ふわふわヤギとグルメの時間
「プスー……」
「ほがっ?」
すぐ近くで何か音がして、意識が引き戻された。
目を開けると、ガラスの天井越しに青い空がぼんやり揺れ、どこかでさざ波の音がしている。
四年間、嫌というほど見慣れた六畳一間ではない。
(そ、そうだ。竜人さまの島に来たんだ……!)
ツムギはよだれを拭って上体を起こした。
ギルターにもらった花を、照れくさいけれど自分で再び耳元に飾る。
その時、視界の端で白いものがもこっと動いた。
(えっ、なに……?)
ツムギはびくりと体を震わせる。
ベッドのすぐ横の床に、大きな丸い塊があった。
白い毛がふわふわと波打ち、呼吸に合わせて小さく上下している。
「プスー……ピスー……」
先ほどの音は呼吸音だったらしい。
(……生き物⁉︎)
まるで巨大な綿菓子だった。
息を潜めて見つめていると、その綿菓子がゆっくりと顔を上げる。
ツムギは悲鳴を呑み込んだ。
ぴこぴこ動く耳。
ゆるくカーブした角。
そして、黒くてつぶらな瞳。
「……くぅん」
「かっ、可愛──いたぁっ!」
身を乗り出しすぎて盛大にベッドから落ちた。
白い生き物が、ぱたぱたっと小さな尻尾を揺らす。
「ほわあ、あ、ぁあぁああああ……!」
床に落ちたツムギは、奇声を上げながらそのまま綿菓子に向けて這い寄った。
(羊……? ううん、ヤギみたい)
でも鳴き声は「メェ」じゃないし、なにより、ふわふわモコモコすぎる。
村でも図鑑でも見たことがないから、この竜の島独自の生き物──なのだろう。
気づけば寝室の扉が少し開いている。
そこから入り込んだようだ。
「どしたのぉ。迷子ちゃん?」
「くぅーん?」
綿菓子は上目遣いに小首を傾げた。
「はふぅぅ──ん!」
心臓を見事に撃ち抜かれ、ツムギは床の上で胸を押さえて身もだえた。
そこへ、開いたままの扉が叩かれる。
「──ツムギ? どうした、大丈夫か?」
「あっ、うん!」
正気に戻り慌てて起き上がる。
顔を覗かせた黒髪の竜人に、あわあわと綿菓子を指差した。
ギルターの心配そうな顔が、ふっと笑顔に変わる。
「そいつはウミヤギの“ミルゥ”だ」
「み、ミルゥちゃん……。やっぱりヤギさんなのね……!」
ツムギは胸の前で手を組み、はぁはぁと息荒く目を輝かせる。
「ギルターのペットなの?」
「どっちかと言うと友だちだな。ったく、『ドアの前で待ってろ』って言ったのに、勝手に入ったな。──気に入ったか?」
「それはもう……!」
ぶんぶんと首を縦に振ると、ヤギがとことこ近づいてくる。
毛がふわりと揺れて、ほのかにお日さまと潮の香りがした。
「さ、触っていいかなぁ……?」
「もちろん」
「やったぁ。ミルゥちゃん、触りますよぉ……」
震える手をそっと伸ばすと、想像を超える柔らかさだった。
毛は意外としっとりしていて、温かくて、優しくて──なぜだか涙がにじむ。
ヤギも気持ちよさそうに、頭を傾けて目を細めていた。
「……可愛いぃぃぃぃ」
ギルターも隣に膝をつき、貝殻の飾りが付いた赤い首輪をヤギに巻きつけた。
ヤギはぷるぷると首を振ったが、嫌がってはいない。
胸を張るようにして横目でちらりとこちらを見たので、ツムギはパチパチと手を叩く。
「似合ってるよぉ、ミルゥちゃん」
「プスー!」
ヤギは満足げに鼻を鳴らし、ギルターが微笑んだ。
「ツムギは生き物が好きなんだな。こいつは可愛いだけじゃなくて、乗り心地もいいんだぜ」
「……乗り心地⁉︎」
ツムギが思わず叫ぶと、ギルターは自慢げに頷いた。
「こいつ、何かを乗せて歩くのが好きなんだ。──俺は全然いいけど、君もずっと俺に抱えられて移動じゃ気ぃ使うだろ?」
