花嫁の初恋
「ツムギ、婚約者がいたのか⁉︎」
叫ぶギルターの剣幕に、ツムギはぱちくりと目を瞬く。
そんなに驚かれるとは思わなかった。
不思議に思いながらも、頷いて肯定する。
「そうだけど?」
「……ウスラギを放してきます」
ゼータがヘビを抱えて、食堂の出口へと向かう。
ちろちろと舌を出すヘビにツムギが手を振っていると、綿毛の上から抱き上げられた。
「ミルゥもちょっと出ててくれ。ツムギに大事な話がある」
「──果物をあげますから、畑の手伝いをしなさい」
ヤギはプスプスと鼻を鳴らしながら銀髪の竜人についていった。
食堂には、ツムギとギルターだけが残された。
ツムギは首を傾げたまま、ギルターの腕で食堂の椅子へと運ばれる。
「……ツムギ」
「なぁに?」
ギルターが椅子の前に跪いた。
こちらを見つめる、端正なその顔からは表情が抜け落ちていた。
(……こんなお顔、初めて見るなぁ)
どうしたのだろう。
自分がまた何か変なことをしてしまったのだろうか。
ツムギの胸に、不安がじわじわと押し寄せてくる。
「ツムギは……その婚約者のことが好きなのか?」
「えっ?」
予想外のセリフに、ツムギは言葉を失った。
ギルターは唇を噛みながら俯く。
「結婚を約束した相手がいたなんて、知らなかったんだ。ごめん……」
「ち、違うの!」
ツムギは慌てて顔の前で両手を振った。
ちょっと見栄を張っただけなのに、まさかこんな風に真剣に受け取られるとは。
急いで言葉を続ける。
「昔の話だよぉ、昔の!」
婚約者がいたのは本当だ。
でもそれは、もうずっと前の話。
それを聞いて、ギルターの表情がほんの少しだけ緩んだ。
「そうなのか。今でもその人のこと……好きか?」
「今でもっていうか、もともとそういうんじゃなかったし……」
ツムギは当時を思い出しながら、そっと目を伏せる。
相手は大きな家の跡継ぎで、父が意気込んで取り付けたお見合いだったのだ。
そしてツムギが事故で歩けなくなったら、婚約はあっさり向こうから解消された。
当然だと思ったし、その人を特別好きだったわけでもない。
それでもやはり、胸の奥が冷たくなった。
その彼がすぐに別の婚約を結んだことも、さらに心を突き落としたのだった。
その時の、妹の満足げな顔を思い出してツムギは苦笑する。
「今はもう、イオリの旦那さんだしねぇ」
「……え、妹ちゃんの? 人間ってそういうの、ありなのか……」
ツムギは頷く。
ツムギの元婚約者はイオリと結婚し、そしてイオリはその人の子を身籠った。
(イオリ……)
ツムギが妹の姿を思い浮かべている間、黒髪の竜人は呆然としていたが、やがておずおずと口を開いた。
「その……他に好きな人とかもいなかったか? ごめん、連れてくる前に聞くべきことだったよな……」
しゅんとしている。
──可愛い。
頭の中の妹の笑みが消えて、ツムギはその表情に釘付けになる。
「大丈夫だよぉ。あたし、恋とかしたことないし……」
ツムギの心を揺らすのは、いつだって美しい自然や生き物ばかりだった。
元婚約者も含めて素敵な人はたくさんいたが、積極的に「恋人になりたい」とか、そういう感情が湧いたことはない。
ツムギの答えに、ギルターの表情がぱっと明るくなる。
──綺麗だ。
まぶしい。
ツムギは目を細めた。
たくましい腕が伸びてきて、ツムギの両肩にそっと添えられる。
青い瞳が正面からまっすぐに自分を見つめていた。
「その、改めてこれからさ……。ちゃんと俺を好きになってもらえるように、頑張るから」
「……」
海みたいにきらめく青を見つめ返すと、胸がとくんとくんと脈を打つ。
(……なんかさぁ……変じゃない?)
ツムギは違和感を覚えて、自分の胸に手を当てた。
ドキドキ……なんだけど、なんだかあったかくてふわふわして、安心するような感じもある。
(素敵な生き物を見た時とは、ちょっと違うような……)
先ほどのウスラギとの邂逅を思い出していると、ふっと、部屋で読んでいた少女漫画が頭をよぎった。
(……え?)
