完璧な執事と、不器用なお嬢様
神代家専属執事になってから、一週間が過ぎた。
最初に聞いていた話とは、少し違っていた。
「24時間365日、不眠不休で私の面倒を見てくれる」
そんな無茶苦茶な条件で紹介された俺だったが。
実際のところ――
神代玲奈は、そこまで無理を言う主人ではなかった。
「蓮」
朝食を食べながら、玲奈が言う。
「今日は何時に帰るの?」
「夕方には戻る予定です」
「……そう」
玲奈は少しだけ視線を落とした。
以前なら気づかなかっただろう。
だが、今の俺には分かる。
これは。
寂しい時の表情だ。
「何か予定でもありますか?」
「別に」
「そうですか」
「……」
沈黙。
俺は少し考えてから口を開いた。
「夕食は玲奈様の好きな料理を用意しておきます」
すると。
玲奈の表情が少し明るくなった。
「本当?」
「はい」
「じゃあ早く帰ってきて」
「承知しました」
玲奈は満足そうに頷いた。
だが。
俺は思う。
この少女は、本当に分かりやすい。
以前の俺なら。
金持ちのお嬢様。
わがまま。
扱いづらい。
そう思っていただろう。
しかし。
一緒に過ごして分かった。
玲奈はただ、人との距離感を知らないだけだった。
「行ってきます」
「……」
玄関へ向かう俺に、玲奈は黙っていた。
「玲奈様?」
「……」
「どうされました?」
玲奈は少し困った顔をする。
「それ」
「はい?」
「その呼び方」
「何か問題が?」
「なんか距離がある」
意外な言葉だった。
「ですが、私は執事ですので」
「でも」
玲奈は小さな声で言った。
「蓮って呼んでほしいって言ったことない」
「……」
「私だけ名前で呼ばれてない」
なるほど。
そこを気にしていたのか。
俺は少し考える。
「では」
「うん」
「玲奈さん」
そう呼ぶと。
彼女の顔が赤くなった。
「……」
「玲奈さん?」
「もう一回」
「はい?」
「もう一回言って」
「玲奈さん」
すると。
玲奈は満足そうに笑った。
「うん」
「それでいい」
その笑顔は。
いつもの冷たい表情ではなかった。
普通の少女の笑顔だった。
◇
仕事を終え、屋敷へ戻る。
玄関を開けると。
いつものように使用人が出迎える。
「お帰りなさいませ、黒崎様」
「ただいま戻りました」
しかし。
今日は少し違った。
奥から足音が聞こえる。
「蓮!」
玲奈だった。
「お帰り」
「ただいま戻りました」
「遅い」
時計を見る。
午後六時。
予定通りだ。
「申し訳ありません」
「……」
玲奈は少し黙った。
そして。
「冗談」
そう言って笑う。
「最近、そういう冗談を覚えたんですね」
「悪い?」
「いえ」
俺は微笑む。
「成長しましたね」
「子供扱いしないで」
玲奈は頬を膨らませた。
その姿を見て。
俺は少し驚いた。
最初に会った時の彼女とは別人だった。
◇
夕食後。
俺は食器を片付けていた。
すると。
玲奈がキッチンへ入ってくる。
「何か手伝います」
「玲奈さんが?」
「何その反応」
「いえ」
正直に言う。
「少し意外でした」
「私は何もできないと思ってる?」
「そういう意味では」
「いい」
玲奈は腕をまくった。
「教えて」
「何をですか?」
「料理」
「料理を?」
「うん」
俺は少し驚いた。
「理由を聞いても?」
玲奈は少し黙った。
そして。
「……いつも作ってもらってるから」
「はい」
「私も何か返したい」
その言葉に。
俺は少しだけ嬉しくなった。
「分かりました」
「本当?」
「はい」
「じゃあ先生」
「先生ですか」
「嫌?」
「いえ」
俺は包丁を渡す。
「まずは野菜を切るところから」
「簡単ね」
「最初は安全第一です」
玲奈は真剣な顔で包丁を握った。
しかし。
数秒後。
「……」
「どうしました?」
「難しい」
「まだ切ってませんよ」
「だって形が揃わない」
「最初から完璧を求めなくていいです」
その言葉に。
玲奈の手が止まった。
「……」
「玲奈さん?」
「それ」
「はい」
「初めて言われた」
「何がですか?」
「完璧じゃなくていいって」
玲奈は小さく笑った。
「みんな私に完璧を求めるから」
神代家の娘。
金持ち。
優秀。
期待される存在。
彼女には。
失敗する自由すらなかったのかもしれない。
「玲奈さん」
「何?」
「料理が焦げても」
「……」
「形が崩れても」
「……」
「それは失敗ではありません」
「じゃあ?」
「経験です」
玲奈はしばらく黙った。
そして。
「蓮」
「はい」
「あなたって変」
「よく言われます」
「でも」
玲奈は笑った。
「嫌じゃない」
◇
その夜。
俺は部屋で仕事の整理をしていた。
すると。
コンコン。
扉が鳴る。
「どうぞ」
入ってきたのは玲奈だった。
「どうしました?」
「……」
「?」
「眠れない」
またか。
俺は時計を見る。
午後十一時。
前回より早い。
「話しますか?」
「うん」
俺は本を持つ。
「今日は何の話がいいですか?」
玲奈は少し考える。
「蓮の話」
「私ですか?」
「知りたい」
「何を?」
「どうして執事になったのか」
俺は少し考えた。
「部長に騙されたからです」
「え?」
「24時間365日不眠不休という条件を聞かされていませんでした」
玲奈は笑った。
「それ、本当?」
「本当です」
「じゃあ」
「はい」
「部長さんに怒った?」
「もちろんです」
「何て言ったの?」
俺は真顔で答える。
「あとで覚えておけ、と」
玲奈は突然笑い出した。
「ふふっ」
「?」
「蓮でも怒るんだ」
「人間ですから」
「そっか」
笑いながら。
玲奈は少しだけ目を細める。
「安心した」
「なぜですか?」
「完璧な人じゃないから」
その言葉に。
俺は少し驚いた。
「玲奈さん」
「ん?」
「私は完璧ではありません」
「うん」
「失敗もします」
「うん」
「だから」
「だから?」
俺は微笑む。
「玲奈さんも、無理をしなくていいです」
静かな部屋。
しばらく沈黙が続いた。
やがて。
玲奈が小さく呟く。
「……ありがとう」
その声は。
今まで聞いたどの言葉よりも。
素直だった。
翌朝。
俺のスマホに一本の電話が入った。
部長だった。
『どうだ? 神代家の生活は』
「順調です」
『そうかそうか』
「ですが」
『ん?』
「一つ言いたいことがあります」
『何だ?』
俺は窓の外を見る。
庭で玲奈がこちらを見ている。
そして。
小さく手を振った。
俺も手を振り返る。
「部長」
『はい』
「今度会ったら」
『……』
「本当に覚えておいてください」
『怖いな!?』
電話の向こうで部長が叫ぶ。
俺は笑った。
こうして。
新しい執事生活は続いていく。
ただ一つ変わったことがある。
俺はもう。
玲奈を「仕事相手」だとは思っていなかった。
彼女は。
守るべき主人であり。
そして。
少しずつ大切になっていく存在だった。




