花嫁の憂鬱
「なぁに、珍しい」
「一生のお願いだ」
「何それぇ」
あまりに真剣な様子に、逆にくすっと笑ってしまう。
ギルターは笑わなかった。
真剣そのものの表情で息を吸い、口を開く。
そして、その言葉がゆっくりと放たれた。
「──卵が孵ったあとも、俺とずっと一緒に暮らしてくれないか」
「……えっ?」
ツムギは固まった。
「残りの生涯全部を、君と一緒に過ごしたいんだ」
青い瞳がまっすぐ自分を見つめている。
ツムギは口を開けたまま、言葉が出てこない。
しばらくして、震える声でかろうじてつぶやく。
「……いいの?」
「……ああ」
「あたし、ここにいても……」
「もちろんだ。君にいてほしいんだ」
ギルターは迷いなく頷いた。
ツムギの目に涙が盛り上がり、叫ぶように答える。
「あたしも、あなたとずっと一緒にいたい……!」
ギルターもくしゃっと泣き笑いのような顔になった。
「ありがとう、ツムギ……!」
腕が伸びてきて、思い切り抱きしめられる。
「俺、いま……世界で一番幸せだ。愛してる、ツムギ。大好きだ」
「……知ってるよぉ」
ツムギは、へにゃりと笑う。
ギルターの唇が、ツムギの唇に降りてくる。
(あたしも、世界で一番幸せ……)
ツムギは目を閉じながら、心の中でそうつぶやいた。
刹那、村に残してきた妹の顔が頭をよぎる。
(……ばいばい、イオリ)
胸の奥でそっと別れを告げる。
(あたし、何にもできないお姉ちゃんのままだけど。ようやく居場所ができたよ……)
ツムギはギルターの胸に顔を埋めた。
✳︎✳︎✳︎
「──え? 卵を見に行っちゃダメなの……?」
翌朝、ツムギは愕然とつぶやいた。
ギルターは申し訳なさそうに頭をかいている。
「『人間の花嫁は卵を見てはいけない』って掟があるんだ」
「そんなぁ……。どうして?」
ギルターは少し言い淀んだ。
「ツムギみたいな美人が見に行ったら、チビどもが恋しちまうから……じゃないかな」
「んもぅ、またそんなテキトー言って……」
唇を尖らせるツムギに、ギルターは苦笑する。
「ほんとにそうなったら困る。……でも、掟なのも本当だ」
「そっかぁ……。それなら仕方ないねぇ」
「ごめんな。卵は絶対に安全だし、俺が毎日ちゃんと様子を見に行く」
ツムギは頷いた。
オスだけが卵を守り育てる生き物は数多くいる。
竜人もきっとそうなのだ。
ゼータも、あそこは聖域だと言っていた。
あまり人間が立ち入らない方がいいのだろう。
ツムギはわざと明るい笑顔を作ってギルターを見上げた。
「卵の様子、毎日聞かせてよねぇ」
「もちろん!」
ギルターは、ほっとしたように笑う。
ツムギは静かに肩を落とした。
あの綺麗な卵……そして、その中で少しずつ成長していくチビちゃんたち。
(見守りたかったなぁ……)
ギルターに気づかれないように、小さく息を吐いた。
✳︎✳︎✳︎
少しの寂しさを抱えたまま、それでも幸福な日々は過ぎていく。
ツムギが真珠宮に来てからニヶ月ほどが経った。
夜になると夫婦は並んでベッドに寝転び、他愛もない話をたくさんした。
一番の話題は、もちろん二人の卵のことだ。
「卵の中の光が子どもの形になってきたぜ。一匹、俺にそっくりなのがいるんだ」
「『一匹』って」
ツムギは思わず笑う。
ギルターは慌てたように訂正した。
「あ、人間は『一人、二人』って数えるんだったな。ゼータっぽいやつもいるぜ。性格まで似てたらどうしような」
「えぇー?」
ギルターにつんつん突っかかるチビゼータを想像して、ツムギはくすくす笑った。
可愛い。
絶対、可愛い。
「もう一人はどんな子かなぁ。全員男の子なんだよね?」
「ああ。それは間違いない」
「見たいなぁ……。会いたい」
ギルターはツムギの頭を優しく撫でた。
ツムギはベッドの上でじたばたする。
「“写ルンだよ”を持ってくればよかったぁ。そしたら、ギルターに撮ってきてもらえたのに」
「ウツルンダヨ? なんだそれ」
「写真を撮る機械だよぉ。生き物の姿とかを記録しておけるの」
「へぇ……」
ギルターは感心したように目を見張る。
「あ、でもどうせ現像できないから意味ないかぁ」
「ゲンゾウ……? 人間界には、俺の知らないものがたくさんあるんだな」
「そりゃそうだよぉ」
二人は顔を見合わせて笑った。
まだまだ話していないことがお互いにたくさんある。
どれだけ一緒にいても足りないくらいだ。
(でもこれからは──ずっと一緒にいられるんだよねぇ)
そう思うと、胸の奥がふわりと浮いた。
ふと、ギルターの表情が真剣になる。
「……恋しいか? 人間の世界が」
「うーん……」
ツムギは考えながら枕に顔を埋めた。
「いまは赤ちゃんのことで頭がいっぱいかなぁ」
「……そっか」
「会えたらいっぱいお喋りしたいなぁ。『卵の中でどんなこと考えてたの?』とかさぁ」
ギルターは優しく微笑む。
「きっと、あいつらも君と同じこと考えてるぞ。『早く会いたい』って」
「えー、またテキトー言ってぇ」
「テキトーじゃないぜ。俺も卵の中にいたとき、そう思ってた。『母さんに早く会いたい』ってな」
「……そうなんだぁ」
ツムギはへらりと微笑んだ。
「よっしゃ、そろそろ仕事しないとな」
