代わり。買ったばかりでキンキンだったため、口から喉を伝い、最後には体の中心からスーッと体温を奪っていくのが分かった。

そして次第に、周囲の環境から自身の存在が浮いて感じ始めた頃。脳の思考速度が現状で出る最高速に到達した。

……目を瞑ってみると、そこで過去の回想が始まる。

「――にぃに。それ、ちょーだい」

「…………」

朝星ちゃんはおぼつかない足取りで、俺の返事を聞くよりも前にグミを奪っていく……残された指の上のグミを、涙目で咥え込む。その時俺は、理不尽の存在を知った。五歳の事だ。

「――兄ちゃん。それ、頂戴」

「……うん、なら、一緒に――」

朝星ちゃんは視界の外から突然現れ、オルゴールやレゴブロックの入った当時の俺の趣味全開で満ちた収納ボックスを持ち上げる。まさかと少し先の未来を想像すると、声が詰まり、何も言えず、ただただ様子を見守っていると、つらっとした様子のまま鼻を鳴らして部屋を出ていった。俺は残された数十ブロックを指で弄ぶ。その時俺は、諦める事を知った。八歳の事だ。

「――おい変態。これ貰ってくぞー」

「嫌です」

「あっそ……あ、そうだ。じゃあさ兄貴、ベッドの下の――」

「はい。どうぞ」

俺は自主的にゲーム機を、お茶請けを添えて朝星ちゃんに渡す。踵を返した朝星ちゃんの背中を見送ったのち手持無沙汰になった俺は、ベッドの下に手を伸ばす。その時俺は、輸攻墨守における墨守の脆さを思い知った。……使い方違うか。まぁ、いいや、十四歳の事だ。

「――お前。それ、寄越せよ」

「はい。どうぞ」

何を? と聞く前に答えてしまう。朝星ちゃんの人差し指の先にあったのは、ノートパソコンだった。後悔噬臍、どうぞって言ったからには渡さざるを得ない。涙ながらに手渡すまさにその瞬間、DVDドライブにとんでもないブツを入れたままだったことに気がついた。微かな抵抗の末、ひとつなぎの大秘宝は俺の手を離れていく。その時俺は、服従の妄信っぷりを思い知らされた。これもなんか違うな……まぁいいや、これはつい先日の出来事だ。

……あれ、全部自分の部屋で起きてんだけど。あそこ、ダンジョンかなんかなの?

そうしてこめかみを押さえていると、反対側の頬がツンと痛んだ。

目を開き、街灯の眩しさに瞼を奪われつつ、隣を向く。そこには、握った拳を前に伸ばす朝星ちゃんが立っていた。俺が顔を動かすと同時に朝星ちゃんが一歩後ろに、全体が見えるようになる。拳の奥には太った鞄が見え、反対の手にはビニール袋が下がっていた。

……なんだ、この拳。

よく分からず、無意識にグータッチしてみると、明らかに朝星ちゃんが不機嫌になった。目は鋭くなって鼻をふんすふんすと吹き鳴らし、髪も逆立っている。なにこの子阿修羅なの? ちょっとした兄妹のスキンシップじゃなーい。

「おい」

調子に乗って何度かトントン拳を突き合わせていると、遂に朝星ちゃんが口を開いた。怠いような、情けないような、何とも言えないトーンだった。

そんなにお兄ちゃんが気の毒ですかね。なんて思っていると、朝星ちゃんが拳を開いて中のお金を押し付けてきた。お釣りでも何でもない。俺の渡した千円札が二枚、そのまんまだった。

「――見てこれ! 流石に小さくね⁉」

動揺して二千円を揉む俺をよそ目に、続けて朝星ちゃんは袋から某グミを取り出して、空中でバサバサした。

「……うん」

何が言いたいかは分かるんだけども。久しぶりに見つけて手に取ってみたら、あれ小さくなった? とか、なんか少なくね? とかなるけど。たゆまぬ企業努力があってなんですよ……多分。

