第8章 エピローグ
「————なんだそりゃ。ハリポタの呪文か?」
映画館前で別れてからの。突飛過ぎる異聞綺譚を聞いて、宇都宮先生はそう答えた。
「いや————」
『俺がヒロインになる』って、何ができる呪文なんだよ。確かに、翻訳版だと映画の後に和名叫ぶけども。なに、俺がジニーにでもなんのか? キモすぎて名前を言ってはいけないあの人も真っ青だよ……。元から青白いか、あいつ。
流石、映画評論家気取りと呼ばれているだけあって、ポンポンと映画ネタを放り込んでくる。ただ、愛がないのが丸わかりの適当なボケ過ぎて、ホンモノのファンからは敬遠されそうだけど。……まぁ、そんな薄情寡恩な感じでも、原作を読んでなお言っている可能性も否めないのか、この人なら。ただ、冗談とはいえ、冗談が通じないのがハリポタオタクなんだから発言には気をつけて欲しい。これを誰かに見られていたらと思うとゾッとする。
なんて、絶対的に無意味で価値も無い思考を切り上げて、窓の外を眺める。
徐行運転中の車内からは、埋め込み照明を逆光に、百日紅が不気味に笑いかけてきていた。嘲笑うように、揶揄うように————度し難い無能を、そんな風に嗤っていた。
あれから少し時間が経過していたから、雨は上がっていた。薄い雨霧が足元を揺蕩い、視界を掠めている。
一方の俺も同じように。心は粗いヤスリで擦り切れ、原型なく掠んでいて泣きそうだった。
結果を言おう。
俺は、冱雪を救うどころか、結局、その姿すら拝むことは出来なかった。
打ちひしがれ、結局覚えているのは、ゴンドラを見上げる俺にかけられた「危ないのでお下がりください」という、至極真っ当な注意だけとなった。
そんな、二進も三進もいかない一月三舟な薄暗い帰り道を、宇都宮先生の運転する車に乗せられて、淡々と進んでいる。粛々と、着実に、超然と。中身なく、真っ直ぐに。
その代わり、車内自体は、一昨日の職員室とは打って変わって清潔そのものだった。まぁ、とはいえ。煙草から電子タバコに切り替えたために、車内に煙こそないものの、凄くうんこ臭く、汗まみれのシャツは重いし、体は痒いし、殆ど腰で座っているから膝はつっかえて狭いし。ハッキリ言って最悪の環境ではあるのだが、文句は言えない。金ないし。結局お使いも忘れちゃったし。
「————やはりここに来る醍醐味といえば、このなんの変哲も楽しくもなんともないクソみたいな坦々平坦道をダラダラダラダラと徐行速度で走り抜ける事だよなぁ!」
「いや……」メチャクチャ怒り散らかしてんじゃねぇか。
全く、楽しさの片鱗も感じない。
とはいっても。状況も相まって、明朗快活に物事が進む訳がないから、その無理矢理な破顔一笑に助けられている部分も大きい。
だからこそ、いつまでも部下たる俺が落ち込んでいるわけにもいかない。
何か、本題から逸れた共通の話題を————そういえば、疑問に思っていたことを口にする。
「……車、いつの間に持ってきてたんですか?」
「んあ? ————あぁ、これは私の車じゃない」というか、こんないい車に乗れるわけがない。と、自嘲気味に話を続ける。
「奴曰く————これを『生徒会支援奴隷無用長物奉仕奉公勤仕部門』専用の公用車として使用してください————とのことだ。実は十日前、もう一枚の手紙と共にキーが同封されていてな……。金持ち喧嘩せずとは言うが、こうも羽振りがいいと恐ろしいものだ」いいなぁ、と。消え入るような声は、冷房の轟風にかき消されるように流れていく。手紙を握りしめたのは、それを見てからなのかもしれない。と、いうか。絶対にそうだ。
確かに、全くといってもいいほど車に浅薄な俺の目にも、この車が高級車だと言うことは理解できる。シックな黒色のセダン車で、革基調の内装は勿論、恐ろしい程静かで重厚感のあるエンジン音を、俺は初めて経験した。額を想像するだけでも、無意識に戦慄してしまう。
「悔しいが、最高だぜ……! もっと速い奴と戦いたがっている……俺が、そしてZが」
ブンブーンと口ずさみながら、わざとらしく大仰にハンドルの上で手を滑らせる姿が窓に映る。仮にここが高速なら、明らかに、大事故を繰り返している動作だ。Zじゃねぇし。
あと、ネタが古いんだよなぁ。湾岸ネタとか誰がわかんの?