「乗れるの、この子に?」
ツムギはふわふわヤギを見下ろす。
普通のヤギより一回り大きい程度だから、子どもならともかく大人を乗せて歩くのは大変そうだ。
でも、ここは竜の島。
この生き物も特別に力持ちなのだろう。
ギルターが笑顔でツムギに手を伸ばしてくる。
「よっしゃ、さっそく乗せてやる」
「じ、自分で乗れるよぉ」
「危なっかしいから、ダーメ」
結局、抱えられてヤギの上に乗せられた。
ふわり。
柔らかい毛が沈み、クッションのように身体を包み込んだ。
「お、重くないかなぁ……?」
「俺を乗せてテラスから海まで跳んだこともあるんだぜ。ツムギなんて、羽が生えてるみたいに軽い軽い」
「すごいんだねぇ」
テラスの向こう、きらきらと光を反射しながら海へと跳ぶヤギを想像する。
「すてきぃ……」
「ミルゥ、歩いてみろ」
「くぅん」
ふわふわの身体がゆっくりと動き出す。
綿毛が衝撃を吸収しているようで、揺れはほとんどない。
車椅子よりずっと快適だし、ヤギも本当に負担に感じている様子はなかった。
笑顔を弾けさせたツムギに、ギルターが満足げに笑う。
「よっしゃ、お姫さまの気持ちもほぐれたみたいな」
「あ……確かに」
興奮していつの間にか緊張を忘れていた。
「腹、減ったろ。飯にしようぜ」
「うん!」
「くぅん!」
二人と一匹は、真珠宮の廊下を軽やかに進んでいった。
奥からは、ふわりと食べ物の香りが流れてくる。
✳︎✳︎✳︎
「いい匂い……!」
すっかり緊張も解け、ふわふわヤギの上でツムギのテンションは少し高めだった。
「ゼータが昼飯を用意してる。張り切ってるぜ」
先ほど会った、ハンサムだけど少し気難しそうな、ギルターの弟。
「あの人、お料理できるんだぁ」
「そう、趣味なんだ。──ここが食堂な」
ドアノブに手をかけた竜人さまが、イタズラっ子のような顔になった。
「びっくりするなよ……」
「うん?」
扉が開いた瞬間、ツムギは目を見張った。
テーブルに乗せられた大皿、小皿、鉢、鍋……。
あちこちから温かな湯気が立ちのぼっている。
豪華な料理がどう見ても十人前以上、並んでいた。
「ほわぁ……。二人で住んでるんだよね。あたし以外にもお客さんがいるの?」
「いいや。それにツムギは客じゃなくて、もうここの女主人だろ?」
「えぇ、ガラじゃないよぉ……」
言い合っていると、脇にある扉から銀髪の竜人が現れた。
そちらにキッチンがあるらしい。
両手にはさらに皿を抱えている。
ツムギはおずおずと声をかけた。
「あの……こんなにたくさん、全部あなたが作ったの?」
「どれがお前の口に合うかわかりませんから」
「お姫さまが来たからって、張り切りすぎ」
ギルターが茶々を入れる。
「別に張り切っていません。いつも通りです」
即答。
しかも、ほんのりイラッとしている。
そのやり取りがなんだかおかしくて、ツムギは微笑んだ。
ギルターは「どう見ても張り切ってるだろうが」とぼやきながら、ツムギをヤギから降ろして椅子に座らせる。
ツムギは照れくさくて、唇を少し尖らせた。
「そのくらい自分でできるよぉ」
「そっか。でも、俺がしたいから」
ギルターが優しく微笑んだところに、弟が冷たい声で割り込む。
「料理が冷めます。イチャイチャは後にしてください」
「イチャイチャとか言うな!」
ギルターの顔が一気に赤くなる。
ツムギもつられて頬を染めた。
ヤギがピョコンと隣の椅子に飛び乗る。
竜人たちもそれを叱ることなく、ツムギとヤギの前に皿を並べた。
「一緒にご飯食べるの?」
「くぅん」
ツムギはにこにこして、改めて食堂を見回す。
