花嫁の決心
「──何してる‼︎」
「くぅーん!」
怒号が空気を裂いた。
ツムギが我に返って振り向くと、食堂の入り口に黒髪の竜人とヤギが立っている。
(ミルゥ……)
どこかへ行ったと思ったら、ギルターを呼んできてくれたのだ。
駆け寄ってきたギルターが弟の手を乱暴に払いのけ、ツムギを腕の中に引き寄せた。
「大丈夫だ、怖くないぞ。──俺がいるぞ、ツムギ!」
名前を呼ばれてずっと息を止めていたことにようやく気づき、ツムギは大きく息をする。
ギルターは弟を強く睨み付けた。
「ゼータ、この子に何したんだ? 何を言った⁉︎」
「……別に、ただの世間話です」
「お前は世間話なんてしないだろ!」
「それもそうですね」
「お前な──」
「……ギルター!」
ツムギはギルターの服の裾を掴み、必死に声を絞り出した。
振り向いたギルターの瞳を、震えながらもひたと見つめる。
「大丈夫だよぉ。……喧嘩、しないで」
「……いやダメだ、弟でも君を傷つけるやつは──」
「違うの!」
ツムギは必死で首を横に振って叫んだ。
「ゼータは悪くないの。あたしが調子に乗ってたから……ゼータは、あたしのためを思って注意してくれただけなんだよ」
ツムギの主張にギルターは戸惑った顔になり、自分の花嫁と弟を交互に見比べた。
「……本当か?」
「うん」
「……嘘、ついてないか?」
「うん!」
ツムギが少し強めに頷くと、ギルターは息を吐き、バツが悪そうに頭をかいた。
「……悪かった、ゼータ」
「……別に。私も少し口調がキツかったかもしれません」
「それはいつもだろ。少しじゃねぇし」
ゼータがじろりと兄を睨む。
そのやり取りを見て、ツムギは再び大きく息を吐いた。
(……いつもの二人だぁ)
安堵に気が抜けたところにヤギが駆け寄ってきて、ぐりぐりと頭を押しつけてきた。
「くぅーん」
「ミルゥ、ありがとうねぇ」
綿毛を抱きしめていると、ギルターの大きな手がツムギの背中を包むように撫でた。
「さぁ、部屋に戻って寝よう。疲れただろ」
「……うん」
「ツンツンゼータには後で兄ちゃんが、女の子への口の利き方を教えておくからな」
「ほわぁ……ゼータまでキザになっちゃったらどうしよう……」
「なりません」
即答だった。
扉をくぐりながらそっと振り返ると、銀髪の竜人と目が合う。
その青い目はもう濡れてはいない。
冷静で気難しい、いつものゼータのはずなのに。
──なぜだろう。
ツムギには、彼が今にも泣き出しそうに見えた。
✳︎✳︎✳︎
寝室に戻ると、ギルターがいつものように寝室を整え始める。
カーテンを閉める後ろ姿を見ながら、ツムギはしばらく言葉を探していた。
「……あのさぁ。ギルターも竜の姿になれるんだよね?」
「──え?」
やがて思い切って声をかけると、ギルターの動きが止まった。
「ゼータが教えてくれたの」
「……そうか」
「それと……ゼータが──お母さんを殺したんだって」
「あのバカ……!」
ギルターが眉を寄せて低く唸る。
「違うんだ。あれは……ただの事故だ」
「そう言ってたよねぇ。あたしも、ゼータはそんなことしないと思う」
出会ってからまだ三ヶ月くらいだけれど、それでもわかる。
ゼータは、優しい。
言い方や態度は冷たくても、わざと誰かを傷つけたりなんてしない。
さっきも、ツムギを怪我させそうになって、あんなにも驚いて──自分自身のほうがよっぽど傷ついた顔をしていた。
ギルターはそっと息を吐き、こちらに歩いてきた。
「……やっぱりツムギには、ちゃんと全部話さないとな」
ギルターはツムギをベッドに降ろして、自分も腰かける。
綿毛をひと撫ですると、ヤギは静かに部屋の外へと出ていった。
「母さんが亡くなったのは、俺が……四歳の時のことだ」
ギルターが口を開く。
「四歳って言っても……竜人は人間より成長が早いから、こんくらいだったかな」
ギルターが手で床から示したサイズは、人間で言うと小学校の中学年くらいだろうか。
ツムギが頷くと、ギルターは滔々と語り始めた。
✳︎✳︎✳︎
──父はとても強い竜人だった。
俺はそれが誇らしくて、心から尊敬していた。
人間の母は優しくて、美しかった。
俺は二人のことが大好きだった。
俺が四歳になった時、弟が生まれることになった。
“始まりの海”。
青い卵の中で、三匹の小さな竜が──弟たちがゆっくりと泳いでいる。
光が満ちて揺れていて、この世で一番きれいな光景だと思った。
「人間の母親に卵を見せてはいけない」。
掟は知っていた。
けれど──。
最近、母はあまり笑わなくなっていた。
(でも、これを見たらきっとまた笑ってくれる!)