それに……なんだこの人。いつにも増して様子がおかしい気がするんだが————
「なんかあったんすか?」なんて、絶対にそっちを向いてやらないと決め込んで問うと————
「おぉ、鏡。そう、よくぞ聞いてくれた!」と、起き攻めが如く、待ってましたと言わんばかりに嬉々として話し始めたる。
「最高に面白かっったんだよ『醤油差し』がな……!」
うぉおおおお! と、どこかのシーンを思い返しているのか「違連れ死ぬ。鳴れば今昉に生の有る此処で虎走、醤油を誘う!!!!」と、発音的に俺が勝手にそう解釈しただけだが、にしたって意味の分かりかねる支離滅裂とした言葉を叫ぶ。マジで————
「どういうお話だったんですか?」なんて、気になってしまった俺が悔しい。
「あぁ、それなんだが————私には、まっったく! 意味が分からなかった」
「えぇ……」じゃぁ、面白さなんて分かんねぇだろ。と、その疑惑を埋めるように————
「————もちろん、外枠の内容自体は理解できた。『薄味の料理を奪い合う両国を、醤油差し携えた異国の調味人が取り持ち、無益な争いを防ぐため、革命を起こす』という旨の話だった。ぶっ飛んだ発想ではあるが、大枠はありきたりだ。違連れは分かち合えぬ友を、鳴ればは数多の悲鳴を、虎走は団結を————それらを纏めて醤油差し。象徴たりうる、最高の醤油顔であった」
だが、と。宇都宮先生は神妙なトーンに変わりつつ、続ける。
「————脚本家の意に反して、監督が映像に込めた『本題』は、別にあるような気がしてならなかった。常の世であっても当事者たり得ない私には、それを、みて見ぬ振りはできない」
「……と、いうと?」
「物語の進行を通し、後半に行くにつれて不自然な視線誘導や違和感のある演出が多く、それに対してやけに少なかったんだ————演者の表情を映す、映画にとって最も重要なカットがな」
「……B級映画なんて、そんなものなんじゃないですか……?」なんて。見てもない映画を批評し、それなのに、妙に続きが気になり、薪を焚べるかのように言の葉を投げ続ける。
「それに、脚本家は演者の動作も指示するはずですし、監督独自の意見は、小規模の映像作品であればさして影響を及ぼさないんじゃ————」
「『醤油差し』を書いた脚本家は、道半ばで行き倒れたらしい。見終わって調べ、絶句したよ」
「………………」死んだ、と。そういうことだろう。
「本当に残酷な話だ。脚本家といえど、現実には抗えない————むしろ、逃避行動としての脚本家、だったのかもしれないな。この世界は、映画とは違い過ぎる。私たちは、その渦中で溺れかけている」
「…………まぁ。でも、俺は。映画に出てくる主人公が直面するような選択を、故意に避けているような人間ですから。妥当だとも思います。欲求不満がデフォルトだから、いつまでも満たされなくて、これからも、渦中に居続けるんだと思います。渦の中で、溺死しても妥当です」
「ま、そりゃそうだろうな。解決や解消されないことが世の常だとすれば、選択なんて向き合わないに限る。それに、以前もにも言ったが、誰も彼もが主人公というわけにもいかないだろう。私も、お前も————欲求不満は当然だ。飢えに飢えて満たされることがないと、認める他ない。が、私の立場上、お前が溺れゆくのを黙って見届けている訳にもいかない。のだが————」
「…………」
「厄介なことに。私は近頃、渇きまで感じるようになった。生きているのか、死んでいることに気づいていないのか————その振りをしているのか。果ても見えず目的もなく、過去すら忘れ去って、全く私は何がしたいのかと、それを探し、過程の中を彷徨っている……。お前が思っている以上に、大人という生き物は未完成でな。人生で、完成なんてしたことのない、不完全な魂の入れ物が、私だ……。説教口調が身についた、燃え切らない、タバコの燃えっカスが私の写し身だと、アイツにも言われたことがある。まぁ、ほんの少し前不意に思い出した訳だが、今日のお前に説いた全てが無性に恥ずかしくなってな。……頼むから、忘れてくれないか……?」