テーブルからは海もよく見えて、テラス席もあった。
(あそこで食べたら気持ちよさそうだねぇ……)
そんなことを思いながら外を見つめていると、目の前の貝殻の器に、なみなみとスープが盛られる。
「あ、ありがとう! いい匂い……」
「貝出汁の白湯スープです」
銀髪の竜人はヤギや自分たちの皿にもスープを注ぐと、兄の隣に腰かけた。
ギルターが笑顔で匙を手に取る。
「よっしゃ、花嫁さんの歓迎パーティーの始まりだ! いただきまーす!」
「い、いただきまーす!」
「プスー!」
緊張しながらもスープをすくって口に運ぶと、驚くほど優しい味が広がった。
疲れた体に、ほどよい塩気が染み渡る。
「……おいしい!」
思わず顔を上げて叫ぶ。
こちらを見つめる銀髪の竜人の目が、ほんのわずかに緩んだ──ような気がした。
「塩気は足りていますか? 人間の好みはわからないので控えめにしてあります。出汁に使用している貝は五種類で、中でも干潮の洞窟でしか獲れないヒラギ貝は──」
「ゼータ」
突然饒舌に語り出した竜人にツムギがポカンとしていると、その兄がやんわり遮る。
「落ち着いて食わせてやれ」
「……わかりました」
ゼータは素直に頷いたが、どこかむすっとしていた。
ツムギがくすくす笑うと、じろりと睨みつつも次々と料理を取り分けてくる。
花の形に盛られた白身魚。
甘い葉野菜を蒸したもの。
ふわふわの海藻プディング。
口に入れると、まるで雲みたいな食感だった。
ゼータは、ヤギの皿にもツムギと同じものを乗せている。
ツムギは首を傾げた。
「人とおんなじの食べて大丈夫?」
「何がですか? いつも食べてますよ」
普通、動物が人間の食べ物を食べたら病気になってしまう。
やはりこの島の生き物は、元いた世界のものとは体の作りが違うようだ。
次々と皿を空にして舌なめずりをするヤギに「美味しいねぇ」と話しかけていると、ふと疑問が生まれた。
「ヤギもだけど、竜人さまも普通のご飯を食べるんだね。普通っていうか、ご馳走だけど」
「生肉とか食ってると思ってた?」
ギルターがイタズラっぽく笑う。
「うん。人間とかぁ」
「ぶっ!」
「汚いですよ」
ギルターが思いきり吹き出し、弟が顔をしかめて即座に注意する。
「わ、わりぃ。──人間は食わねぇよ! さっき言っただろ?」
「そうだったねぇ」
ツムギはのんびりと頷く。
ハンサムな黒髪の竜人は、一生懸命に説明しだした。
「あのな。竜人は男しか生まれないってだけで、あとはほとんど人間と変わらないんだぜ」
「そうなの? すんごいパワーとかあるのに……」
「人間だって、えーと、科学のパワーがあるだろ。生肉は食おうと思えば食えるけどさ、ゼータ飯のほうが美味いし」
ゼータは素知らぬ顔で自分の料理を口に運んでいる。
でも、兄に褒められて少し嬉しそうに見えた。
(そっかぁ……竜人さまは、意外と人間に近い生き物なんだ)
確かに見た目も、とびきりハンサムでスタイルが良いことを除けば人間と変わりない。
鱗が生えているわけでもなければ、牙や爪が特別長いわけでもない。
(ちょっとだけ残念だったりして……)
村の噂のせいで、勝手に大きくて恐ろしくて、カッコいいドラゴンを想像していたのだ。
もちろん、このハンサムな人型の二人も、とっても素敵で目に楽しいのだけれど。
(でも、じゃあ……村に流れ着いた遺体っていうのは、なんだったんだろ……)
ギルターは、生け贄ではなく花嫁で、しかも、子どもを産んだら帰してくれると言った。
たまたま、その前に事故か何かで亡くなってしまったのだろうか。
(……ていうか、美味しいご飯を食べてる時に考えることじゃないよねぇ)
