自分にできること
夜は更けている。
(二人はそろそろ、使命の時間かも……)
そう思いながらも食堂の前まで来て、ツムギははっとする。
ドアは開いていたが、また──二人の争う声がしていた。
ツムギは息を詰めてそっと中を覗く。
腕を組んで壁にもたれるゼータと、その前で何かを力説しているギルターが見えた。
「──だから、俺はもうツムギに隠し事しないって決めた。竜の姿も全部見せて、それでも俺といたいか決めてもらうんだ」
(……えっ?)
ツムギは息を呑む。
ゼータの静かな声が続く。
「……それであの女に拒絶されて、兄上は耐えられるんですか?」
「そりゃ、死ぬほど辛いに決まってんだろ。けど……仕方ない。そもそも、騙して連れてきた俺がいけなかったんだ。今度こそあの子の気持ちを尊重したい」
「……では、言い方を変えます」
ツムギが自分の存在を知らせようと口を開きかけた時──
ゼータが、うっすらと笑っているのが見えた。
「あの女が私たちを拒絶したら──私は耐えられない」
ツムギは思わず息を止める。
「私の料理を食べて微笑んだあの唇から、私たちを罵る言葉を聞いたら、私は耐えられない。その言葉を止めるために──また、殺すしかなくなります」
(ゼータ……!)
自分が動揺しているせいだろうか。
ツムギには、またゼータが泣いているように見えた。
ギルターにもそう見えたのかもしれない。
彼の声も震えていた。
「またって……なんだよ。ずっとそんなふうに思ってたのか? 母さんのあれは事故だ!」
「あの時はね。確かに事故だったかもしれません。でも今度は──今度こそは、確実に私の意思で殺すことになる」
ゼータが目を伏せて笑っている。
笑っているのに、泣いている。
(……泣かないで、ゼータ……)
立ち聞きはいけない。
声をかけなきゃと思うのに、呼吸がどんどん浅くなり、声が出なかった。
「そうなってもいいんですか。あの女を失っても、兄上は耐えられるんですか?」
「……そんなことにはならない。俺が止める。兄ちゃんが止めてやる!」
「止められませんよ。兄上は子を成して、永遠の命を失った。──いまはもう、私の方が強い」
ゼータの体から風が巻き起こる。
いつの間にか、ゼータの目はツムギをひたと見つめていた。
(聞いてるの、バレてた……!)
ツムギはミルゥの上で思わず身を引く。
「試してみますか?──その女を守れるか」
「⁉︎──ツムギ!」
ギルターもツムギの存在に気づく。
ゼータが左手を指揮のように振り、その指から放たれた旋風が襲ってきた。
「ほわ……っ」
「やめろゼータ!──ミルゥ‼︎」
「くぅーん!」
ヤギが大きく跳ね、風を避ける。
ツムギは必死にしがみついたが、着地の衝撃で崩れ落ちた。
すかさず駆け寄ってきたギルターが、ツムギたちを背後にかばう。
「怪我ないか、ツムギ、ミルゥ!」
ギルターの体が青白い稲妻をまとっていく。
(……やめて)
ツムギは床に足を投げ出したまま、争う竜人二人を呆然と見つめる。
(喧嘩しないで……!)
この兄弟はあんなに仲が良くて。
長い間たった二人で寄り添って、力を合わせて生きてきたのに。
ああ、やっぱり──
(あたしがいるせいだ……!)