朝星ちゃんが今持っているのは前者の現象。なんか妙に小さいし、デザインが変わっている気もしないでもない。

「なんかさ。昔はこれ一袋でおやつになってたんだけど、今じゃ無理――」

「いや、それでも結構量あると思うんだけど」

「ねぇよ」

「あ、そっすね」

話終わりに、うむうむとグミを口に放り投げて食べ始めた。その様子は女の子らしい。

……忙しい子ね。と、母親目線で微笑ましく見つめる。

あと昔っていう程歳取ってないでしょ、あなた。若くてピチピチなんだから、立派な鮮魚として社会に出荷される義務があるので頑張ってください。

てか。

「そういえば、お金はどうしたの?」

財布を開くのが面倒で、二千円をポケットに突っ込みながら聞く。それに対して、ムスッと不機嫌な表情になった朝星ちゃんが答えてくれた。

「金、無いだろ? バイトとかしてる様子ねぇし」

「……まぁ、そうなんですけども。てか、バイトしてんの?」

「あぁ、ううん。名月って人の紹介で、カフェのお手伝いしてんの。————てか、まだバイト出来ねぇし」

なら、どうして俺のお金を……? くしゃくしゃに丸まっただけじゃん。まぁ、トドメを刺した犯人は俺なんだけど。

色々と疑問が残って口をもごもごさせていると、そんな俺を黙らせるみたいに「ほら」と言いながら朝星ちゃんがグミを一つ投げてきた。

それを受け取り、ノンタイムで糖質マックスの口内へと放り投げる。いつも通り、すっぱい粉(正式名称不明)で舌が痺れて来た頃に、グレープの風味が口内と鼻腔を占め尽くす。小さい頃から慣れ親しんだ味だ。

……そういえば、久々に食べたかもなぁ。と、懐かしみながら舌の上で転がす。

「この粉を舐め切ってからグミ本体を舌で歯に押し付けて刻むのがいいんだよな」

「キモッ」

「えぇ……」

暴言までがあまりにも早い。もうほとんど脊髄反射のレベルで芸術点も高い。

ただ、俺の憂愁めいた顔を見てか、朝星ちゃんが小さく「だってそれ……普通に行儀悪いし」と、そっぽを向いてボソッと零していた。

あらもう、優しいんだから。気にしなくてもお兄ちゃんは大丈夫よ? むしろこのくらいじゃれ合いが無いと、本当に兄妹なのか心配になっちゃう。

というか――

「マジか。これが企業推奨の食べ方じゃないのか……?」と肩が落ちる。

「んな訳無いでしょ……まぁ、でも。食べ方なんて自由だし……私が勝手に想像しちゃっただけだし……今までの蓄積でキモが爆発しただけっていうかなんというか……」

「ほぅ」

これは興味深いですねと、古畑ばりに感嘆しつつ顎に手を当てて考える。

色々と理由を述べてくれるのは良いのですが、そのうげぇって顔を戻してくれないと意味無いですからね? お兄ちゃんはずっと悲しいのですよ。とはいえ、俺がキモを蓄積させたのが悪いな、うん。過去の俺、メッ!

なんて、雑に過去の俺を叱りつけていると、隣で朝星ちゃんが何処か遠くを見つめたような表情で口を開いた。

「二人でこうしてると、ちっさい頃思い出すな~」

「……あぁ、うん。そうね」

ダメだ。なにもかもを奪われた記憶が邪魔をして感動に持っていけない。さっきの回想、マジで余計な事したな……。まぁ、その話題が出ただけで嬉しくはあるんですけども。てか――

「あと一ついいかい? 朝星ちゃん」

「あん? なんだよ」

「……そんなに食べて太らないの?」お兄ちゃん体調心配になっちゃうよ。

「っ! てめぇ!」

顔を真っ赤にして腕を振るう朝星ちゃんの一撃が俺の腹部に突き刺さる。

……えぇ⁉ マジで心配してるだけなのに……。

しかし、多分、きっと、あのナンパしてた男よりは痛くないと信じたい。……痛いのに変わりないんだけど。因みに呼吸は出来てない。

久しくこうして会話をしてみると、普通の女の子なんだよね……。最近ちょっと太り気味なの指摘されて怒ってるし。……ちょっと暴力的で、単発でのやり取りだと、脅迫めいててすごく怖いんですけども。でもそれも朝星ちゃんらしくて大好きなんだけどね……なんだろうな、上手く言葉にできない。