「……………………」あれ、俺、今日、何言われたっけ。と、悩む程度には。大変失礼なことに、正直、この人の話は俺の脳に全くと言っていいほど定着していない。脳に血が昇るくらいには、考えさせられる。確か、会話の基本とかなんとか————
「あぁ、思い出そうとするな。死にたくなる。……とにかく、私にも、改革が必要だってことだな。成長の余地がある女の子ってことで、私には優しくしてくれたまえよ」
アハハ! と上擦った笑い声を、聞こえない振りで耐え凌ぐ。
というか俺が思うに、この人は説教口調で語らずとも、こちらが勝手に、広い背中目掛けて一生懸命について行きたくなるような人間だ。だから、無言でいいんじゃないですか? とは言えない。当然だ。上司に楯突くなんて認められるわけがない。俺からの褒めは慰めにならず。
ややあって。スンっと不自然に静かになったと思えば、何か言葉を咀嚼した後のような、意味深長に息を吸う音が聞こえ、身構える。
「————なぁ、鏡。人生の目的地とは、一体、どこなんだろうな。というかそもそも、辿り着けるものなのか? 辿り着いたとて、そこが本当にゴールなのか? あの脚本家と同じく、道半ばで死ぬなんて、往々にしてあるのかもしれない。漠然とし過ぎているがあまり————常に思考の片隅に錆として縋り付いているから————ふとそれを思うたび、不安になっちまうんだろうな」
「…………それは、質問、ですか?」
「あぁ。質問であるとともに、最大の課題だ」
人生に課された、お題だ。そして今問われた、主題だ。というか、俺が大人様に聞いてみたいこと、そのものだ。でも、誰も答えを持ち合わせていないのだろう。……だから、分からないことは口にしてみようと思った。電子タバコの焼ける臭いに支配され、若干、純粋な思考で。
「……不安は、ありますよ。さっきも話した通り、それが本当に正しい道なのか、進んでみないと分からない————顧みても手遅れな————一方通行の狭道ですから……。それに、課題というのなら、過去にだって大きなポリープが存在しちゃってるんで」どうしようもない。
深い、深い、トラウマとして。素人には、切除ができない。自分自身にも把握できないほど、それは、大きく成長しているような気さえする。
「だろうな……。門叶の年代が、一番、その壁にぶつかる事だろう」と、宇都宮先生にあるまじき、生優しい声色で続く。
「こと、人間関係を除いて。内的要因のみを主にするのならば、私や、冬萌千旬のように、極端な思想で他人を寄せ付けない生き方をする奴も出てくる。過去に対して見て見ぬ振りをするのが癖付いて……だからこそ、お前が悩んでいるという過去なんてものは、青春に訪れる特有のものなのかもしれないな」
「……………………そうですね」
冬萌千旬は、果てを。
朝星ちゃんは、過去を。
ならば、宇都宮先生は————。
「強いて言うならば、過程だろうな……。私はそこに、住み着いている」
「……過程、ですか」
それは、俺がこれから向き合わなければならない場所だ。……いや、勿論。果てや、過去も。だけれど、最も重要な点。ターニングポイントだろう。
「————あぁ。少し前にも話したが、私は、悦びを感じるために奮闘している。それは、過程の中に転げ落ちていると考えているからこそ、お前たち人間関係に執着し、粘着している。そこに居続ける限り、飢えも乾きも、焦らしも、楽しめる」
……無茶苦茶だ。
