疑惑の執事長
朝六時。
神代家の屋敷は、いつも通り静かに目を覚ましていた。
廊下では使用人たちが挨拶を交わし、厨房では朝食の準備が進んでいる。
何一つ変わらない日常。
……表面上は。
俺だけは眠れなかった。
昨夜見つけた勤務記録。
そこには執事長・藤堂が、襲撃事件の直前に持ち場を離れていたという記録が残っていた。
偶然なのか。
それとも――。
「黒崎様。」
声を掛けられ、顔を上げる。
当の本人、藤堂だった。
白髪交じりの髪をきっちり整え、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「昨日は大変でしたね。」
「ええ。」
「玲奈お嬢様を守っていただき、感謝しています。」
その表情からは何も読み取れない。
三十年も神代家に仕えた男だ。
簡単に本心を見せるような人物ではないだろう。
「何か私の顔についていますか?」
「いえ。」
「少し疲れているように見えまして。」
逆に見透かされた。
「少し寝不足です。」
「執事も健康第一ですよ。」
藤堂は微笑み、そのまま歩き去っていった。
「……。」
もし彼が裏切り者なら。
演技が上手すぎる。
◇
朝食後。
玲奈は学校へ行く支度をしていた。
制服姿の彼女は鏡の前でネクタイを結ぼうとしている。
だが。
「あれ?」
何度やっても曲がってしまう。
「……。」
俺は後ろからそっと手を伸ばした。
「少し失礼します。」
「蓮。」
玲奈は大人しく立ったまま動かない。
俺はネクタイを整え、襟を軽く直す。
「これで大丈夫です。」
「ありがとう。」
玲奈は鏡を見る。
「やっぱり蓮の方が上手。」
「毎日やっていますから。」
「じゃあ毎日お願い。」
「執事ですので。」
玲奈は少し笑った。
「その言葉便利だね。」
「便利ですよ。」
その笑顔を見ていると。
こんな日常が壊れてほしくないと思ってしまう。
◇
学校へ向かう車の中。
玲奈は窓の外を眺めていた。
「蓮。」
「はい。」
「昨日のお父さん。」
「はい。」
「怒ってた?」
「怒ってはいません。」
「じゃあ?」
「心配していました。」
玲奈は少し驚いた顔をする。
「……珍しい。」
「そうなのですか?」
「昔から仕事ばっかりだったから。」
寂しそうに笑う。
「誕生日も。」
「運動会も。」
「参観日も。」
「ほとんど来なかった。」
「……。」
「でも。」
玲奈は続けた。
「昨日は私を見てくれた。」
その言葉に、俺は安心した。
少しずつだが。
親子の距離も変わり始めているのかもしれない。
◇
その日の夕方。
俺は屋敷の監視室にいた。
神代家には百台近い防犯カメラが設置されている。
事件当日の映像を一つずつ確認していた。
「……止めて。」
映像を拡大する。
午後三時二十八分。
裏門。
藤堂が歩いている。
ここまでは問題ない。
その二分後。
画面に別の人物が映った。
帽子を深く被った男。
藤堂とすれ違う。
その瞬間。
二人の手がわずかに触れた。
「これは……。」
映像をさらに拡大する。
ほんの一瞬。
紙切れのようなものが受け渡されている。
偶然ではない。
「証拠か……?」
俺は急いで映像を保存した。
その時。
背後で拍手が響いた。
「さすがですね。」
振り返る。
そこには藤堂が立っていた。
「執事長。」
「もう気付かれましたか。」
その口調は穏やかだった。
しかし。
目だけは笑っていない。
「説明していただけますか。」
俺は静かに言う。
藤堂は小さくため息をついた。
「その前に一つ。」
「何でしょう。」
「君は本当に玲奈お嬢様を大切に思っていますか?」
「もちろんです。」
「命よりも?」
「必要なら。」
即答だった。
藤堂は少しだけ目を見開く。
「……そうですか。」
そして。
彼は胸ポケットから一枚の封筒を取り出した。
「これを。」
俺は受け取る。
中には写真が入っていた。
写っているのは。
十年前の神代家。
幼い玲奈。
そして、その隣には若い頃の藤堂。
さらに――
見覚えのある男。
「この人は……。」
俺は言葉を失う。
それは。
俺を神代家へ紹介した、あの部長だった。
「なぜ部長がここに……?」
藤堂は静かに答えた。
「彼もまた、昔この屋敷で働いていた人間です。」
「え……?」
思考が止まる。
会社の部長。
普通のサラリーマンだと思っていた人物。
その過去が。
神代家と繋がっていた。
「黒崎君。」
藤堂は真剣な表情で言う。
「敵は、君が思っているよりずっと近くにいる。」
そう言い残すと。
藤堂は静かに部屋を出て行った。
残された俺は写真を見つめる。
部長。
神代家。
十年前。
そして玲奈。
すべてが一本の線で繋がろうとしていた。
その頃。
都内の高層ビル最上階。
黒いスーツの男が部長へ電話をかける。
「黒崎蓮は予定通り動いています。」
電話の向こうから笑い声が聞こえた。
『そうか。』
「次はどうしますか?」
『まだだ。』
『玲奈お嬢様には、もう少し”彼”を信頼してもらう必要がある。』
男は静かに頷く。
『全ては、十年前の約束を果たすためだ。』
電話は切れた。
そして物語は、執事とお嬢様の日常から、神代家の過去を巡る大きな陰謀へと動き始めるのだった。