ギルターが名残惜しげに立ち上がる。
魂を慰める使命のことだ。
ツムギはガッツポーズを作る。
「がんばって」
「おう」
ギルターの顔がゆっくり近づいてくる。
ツムギは目を閉じた。
唇に柔らかな感触。
「……おやすみ、奥さん」
「えへへ。おやすみ、旦那さん」
ギルターが、はにかんで扉を開ける。
入れ替わるようにヤギが勢いよく飛び込んできた。
「おう、ミルゥ。俺の奥さんのこと、よろしくな」
「えへへ。赤ちゃんが生まれたら、一緒に遊んであげてね」
「くぅーん!」
ふわふわヤギは、「任せろ」と言うように鼻を鳴らした。
そのままベッドに飛び乗って丸くなる。
ツムギも毛布をかぶって横たわった。
✳︎✳︎✳︎
その晩、ツムギは夢を見た。
卵から生まれた三人のちびすけが、ふわふわヤギの背に乗っている。
「行けぇ、ミルゥ号!」
「くぅーん!」
ツムギの号令に応えて、ヤギは浜辺をまっすぐに駆け出した。
風を切る感触に、ちびたちが「きゃあきゃあ」と歓声を上げる。
ギルターがそれに競うようにして、浜と並行に泳いで水飛沫をあげている。
ツムギは流木に腰かけて、夢中で何度もカメラのシャッターを切っていた。
「昼食ですよ」
ゼータがやってきて、海から上がったギルターに向かってモチウミの水を発射した。
「おい、こらっ!」
反撃しようとしたギルターに、カガリやナギウモ、ウスラギやハヤシガニまで集まって来てゼータを援護する。
「おわっ、ずりぃぞ!」
「みんなー、こっち向いてー!」
ツムギはずっと笑っていた。
ちびたちも弾けるように笑っている。
もちろんギルターも、ゼータでさえ穏やかな笑顔だった。
ただそれだけの、騒がしくて温かくてどこまでも優しい夢。
「はい、チーズ!」
──ずっと、ここにいたい。
そんな願いを抱いて、夢はゆっくりとほどけていった。
✳︎✳︎✳︎
あくる日の夜。
ツムギはヤギに乗ってそっと食堂を訪れた。
灯りの燈るキッチンをひょいと覗く。
「兄ならいませんよ」
振り返りもせず、静かな声が降ってくる。
「ううん。ゼータに相談があって……」
薄青の瞳がちらりとこちらを見る。
「……少し待ってください。明日のケーキを仕込んでいます」
「ほわっ、“レアチーチャレンジ”! 明日はどんなのかなぁ」
ゼータのレアチーズケーキ再現チャレンジは、さすがに毎日ではなくなったものの細々と続いていた。
「ネタが尽きてきました。レモンが欲しい……」
「レモンかぁ」
「カガリに盗ってこさせますかね」
「あっそうか、カガリは村に飛んでいけるのかぁ……」
食べたこともない料理を全く違う食材で再現するのは、さすがのゼータさまでも無理難題のようだ。
「言っておきますけど、お前がどんなものかをちゃんと説明できないせいですからね」
「あっ、じゃあ、お母さんに手紙を書くよぉ。レシピ教えてもらってさぁ、レモンも送ってもらって……」
「人間とやり取りだなんて吐き気がします。だいたいどこの誰が、自分の娘を攫った相手に協力するんですか」
「さ、攫った……。まぁそうかぁ。『とても良くしてもらってます』って書けば大丈夫だよぉ」
ゼータが一瞬こちらを見る。
「家が恋しいんですか」
「そういうわけじゃないけどぉ」
「──それが相談ですか?」
「あ、ううん。それは全然別」
ツムギは調理台に立つゼータの背中を眺める。
包丁の音が規則正しく響いていた。
「また、くだらない恋愛相談に見せかけた惚気じゃないでしょうね」
「そんなこともあったねぇ」
苦笑しながら食堂の椅子に腰かける。
ヤギはテラスへ歩いていき、柵を跳び越えて遊び始めた。
それを眺めていると、ゼータが食堂に入って来た。
かちゃり、とツムギの前にティーカップを置く。
すっきりした香りのハーブティーのようだ。
「あ、ありがとう」
「それで?」
椅子に腰を下ろし、促してくる。
ツムギは一口お茶を含むと姿勢を正した。
「……あのさぁ。ゼータもあたしたちの卵、見たりしてる?」
「毎日見ますよ。聖域の手入れがありますから」
「あ、そっか。ありがとう!」
「別に礼はいりません。──何が言いたいんですか」
氷の海の瞳に見つめられ、少しだけ言葉を探す。
「……卵の調子、どうかなぁって」
「なぜ私に聞くんです?」
「ギルターはね、優しいでしょ」
ツムギは慎重に言葉を選んで重ねた。
「優しいから……あたしを心配させないように、たまに嘘をついてる気がするの」
「……」
「ゼータは本当のことしか言わないでしょ? うちの親みたいに、『お前のため』とかも言わないもん」
「お前のためだ」「あなたのためを思っているのよ」という両親の言葉が、いつも嫌だった。
いっそ、「自分たちの都合のために大人しくしていろ」と正直に言ってくれたらいいのに、とずっと思っていた。
ゼータは舌打ちをする。
「……愚かな人間と比べられるのは不快です」
「ほらぁ、そういうのもちゃんと言ってくれるでしょ」
「……怖がられていると思ってましたが。お前は、兄のような甘ったるい男が好きなのでは?」
「ギルターは確かにあたしに甘いけど、だから好きってわけじゃないよぉ。ゼータのことは怖くないよ」
ゼータは目を伏せてしばらく黙っていた。