「ツムギ、大丈夫だ! 怖くないぞ!」
再び襲ってきた風を稲妻で受け流し、煽られながらもギルターが叫ぶ。
「ミルゥに乗って逃げれるか?──ゼータ、やめろ! お前だってツムギを気に入ってただろ!」
ゼータも笑みを作ったまま声を張り上げる。
「目の前から消えてほしいと思うくらいにはね!」
「意味わかんねぇよ。お前は頭いいんだから、バカな俺にもわかるように言え!」
「兄上みたいなお人好しには、私のような捻くれ者の心は一生わかりませんよ!」
「お前マジでそういうのやめろ! 兄ちゃんがちょっとお仕置きしてやる!」
ギルターの体から青白い光がほとばしる。
(──やめて……)
世界がぐるぐる回って、もう二人が何を言っているのかすら頭に入ってこない。
けれど、これだけはわかる。
これ以上自分がここにいたら、二人はまたひどく傷ついてしまう。
お互いに最後に残った、たった一人の兄弟すら失ってしまう。
「くぅーん!」
ヤギがツムギを乗せようと懸命に服を引っ張っている。
その感触に、はっと全身の感覚が戻った。
ツムギは大きく息を吸い込む。
「──やめて!」
全身全霊の力を振り絞って叫んだ。
「帰るから!」
二人と一匹の動きがぴたりと止まって、ツムギを見つめる。
何よりも愛しい六つの瞳を見つめ返しながら、ツムギはゆっくりと繰り返した。
「あたし、帰るから……!」
「ツムギ……⁉︎」
ギルターが呆然と呟き、ふらふらと近づいてくる。
「怖い……怖いの。ごめんなさい……」
毅然と告げようと思ったのに、いつの間にかぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
耐えられない。
もう、耐えられない。
赤ちゃんが生まれてくるまで保たない。
ギルターが崩れるように跪いてツムギの肩をつかむ。
「ごめん……! 怖がらせてごめん……!」
「違うの、ギルターは悪くない……ゼータも。全部あたしが悪いの。ごめんなさい」
怖かった。
二人が、自分のせいで争ってしまうことが。
赤ちゃんが、無事に生まれてこないかもしれないことが。
ちゃんと育ててあげられないかもしれないことが。
自分のせいで、みんなの幸せを壊してしまうかもしれないことが──
こんなにも、怖い。
「こんなんじゃ……赤ちゃんに悪い影響与えちゃうから。帰ります……」
声も体も、どうしようもなく震える。
「みんな、良くしてくれたのに……こんなことしかできなくて、ごめんなさい……」
「そんな……大丈夫だ、ツムギ……俺たちの子だぞ。こんなことで駄目になったりしない……!」
ツムギと同じく震える手が恐る恐る髪を撫でてくる。
「帰るなんて言わないでくれ……俺に悪いところがあるなら、全部直す……」
「あなたは何も悪くない。本当に……最高の、旦那さんだよ」
「じゃあ、どうして帰るなんて言うんだ!」
ギルターが涙を浮かべて叫ぶ。
「一緒にいてくれ。何でもする。お願いだ……俺の花嫁……」
ツムギはもう一度首を横に振り、両手で顔を覆った。
風を収めたゼータが静かに口を開く。
「……ワタリガメの用意をします。明朝でいいですか」
「……はい。お願いします」
ツムギが頷くと、ギルターが悲鳴のような声を上げる。
「駄目だ……ツムギ、嫌だ……!」
「兄上。その女のためですよ」
「……ツムギの?」
動きを止めた兄に、弟が頷いてゆっくりと言い聞かせる。
「彼女には彼女の、人間としての人生があります。私たちに、私たちの生活と使命があるように。彼女は私たちに充分与えてくれたでしょう。……これ以上、奪う気ですか」
「奪うって……俺はそんなつもりじゃ……」
ギルターは呆然としながらうつむいた。
「そうなのか……? 俺は君から奪ってたのか……?」
端正な顔がたちまち涙で崩れていく。
「俺は君を一方的に連れて来て……それなのに、君は毎日俺に笑いかけてくれて、子どもまで産んでくれたのに。結局、俺がもらうばっかりで、何もあげられなかった」
ギルターは泣きながら笑顔を作った。
