花嫁の告白
ツムギは息を呑んだ。
「ご、ごめん……!」
「こっちこそ気を遣わせちゃってごめん。ちょっと昔、事故があってな」
黒髪の竜人は遠くを見るような目をした。
「母さん……優しくて美人でさ。俺は『母さんの笑顔が見たい』って、いつもそればっか考えてた。ガキだったな」
母親のことが大好きで、いつも後ろをついて回る小さなギルターの姿が目に浮かんだ。
ものすごく可愛かったに違いない。
どんな事故だったのか気になったが、さすがに踏み込む勇気はなかった。
うつむいていると、顔を覗き込まれる。
「……まだ気持ち悪いか?」
「あっ、ううん。風邪はもう全快!」
ツムギは両手をぶんぶん振ってみせる。
「そっか。なら、よかった」
ギルターは優しくツムギの髪を撫でる。
「チビのときは母さんのだったけど。──いまは『ツムギの笑顔が見たい』って、それだけを考えてる」
「……キザすぎぃ」
いつものセリフに、旦那さんは心配そうに首を傾げる。
「それ、照れてくれてるんだと思ってたけど……。もしかして、キザな男は嫌いか?」
「え、ううん!」
慌てて首を横に振る。
(そんなわけないじゃん……こんなに好きなのにさぁ)
と思いかけて、そこで、はっと思い当たる。
そういえば結局、本人には自分の気持ちを言ったことがなかったのだ。
(……ちゃんとしないと。伝えないと)
──違う。
伝えたいのだ。
だから伝える。
ツムギは青い瞳を見つめ、そっと息を吸った。
心臓が急激に早鐘を打ち始める。
「……ギルター、あのね……」
「ん? なんだ?」
ツムギはもじもじする。
人生初の、渾身の告白だ。
「せ、世界一、大好、きだよぉ……」
胸を張って叫ぶつもりが、尻すぼみの小さな声になった。
でも、言った。
言えた。
ちらりとギルターをうかがう。
竜人さまは、その場で動きを止めていた。
ぽかんと口を開けて完全に固まっている。
……かと思ったら一瞬置いて、踵を返してどこかにすっ飛んでいった。
(え? す、スルーされたぁ……?)
ツムギもあんぐりと口を開ける。
(こ、これ、これはまさか、フラれ……)
「ほわ…………ほわ…………」
「くぅん」
ツムギが真っ白になって痙攣していると、ヤギがギルターの後を追ってとことこ歩き出した。
食堂から大声が聞こえてくる。
「ゼータ、大変だ! 今夜はご馳走だ!」
「はぁ? 何ですか?」
「ツムギが! 俺たちのお姫さまが、俺のことを世界一大好きだって!」
「は? 何をいまさら……」
ゼータの呆れ切った声がする。
真っ白だったツムギは、今度は真っ赤になるのを感じた。
ギルターはまだ叫んでいる。
「ツムギがー! 俺を大好きぃー‼︎」
「失せろ色惚け兄!」
珍しくゼータの怒鳴り声がして、ギルターがつまみ出されて扉が閉まる。
扉の前にいたツムギと、ばちりと目が合った。
「あ……」
「へ、へへ」
竜人さまは少年のように頬を染めて笑った。
「ツムギ……」
「……なぁに?」
ツムギも火照る顔で首を傾げる。
ギルターは囁くような声で告げた。
「俺も、世界一大好きだ……」
「……知ってたよぉ」
腕が伸びてくる。
そのぬくもりに包まれて、ツムギは涙のにじむ目をそっと閉じた。
✳︎✳︎✳︎
晴れて告白も済み、幸せの絶頂なツムギ。
しかし実は一つ、大きな悩みがあった。
(絶っっ対、太ってきたよぉ……!)
島に来てまだ二週間もしないのに頬がふっくらしてきて、お腹にも贅肉が付いた気がする。
このところの、ゼータのレアチーズケーキ再現チャレンジが拍車をかけていた。
(竜人さま二人が、あたしを甘やかすのが悪いんだぁ!)