と、そう考えたところで、いいアイデアが浮かび上がってくる。感情の表れ比較的が少ない、最高のコミュニケーションツールを用いた愛の伝達。

「朝星ちゃんって文通とか興味ある?」

「ない」

「はい」

即却下。審査すらされない駄文でしたね。キャラへの愛も無いし話にまとまりも無い、テーマも伝えたいこともターゲット層も分からないから、プロットからしっかりと考えて、それらを再度まとめて書き出してからかき直してください。

…………あれ、何だろう。聞き覚えも無いダメ出しの数々に涙が溢れそうだよ。

「そもそも、そんなもんするくらいならスマホで良くない?」

「いやぁ、俺……電子系の連絡ツールって苦手なんだよ」宇都宮先生程では無いけど。

「……何でだよ。かなり便利で使いやすいだろ……少なくとも、文通なんかよりは」

「いやぁ、そうでも無くない? 既読スルーだの未読スルーがどうだの、一々返信するのが面倒なんだよ………いつ会話が終わったか分かんなくて、スタンプラリー続いたりするし、通知はうるさいし――」

「お前、そんなに連絡来ないだろ」

「………………うぅっ」

俺がマリアナ海溝よりも深い絶望の淵で泣き崩れていると、朝星ちゃんが「あのさ」と話を切り替える。

「一つ聞いてみたいんだけど」

「はい。」

至極真面目な口調に、本日の本題が始まったな、という空気を感じ取り、俺も泣いたフリを止める。

朝星ちゃんはグミを閉じてビニール袋にしまってから、改めて俺を見上げる。吸い込まれそうな瞳は言わずもがな、震える唇と繊細な指を見つけてしまうと、俺も妙な緊張感に包まれてしまう。

しばらく見つめ合う時間の中で、ゾクッと嫌な予感が脳裏を過る。

……まさか、男ができたとか言わないわよね。お父さん、許しませんよ! まだ若いんだから、色々世界を見てからでも遅くないんじゃなかしらってお母さんなんか思うのだけれど。お兄ちゃん的には嫉妬でその男を呪い殺す可能性もあるからやめておいた方がいい。……真の俺を解き放つのはやめてくれ、朝星ちゃん……!

と、中二病全開のごちゃ混ぜもんじゃ姑ムーブを展開していると、遂に朝星ちゃんが口を開いた。

「お前の行ってる高校って、偏差値高いよな……確か」

「う~ん。いや――」

と、いつもの癖で何も考えずに発言しようとして踏みとどまる。

朝星ちゃんは怪訝な表情になるが、こればっかりは適当に答えられない。下手な答えをすると、朝星ちゃんの将来の足枷と成り兼ねないからだ。

俺は無意識のうちに顎に手を当てて唸っていた。

絢漣星華舞清高校には進学科、普通科、総合学科の三つがあり、この高校を出て何を目指すかによってどの科に入るかが異なる。ただ、その科ごとの偏差値が頭の良さを示す指数かどうかと言われれば絶対にそうではない。

例として挙げると、普通科はサッカーやバスケ、弓道などのスポーツ推薦が多いし、総合学科においては看護師等の国家資格を目指すクラスもあれば、美術等技術的な関係を専門するクラスもある。いずれも普通高校における教科内容は押さえているし、なんなら部活や専門教科に重きを置いている分、進学科との難しさのベクトルが完全に違ってくる。

それに、一概に進学科とはまとめても、二年生に上がる時には特進コースと分岐して、これに関しては明らかに偏差値が変わってきてしまう。目指す大学の難易度や学びたい最低限の内容、理系文系の選択、進路希望など見つめる将来は人によって異なるから、これも当然と言えば当然で、指数と成り得るかは分からない。