「今も、君の気持ちを尊重したいって言っときながら、また俺の気持ちを押し付けてた……。フラれて当然だ。嫌われて当然だ……」
「違う……違うよ、ギルター」
ツムギも泣きながら、必死に首を横に振る。
ギルターにたくさんもらったから、だからツムギはあそこに帰れる。
ギルターのことが大好きだから、帰るのだ。
「……君のことが本当に大好きなんだ。それだけは信じてくれ。……好きになって、ごめん」
「……謝らないでよぉ……!」
悪いのは全部ツムギだ。
ギルターも、ゼータも──
自分のせいで悲しい顔をしないでほしい。
次々とあふれる涙は止まらなかった。
ツムギとギルターは床に座り込んだまま、子どものように泣きじゃくっていた。
ゼータがミルゥを促して、静かにこの場から去るのが視界の端に見えた。
(ごめんね……ゼータ……ミルゥ……)
やがて泣き疲れて、意識が遠のいていく。
(ごめん……ギルター)
✳︎✳︎✳︎
夢の中。
天国のように美しい島に、大きな竜二匹と小さな竜三匹が、仲良く幸せに暮らしている。
ミルゥにカガリ……ナギウモたちもいる。
真っ青な海に囲まれた、誰にも邪魔できない楽園。
──そこにツムギはいない。
いないほうが、いい。
✳︎✳︎✳︎
いつの間にか、寝室に運んでもらえたらしい。
ベッドの上でツムギは目を開けた。
天井のガラス窓からまばゆい光が差し込んでいる。
朝が来た。
──別れの朝が。
ぼうっとしていると頰をツンツンとつつかれて、そちらに目をやる。
「……おはよう、ミルゥ」
「くぅーん」
「昨日はごめんねぇ……」
ヤギは何度も頭を擦り付けてきた。
洗面をして部屋に戻り、一番お気に入りのひまわり色の服に着替える。
そこへ、ちょうどノックの音がした。
思わずびくりと肩が跳ねる。
「……はい」
「……おはよう。入っていいか?」
扉が開き、ギルターの顔が覗く。
いつもの端正な顔立ちだけれど、その目は赤かった。
ツムギが頷くと、ゆっくりと歩いてきてベッドの端に腰掛ける。
「……はい、今日のお花」
後ろ手に持っていた花を、そっとツムギの髪に挿す。
ツムギはギルターの顔を見上げた。
「……あの後、ゼータと何か話した?」
「……うん。あそこまでちゃんと兄弟喧嘩したの、初めてだ。──だから仲直りも初めて」
ツムギはほっと息を吐いて笑顔を作った。
ギルターはツムギの手の上に自分の手をそっと重ねる。
「昨日はみっともなく泣き叫んだりしてごめんな。できるなら、最後はちゃんと笑ってお別れしたい」
「……あたしもそう思ってた」
「なら……よかった」
腕が伸びてきて、そっと抱きしめられる。
ツムギはギルターの肩に顔を乗せる。
二人はしばらくそうしていた。
✳︎✳︎✳︎
並んで食堂に向かう。
テーブルの上にはいつものように──いや、いつも以上に料理が所狭しと置かれていた。
「……最初の日より豪華だぁ」
「張り切りすぎだよな、ほんと」
茶化すギルターを、キッチンから出てきたゼータが睨みつける。
その目も少し赤い気がしたけれど──
本当にいつもの二人だった。
(よかった……本当に、よかったぁ)
ギルターがツムギを椅子に座らせ、ヤギがその隣に陣取った。
ゼータが湯気の立ち上るスープをツムギの前に置く。
ツムギは銀髪の竜人をしっかりと見上げて、そして頭を下げた。
「ありがとう。……いただきます」
「……冷める前にとっとと食べなさい」
最後の晩餐──じゃない。
最後の朝食だ。
厳かに手を合わせる。
ツムギはスープを始めに、全ての料理を順番に味わった。
もうごはん一粒だって入らないくらい、満腹になるまで食べた。
「……最高でしたぁ」
心からの笑顔で告げると、ゼータはゆっくりと頷いた。
✳︎✳︎✳︎
寝室に戻り身支度を確認していると、再びノックの音がして黒髪の竜人が顔を覗かせた。
「……準備できたか?」
「うん」
「もう少し、ゆっくり荷造りしてもいいんだぞ」
「荷物、これだけだからねぇ」
花嫁衣装の包みを撫でると、ギルターが頷く。
「……そうだよな。君は身一つで来てくれたんだったな。ズカンとかも全部置いて」
