執事の仕事は、お嬢様を守ること
「あなたは……」
黒いスーツの男は、俺を見ながら小さく笑った。
「ただの執事ではないようですね」
夕暮れの神代家。
広い庭に冷たい風が吹く。
玲奈は俺の後ろに立っていた。
その小さな手が、俺の服の袖を掴んでいる。
「蓮……」
「大丈夫です」
俺は静かに答えた。
「玲奈さんは、屋敷の中へ」
「でも……」
「お願いします」
普段なら、玲奈は何か言い返す。
しかし。
俺の声がいつもと違うことに気づいたのだろう。
彼女は黙って頷いた。
「……絶対に戻ってきて」
「はい」
「約束」
「約束します」
玲奈は少し迷ってから、屋敷へ戻っていった。
その姿を確認してから。
俺は男を見る。
「さて」
「ようやく二人になりましたね」
男は笑う。
「私は神崎商事の者です」
「神崎商事……」
神代家とは長年競合関係にある企業。
表向きは普通の会社。
しかし。
裏では神代家の情報を狙っているという噂もある。
「何の用ですか?」
「簡単な話です」
男は肩をすくめた。
「神代玲奈さんについてです」
俺の表情が変わる。
「帰ってください」
「話くらい聞いてもいいでしょう」
「必要ありません」
「あなたは何も知らない」
男は続ける。
「神代家の娘が、どれほど危険な立場にいるか」
「……」
「彼女は狙われています」
「だから?」
「だから?」
男は少し驚いた顔をした。
「普通なら怯えるところですよ」
俺は答える。
「知っています」
「……」
「玲奈さんが背負っているものくらい」
男は黙った。
「ですが」
俺は続ける。
「だから何ですか?」
「?」
「危険だから、一人にするんですか?」
風が吹く。
庭の木々が揺れる。
「守るべき人がいるなら」
「危険でも側にいる」
「それが私の仕事です」
男はしばらく俺を見ていた。
そして。
「面白いですね」
「何がですか?」
「最近の執事は、そこまで主人に肩入れするのですか」
俺は答えなかった。
なぜなら。
自分でも分かっていた。
これはもう。
仕事だけではない。
◇
その夜。
屋敷の警備は強化された。
使用人たちは慌ただしく動いている。
俺は玲奈の部屋の前に立っていた。
「入っていい?」
扉の向こうから声がする。
「どうぞ」
玲奈が入ってくる。
「蓮」
「はい」
「さっきの人」
「……」
「何者なの?」
俺は少し迷った。
「まだ分かりません」
「嘘」
玲奈はすぐに言った。
「蓮は分からない時、そんな顔しない」
「……」
本当に。
この少女は少しずつ人を見るようになっている。
「危険ですか?」
「はい」
正直に答える。
玲奈は少し俯いた。
「やっぱり」
「玲奈さん」
「私のせい?」
その言葉に。
俺はすぐ否定した。
「違います」
「でも」
「違います」
もう一度言う。
「玲奈さんが悪いことなどありません」
「……」
「生まれた家を選ぶことはできません」
玲奈は黙る。
「神代家の娘だから狙われる」
「はい」
「じゃあ」
玲奈は小さく笑った。
「普通の女の子にはなれないね」
その言葉が。
胸に刺さった。
俺は少し考える。
そして。
「なれます」
「え?」
「今日、なれました」
玲奈が顔を上げる。
「カフェでケーキを食べて」
「……」
「買い物をして」
「……」
「約束をして」
「……」
「全部、普通の女の子でした」
玲奈の目が少し潤む。
「でも」
「はい」
「私は神代玲奈」
「はい」
「逃げられない」
俺は頷いた。
「逃げる必要はありません」
「……」
「ただ」
俺は静かに言う。
「一人で戦う必要もありません」
玲奈は目を伏せた。
そして。
小さな声で。
「怖かった」
と言った。
初めてだった。
玲奈が弱さを見せたのは。
「昔から」
「はい」
「みんな私を見る」
「……」
「神代家の娘として」
「……」
「私自身を見てくれる人なんて」
玲奈はそこで言葉を止めた。
俺は答える。
「います」
「誰?」
「私です」
玲奈は驚いた顔をする。
「蓮……」
「私は玲奈さんを、神代家の娘としてではなく」
一拍置く。
「玲奈さんとして見ています」
その瞬間。
玲奈の目から涙が落ちた。
「……ずるい」
「はい?」
「そういうこと言われたら」
「……」
「泣くしかないじゃん」
俺は困った。
執事として。
こういう時の正解が分からない。
「えっと……」
「ふふ」
玲奈は涙を拭いた。
「蓮って」
「はい」
「本当に変」
「よく言われます」
「でも」
玲奈は笑う。
「ありがとう」
◇
翌日。
朝。
俺のスマホが鳴った。
部長だった。
「はい」
『どうだ?』
「何がですか?」
『神代家の執事生活』
俺はため息をつく。
「大変です」
『やっぱりか』
「ですが」
『ん?』
俺は窓を見る。
庭では玲奈が花に水をあげていた。
昨日までなら考えられない姿だった。
「悪くありません」
『ほう』
「部長」
『何だ?』
「一つ聞きたいことがあります」
『何だ?』
「なぜ俺を選んだんですか」
電話の向こうが少し静かになる。
そして。
部長は答えた。
『君だけだったからだよ』
「何がですか?」
『神代玲奈を見ていた人間が』
俺は黙る。
『みんな神代家を見る』
『でも君だけは、あの子本人を見ていた』
「……」
『だから頼んだんだ』
電話が切れる。
俺はしばらく立ち尽くした。
その時。
「蓮」
振り返る。
玲奈がいた。
「今日も仕事?」
「はい」
「じゃあ」
玲奈は少し笑う。
「今日もよろしくね」
「承知しました」
俺は頭を下げる。
しかし。
胸の奥では。
別の言葉が浮かんでいた。
――この人を絶対に守る。
その決意が。
新たな事件の始まりになるとは。
この時の俺はまだ知らなかった。