が、今回の質問に対する答えとしては適切では無いと思う。この場合、一番平均偏差値の高い進学科の特進コースを他校と比べた方は良いのだろうが――。

「ごめん、分からん」

「は?」

色々と考えてはみても、分からない。……というか、気にした事がない。絢漣星華舞清高校を選んだのも、偏差値とか将来の後押しになるからとかじゃ無いし。明確な進路希望も夢も無い。

「お前、何であの高校選んだの?」

「…………さぁ?」

「さぁ。って……」

朝星ちゃんは呆れた、とでも言いたげなジェスチャーをして見せる。

まぁ、これから受験を目指す身において呆れちゃうのも無理はないと思う。けど、自分が何を目指してるか、なんてよく考えたこと無いし、結構なあなあと生きてきたんだけど……俺って異端? 異端俺カッケェ……。

「無理やり理由を捻りだすんなら家から近いからだけど……参考になった?」

「ならねぇよ」

「ですよねー」

俺が悪かったから脇腹をぐりぐりするのをやめてください。俺って脇腹かなり弱いんだけど、これが効かない奴ってなんなの? 俺も「効きませんけど?」みたく自慢げにツラッとドヤってみたい。将来の夢が見つかりました。

「ところで、何でそんな事聞くの?」と、改めてグミを食べ始めた朝星ちゃんに聞いてみると、それまで鼻歌を歌っていたのが嘘みたいに眉尻を吊り上げる。

「全く参考にならないアンサーをした奴に言う必要ある?」

「……ごもっとも」

ふと、関係ないが、俺ってラッパーは向いてないなって思った。語彙力の無さも相まって即答なんてできないし、悪口言われたら泣いちゃうか納得しちゃう。たまにバトル動画で見たりするミーハーだけど、容姿とか過去とか変えられない部分を攻めていくMCが気に食わない。こんなんだから、間違いなく無理なんだよね。……あれ、何の話だ……。

キリも良いと判断し、既に無くなった筈のWコーヒーを仰ぐフリをして帰宅ムードに持ち込もうとすると、下目に朝星ちゃんが見上げているのが見えた。

そんなのを見ちゃうと、どうしてもWコーヒーを下ろせない。今や風呂上がりの牛乳くらい地面に対して垂直を向いている。生まれて初めて、無機物である三角定規の気持ちが分かった気がするよ。皆も気まずい時は擬態しよう!

そうして朝星ちゃんの覚悟を待つという上辺の理由の裏でその実、俺から切り出せないでいると、少しして小さく息を吸う音が耳に届いた。そこでようやくWコーヒーを下ろす。

目を瞑っていた朝星ちゃんと入れ違い、遅れて目が合ったが、そこに先程までの視線の鋭さはみられない。目一杯の瞳が細やかに揺れているだけだった。

「――私はさ、兄貴」

そんな声を聞き、「うっ」と、反射的に声が漏れてしまう。背筋もピンと伸びる。

それを見て、朝星ちゃんは開いた口を閉じて歪めた。目はさらに細く、ほぼ糸目みたくなる。カッコいいよね糸目キャラ。俺も一時期意識的に作ってたもん。

「……なんだよ」

「いや、ごめん」

久しぶりに兄貴って呼ばれて、心臓が高鳴っているだけなんです。

……さっきも嘆いたが、最近呼ばれるときはいつも、おいかお前か変態だったし……内心嬉しいとは思うんですが……凄く不思議な緊張感が俺の世界を侵食し始めていて、心がキュッとなって凄く不安になる。

コンビニからの弱い光が朝星ちゃんの輪郭に沿って揺らめき、真っ暗な視界の中に浮かび上がるようにまでなった。少し詩的な表現になったが、要は朝星ちゃん以外の物事が意識の外に行ったという事だ。怯えた俺の心は、唯一の拠り所である朝星ちゃんに寄り縋って依存している。……嫌な未来を勝手に想像し、そうならないようにと勝手に否定する。

