花嫁の新生活
こうして、竜の島での新しい日々が始まった。
翌朝ツムギは、誰かが起こしに来る前に自然と目が覚めた。
天井のガラス窓から柔らかな光が差し込んでいる。
ツムギは大きく伸びをして、ベッドの上の綿菓子に元気よく声をかけた。
「おはよう、ミルゥ!」
「くぅーん……」
まだ眠そうな綿毛をぽふぽふ叩く。
一日の始まりが待ち切れないなんて、いつぶりだろう。
クローゼットを開けると、昨日はスカートだったものもいつの間にか全てズボンに変えられていた。
ヤギにまたがるツムギに合わせて、ギルターが神気で作り直してくれたのだろう。
適当に引っ張り出したものに着替えて、寝ぼけヤギのナイトキャップを外してやり、洗面所へ向かう。
桶に溜められた水で顔を洗い、口をゆすいだ。
(こういう鏡とかも、神気で作ってるのかなぁ……)
調度品には詳しくないが、ツムギが暮らしていた村のものより精巧な造りに見える。
縦横無尽に跳ねる寝ぐせを直していると、後ろからひょっこりと端正な顔が現れて、ツムギは椅子から飛び上がった。
「ほわっ、ギルター」
「ごめんごめん。部屋にいなかったから心配になってな。──寝れたか?」
「うん!」
「なら、よかった」
ギルターが微笑む。
その優しい笑みに、ツムギも自然と笑顔を返した。
「はい、今日のお花」
「あ、ありがとう……」
髪に新しい花が飾られる。
「……今日も可愛いぜ、俺のお姫さま」
鏡に、顔を赤くした自分と、それを優しく見つめるハンサムな王子様が映った。
「おっと、大事なこと忘れてたぜ」
「……ん?」
「『おはよう』。ツムギ」
「……おはよう、ギルター!」
✳︎✳︎✳︎
その日の午前中、ツムギはヤギと一緒に宮殿や庭を探検して歩いた。
(イオリとも小さい頃、探検ごっこしたなぁ)
ツムギは幼い頃を思い出す。
その頃、動物に変身して戦うヒーロー番組が流行っていて、ツムギもそれに夢中だった。
それに影響されて、まだ普通に歩けたのに、妹と一緒に四つん這いで家や庭を探検して回っていたのだ。
(あたしたちのゴールは、いつも海だったよねぇ……)
そんなことを思い出していると、カガリが飛んできて低いところでくるくる回り始めた。
昨日、ゼータが決めた「ご飯だよ、全員集合!」の合図だ。
ツムギとヤギは目を輝かせて食堂に向かう。
再び豪勢な昼食を堪能しながら、
「このでっかい魚は俺が獲ったんだ!」
とギルターが自慢するのを聞いて、ハムスターのようにご飯を詰め込んで頰を膨らませていたツムギは、はたと恥ずかしくなった。
(あたしだけ、食べて遊んでばっかじゃん……!)
竜人さまに食糧の調達と調理をさせて、自分は何も労働をしていなかった。
これまでの引きこもり生活のせいで、労働や家事をする習慣がすっかり無くなっていたのだ。
ミルゥも一緒に行動していたが、彼はツムギを乗せて歩くという立派な仕事をしている。
迷惑を、わがままを受け入れてもらえた──からこそ、自分も花嫁としての仕事をきちんとこなさねばならない。
食堂から寝室へ戻りながら、ツムギはぐっと拳を握り気合いを入れた。
隣を歩く黒髪の竜人を見上げる。
「あのさぁ、満月まであたしは何したらいいの? 儀式の練習とかお手伝いとか、お仕事とか」
「そりゃ、ツムギの好きなことをしてたらいいさ」
ギルターはツムギの視線を受けてにっこり笑う。
「……そんなんでいいの?」
思わず力が抜けて、握った拳がほどけた。
「お姫さまは笑顔でいるのがお仕事だからな。──向こうではいつも何してたんだ?」
「んっとぉ、図鑑を見たり……」
「ズカンか。本だよな。……無いな」
ギルターは腕を組んで「うーん」と考え込む。
ツムギは慌てて胸の前で両手を振った。
「その、外に出られないから見てただけでぇ……」
「ごめんな。他の本でよければ持ってくるぜ」
「あ、本自体はあるの?」
竜人さまも本を読むのか。
言葉は通じるけれど、文字も同じなのだろうか。
「ちょっと待っててな」
ギルターはわざわざツムギを部屋まで送り届けてからまた出ていく。
しばらくして、本の山を抱えて戻ってきた。
「昔の花嫁が持ってきたり、カガリが盗……拾ってきたりしたやつ。ここのはもう全部読んじゃったからあげるよ」
「人間の本じゃん。結構あるねぇ」
ツムギはがさごそと本を漁る。
ギルターが示した中には少女漫画もあったので、ツムギは目を見開いた。
「ギルター、これも読んだのぉ?」
「なんかダメだったか?」
首を傾げる竜人さまに向かって唇を尖らせる。
「女の子が読むやつだよぉ、これ」
「えっ、男は読んじゃダメだったか。ごめん、人間のルールを知らなくて……」
「ダメってことはないけどぉ……」
つぶやきながら、ページをぱらぱらとめくる。
漫画の中では、背景に花を背負った男が、女の子に甘い言葉を囁いている。
──お姫さま。
──かわいこちゃん。
