満月の夜
そして、ついに迎えた翌日の夜。
「いよいよだぁ……」
ツムギは寝台に腰を下ろしたまま、何度目とも知れない深呼吸を繰り返していた。
「ドキドキするよぉ……」
「くぅーん」
心を落ち着かせたくて綿毛を撫でる。
胸元の祝珠が、とくんとくんといつもより強い拍動を刻んでいる。
今日のツムギは、深い紅色の花嫁衣装を纏っていた。
絹のような布でできた立襟の上衣は床に届きそうなほど長く、スリットが入っている。
金糸が星屑のように散り、波の紋様が流れ、その下のゆったりとした長ズボンが、優雅なシルエットを生み出していた。
ツムギはまじまじと自分の姿を見下ろした。
「大丈夫かなぁ。変じゃない?」
「くぅん!」
ふわふわヤギの励ましに笑みを作りつつも、脳裏には村に残してきた妹の姿がよぎる。
写真でしか見ることのできなかったその花嫁姿。
世界で一番、美しかったに違いない。
(……比べてもしょうがないって、わかってるけどさぁ)
そこへ扉がノックされ、びくりと肩を震わせる。
ふわふわヤギも隣で大きく跳ねた。
着地でベッドが「ぼよんぼよん」と揺れ、ツムギは体を踊らせながら返事をする。
「何を遊んでるんです?」
銀髪の竜人の呆れ顔が覗き、ツムギとヤギは息を吐いた。
「なんだ、ゼータかぁ」
「準備はできたんですか」
ゼータは遠慮なくじろじろとツムギを眺める。
ツムギは、しゃきっと背筋を伸ばした。
「ど、どうかな。ギルター、気に入ると思う?」
「兄はお前がどんな姿でも気に入ります」
「……それはそれで複雑なんだけどぉ」
「髪をまとめます。椅子に座って」
ゼータは持ってきた荷物を下ろして櫛を取り出した。
器用な手がツムギの癖っ毛を梳き、編み込んでいく。
ツムギは、小首を傾げてこちらを見つめるヤギに小さく手を振った。
すぐさまお小言が飛んでくる。
「動かないでくださいよ。──目を閉じて」
ゼータは正面に回り、合わさった貝殻を開いて並べている。
中には絵の具のようなものが入っていた。
お化粧道具らしい。
ツムギは素直に目を閉じた。
頰にふわりと粉がはたかれ、ゼータの指らしきものがまぶたの上をすべる。
くすぐったくて照れくさくて、身をよじってしまいそうなのを耐えた。
指は唇の上をゆっくりとなぞり、最後にぽんぽんと馴染ませるように叩いてから離れた。
「開けていいです。──ミルゥ、飛び付いてはダメですよ」
目を開くと、ヤギがこちらを見てピスピスと鼻息荒く跳ねている。
ゼータが指をぬぐって手鏡を差し出してくる。
覗き込むとちょっとだけお姫さまみたいな女の子が見返してきて、ツムギは目をぱちくりさせた。
「海の中でも落ちない特別製です。──いつものお転婆は控えるように」
「あ、はぁい」
「這うのも禁止です」
「わかってるってばぁ」
ゼータは話しながら、ミルゥに豪華な鞍を装着し、角には真珠の飾りを付けている。
ツムギはドヤ顔のヤギを大いに褒めてやった。
「これでいいでしょう。──まもなく兄が迎えに来ます」
「えっ」
ちょうどそのとき、部屋の外に足音が近づいてきて、ツムギは息を呑む。
足音は扉の前で止まった。
……けれど、しばらく待ってもノックはない。
ヤギと顔を見合わせる。
ゼータがため息をつき、勢いよく扉を開いた。
「おわっ、まだ心の準備が──」
焦ったような声が響く。
ツムギは身を乗り出して扉の外を見た。
月光の中に立つギルターは、いつもよりさらに美しかった。
ツムギと同じ、絹のような婚礼衣装だ。
濃紺の長い上衣が光を受けるたび、鱗のような鈍い艶を浮かべている。
いつも無造作な黒髪は後ろに流され、紐でまとめられていた。
海の瞳がこちらを見て見開かれる。
ツムギは両手を大きく上げて叫んだ。
「ギルター、綺麗! カッコいい!」
「つ、ツムギこそ……」
ギルターはふらふらと部屋に入ってきて、ベッドに座るツムギの前に片膝を付いた。
「今日はお姫さまを超えて、女神さまみたいだ……」
手を取られ、囁くように言われて一気に顔が熱くなる。
「……大げさだよぉ」
「大げさじゃねぇって。すげえ綺麗すぎて、俺、どうしたらいいか……」
ゼータが大きく咳払いした。
「時間です」
「あっ……お、おう」
ギルターが、そっとツムギを抱き上げる。
鞍を付けたふわふわヤギがキリッと前に立った。
その背に乗せられる。
「……さぁ、行こう」
「……うん」
手を繋いで部屋の外に出る。
振り返ると、ゼータがドアの横でこちらに向かって軽く頷いた。
ツムギは頷き返して、そっと前に向き直る。
(あ、カガリ……)
欄干に、霊鳥が止まっている。
黄金の炎を揺らめかせながらこちらを見つめていた。
ウスラギやハヤシガニたちもずらりと並んでいて、ツムギは目を輝かせて首を伸ばす。
(みんな、ありがとう。頑張るよぉ)
小さく手を振ると、ヤギの角を飾る真珠が光を散らしながら揺れる。
白い廊下を手を繋いだまま厳かに進んでいくと、奥から淡く光る扉が見えてきた。
その重厚な扉の前で、竜人とヤギが立ち止まる。
ギルターが手をかざすと、扉に青白い光がほとばしった。
がたりと低い音がして、ツムギは体を震わせる。
鍵が解除されたらしい。
ギルターがゆっくりと息を吐いて告げる。
「ミルゥもここまでだ。ありがとうな」
「……応援しててね」
「くぅーん」
ギルターに抱き上げられ、心配そうなヤギに向かってぎこちなく手を振ってやる。
次の瞬間、重い音を立てて扉が自動で開いた。
──ぴちょんと跳ねる水の音。
潮の匂い。
ひんやりとした気配が肌を撫でる。
竜人と花嫁は、真珠宮の中心──
“始まりの海”の間へと足を踏み入れた。