いや、まさか。
ツムギは頭を振る。
「ツムギ?」
ギルターが不安げに眉を寄せる。
──カッコいいな。
その青から目を離せないまま、かろうじてツムギはつぶやいた。
「んっと……ありがとう。あたしなんかに、そんな……」
「ツムギは最高に素敵なんだぞ」
ギルターは困ったように眉を下げる。
──可愛いな。
カッコよくて、可愛い。
「──それも信じてもらえるように、これから何度でも伝えるからな!」
にかっと笑ったギルターの周りに、突如として雄大な自然の光景が広がった気がした。
どこまでも広がるきらめく白い砂浜に、そこを跳びはねるふわふわヤギの群れ、空にはまぶしい太陽を背に猛禽が翼を広げ、浜辺には濃緑のジャングルが生い茂あっ綺麗な蝶々だぁ、咲き乱れる艶やかな花々、そして、そして、その瞳の中にはきらめく真っ青な海が──。
(な、な、な、何これぇ)
ツムギはくらりと目眩を覚えた。
(こ、これ、これがもしかして……)
まぶしい青の中に、自分が映っている。
そのことがどうしようもなく嬉しい。
これが。
この感情が。
(“恋”……!)
ツムギはぱくぱくと口を開け閉めした。
「ツムギ? 大丈夫か?」
「ぎ、ぎ、ギルター……あ、あの、」
何を言いたいのか自分でもわからないまま口を開いたその時。
ぐぅ。
とツムギのお腹が鳴った。
「ほわっ」
慌ててお腹を押さえると、目を見張っていたギルターは朗らかに笑い声をあげた。
「お腹が空いてたのか! 気づかなくてごめんな。──ゼータがクッキー焼いたって言ってたぞ」
「……えっ!」
そう言えば、そもそもお腹が空いて食堂に来たのだった。
ツムギが目を輝かせると、ギルターはキッチンからいそいそとかごを持ってきて開ける。
香ばしい匂いが、ふわっと食堂に広がった。
「ナッツ入りのやつもあるぞ。朝、ナッツのパンを美味しいって言ってただろ」
「……うん」
笑顔で差し出された大きなクッキーを受け取って一口かじる。
優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
「よっしゃ。笑顔になったな」
ギルターが心底うれしそうに言う。
ツムギも笑った。
心から。
そこで、ふとふわふわの友だちのことを思い出した。
「……これ、ミルゥも食べられる?」
「おう。持っていってやるか?」
「うん!」
ギルターがツムギを抱き上げる。
ツムギはその首にきゅっと腕を回した。
ついでに胸元に顔を埋めて、こっそり匂いを嗅いだりしてみる。
心の中が、あのヤギのようにふわふわしていた。
✳︎✳︎✳︎
二人は外へ出て、果樹園を覗いた。
今日も爽やかな風が吹き抜け、色とりどりの果物が実をつけている。
「くぅーん!」
すぐさま、ヤギが跳びはねてきた。
背中には果物を入れたかごを乗せている。
麦わら帽を被ったゼータも、収穫する手を止めてこちらを見た。
ツムギはそれに向かって手を振る。
「ゼータ! クッキーありがとう!」
「別に。自分が食べたくて焼いただけです」
「そっか、お裾分けありがとう!」
相変わらずの素っ気ない言い方ににこにこと返すと、ゼータは何か言いたげな顔になった。
「はいミルゥ、あーん」
「くぁーん」
草の上に降ろしてもらい、ツムギはヤギにクッキーを差し出す。
ふわふわヤギはサクサクと小気味いい音を立てて食べた。
小さな尻尾がプンプンと揺れている。
「おいちい?」
「くぅーん」
もう一枚やろうとカゴに手を入れると、クッキーではなく指に手が触れた。
「あ、ごめん」
「……別に」
いつの間にかゼータが隣に座って、カゴに手を伸ばしていた。
逆隣に座るギルターが、ツムギの口元にクッキーを差し出してくる。
「ツムギも、あーん! 今度はチョコチップのやつ!」
いつも以上にその笑顔がまぶしく感じられて、ツムギの頰がみるみる熱くなる。
「じ、自分で食べられるよぉ!」
「……夕飯が入らなくなるので食べ過ぎないように」
反対側からゼータの静かな声が飛んでくる。
その声も、ツムギの耳にはいつもより柔らかく響いて聞こえた。
ニライカナイの陽光は暖かくきらめいて、心地よい風が吹き抜けていく。
海も、空も、大地も、全てが自分を祝福しているような気がした。
黒髪のハンサムな竜人さまが青い瞳で自分を見つめて微笑んでいる。
ツムギは小さく身を震わせて息を吐いた。
神々の異世界で、ツムギは初めての恋をした。