ことあるごとに髪を撫でたりウインクしたり、キザ極まりない。
(あ、あー……これは……)
ツムギはそっとギルターを見上げた。
竜人さまは照れたように頭をかいている。
「人間の恋のこと、頑張って勉強したんだぜ」
ギルターのキザの出どころが分かった気がした。
✳︎✳︎✳︎
「やべっ、ゼータにお使いを頼まれてたんだった」
「また後でな、お姫さま」と、ギルターは片手を上げて出ていく。
急に部屋が静かになって、ツムギは本を手に取った。
ジャンルは様々で、子ども向けの絵本もあった。
竜人との子のために、いつかの花嫁が持ち込んだのかもしれない。
(……あたしも、何か持ってくればよかったねぇ)
それこそ図鑑とか。
赤ちゃんと一緒に眺めたら楽しいし、人間の世界の勉強にもなったはずだ。
ぼーっと流されるまま来て、そこまで考えられなかった自分が少し恥ずかしくなる。
(あ、でも、子どもが生まれたら村に帰されるんだっけ……)
それなら別に関係ないか。
ツムギは一人頷き、ふかふかのベッドにごろんと寝転がって少女漫画を読み始めた。
そもそも、花嫁ではなく食べられるのだと思っていたのだ。
(まさかこんな風に、優しく迎えてもらえるなんてねぇ……)
優しいどころか、竜人さま二人とヤギの献身のおかげで、歩けない身でも何一つ不自由なく暮らせている。
本当に奇跡的なことだ。
漫画のストーリーは進み、気弱そうな女の子がキザ男に陥落して、初めての恋に心を躍らせている。
実家では漫画は禁止されていたからほとんど読んだことはなく、なんだか新鮮だった。
ページをめくりながらぼんやり思いを巡らせる。
(ギルターがいないと静かだな……)
お使いだと言っていた。
また海で魚を獲っているのだろうか。
それか、畑で野菜の収穫かもしれない。
島の生き物たちが手伝っているとは言え、この広い宮殿と島をたった二人で管理しているのだ。
やることは山ほどあるだろう。
(あたしにも、何かやらせてくれたらいいのに……)
でも実際のところ、何もできない自分が悪いのだ。
わかってはいても、悔しかった。
「一人で部屋にいると、余計なこと考えちゃうなぁ……」
思わずぼやくと、足先がつん、と触れられた。
ツムギは瞬く間に渋面から笑顔になる。
「ごめんごめん。あなたがいるもんね、一人じゃないよねぇ」
「くぅん!」
漫画を閉じて、退屈そうなふわふわヤギをわしゃわしゃと撫でる。
気づけば、読み始めてから結構な時間が経っていたらしい。
お昼をたくさん食べたのに小腹がすいている。
ツムギは笑顔でヤギの顔を覗き込んだ。
「食堂、行ってみる?」
「くぅーん!」
ふわふわヤギはベッドの上で元気よく跳ねた。
✳︎✳︎✳︎
「ゼータ、いるかなぁ……」
宮殿の廊下には、またも香ばしい匂いが漂っていた。
パンとは違う、どこか甘い匂いだ。
ツムギとヤギは鼻をひくひくさせながら食堂に入り込み、キッチンを覗く。
作業している銀髪の竜人の後ろ姿が見えて、ツムギは目を輝かせる。
──と、声をかける前に振り返ったゼータが、ツムギの姿に舌打ちした。
「ほわっ!」
ツムギも思わず声を上げた。
ゼータの体に、何かが巻き付いていたのだ。
目をこらすとそれは──
ヘビだった。
うっすら透明で、太くて長いヘビ。
ツムギは頰に両手を当てた。
「急に来るのが悪いんですよ。いま退けます」
ゼータが忌々しそうに言って、ヘビを下ろしてツムギから隠そうとする。
ツムギは慌てて声を張り上げた。
「えっ、なんでなんで。見せてよぉ」
「は? 見たいんですか?」
怪訝そうなゼータの反応にツムギは小首を傾げる。
「その子、噛むのぉ? 危ない?」
「危害を加えたら噛みますよ」
「そりゃそうだぁ。危ないことされたら、あたしだって噛むもんねぇ」
ツムギは歯をカチカチさせてみせる。
銀髪の竜人は何とも言えない顔になった。
それでも、ため息をつきながらそっとヘビを差し出してくれる。
「“ウスラギ”と言います。冷気を吐くので、氷を作ってもらったりしています」
うっすら透明だったヘビが真っ白な体を現して、ツムギは小さく歓声を上げた。
血のように赤い澄んだ目が見返してきて、真っ青な細長い舌がちろりと覗く。
ひんやりとした冷気が頬を撫でて、ツムギはへらりと笑った。
「ウスラギさん、お手伝いご苦労さまぁ。──ここの生き物は人間を怖がらないねぇ……」
「お前が妙に動物じみてるからじゃないですか」
ゼータの視線は何故かウスラギの息のように冷ややかだった。
「いくら見目がよくても、それでは嫁の貰い手がいなかったでしょう」
「ほわ、失礼なぁ」
ツムギは唇を尖らせて反論を試みる。
「あたしだって、婚約者さんぐらいいましたぁ」
「……婚約者⁉︎」
大きく叫んだのはゼータではなかった。
ツムギは声の主を振り返る。
「あ、ギルター」
いつの間にか、背後に旦那さんが立っていた。