「そうだな。そして、公務員にあるまじき最低な生き方をしている。————碌な死に方をしないんだろうな、きっと」
ほんのさりげなく。当然のように心を読まれ、訝しむような視線を向ける。その先に居た宇都宮先生は片手で電子タバコを、片手でハンドルを操作し、当然ながら、正面を見据えていた。
反対車線を照らす街灯の灯を受け、その表情は窺えない。それに、いつも通りの説教口調でもない。……これが本当に宇都宮先生なのか、それを知る術が今の俺にはない。
だからこそ今は、その言葉を純粋に俺自身へと向けようとも思えたのかもしれない。
「だが、どうだ……? そんな私や冬萌千旬が抱える問題に加え、現役であるお前たち学生は過去まで抱えているときた。不安やトラウマを抱えながら、果てに向かって奮闘している。それぞれの目的地へ孟走している。血反吐を吐きながら、必死に、それぞれの見えない何かを掴むためにな。諦めのついてしまった我々とは、苦慮するものの質が違う」
言葉は鋭く、多くの高校生の抱える悩みという名の的を得ているのだろう。千旬さんの言った時代の被害者だの、決定づけられた果てだのを持たない人間には、やはり、分岐点はいくらでもあって、その数だけ目的地はある筈だ。
だが俺のものは、そんな立派なもんじゃない。少し前までそんな自覚はなかったし、今をもってして何もかもが曖昧だ。過去を思い返して背負い直し、目的地を見定めて放浪として周り、今何をすべきかも分かりかねる。舌先三寸、一寸先は闇。それが、現在運搬中の俺だ。
「その言い方だと、逆に、諦めてようやく大人になれる、ともとれそうですが……」
「————あぁ、その通りだ」
そうか。……ただ、まぁ。
「————あの、思うんですが」
「んあ?」
俺の平板な切り返しを受け、宇都宮先生はアホみたいな声を上げて顔を向けてくる。
や、あぶねぇよ。と、フロントガラスの方を向いて示唆しながら、改めて省みる。
そしてふと、ある言葉が過っていく。————明日ありと思う心の仇桜。あの時に見張った桜だって、ずっと咲いてるわけじゃない。俺自身がいつ散るか分からない、儚い命に他ならない。手の中で仄かに温度を残す花弁みたいなもんだ。不安定で、それでいて怪しい。
今、車の進む先に峡谷があったって気付きはしない。死んだって、それすら知れない。
言葉にしなきゃ耐えられない。煙に巻かれた、あの時の、自分自身の答えを引き出すために。
「————宇都宮先生も、千旬さんも。学生時代は、あったんですよね?」
「……お前、大人をなんだと思っているんだ? マジュニアじゃないんだから、子供時代は当然ながら存在する」
いや、誰も、全大人がマジュニアだとは思っていないが————
「その時は、その……。極端な思想とかで、過去を捨て去ったり、逆に囚われたり、それで果てを見据えて、別の目的地を諦めちゃったりはしていなかったんですか?」
と、いうか。大人にだって、それらを持つ人間は多くいると思うのだが……。と、多様性に満ちた現代を生きる若人が当然抱く疑問の答えが欲しくて、そう問うと————
「知らん。昔のことなど一々覚えてはいないし、他人がどうとかクソどうでもいい」
「……はぁ」と、ため気を止めることは出来なかった。と、言うより。ちょっと分かっていた。
「————そもそも、お前らにご執心の私が言うのは、お前ら周りの人間関係のみに限られているに決まっているだろう。その点、映画や創作物に似ているのかもしれないな」
「はぁ……」と、嘆息が溢れるが……まぁ、これも。分からなくはない。
この人、基本的にブルーだしな……。俺も、他人の視線は気になれど、それらが何を考えているかまではどうだっていい。名前すら知らない人間は、俺の見ている映画の中で息すらしていない。また困ったことに、主役は冱雪で、俺はヒロインであろうとしている。
