満月前夜
ツムギは恥ずかしいような、戸惑うような思いで唇を尖らせた。
「前にも返事したよぉ」
「……もっかい、ちゃんと確認しときたくてな」
竜人は目を伏せて微笑んだ。
「……ギルターこそ、ほんとにあたしでいいの?」
ツムギは不安に逸る鼓動を隠して、首を傾げてみせる。
「あたしはお転婆だし、歩けないし、何もできないし……」
「そういうのは関係ないって、それこそ前にも言ったろ。全部、君のたまらなく可愛いところだ」
青い目がツムギをひたと見つめてくる。
「俺は、君じゃなきゃダメなんだ」
「……そっかぁ。じゃあ……」
ツムギは赤くなって、それでもなんとか目を逸らさずに口にした。
「……あたしを、あなたのお嫁さんにして」
「ツムギ……!」
泣き笑いのギルターに抱き寄せられる。
ツムギはギルターの裸の胸に身を寄せ、その背にしっかりと腕を回した。
しばらくして、小さなつぶやきが降ってくる。
「君がいてくれるなら、どんなことがあっても乗り越えられる……」
「……どんなことでも、って?」
ギルターは答えなかった。
ただ、ツムギを抱く手にぎゅっと力を込めた。
✳︎✳︎✳︎
真珠宮に帰ってきた頃には、もう薄暗くなっていた。
モチウミのシャワーで潮と砂を流し、ギルターに再び体を乾かしてもらう。
宮殿の入り口には、ご丁寧に羽織ものが用意されていた。
「人魚姫姿は俺の前でだけな!」
ギルターはツムギに上着を着せ、ボタンを留めて前を閉じた。
「もう夕飯できてるかもな。『遅い!』ってキレられるかも」
「あはは。一緒に怒られようねぇ」
ギルターに抱えられて食堂へと運ばれる。
料理を煮込む良い香りが漂っていて、お腹がぐぅと鳴った。
いつものように椅子に座らされていると、銀髪の竜人がすたすたとキッチンから出てくる。
「イチャイチャに夢中で、私の夕飯を食べたくないのかと思いましたよ」
「勘弁してくれよ、ゼータさま」
ギルターがおどけて言って、ツムギも胸の前で手を組む。
「最高のお弁当、ごちそうさまでした! 夕飯もすっごい楽しみです!」
ゼータが少し満足そうに口の端を上げたところで、ふわふわヤギがトコトコと食堂に入ってきた。
ツムギを見つけて、ばねみたいにぴょんと跳ねる。
「あーん、ミルゥ!」
ツムギは椅子を降りて、すぐさまそちらへしゃかしゃか這う。
ゼータが「うわっ」と小さく声を上げた。
「会えなくて寂しかったよぅ!」
「くぅーん!」
綿毛に顔を埋めてクンカクンカスーハーと、半日ぶりのふわふわを堪能する。
「ほわぁ〜ん……やっぱりミルゥが一番ですなぁ」
「ミルゥ、ツムギにくっつきすぎだぞ」
弁当箱を運んできたギルターが声を上げる。
ヤギは構わず、プスプス言いながらツムギの頰に頭を寄せた。
「あはは、くすぐったいよぅ」
「めっ! ミルゥ、めっ!」
ギルターがずりずりと綿毛をツムギから引き剥がした。
「ありゃあ」
「プスー!」
ツムギが唇を尖らせると、ヤギも不満げに息を漏らす。
ギルターはビシッと綿毛を指差す。
「良い機会だから、ちゃんと言っておくぜ。いいかミルゥ。ツムギは俺の奥さんなの!」
「……えぇ?」
ツムギは思わずヤギと目を見合わせる。
「もしかして……ミルゥにヤキモチぃ?」
「ヤギですよ」
「でもこいつ、オスだろ!」
ふんすか言っているギルターを冷めた目で見ながらも、ゼータがぽつりとつぶやく。
「言われてみると、毎晩一緒に風呂に入ってるのも、同じベッドで寝てるのも、兄上じゃなくてミルゥなんですよね。どちらが旦那らしいかと言われると……」
「プスー!」
ヤギがこれ以上ないほどのドヤ顔で胸を張った。
ツムギはどうしていいのかわからず、きょろきょろとヤギとギルターを見比べる。
ゼータはそんなツムギを見て、珍しくふっと笑った。
「お前が兄上を捨ててミルゥと駆け落ちしても、私は驚きませんよ」
「えええっ!」
ツムギは目を瞬き、改めてヤギを見つめる。
つぶらな瞳、ふわふわの毛。