俺は母の手を引いて、“始まりの海”へ向かった。
卵の中の弟たちは、初めてみる母の姿に嬉しそうに身をくねらせた。
きゅう、きゅう、と甘えた声をあげる。
それがたまらなく愛おしくて俺は微笑んで隣を見上げ、そして固まった。
──母の顔が、ぐにゃりと歪んでいた。
「……母さん?」
次の瞬間、母は叫んだ。
耳を裂くような悲鳴を上げ、弟たちを、そして俺を「化け物」だと罵った。
思い切り突き飛ばされ、まだ小さな俺は固い床に転がる。
聖域の光がばちりと弾けた。
母の胸元で祝珠が鈍く輝き、強い波動を放つ。
それに共鳴して──卵が、崩れ落ちるように割れた。
海水が溢れ出し、衝撃で母も床へと倒れ込む。
小さな弟たちの悲鳴が、聖域に鳴り響いた。
未成熟なまま外へと引きずり出され、三匹のうち二匹はすぐに動かなくなった。
残った最後の一匹が、倒れた母のもとへ必死に這い寄る。
「──来ないで‼︎ 化け物‼︎」
母はめちゃくちゃに暴れて、俺の弟を、自分の子どもを突き飛ばした。
そして、よろめいた銀色の小さな竜──ゼータから悲痛な叫びと風の渦が放たれた。
激しい竜巻が聖域全体を呑み込んでいく。
「母さん!」
俺は風に煽られ、柱にしがみつきながら必死に母へと手を伸ばす。
確かに、目が合ったのに。
差し出したその手が掴まれることはなかった。
母が木の葉のように舞い、壁へ叩きつけられるのがスローモーションで見えた。
「母さん──‼︎」
ようやく嵐が止んだ時、そこには母と二匹の弟の亡骸があった。
俺は呆然とへたり込む。
「ギルター⁉︎ 何事だ⁉︎」
騒ぎを聞きつけ、父が駆け込んできた。
「父さん……」
ギルターが口を開きかけた瞬間、事態を理解した父が吠えた。
人の姿が歪み、巨大な竜の本性が露わになる。
怒りと悲嘆の炎が、雄叫びと共に全身から放たれた。
その炎が、最後に残った弟を呑み込もうとしている。
「ゼータ!」
考える前に体が動いた。
俺も竜の姿へ変わり、弟の前に立つ。
青白い稲妻が体を走り、床を震わせる。
一体、何が起きているのか。
わけのわからぬまま、ただこの弟を絶対に守らなければいけないことだけは分かった。
父の炎と、俺の稲妻がぶつかる。
光が弾け、視界が白く塗り潰されて思わず目を閉じる。
──次に目を開けたとき。
父は、母に折り重なるように倒れていた。
「父さん……?」
俺は竜の頭でそっとその体を揺さぶる。
どうして、父も動かないのだろう。
助けを求めるように辺りを見回す。
“始まりの海”は、もはや聖域の姿を失っていた。
炎が走り、壁は崩れ、光は濁っている。
どうしてこんなことに……と思いかけて、呆然とつぶやく。
「……俺の、せい……?」
残った最後の弟は、炎の中で母の亡骸を見つめていた。
小さな体が今にもほどけて消えそうだった。
(待って。行かないで)
声にならない叫びが胸を裂く。
(一人ぼっちにしないでくれ……!)
俺は人の姿に戻り、震える手で弟を抱きしめた。
「……大丈夫だ」
弟にじゃなくて、たぶん自分に言い聞かせていた。
「怖くないぞ……」
なんとか弟を外に連れ出してから聖域に戻ると、モチウミが集まってきて炎を消し止めていた。
海から生まれた竜人の体は、命を失えばほどけて海に還る。
父と弟の遺体は無く、ぽつんと母の体だけが遺されていた。
変わり果てた母の前で、俺はようやく涙をこぼした。
美しかった母。
優しかった母。
「俺のせいで、ごめん……」
「……ぽぉぉ」
気遣うような声に顔を上げる。
海の中で卵守りをしていたナギウモも、額に傷を負っていた。
巻き込んだことを謝って、母の体を故郷へと届けるように頼むと、俺はふらふらと聖域を後にした。
それから長い間、俺はただひたすら、残った弟のためだけに生きた。
ゼータは驚くほど早く、人型の姿へと成長した。
真珠宮にある本をすべて読み解き、神気で刻まれた教えと掟を吸収し、あっという間に兄の自分よりも賢く頼もしくなった。
気づけばキッチンに立ち、料理まで作っていた。
そして、ゼータが成体になり永遠を手に入れた日。
俺たちはずっと放置していた“始まりの海”へようやく足を踏み入れた。
「……子どもを、作らないとな」
先祖の竜人たちが受け継いできた使命を途切れさせるわけにはいかなかった。
崩れた聖域を神気で修復し、蘇らせる。
しかし、俺の愚かさから生まれた悲劇を繰り返すわけにもいかない。
『卵は人間の花嫁に見せない』
『竜の姿も見せない』
二人で話し合って、掟の記録に新たな一文を刻んだ。
『子どもが生まれたら、花嫁は故郷に帰す』。