んだこれ。駄作もいいとこだろ。曲なら良作、映画なら不出来な遺作で終わるニオイがプンプンする。そう考えると、恐ろしくなってくる。
この気持ちの正体は————
何も成せずに死ぬであろうことが、残せずに散るであろうことが、成功や達成よりも近くににあってしまうからこそ、身近に感じてしまう。鳥肌が止まらない。震えが収まらない。
動悸が、寒気が、吐き気が、眩暈が、頭痛が。答えを渇望している。
渇きだ。俺もひとえに、大人である宇都宮先生と似たような場所に転がっている。ただ、似ているだけで、俺は俺、この人はこの人だ。『ヒロインになる』なんて冒涜、この人が考え至ったことはないだろうし、人なりの、それぞれに描かれた脚本的な何かがあるのかも知れない。
————不安だ。
「不安って、なんなんですかね」
ひとりごちるように、俺の口からそう漏れ出していた。純粋無垢なる、俺の本心だ。
顔を傾け、横顔を眺めていると、対向車の前照灯を受け、宇都宮先生の顔を確認できた。
しばらく考える仕草を見せたのち、彼女はゆっくりと口を開く。
「まぁ、前提として。私にも分からん。————でも、先に死ぬ人間として、アドバイスくらいならできる」と、そう言いながら、電子タバコを一吸い。微笑みを押し殺し、秋の声を続ける。
「————きっと不安は、自分を守るための防衛本能だ————まぁこれは、漫画の受け売りなんだが————だから、敵視はしないに限るのかもな。直面し、向き合うことで、何かを掴むことが出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。曖昧だが、元々不明瞭な幽霊のようなものだから、不安の正体は、そういうものなのだろう。過去を追憶し、未来を夢想し、人それぞれ形作る」
「……なら、正体不明のものとして受け入れるしかないと、そういう事ですか?」
「そういう考えもあるかもなって話だ。だから、偏屈な私から言わせて貰えば————」
一拍、魔を置くように。スーッと呼吸する音と、ジジっと燃える音が言葉を横切っていく。
そこで、俺の心の火が消えかけていたことに気がついた。本当に身勝手なことに……無気力から俺は、勝手に肩を落としていた。反吐が出る。虫唾が走る。言葉で上塗りできないものが、空っぽの白箱を埋め尽くしている。溺死しようにもしきれない裸の心が、その壁を一生懸命に叩いている。いつ、飛び出してきてもおかしくはない。生じたヒビへの侵食は始まっている。なんならもう、手遅れまである。押し殺すべき自我が、変わろうとする俺が。素の俺に、真の俺に、殴り殺される。その前に————。
俺の知らない、宇都宮先生の視点を————その道を、見出さなければ。
「それらを楽しめる人間の人生を————愉快な映画作りを————一度はそういう栄光から、過去の悩める自分自身を見下ろしてみたいもんだな、と思っている。過程しか残されていない私は、不安も感じない。だから、お前達を介してそれを得ようとしている。最低だが、最善だ」
「………………」
「未来とは、時代とは、そう言うものなんだろうと肌身で感じている。きっと、人生を楽しむためにあるとな。だから私は、その中に依存してしまっている。楽しいんだ。今、お前といる、この時間がな」
「…………告白ですか?」と、自嘲的なニュアンスを込めて溢すと。
ふっと息を漏らしつつ、拈華微笑の如く小さな微笑を作り、返してくる。
「お前にはいるだろう。人生史における『主人公』が。私みたいなクソババアに靡くな。そもそもガキの分際で、小悪魔的熟女様の魅力は分かるまい」
挑発的な物言いに「まぁ……」と呟いたはいいものの、次の言葉は続かなかった。