あと、ずっと乗せて歩いてくれるふわふわヤギも。
そんな責任転嫁な考えが頭をよぎった。
(ランニングは無理でも、せめて反復這い這いでもしないと……)
流木の上にドヤ顔で立っているヤギを見ながらつぶやく。
「おでぶなお嫁さんはギルターも嫌だよねぇ……」
「呼んだか?」
「ほわぁ!」
急に上から現れた端正な顔に、飛び上がりそうになる。
「ごめん、ごめん。何を考えてたんだ、お姫さま?」
ギルターが笑顔で隣に腰かけて、歌うように問いかけてくる。
ツムギは明後日の方向を見て目を逸らした。
「んっとぉ、運動したいなぁ、って」
「……そっか」
珍しくギルターが押し黙った。
嘘は言っていないが、変なことを言ってしまっただろうか。
横目で様子を伺いながらドキドキしていると、ギルターが口を開く。
「言いたくなければ、いいんだけどな」
「なぁに、改まって」
「足のこと、聞いてもいいか? 昔は普通に歩いてた……んだろ。どうしたのかって思ってさ」
そのことか。
ツムギは詰めていた息を吐き、自分の足を見下ろす。
出会ってから、竜人たちに「どうして歩けないのか」といったことを聞かれたことはまだなかった。
気になりつつも、ずっと気を遣っていてくれたのだろう。
「そんな大層な話じゃないんだけどねぇ」
ギルターを安心させるように笑顔を作る。
この話を誰かにするのは初めてだ。
目をつむると、遠い日の海がまぶたの裏に浮かぶ。
──四年前、ツムギが十五歳のことだ。
✳︎✳︎✳︎
その日は珍しく妹に誘われて、久しぶりに二人で海に出た。
このところずっと影を落としていた妹が、昔みたいにまた笑っているのが嬉しかった。
ツムギはカメラを構えて、夢中でその笑顔にシャッターを切る。
その時だった。
はしゃいでいた妹が、ぐらりと崖の縁を踏み外した。
「イオリ!」
ツムギはとっさに妹に向かって手を伸ばす。
岩場に落ちていくカメラが、ひどくゆっくりに見えた。
指先が妹の手を掴む。
引き戻して、足に力を込めようとして──
次の瞬間。
ツムギは妹の代わりに崖の下へ落ちていた。
医師は「二度と歩けるようにはならない」と冷たく告げた。
妹はずっと泣いていたけれど、反対にツムギは周りが不思議がるほどに落ち着いていた。
しかし、周囲は瞬く間に変わった。
婚約は解消され、母のケーキが出てくることもなくなった。
家の中では怒鳴り声が増え、二階でふすまを閉めていても、両親の言い争いが聞こえてくる。
最初のうちは見舞いに来る人もいたが、数ヶ月するとそれもなくなった。
高校は集落の外にしか無かったから、通わせてもらえなかった。
「外に出たい」と言っても、返ってくるのは「危ないからダメだ」という言葉だけ。
何度かそれを繰り返して、いつしか訴えることもやめる。
父は毎晩のようにツムギの部屋で酒を飲み、そのまま眠り込んでしまうことも多かった。
うんざりしたが、少なくともその間は階下から怒鳴り声が聞こえてくることはない。
自分は人に世話をしてもらわなければ生きていけない、何もできない生き物になったのだ。
存在しているだけで、大切な人たちの喧嘩の原因になるような人間なのだ。
少しくらい我慢しなければならない。
閉じこもって息を潜めて、ただただ毎日を生きていくのだ。
──こんなはずじゃなかった。
そう思わなかったと言ったら、嘘になる。
そういえば、ハナリの老婆だけはなぜかいつまでも訪ねてきた。
幼い頃からこの老婆には悪い意味で目をつけられていて、いつも口喧しく絡まれていた。
やって来た老婆は慰めも労りも口にせず、ただまっすぐとこちらを見すえて、いつも同じことを聞く。
「本当に外に出られないのかい、お転婆娘」
「だからこうしてるんだよぉ」
ツムギは苛立ちを隠さず、そう答えていた気がする。
老婆が来た日は父の機嫌がことさら悪くなるから、この人が苦手だった。
それでも、なぜか「もう来ないで」とは言えなかった。
そして妹は──
そう、その頃からだったか。
いつもたおやかな笑みを浮かべ、以前のように声を上げて笑うことも怒ることも泣くこともなくなって。
(イオリがお人形さんみたいになっちゃったぁ)
と思ったことを覚えている。
そしてやがて、ツムギが嫁ぐはずだった相手の元へ輿入れした。
「お互いに気まずいだろう」と親に諭されて、ツムギは式にも出なかった。
その時になって、ツムギはようやくはっきりと自覚した。
(あたしは──ずっとこのまま、死ぬまで一人……)
もう生き物を見ることも、海に心をときめかせることもない。
結婚することも、子どもを持つことも。
六畳一間のこの部屋が、自分の世界のすべてになったのだ。
✳︎✳︎✳︎
「……もっと早くに、迎えに行けなくてごめんな」
ぎゅっと抱き寄せられて、ツムギは小さく笑った。
「でもいま思えばさ、ずいぶん贅沢だったよねぇ」
胸の奥を探るみたいに言葉を選ぶ。
「何にもできないのに、毎日ごはんを運んでもらえて。テレビとか高いものも買ってもらってさぁ。それなのに、外に行けないってだけで不満に思ってた」
小さく息を吐く。
「お父さんとお母さんは、あたしのことなんてどうでもいいんだって、ずっと拗ねてたけど。……どうだったんだろうねぇ。ほんとは」
ツムギが望んだやり方とは違ったけれど。
あの人たちなりに、できることをたくさんしてくれていたのだと思う。
けれどギルターは静かに首を振った。
「不満に思っていいんだぜ。もっとちゃんと愛されたいって、願ってよかったんだ」
「……ありがと」
「神気で治してやれたら良かったのにな。……生き物を治したりは、できないんだ」
優しい竜人は心底悔しそうに言う。
「あはは。大丈夫だよぉ」
涙がこぼれるのをごまかすように、ツムギは明るく声を上げる。
「ここではミルゥのおかげでどこにも行けるし。毎日、海が見られるし。美味しいご飯が食べられるし。みんながいる。……幸せだぁ」
「……なら、よかった」
ギルターが微笑む。
その美しくてどこまでも優しい顔をツムギは見上げる。
「これもまだ、ちゃんと言ってなかったねぇ」
「うん?」
「──あたしを、あそこからを連れ出してくれてありがとう」
たくましい胸に再び顔を寄せる。
ギルターは強く優しく抱きしめてくれた。
「……俺のほうこそ。来てくれてありがとう」
ヤギも鳴き声を上げて身を寄せてくる。
ツムギは笑って、ギルターの腕の中からふわふわに手を伸ばした。
──満月までは、あと三日だ。