慌てて頭を振って思考を止め、食事を再開する。
それを誤解したらしいギルターが、気遣わしげに覗き込んでくる。
「無理にいっぱい食べなくていいからな。ゼータは昔っから加減を知らねぇんだ」
「兄上は適当すぎるんです」
「なんだと! ったく、可愛くねぇな」
「……ふふ。仲がいいんだねぇ」
思わず口を挟むと、ギルターは照れたように頭をかいて、ゼータは心外そうに眉をひそめた。
ツムギはしみじみとつぶやく。
「誰かとご飯食べるの、久しぶり……」
家では、母が運んでくる膳を部屋で一人寂しく食べていたのだ。
ずっと忘れていた温かさが、胸の奥で静かにふくらんでいった。
✳︎✳︎✳︎
「ごちそうさまでしたぁ!」
どうやら、竜人さまとヤギは大食いらしい。
大量のご馳走はほとんど彼らの胃袋に収まった。
ツムギも、ここまで満腹になるまで食べたのは本当に久しぶりだ。
竜人たちが立ち上がり、皿をキッチンへ運び始める。
食事を反芻するヤギと見つめ合っていたツムギは、はっと我に返る。
「そだ……お手伝いしなきゃ」
実家での上げ膳下げ膳が癖になっていた。
椅子から降りてもまだモゴモゴしているヤギに乗り、自分とヤギの分の皿を重ねて運ぼうとして──
「……ほ、わっ!」
見事にバランスを崩した。
皿が宙を舞っていく。
(は、破片がミルゥに……!)
それだけは避けなくては。
皿に向けて思いきり腕を伸ばす。
体がぐらりと傾いて落ちる──と思ったその時。
氷の海の瞳と、間近で目が合った。
いつの間にか、銀髪の竜人──ゼータがすぐ前にいる。
ゼータは宙を舞う皿を、軽々と全て受け止めた。
一瞬、皿が空中で浮いたような気すらする鮮やかさだった。
もう片方の手がツムギの肩をとんと押し、ヤギから落ちかけた体をその背に戻す。
最後に空中のカトラリーを掴んで、カチャリと皿に置く。
その音で、ツムギは、はっと我に返った。
「……あ、ありがとう!」
「余計なことを……。大人しく引っ込んでいてください」
「え、あ……ごめんなさい」
冷たく告げられて、反射的に体を縮める。
「ツムギ! 怪我はないか?」
ギルターがすぐさまキッチンから走り出てきた。
ゼータの前で縮こまるツムギの肩を掴む。
「ごめん、『休んでて』ってちゃんと言わなかったな。──怖がらなくて大丈夫だ、ゼータもお姫さまを心配してるだけだぜ」
「……え?」
「ったく、言い方がキツいんだよな」
ツムギは目を瞬いて、冷たく整った顔を下から覗き込む。
「……心配してくれたの?」
「してません」
即答だった。
氷海の視線にツムギはまた首をすくめる。
「ったく、素直じゃねぇんだから……」
「余計な口ばかり……そんなに暇なら、二人とも、外でも歩いてきなさい」
ツムギとギルターは顔を見合わせた。
「じゃあ……腹ごなしに島を案内しようか」
「あ、行きたい……!」
腹ごなしと言っても、ツムギは歩けないからヤギに揺られるだけだ。
それでも景色を見て回れるのは、もちろん嬉しい。
少し明るい気分になって、片付けを再開したゼータの背中に頭を下げる。
「……ごめんね。とっても美味しいご飯をごちそうさまでした、ゼータさん」
「ゼータで結構です」
「……はい、ゼータ」
ツムギはちょっとぎこちないながらも、笑顔を作った。
弟の竜人さまは少し気難しい。
(でも、そんなに怖い人じゃないみたい……)
助けてくれたし、ツムギが失敗しても怒鳴りつけなかった。
言葉は冷たいけれど、飾らずに思ったことをそのまま言っているだけなのだ。
ほっとしてもじもじしていると、その兄と目が合う。
ギルターはツムギの心を読んだように、優しく微笑んだ。