きっと、『主人公』とは冱雪のことなんだろうが————。この気持ちは、きっと、そんなに綺麗なものじゃない。もっと複雑に濁った混合体だ。俺は俺のために、変わる為に————大前提は、そこにあるような、そんな気がする。それが、真意かどうかも分からない……。『主人公』とやらが、冱雪なのかも、もはや、分からなくなっている。
「多分、恋とかじゃないと思うんですよね…………。てか。恋って、なんなんすかね」
「……ほぉ。『ヒロインになる』なんて言った割には随分と弱気で哲学的だな。なら聞くが、お前は冬萌冱雪と一緒に居て、どう思った? 楽しいとは、感じなかったのか?」
「……人は、一緒に居て苦でない人間を選ぶんです」
何言ってんだ、俺。
そうは思っても、一度開いた口は止まらない。
「人は、ちょっとした愛嬌と苦にならない事。隣に置く人に求めるのは最低限のそれだけなのに、そんな相手を見つける事が、凄く難しい。人は本音を隠すから……。最近は、男だって」
「…………卑屈だな。楽ではなく、苦ではない、なんて言葉選びをするとは」
宇都宮先生は、どうしてか。苦虫を噛み潰したような顔でそう呟いた。
この人は、説教口調でなければ、俺のことを、対等にみてくれているような気がする。詳しい表情も伺えない事が、そうさせるのかも知れない。
だからこそ、本音で会話ができた。
だがそれも————
「ま。会話の続きはまたにしよう」
柔らかなブレーキが、その終わりを告げていた。
翡翠色が視界の端に現れ、正面を向き直して見上げると、『渚駅』の文字が淡く光を灯していた。
……なんだ。家まで連れて帰ってくれねぇのかよ。なんて、そんな文句を垂れていたところで何になる訳でもない。なんならもはや、一人になりたくもあった。
シートベルトを外しつつ、尻を擦りながら背を伸ばすと、俺の前を横切るように、宇都宮先生の腕がグローブボックスを開け————俺の視界は、後に現れた後頭部が見えるのみとなる。
身を引き、それらを避けることに注力しているとすぐに、宇都宮先生は「あった」と呟きながら姿勢を戻していった。
開け放されたリッドを膝で押し戻し、ふんふんと息を吹き鳴らす鳥獣の方を向くと————
「まずは————シャツだ」
俺が映画館前で宇都宮先生へと捨て去った、ニップル穴付きのシャツを投げられる。それを受け取ると、生乾きの不快な感触と共に、カチッという固い摩擦音が共鳴した。
弄ると、馬鹿みたいに高い俺のサングラスが現れたので、それをポケットに突っ込む。
「んで、これは冬萌千旬からだ」
「…………千旬さんから?」
と、訝しんでいると。言葉と共に添えられたのは、手のひら大の洋型封筒だった。表には『門叶 鏡 様』と書いてあり、めくると、『冬萌 冱雪 より』と、そう書いてあった。
「……冱雪、って書いてあるんですけど」
「さぁな。私にも詳しい事情は分かりかねる。が、元々そこに入っていたんだ。何か事情があるのだろう」
「……中、見てもいいですか?」
「あぁ、好きにしろ。そもそも、門叶のもんだ」
言われ、息を飲んだ後。胸騒ぎが落ち着くまでしばらく待って、慎重に封を切る。
といっても、まるで急いで作ったかのようにシール付けはされておらず、中身は滑るように飛び出してきた。それは、一枚の薄い紙と固いカードのようなもので————
「地図と、ICカード?」
「ふ〜ん。見覚え、あんのか?」
俺の疑問を疑問で覆い隠しながら、影までも覆い隠すように————顔をあげると、目と鼻の先に宇都宮先生の顔があり、心臓が爆発的に運動量を上げる。
そんな動揺をひた隠すように、俺は視線を落としてそれらに注視する。
地図は、その一端を切り取った切れ端のようだった。————それに、いつの日か俺は、それの全体像を見た気がする。皺だらけで折れ目だらけ————俺の住む絢漣町の、ある住宅街の一角が赤丸で囲われ、長い国道沿いにある公園には青で丸が付けてあった。