可愛いな。
生温かい鼻息をプスプス漏らすミルゥの周りに、突如として雄大な草原の光景が広がっ──
「ストップスト──ップ‼︎」
黒髪の竜人が叫んで肩を揺さぶり、ツムギははっと我に返る。
ギルターは蒼白になってわなわなと震え出した。
「つ、ツムギ、もっかい確認させてくれ。お、俺の花嫁になってくれるんだよな……?」
「さ、さっき言ったばかりだよぉ!」
「も、もっかい確認しときたくて……」
泣き出しそうなギルターに、ゼータが天を仰いだ。
「……これが自分の兄だと思うと涙が出てきます」
頭を振ってキッチンに引っ込みながら、冷酷に告げる。
「──茶番はそこまでにして、とっとと手を洗ってきなさい。ほんとに夕飯抜きにしますよ」
「お前が火をつけたんだろうが!」
ギルターが半分泣き顔で吠えた。
✳︎✳︎✳︎
なんとか夕飯に無事ありついて、ツムギはさらに寝室でデザートを頬張っていた。
柑橘を使ったカスタードパイ。
いつものレアチーズケーキの試作品だ。
ヤギとツムギが夢中で口に運ぶのを、銀髪の竜人が長い足を優雅に組んで眺めている。
「あーん、夜にこんなん食べたら、ほんとに太っちゃう」
「お前はもう少し太ったほうがいいと思います」
静かな口調に、首をぶんぶんと横に振る。
「だめぇ、最近幸せ太りがひどすぎぃ」
「……幸せなんですか?」
「幸せだよぉ」
昼間、ギルターの前でも言った気がする。
その弟が静かな瞳で自分を見つめているのに気づいて、ツムギは首を傾げた。
「ゼータは幸せ?」
「は?」
ゼータは美しい眉をひそめる。
「……お前には関係ないと思いますが」
「あるよぉ。あたし、ゼータにも幸せでいてほしいもん」
「……」
「前にさ、使命が大変だって言ってたよねぇ。最近はあたしの世話もあるし、そのせいで辛かったらやだなぁって」
「お前ごときの世話は朝飯前だとも言いませんでしたか?」
兄よりも薄い青い瞳がちらりとこちらを見て息を吐く。
「……いまの生活には、そこそこ満足していますよ」
「ほんとぉ?」
「使命の他に、やりたいこともできましたし」
「えっ、なぁに?」
ツムギは、がばっと身を乗り出す。
ゼータは「決まっている」とでも言いたげに答えた。
「お前に、完璧なレアチーズケーキを提供することです」
「……え?」
「──それを食べて驚くお前の顔を見たら、さぞかし気分が良いだろうと思うんですよ」
「あらぁ……」
ツムギは微笑んだ。
「うん。それはあたしも楽しみ」
ゼータが頷く。
そこにノックの音がして、二人でドアを見る。
「はぁい」
「ツムギ、月が綺麗だぜ!……お、ゼータ?」
勢いよく入ってきたギルターは一瞬怪訝な顔をしたけれど、サイドテーブルの皿を見て微笑んだ。
「デザートもらったのか。美味かったか?」
「最高ぉ!」
ツムギはグーサインを作る。
「よっしゃ。俺の奥さんに美味いものを食べさせてくれたご褒美だ。使命の前にゼータも月を見に行こうぜ!」
「えっ、行きたい!」
ツムギは目を輝かせる。
ゼータはため息をついた。
「お前たちのイチャイチャに巻き込まれることの、何がご褒美なんですか?」
「んなこと言うなって。見せつけたいんだよ!」
「やだぁ」
ツムギは頰を赤らめる。
竜人の弟はぼやいてヤギに目をやる。
「最悪すぎる。ミルゥお前、よくいつも耐えられますね」
「くぅん……」
「ミルゥにも見せつけてやるからな! ほら、一緒に行こう!」
「結構です」
ゼータはにべもなく言って立ち上がる。
「やだ! ゼータも一緒に行くんだ!」
逃げようとしたゼータの腕を掴んでギルターが叫び、ツムギも慌てて反対側の腕にぶら下がった。
「お願い、ゼータ!」
「この似たもの頑固夫婦……」
ゼータが恨めしげに唸る。
「……今回だけですよ」
「やったぁ!」
夫婦の歓声が重なる。
✳︎✳︎✳︎
夜は更けていく。
浜辺には、三人と一匹の影。
真円に近い月が夜空を照らしている。
──明日はいよいよ満月だ。