それはつまり、それまでの朝星ちゃんの相談について本心では生半可に聞いていたことを示唆していて、そんな事を考えた途端、唐突な自己嫌悪に陥りそうになる。

……悪い癖だ。

目を瞑り、何度か深く呼吸する。

今さっき感じた不安や緊張はきっと、朝星ちゃんが続けるであろう言葉を色々と勘ぐった結果だと思う。幼い頃から、そう言った事柄に関してはよく頭が回ったし、良くない事だと自覚している。今回そのトリガーになったのは、普段と違う呼ばれ方だろうか。

それを受けて始まるのが、いつも通りの一人芝居と自己嫌悪。なにもかもが妄想の絵空事で、それらの裏にあるのは自己陶酔だ。

表ではどれだけ演技しても、自分が好きなのかもしれない。宇都宮先生に何度か言われ通り、嫌われるのや罵倒されるのが、嫌で嫌でしょうがないんだと思う。……認めたくはないんだけど、俺も社会に出た人間と遜色なく、その内のひとりだったってことだ。

それに、良くも悪くも、昔はそう言ったことが的中してきたし。そうしていると、実際になった時に心が幾分か楽に痛んでくれる。

しかしその身についた癖は、毎度毎度俺の心を蝕む。それはきっと、これからも変わらない。

よし、俺ってばキモイ。Q.E.D.この話は終わり! と脳内でその話題を手放す。

とにかく、今俺に出来ることは、それらすべてのプライドを捨てて朝星ちゃんの話を聞いてあげることだ。

「――大丈夫なの?」

再び視線を交わした時、朝星ちゃんが怪訝そうに問いかけてきた。

目の前の人間が突然目を瞑って深呼吸し始めたんなら、当然の態度だ。

それに対し、俺は満面の笑みで、

「あぁ、うん。大丈夫」

と続けた。するとそれを受けて朝星ちゃんは、「うわ」と漏らしていた。

清々しいまでの意味不明な態度を受けてか、若干身を引いている。……あの、うわってやつやめてください。前準備無いとメチャクチャ傷つくやんけ。やっぱり、最悪の未来は想像しておくに限るのかもしれない。

「……もういいや。別に急いで話すようなことでもねぇし」

「あ、そうですか」

俺って信用ねぇなって気落ちする。それまでがあるから当たり前なんですが。

自然と肩が落ちた俺を見てか、朝星ちゃんがスクールバッグを背負い直して続けた。これも、自意識過剰なんだろう。……よく考えれば、ただの後腐れ無くするための一工夫だ。が、この時の俺はそれを聞いてただただ嬉しかった。

「……………………相談、聞いてくれてありがとな」

「――ぽっ」

「ぽって…………てか、忘れてるっぽいし……」

朝星ちゃんは何度か口をパクパクさせつつ尻すぼみに何かを言っていたようだったが、聞き取ることが出来なかった。するとそれに気が付いたのか、次第に顔を赤くして、言葉の続きを飲み込んだみたいに唇を尖らせていた。……まぁ、キモとかその辺りなんでしょうけど。

そうして黙りこくっていると、次第に周りの景色と雑踏が帰って来た。

張り詰めた緊張感も無く、いつも通りの心拍数と体温に帰還し、なんなら糖分過多で思考がぼやけてきた。

そろそろ潮時か。いつまでコンビニ前にいるんだって怒られそうだし。

「帰ろう」と俺が口を開いた所で、そこに甘ったるい異質物が放り込まれた。

さっきとば違う、イチゴの味に滑らかな舌触り……うーん、美味しい。つい舌の上で転がしてしまう。あと、久しぶりの糖分オーバーフローに胃の中が熱い。思考回路はショート寸前で何も考えられない。今尋問されれば、企業秘密もバラす自信がある。そんな機会ないけど。

「そういや、お前って女とかいんの?」

「……いないですが」

「気になる奴も?」

「……………………いえ」

「何だよその間」

どうして今、いえ、と答えたのでしょうか。理由は分からないけど、正面切って好きな人いるんだよね~。って、言えるほど人生の場数を踏めてない。ヤリマンギャルってマジ凄い。