ICカードの方には、ひらがなで『こゆき』と、名義人が印字されていた。
「多分。どっちも冱雪のものです」
「ふ〜ん。んで、その丸が指し示す意味も、分かるのか?」と言いながら、先生は身をひく。
「……いえ。誰の家かも分からないですし、公園に丸をする意味も、分からないです」
俺には、何も分からない。冱雪のことを、何も知らない。
分かるために、知るために、解明しなければならない。変わるために、調べろと————冱雪から突きつけられた、課題のようにも思えた。
「んー。ま、なんか分かったら教えてくれや————」
なんで教えなきゃなんねぇんだよ。と、喉に突っかかった言葉を奥へ押しやり。
話続きに、「まだあるぞ〜」と楽しげに言いつつ何かを取り出した宇都宮先生の手を見やる。
「ほれ————これは確実に冬萌冱雪からお前に、だ」
包装紙に包まれ、皺なく綺麗にラッピングされた縦長の箱を手渡される。
ほんの一瞬ドキッとしたがこれは、俺に贈られたものではない筈だ。俺はそれを知っている。
「……これは、冱雪が妹に向けて買ったものだと思います」
だとすれば、これも課題なのだろうか……。まぁ、そんな意図があるかも知れないが。
「————つまるところ。冬萌冱雪は、お前に妹へのプレゼントを託したってことか」
理由は、まぁ……自分で渡せないからだろう。だが————
「先生って、冱雪の住んでた家とか知ってます? 妹のこととか……」
「いや。知らん」
何で知らねぇんだよ……。まぁ、担任じゃないから仕方ないのかも知れないが、だったら詰んでんだろこれ。フィールドワークするにしたって、ノーヒントのピンポイントで、しかも最近引っ越してきたであろう冱雪の家を、部屋を、見つけられる訳がない。どこぞの忍野メメじゃねぇんだし、物語でもないんだから、ご都合主義的に幽霊が見えるわけでもない。
俺には、なんの能力もない。
だが、正面にいる教職員の考えはそうでないらしく。
「ま、何とかなるだろう、お前なら」とか何とか言っていた。
溢れそうな匙を押し付けられたような気分だ……。なんとかなる訳がないだろ。
————まぁ、もう手元には何も持っていないようだし……何より、これ以上厄介ごとを押し付けられると流石にキャパオーバーだ。熱暴走で爆発する前に、早く逃げてしまおう。
そうして半ばとんずらこくようにドアを開き、「————送ってくれて、ありがとうございました」と半身を外に出した俺を、宇都宮先生が「まぁ待て。最後に————」と引き止めてくる。
引き攣りそうになる表情筋を取り繕い、しかし嘆息はこぼしつつ振り返ると————
「ほれ」と。ピンッなんて軽音立てて飛来する、鈍く黄金色に瞬く小さな春光が————「いでっ!」額にぶつかって膝上の荷物へ落ちていく。
怨恨目を宇都宮先生へ向ける訳にもいかず、掴み上げたそれに向けるとそれは、ブロンズ基調のピンズバッチだかなんだか……まぁ、コナンに出てくるDBバッチみたいなやつだ。ただ————
「なんすか『よいこのおどうぐばこ』って」
「私たちが胸に刻むべき最高の志であり、現すモノでもある。ロフトで買ってくるようお使いを頼んであったのに、買ってこないから私が直々に買ってやったんだ。少ない給料を削ってな」
……しらねぇし、いらねぇのだが————
バタンッ。と残酷ともとれる速度で扉を閉め、顔が見えなくなるまで離れることで、それを伝えた。……俺なりの、微かな抵抗だったが、何てことはない。
黒塗りセダンは風も音もなく、『渚駅』を後に、闇に身を溶かしていった。
結局、何も解決していない。むしろ、複雑と化した糸屑みたいな心境で受ける潮風やその匂い、冷たさ、駅照明の仄灯は、そんな心境を溶かして見えなくしてくれるようだった。
