10年前の約束
写真を持つ手に、自然と力が入った。
「……部長が、神代家に?」
信じられなかった。
会社で毎日のように顔を合わせていた、あの能天気な部長。
「黒崎君、コピー用紙なくなったから頼む!」
「黒崎君、会議室の予約お願い!」
「黒崎君、ついでにコーヒーも!」
そんな調子で俺をこき使っていた男が、神代家と関係していたなど想像もしなかった。
「何なんだ……。」
俺は写真をもう一度見つめる。
十年前。
幼い玲奈。
若い藤堂。
そして部長。
三人とも笑っている。
家族写真のように穏やかな一枚だった。
その時だった。
「蓮?」
振り返ると、玲奈が立っていた。
「何してるの?」
慌てて写真を裏返す。
「仕事です。」
「またそれ。」
玲奈は少し頬を膨らませた。
「最近、仕事ばっかり。」
「申し訳ありません。」
「謝らなくていいけど。」
玲奈は俺の隣まで歩いてきた。
「ねえ。」
「はい。」
「今日、一緒に夕飯食べよう。」
「もちろんです。」
「ちゃんと座って。」
「……?」
「最近、食べ終わるまで立ってるでしょ。」
執事だから当然だった。
主人が食事を終えるまで控える。
それが神代家の決まり。
しかし玲奈は首を振る。
「今日はダメ。」
「ですが。」
「命令。」
俺は苦笑するしかなかった。
「承知しました。」
玲奈は満足そうに笑った。
「よし。」
◇
夜。
食堂には玲奈と俺、そして神代宗一郎だけがいた。
宗一郎は珍しく仕事を早く切り上げたらしい。
「父さん。」
玲奈が口を開く。
「今日は一緒に食べるの?」
「ああ。」
短い返事。
しかし以前より柔らかい。
「仕事は?」
「終わらせた。」
玲奈は少し嬉しそうだった。
その様子を見て、宗一郎もわずかに表情を緩める。
親子の距離は確実に縮まっていた。
「黒崎。」
宗一郎が俺を見る。
「はい。」
「君も座れ。」
「しかし。」
「これは当主命令だ。」
玲奈がすぐに続ける。
「私も命令。」
二対一では勝てない。
「……失礼します。」
俺は二人と同じテーブルについた。
「これが普通の家族なのかな。」
玲奈がぽつりと言った。
「普通?」
宗一郎が聞き返す。
「父さんと一緒にご飯食べて。」
「蓮もいて。」
「笑って。」
玲奈は照れくさそうに笑う。
「こういうの、初めて。」
宗一郎は何も言えなかった。
ただ静かにスープを口へ運ぶ。
その横顔には後悔が浮かんでいた。
◇
食後。
宗一郎が俺を書斎へ呼んだ。
「聞きたいことがあります。」
「何だ。」
俺は写真を机へ置く。
「これは何ですか。」
宗一郎は写真を見るなり動きを止めた。
「……藤堂か。」
「はい。」
「それと。」
「この男性です。」
宗一郎はゆっくり椅子へ座る。
「知っている。」
「やはり。」
「彼の名前は。」
宗一郎は少し目を閉じた。
「黒崎誠。」
俺の鼓動が止まる。
「……え?」
「君の父親だ。」
「父……?」
耳を疑った。
俺の父は、俺が中学生の頃に事故で亡くなった。
会社員だったと聞かされていた。
それが。
「神代家で執事をしていた。」
宗一郎は静かに言う。
「しかも。」
「私の専属執事だった。」
頭が真っ白になる。
「そんな話、一度も……。」
「話せなかった。」
宗一郎は苦しそうに言った。
「君のお父さんは。」
「玲奈を守って命を落とした。」
世界が止まった。
「……何ですか、それ。」
「十年前。」
「神代家を狙った誘拐事件があった。」
宗一郎は拳を握る。
「あの日。」
「玲奈はまだ八歳だった。」
「犯人は玲奈を連れ去ろうとした。」
「その時。」
「黒崎誠が玲奈をかばった。」
宗一郎は深く息を吐く。
「玲奈は助かった。」
「だが。」
「彼は帰ってこなかった。」
俺は言葉を失った。
父は事故ではなかった。
俺に知らされていた過去は。
嘘だった。
「なぜ。」
声が震える。
「なぜ教えてくれなかった!」
宗一郎は頭を下げた。
神代グループ総帥が。
俺に向かって。
「すまなかった。」
「君を巻き込みたくなかった。」
「だから。」
「事故だったことにした。」
怒り。
悲しみ。
混乱。
様々な感情が胸を駆け巡る。
「じゃあ。」
俺は震える声で言う。
「部長は。」
「父のことを知っていたんですね。」
宗一郎は静かに頷く。
「彼は誠の親友だった。」
その瞬間。
すべてが繋がった。
なぜ部長が俺を神代家へ送り込んだのか。
なぜ「君しかいない」と言ったのか。
なぜ神代家に詳しかったのか。
全部。
父との約束だったのだ。
その夜。
俺は一人、庭へ出た。
夜風が頬を撫でる。
「父さん。」
初めて父のことを考えた。
会話は多くなかった。
仕事で忙しい人だった。
でも。
本当は。
命を懸けて一人の少女を守った人だった。
「蓮。」
振り返る。
玲奈だった。
「眠れないの?」
「少し。」
玲奈は俺の隣へ来る。
「私も。」
しばらく二人で夜空を見上げる。
「ねえ。」
玲奈が静かに言う。
「昔ね。」
「私を助けてくれた人がいたの。」
俺は息を飲む。
「顔は覚えてない。」
「でも。」
玲奈は胸に手を当てた。
「すごく優しい声だった。」
「『大丈夫。君は絶対に守る』って。」
「今でも覚えてる。」
俺は空を見上げた。
父だった。
きっと。
玲奈は続ける。
「最近ね。」
「その声に似てる人がいる。」
「え?」
玲奈は少し照れながら笑う。
「蓮。」
その一言に、俺は何も返せなかった。
知らず知らずのうちに。
俺は父と同じ言葉を口にしていたのかもしれない。
そして屋敷の外では、一台の黒い車が静かに停まっていた。
後部座席の男が写真を見つめる。
そこには黒崎誠と幼い蓮が写っていた。
「親子二代か。」
男は静かに笑う。
「ならば今度こそ、神代家との決着をつけよう。」
車は闇の中へ走り去った。