あと、その剣幕ってどこから湧いて来るんですかね……別にあなた俺の事好きじゃないでしょうに。傍から見たら狼と子兎だよ? 学園物しか許されないあれね。狼の奴は社会出たら苦労しそう。まぁもっとも、苦労しない人間なんていと思うんですが。

「なんだ。あの高校可愛い子多いのに、勿体ねぇな」

「確かにねぇ」

それはそうだと思う。ただマジで目も合わせられない。セクハラ容疑で捕まりかねんからね。

俺にビニール袋をぶつけながら、朝星ちゃんは帰り道の方を向く。チカチカするコンビニの明かりを逆光に、月夜に照らされる朝星ちゃんの横顔は神秘的だった。

できるだけドギマギしないよう、慎重に口を開く。

「まぁ、でも、ねぇ?」

「あぁ、うん。お前には、無理だろうな」

「ふふ」と皆まで言うなとでも言いたげに小さく笑いかけて来るそのお顔は、我が妹ながら国宝ものだ。

しかし、ほんの少し異論を唱えたい。俺だって別にモテそうな要素あるだろ……絞り出せば……多分。てことで、

「何でだよ」と唸ってみる。

その俺の質問に、「えぇ。言わせるの?」 とでも言いたげに顔に皴を作る朝星ちゃん。逡巡の後、コホンと嘘咳をしてから口を開いたので、瞬時に俺も身構える。

「だって、身長そこそこ高いだけで私服のセンスは皆無だし、顔はイマイチで性格も立ち振る舞いも終わってるし、趣味もギャルゲと映画くらいでザ・オタクだし、女の子と喋る時目見れないしキョドるし、所々で女々しいし――」

「分かった。よーく分かった」

やめて! 鏡くんのライフはもうゼロよ!

とはいえ、改めて羅列されてみると、そりゃムリよってステータスだな。

息継ぎのタイミングで遮ったからか、朝星ちゃんは行き場の無い息をため息に変え、横目に俺と目を合わせてきた。

俺をイジめ飽きたのか、どこかスッキリしたようなお顔で、えくぼもできている。……なんか今日、機嫌良いんですよねぇ。……なんかいいことあったんかな。

「帰ろ」

「あぁ、うん」

あれ、一緒に帰ってくれるのね。嬉しいけどちょっと驚いてますよお兄ちゃん。なるべく時間を空けてから帰り始めてね! って言われると思ってた。これを俺は、浮気&不倫・ラブ・ホ理論と呼んでいる。

そうして、先に歩き出した朝星ちゃんから一歩分後方を追いかけるようにして国道沿いを歩く。隣を歩いたりして拒絶されたら流石に心が持たないので、それをしない。

街灯の仄明かりの中を揺れる朝星ちゃんの髪は跳ねる体に合わせて機嫌よく揺れている。たまにチラッと現れるうなじからそっと目を逸らすと、いまやほっそりとしたビニール袋がその軌跡を残しながら不規則に走っていた。その隣を闇夜に隠れる長くスラリと伸びた脚が風を切りながら真直ぐに道を進んでいる。右足の太ももに目を向け、そっと逸らす。

それら美少女パーツ一覧を直視する訳にも行かず、手に持ったままのWコーヒーの缶をぺこぺこへこませながら看板だの落書きだのを眺めていると、その視界の端で朝星ちゃんがくるりと振り返るのが見えた。

ちょうどその時、走り去る車のライトを受けて顔が見えなくなる。暗くなった表情が読めず、セリフもタイヤの音にかき消されて、上手く聞き取れなかった。

「ガキの時、――――ありがとな」

「…………」

突然、見た事ないくらいの満面の笑みで感謝された理由が分からず、苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。中文で説明はあったのだろうが……幅の広いワゴン車を憎むばかりである。

ガキの時って……感謝される様な事した覚えないけど。むしろ感謝する毎日だ……ただ、たった一つ、朝星ちゃんとの壮絶な日々を思い出してしまう。今となっては何でもない、記憶の隅に追いやって仕舞ってしまったイジメの日々で……その対象が俺ならって、ずっと後悔してきた。右足の太ももにある傷は、俺が付けたも同然で――