「————タバコの煙が、恋しいです」
漏らした言葉と共に。ピンズを握った汗ばむ手が、無意識に、強くなっていた。
その後。帰り道。
青ざめるほどスムーズに進める帰路に怯えつつ、遂に辿り着いた『絢漣駅』にて、肺に馴染む空気を思い切り吸い込んでいた。
ただし、何か、いつもとは違う。そんな違和感を肌に受けていた。
改札を出た後、もやもやとした気持ちのまま、なんとはなしにベンチへと腰掛け、何も考えない方に意識を向け天井を見つめていると————
「よっ!」と元気溌剌な声が背中にかけられたような気がして————背もたれに首を預けて背後を振り返る————と。
そこにいたのは、上下反転した朝星ちゃんだった。右手には大量の荷物が提げられている。
……なんてこったい。ここに来て、世紀の大ピンチだ。
姿勢を戻して背を伸ばすと、隣の席へガサガサっと音を立てながら朝星ちゃんが着席し————無理だったなー、と空に吐き捨てて続けた。……何のことを言っているのか、判断できない。
「あの子、大事な人なんだろ? ————あ、その右手」
血、出てんじゃん。と、こちら側の脳の処理が追いつかないままに、朝星ちゃんは俺の手を持ち上げ、両手で包み込んできた。脆く、暖かい手だった。
そんな右手は現在。ニップルシャツをぐるぐる巻きに、滲む血液を見て見ぬふりをした跡が残っていた。今出ているのかも知れない、内側から湧き出た液体には、臭いも温度も何もない。
朝星ちゃんは、何を思ったか。それを解きながら、続ける。
「————————————————一昨日は、ごめん。……あの日は、色々吐き出しちゃって、なんか、違ってた。……昨日も、完全シカトしてたし……。あ、そうだ————」
言いながら。朝星ちゃんはデニムショートパンツのタイトなポケットからスマホを取り出し、俺の方へ突き出す。
「これ、私の部屋に落ちてた。渡すの遅れて、ごめん————」
「……いや」と。視界の先で落ちていったその悲壮感あふれる顔を受け、ようやく思考が働き出した。————何をしているんだ。俺は。
「あれは、俺が————」悪かったからと、続けようとして言葉を呑み込む。これじゃ、今までと同じ俺だ。俺だけが、朝星ちゃんも、それじゃ、何も変わらない。
だから、何と言えばいいか、分からなかった。
そんな動揺が伝播した右手が震えると、朝星ちゃんは僅かに肩を揺らし、動き始めた。ゼンマイ人形のように不自然な動きでスマホを俺の膝上に置き、その後傍に置いていた袋の中を漁り、そこから絆創膏を取り出していた。その封を切りながら、うっすら血の乗った手に貼りながら、ゆっくりと口を開く。
「…………兄貴は、兄貴の————自分の趣味を、楽しみを……その中に生きて————一緒に、過去を背負う必要は、ないからな……」
そんな、朝星ちゃんが口にすると想像し難い言葉の群に、俺は無意識に目を張ってしまう。
一昨日冱雪千旬と話した時、朝星ちゃんは、何を言われたのだろうか。明確に違和感がある。
「時代は————過去は、曲げられない。だから、朝星ちゃんと経験した全ては、今の俺の体温として、動機として、突き動かす何かとして、息をし続けてる。だから————」
一緒に、と。主語は続かず、瞑目した俺を見て、朝星ちゃんは嘆息を漏らしつつ、前を向く。
「————そういえばさ。あーいうゲームって、主人公に対するヒロインは、一対だけなの?」
「一対って……番じゃない————とも、言えないのか……」
確かに。仮にヒロインになるとして。冱雪の為の唯一のヒロインに、なれるのか?
ま、勝ちも負けも、なってみなきゃ分からない。だからこそ、過去を背負い、過程を楽しみ、果てを目指して、目的地を見定めて、ひたすらに、盲目的に————。『俺がヒロインになる』。