✳︎✳︎✳︎
「──自分で決めといて自分で破った。ほんとバカだよな、俺」
ギルターが涙を浮かべながら自嘲した。
「そう、全部、自分勝手な俺のせいだ。ゼータも被害者なんだ」
ツムギは手を伸ばしてギルターの頭を抱きかかえた。
「『こんなはずじゃなかった』って……母さんは何度も叫んでた」
「…………そっか」
「こんなはずじゃなかった」──
ツムギがかつて見た、あの悲しい夢。
あれは……ギルターの母親の記憶だったのだろう。
「母さんは幸せになるはずだったのに。俺さえいなければ、幸せになれたのに!」
ツムギは震えながら泣き叫ぶ竜人を抱きしめる。
「……ギルターは悪くないよ。もちろんゼータも。お母さんもお父さんも、誰も悪くない」
「ごめんな、ツムギ」
ギルターが縋るようにツムギの腕をつかむ。
「君を連れてくる前に話すべきだった。……勇気がなかったんだ」
「……謝る必要なんてないよ。ギルター」
ツムギは自分も涙を浮かべながら唇を噛みしめる。
この優しいひどく傷ついた竜人に、どうしたら「あなたの罪ではない」と伝えられるのか。
「……子どもを作らなきゃ、っていうのだって……ほんとは言い訳だった。俺はただ、君にもう一度……」
「もう一度……?」
ギルターは言葉を続けず、しばらく嗚咽していた。
やがて涙をぬぐって言う。
「ツムギ……ありがとう。君が、俺の花嫁になってくれた。それだけで、生きてきてよかったって思えた。俺だけ幸せで、ほんとみんなに申し訳ないけど……」
「……あたしもあなたに会えて幸せだよ」
ツムギは心優しい竜人に、そっと口付ける。
「生き延びて……あたしに会ってくれて、ありがとう」
ギルターは再び肩を震わせ始めた。
それを抱きしめながら、ツムギも無力感に震えていた。
(あたしは、何もできない……)
この愛しい人の、涙を止めることすら。
✳︎✳︎✳︎
やがてギルターは、
「そういえば、おつかいの途中だったんだ」
と無理に笑顔を作って出て行った。
代わりに入ってきたヤギが、ツムギのすぐ隣に腰を下ろす。
ランプの灯りの中、ツムギはベッドサイドの本棚から絵本を手に取った。
奥付に記されている年は、昭和四十年──
時期から考えて、この本もギルターたちの母が持ち込んだものなのだ。
(あたしと違って、ちゃんと準備をして来た人だったんだ……)
ここで暮らしみんなで幸せになるために、役に立つものをたくさん抱えて。
なのに、それでもうまくいかなかったのだ。
何とも言えないやるせなさが胸に沈む。
「……あたしは、何もできない」
「……くぅん?」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、ヤギが不安そうに首を傾げる。
いつも兄弟やミルゥに守られるばかりで。
このままここにいたところで、生まれてくる子どもたちを守り、育てていけるのだろうか。
(──ダメ。不安になっちゃいけない……)
胸の祝珠をぎゅっと握る。
赤ん坊に悪い影響を与えてしまう。
けれどそう思えば思うほど、ますます胸は締めつけられていった。
(竜人と人間は、全然違う生き物なんだ……)
生まれ方も、生き方も。
それなのに一緒にいようとすれば、どうしても無理が生まれる。
言い争う兄弟の姿が胸に浮かぶ。
自分がいなければ、あの二人が喧嘩することもなかったのに。
──ゼータの言うことは正しい。
今までいつも正しかったように。
(帰った方がいい……)
一緒にいない方がいい。
いつかまた、あの悲しい事故のようなことを、繰り返してしまわないように。
そうなる前に。
ツムギは大きく息を吸い込み、自分に言い聞かせる。
「赤ちゃんが無事に生まれたら……村に帰ろう」
最初に言われていた通り、そうしよう。
ニライカナイ。
温かくツムギを迎えてくれた楽園。
優しい優しい竜人兄弟とヤギ、たくさんの生き物たち。
この場所を離れ彼らと離れることを思うと、心臓が激しく悲鳴を上げた。
それでもきっと、そのほうが全部うまくいく。
みんなが幸せになれる。
(これが、あたしにできる唯一のこと……)
ツムギ自身も不安に怯えながらここで暮らすよりも、遠くから幸せを願っているほうが心穏やかでいられる。
自分のためでもあるのだ。
ツムギは手すりを掴んで立ち上がる。
(伝えなきゃ……)
決心が鈍る前にちゃんと伝えて、そして残された時間を大切に使おう。
また前のように、皆で仲良く笑って過ごしたい。
「ミルゥ……二人を探してくれる?」
「…………くぅん」
ふわふわヤギが、しょんぼりと耳を伏せて立ち上がった。