痛く、苦しい、相互に抱える苦い思い出は二人の首を繋ぐロープだ。

そしてそれは、感謝される覚えなんてない。今この場で思い出すのなんてお門違いで、朝星ちゃんが最も忘れたい記憶の筈で……俺は、最低の人間だ。

そんな俺を見て、感情を失った機械兵みたいな表情の朝星ちゃんがズイズイと近づいて来る。

「んだよ――人が折角感謝の気持ちを伝えてやったのに」

そう言われ、尚、俺は「ごめん」と、素直に言えず。

「俺も日頃から助けられてるから……ありがとう」と言って逃げる。聞こえて無いのに、聞こえたふりをしてそれっぽい事を言う、俺の悪い癖だ。反射的に出てしまうので、矯正が難しい。

「ッ――あ~‼ キメェキメェ!」と、そう叫ぶ朝星ちゃんから伝播する熱が、熱帯夜を押し退けてじりじりと俺の右腕を燃やす。あと普通に殴られて、物理的にも熱い。

「ちょっ、やめてっ! 叩かないで!」

「うるせぇ! 人の気も知らねぇで! いっつもおめぇばっかりよぉ!」

「えぇ⁉」この子、一体何に怒ってるの⁉

「っかぁ~! んだコイツ! いいから黙って殴られてろ、サンドバッグ!」

「キャァァァ! 誰か助けてェ!」

と、やんわりとした痛みに対して適当に演技していると、先程までの罪悪感を忘れられた気がした。そしてその後、マジで家の目前まで殴り続けられるとは思ってもいなかった。


もはや腕の感覚が麻痺し、上に上げる事すら困難な中、一足先に朝星ちゃんは玄関を開けて中に入って行った。

左手で右腕を支え、我が家を眺める。

周囲にある家と何ら変わりない俺の家は、二階の部屋以外の電気が元気よく煌めき、少し開いた窓からは晩御飯の香りがもくもくと浮遊していた。

それらに乗って朝星ちゃんの楽しそうな声と、それをなだめる母さんの声がぼやけて聞こえてきた。何の会話をしているのか想像するだけで、俺の心は躍った。

深呼吸し、夜空を眺める。雲一つなく、澄んだ空気の中を星々が輝いている。特に星に詳しくなくても、夏の大三角がどれか分かる程だった。その他の星々にも、みんなに個性がある。

……夜の帳って、只の暗闇の事じゃないんだなって思う。

こういった色んな情景が折り重なって出来る、一枚の絵の事を総称しているんだって感じる。じゃなきゃ、こんな何でもないような夜に、胸が躍る事なんてない。

この夜は、この瞬間にしか感じ取れない特別な一枚絵として……夜の帳は、俺の海馬に幕を下ろしていく。夜の帳の集合体が、俺の記憶を、世界を彩っていく。

正直、どうして今になって、この日を思い出すのだろうか。全く分からない。

昔っから朝星ちゃんと特別仲が良くも悪くも無く、今も俺たちの関係は変わってない。

…………堂々巡りの反省の末、やはり気になるのはあの時だった。あの絵だけは、胸のどこかに靄として漂い続けている。満面の笑みが示す、ガキの頃の記憶……?

朝星ちゃんは、一体何について感謝していたのだろうか。

それと、それに対する俺の適当でない答えも、態度も、腹が立つ。

心からの言葉に、俺は上辺の言葉で返していた。

全く持って不愉快で、忌まわしく、疎ましい。

……いつになっても思い出すし、後悔し、懺悔したくなるのだろう。

俺という人間は昔からそうで、変わらないし、事実、変わろうとしてこなかった。

誰かを傷つける事になって、後悔してからでは遅いのに、失敗しないと学べない性格で……他人に矯正されるようなことでは無いが故に、性格が形成されつつある高校生という身においても放置されている。

正直に告白すると、俺は誰かに助けてほしかった。

自分が変われるきっかけを、求めていたのかもしれない。


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