「ふふ。図鑑は別にいいけどぉ。それ以上のもの、見せてもらったから」
ツムギは部屋を見渡す。
このお姫さまみたいな寝室ともお別れだ。
ツムギはやっぱり、お姫さまにはなれなかったけれど。
それでもここでほんの一瞬だけ、そうなれた気がしていた。
「素敵な夢を見せてくれてありがとう」
部屋に向かって深く頭を下げる。
ハーネスを着けたミルゥに乗って、ギルターと手を繋いで廊下をゆっくり歩いていく。
壁は朝日にきらきらと輝いていた。
“始まりの海”の扉の前に着き、ギルターとヤギが立ち止まる。
ツムギは重厚な扉を見つめた。
(……さよなら、チビちゃんたち)
目を閉じて扉に額をつけ、扉の先にいる子どもたちに、心の中で語りかける。
(逃げてごめんね。こんなお母さんでごめん……。どうか元気で、幸せになってね。遠くから、ずっとお祈りしてるからね……)
昨日枯れるまで泣いたと思ったのに、また涙がこぼれてきた。
(──あたしをお母さんにしてくれて、ありがとう……)
声にならなかった言葉は、扉に吸い込まれていった。
ギルターが優しくツムギの肩を抱き、額に唇を落とす。
ツムギは涙を拭って、ヤギに進むように促した。
✳︎✳︎✳︎
浜に出ると、すでにワタリガメとゼータが待っていた。
ツムギは真っ白な宮殿を見上げ、そして頭を下げた。
ここで色々なことがあった。
本当に色々なことが……。
頭を上げると、ふわふわヤギがゼータの前へと歩み出る。
「お世話になりました」
ヤギに乗ったまま再び頭を下げても、銀髪の竜人は答えなかった。
少し間を置いてから、静かに口を開く。
「……レアチーズケーキを完成させられなかったことは、私の永遠の生涯の汚点です」
ツムギは顔を上げて思わず笑みをこぼした。
「食べたかったなぁ。ゼータが作ったレアチーズケーキ」
「俺も食べてみたかった」
ギルターも笑って同調する。
ゼータはヤギの前に片膝をついた。
「ミルゥ。いままでの働きに感謝します」
そう言って、首輪に小さな荷をくくりつける。
「ナイトキャップと、好物の草の種です。向こうで育ててください」
「うん……」
ツムギは綿毛から降りて、そのつぶらな瞳を正面からのぞき込んだ。
「……ほんとに、あたしと一緒に来てくれるの?」
「くぅーん!」
どんな時も側にいたツムギの親友は、「当然だ」と言うように鳴いた。
ツムギと一緒に、人間の村へ。
それがこのふわふわヤギの決断だった。
ツムギは柔らかな綿毛をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうね、ミルゥ……」
「……ったく、こいつにはほんと敵わないぜ」
ギルターが苦笑しながらツムギを抱き上げ、そのままワタリガメの背へ乗る。
ミルゥも浜から跳んで亀に乗り込んだ。
ワタリガメが静かに沖へと泳ぎ出す。
「ゼータ、ありがとう!」
ツムギは遠ざかる浜に向かって叫ぶ。
「ありがとねぇ!」
一生懸命、大きく腕を振る。
ゼータは何も言わなかった。
手も振り返さない。
ただ、いつもの凛とした姿勢のままこちらを見ていた。
その姿が、豆粒ほどになった頃。
膜をくぐる感覚がして、島もゼータも、ふっと消えた。
神々の世界から、人間の世界へと境界を越えたのだ。
ツムギの頰を再び涙が伝う。
(ばいばい、ニライカナイ……)
美しい自然と愛しい生き物たち。
カガリやナギウモたちに、ちゃんとお別れも言えなかった。
でもみんなの姿を見たら、ますます帰りたくなくなってしまう。
海を渡る風が少し冷たくて、こちらの世界はいま冬なのだと思い当たった。
ギルターが肩をそっと抱き寄せてくる。
それからは、きらきらした光の中でどうでもいい話をたくさんした。
ふわふわヤギが甲羅の端に立って、器用に海に向かって用を足すのを見て大笑いした。
笑いすぎて海に転げそうになったツムギをギルターがすかさず抱き留めてくれて、そのまま二人で亀の上で寝転がった。
青い瞳が、まっすぐに自分を見つめ返してくる。
楽しくて、そして幸せだった。
──たぶん、いままでで一番。




